魔法科高校の劣等生 四葉の火の鳥   作:ペンギン豚

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1万文字行ってしまいました。
多分、今回の話は鷹山夫婦の性格が出ていると思います。


男子会と女子会

司波家の一行が、鷹山家の居間へ通された。

 

美沙が盆を持って戻ってくると、深夜は静かにソファへ腰を下ろした。

 

その隣に、深雪が座る。

 

小さな背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ねている。

 

穂波は、その後ろに控えるように立った。

 

深雪の少し斜め後ろ。

 

必要があれば、すぐに手を伸ばせる位置。

 

それは、客の立ち位置ではなかった。

 

護衛の立ち位置だった。

 

そして、達也もまた座らなかった。

 

深夜の背後。

 

少し離れた場所に、音もなく立っている。

 

そこにいるのが当然だという顔で。

 

治憲は、その光景を見て一瞬だけ動きを止めた。

 

美沙も、盆を置く手をわずかに遅らせる。

 

親子。

 

そう紹介されたはずだった。

 

母と息子。

 

妹と兄。

 

けれど、目の前の構図は、どう見てもそうではなかった。

 

深夜と深雪が座る。

 

穂波と達也が立つ。

 

まるで、主と従者。

 

守られる者と、守る者。

 

家庭の居間にあるには、あまりにも不自然な距離だった。

 

「達也君も、座ったら?」

 

聖火が軽く言った。

 

達也は表情を変えずに答える。

 

「ここで構わない」

 

「いや、うちの居間で立哨されると、こっちが落ち着かないんだけど」

 

「立哨ではない」

 

「じゃあ何?」

 

「待機だ」

 

「ほぼ同じだよ」

 

聖火が肩をすくめる。

 

その軽口に、深雪が小さく笑った。

 

だが、達也は動かない。

 

深夜も、座るようには言わなかった。

 

それがまた、鷹山夫妻には引っかかった。

 

美沙は静かに湯呑みを並べる。

 

「どうぞ。熱いのでお気をつけください」

 

「ありがとうございます」

 

深夜は優雅に頭を下げた。

 

深雪も続いて小さく礼をする。

 

穂波も丁寧に会釈した。

 

達也だけは、わずかに視線を動かしただけだった。

 

無礼というほどではない。

 

ただ、反応が薄い。

 

薄すぎる。

 

治憲は、その目を見て喉の奥が少し詰まった。

 

「聖火」

 

美沙の声がした。

 

「お茶の準備、手伝って」

 

「はいはい」

 

「返事は一回」

 

「はい」

 

即答だった。

 

達也がそれを見て、少しだけ聖火を見る。

 

聖火は目ざとく気づいた。

 

「何その目」

 

「いや」

 

「今、意外そうな顔したよね」

 

「していない」

 

「いやした。ほんのちょっとだけした。母さんに言われたら即答するんだ、みたいな顔した」

 

達也は少し間を置いた。

 

「そう見えたなら、そうなのだろう」

 

「認め方が真面目すぎる」

 

深雪が小さく笑った。

 

「聖火さんとお兄様は、少し似ていますね」

 

聖火と達也が同時に深雪を見る。

 

「どこが?」

 

「どこがだ」

 

声が重なった。

 

深雪は嬉しそうに微笑んだ。

 

「そういうところです」

 

聖火は達也を見る。

 

達也も聖火を見る。

 

しばらく沈黙が落ちる。

 

先に聖火が肩をすくめた。

 

「達也君、今のは俺たちの負けだ」

 

「勝負だったのか」

 

「たぶんね」

 

「そうか」

 

「納得するんだ」

 

深夜はその光景を見て、静かに笑っていた。

 

からかいではない。

 

観察でもない。

 

ほんの少しだけ、日常を見るような笑みだった。

 

美沙が台所へ向かったあと、聖火もそれに続いた。

 

治憲も、盆を運ぶという名目で台所へ入る。

 

居間から少し離れたところで、治憲は小声で言った。

 

「聖火」

 

「うん」

 

「あの子は……達也君は、本当に深夜さんの息子なのか?」

 

「血縁上はね」

 

聖火は軽い声で答えた。

 

だが、その目は笑っていなかった。

 

「血縁上は?」

 

「俺も、人から聞いた話と、見た感じでしかないけど」

 

聖火は一度、居間の方へ視線を向けた。

 

達也は、まだ立っていた。

 

深夜の後ろに、当然のように。

 

「親子だって認識はあるらしい。知識としては分かってる。でも、感情がそこに繋がってない」

 

治憲の表情が変わる。

 

「どういうことだ」

 

「魔法実験の影響だって聞いた」

 

聖火は短く言った。

 

「達也君も、深夜さんも、重い精神的損傷を負ってる。親子だという事実は分かる。でも、心は他人として処理してる。だから、あの二人は親子なのに、親子に見えない」

 

治憲は言葉を失った。

 

聖火は続ける。

 

「深雪ちゃんとは違う。あの子は達也君を兄として見てる。達也君も深雪ちゃんを特別に見てる。でも、深夜さんと達也君の間は……かなり壊れてる」

 

「そんな状態で」

 

治憲は低く言った。

 

「それでも、あの子は立っているのか」

 

聖火は答えなかった。

 

「まだ子供だろう」

 

その声には、怒りではなく、痛みがあった。

 

治憲は居間の方を見る。

 

達也は、背筋を伸ばし、周囲を確認し、深雪と深夜を守れる位置にいる。

 

それは、子供の立ち方ではなかった。

 

「誰かが」

 

治憲は小さく呟いた。

 

「座らせてやるべきじゃないのか」

 

聖火は治憲の横顔を見た。

 

その言葉が、ただの礼儀の話ではないことは分かった。

 

治憲は、達也を見ていた。

 

子供として。

 

客として。

 

そして、どこかで助けを必要としているかもしれない一人の少年として。

 

「父さん?」

 

治憲は少しだけ目を伏せた。

 

それから、いつもの父親の顔に戻るように息を吐いた。

 

「聖火」

 

治憲は言った。

 

「何?」

 

「ケーキを買いに行くぞ」

 

聖火は固まった。

 

「……今?」

 

「今だ」

 

「いや、家にお茶菓子あるよね」

 

「足りない」

 

「人数的には足りると思うけど」

 

「男三人で行く」

 

聖火は居間の方を見た。

 

達也はまだ、深夜の後ろに立っている。

 

聖火は小さく息を吐いた。

 

「……なるほど」

 

治憲は何も言わなかった。

 

だが、聖火には分かった。

 

これは買い物ではない。

 

達也を、あの場所から少しだけ外へ連れ出すための口実だった。

 

治憲は達也へ向き直る。

 

「達也君、付き合ってくれるかな」

 

達也はすぐには答えなかった。

 

まず深夜を見る。

 

次に深雪を見る。

 

そして最後に、玄関の方へ視線を向けた。

 

判断している。

 

深雪の安全。

 

深夜の状態。

 

穂波の配置。

 

鷹山家の環境。

 

自分が離れても問題がないか。

 

そのすべてを、短い沈黙の中で確認していた。

 

「分かった」

 

達也が答えた。

 

その瞬間、深雪が立ち上がりかけた。

 

「お兄様、私も――」

 

言い終える前に、穂波がそっと深雪の肩へ手を添えた。

 

強く止めたわけではない。

 

ただ、そこにいるよう促すだけの、柔らかな手だった。

 

「深雪様」

 

深雪は振り返る。

 

穂波は穏やかに微笑んでいた。

 

「少しだけ、こちらでお待ちしましょう」

 

「でも、穂波」

 

深雪の視線が達也へ向く。

 

不安がある。

 

置いていかれるというほどではない。

 

けれど、達也の背中が自分から離れることに、まだ慣れていない目だった。

 

美沙が、深雪の前へ湯呑みを置いた。

 

「深雪さん」

 

声は柔らかかった。

 

「よろしければ、少しお話ししませんか。せっかく来てくださったのですから、女性同士で」

 

「女性同士……ですか」

 

深雪は小さく繰り返した。

 

その言葉に、少し戸惑っているようだった。

 

深夜が静かに口を開く。

 

「深雪さん」

 

深雪は姿勢を正した。

 

「はい」

 

「こちらにいましょう」

 

深夜の声は穏やかだった。

 

命令ではない。

 

だが、拒みにくい響きがある。

 

深雪はまた達也を見る。

 

達也は、深雪を見返した。

 

「深雪」

 

「はい、お兄様」

 

「すぐ戻る」

 

それだけだった。

 

だが、深雪には十分だった。

 

深雪は少しだけ唇を引き結び、それから小さく頷く。

 

「はい。お待ちしています」

 

聖火はその様子を見て、少しだけ肩をすくめた。

 

「達也君、すごいね。一言で済んだ」

 

「必要なことは言った」

 

「その効率の良さ、日常会話ではたまに怖いよ」

 

「そうか」

 

「そこで納得するんだ」

 

治憲が玄関の方へ歩き出す。

 

「行くぞ、二人とも」

 

「はいはい」

 

聖火が続く。

 

達也も無言でその後に続いた。

 

玄関へ向かう途中、聖火は小声で治憲に言った。

 

「父さん」

 

「何だ」

 

「ケーキ、絶対口実だよね」

 

「当たり前だ」

 

治憲は小さく答えた。

 

「男同士で、少し歩くだけだ」

 

聖火は少しだけ目を見開いた。

 

そして、困ったように笑った。

 

「……父さん、意外と強引だね」

 

「お前ほどじゃない」

 

「それは否定できない」

 

達也は二人の会話を聞いていたが、何も言わなかった。

 

ただ、少しだけ不思議そうに二人を見ていた。

 

玄関の扉が開く。

 

外の光が差し込む。

 

休日の住宅街は、戦場とはかけ離れた静けさに包まれていた。

 

治憲は靴を履きながら言った。

 

「近くに評判の店がある」

 

聖火は肩をすくめる。

 

「じゃあ、迷える子羊相談窓口、出張版ってことで」

 

「その名乗りはやめろ」

 

「はいはい」

 

「返事は一回」

 

「はい」

 

達也は、ほんのわずかに目を細めた。

 

聖火はそれに気づく。

 

「何、達也君」

 

「いや」

 

「また意外そうな顔したな」

 

「していない」

 

「した」

 

治憲が歩き出しながら言った。

 

「二人とも、置いていくぞ」

 

「父さん、俺ここの家の子なんだけど」

 

「だから置いていくんだ」

 

「理不尽」

 

達也は少しだけ間を置いてから言った。

 

「鷹山家は、興味深いな」

 

聖火は達也を見る。

 

「それ褒めてる?」

 

「分からない」

 

「分からないんだ」

 

治憲は小さく笑った。

 

男三人は、ケーキを買いに行くという名目で、鷹山家を出た。

 

家の中では、女たちの静かな茶会が始まろうとしていた。

 

 

 

 

玄関の扉が閉まる音がした。

 

男三人の足音が遠ざかっていく。

 

しばらくして、居間には女たちだけが残った。

 

美沙は急須を手に取り、湯呑みに茶を注いでいく。

 

深夜。

 

深雪。

 

穂波。

 

そして、自分。

 

たった四人だけの空間なのに、妙に静かだった。

 

深雪は何度か玄関の方を見た。

 

達也の姿が見えなくなったことが、どうしても気になるのだろう。

 

それでも立ち上がりはしない。

 

膝の上で小さな手を重ね、背筋を伸ばして座っている。

 

穂波はその少し後ろに立っていた。

 

先ほどよりは力を抜いている。

 

だが、完全には座らない。

 

深雪の近くに立つことが、自分の役目だと信じているようだった。

 

美沙は穂波の前にも湯呑みを置いた。

 

「桜井さんも、どうぞお座りください」

 

穂波は一瞬、迷った。

 

それから深夜を見る。

 

深夜は静かに頷いた。

 

「穂波さん、座って構いません」

 

「はい」

 

穂波はようやく腰を下ろした。

 

その動きは丁寧だったが、どこか慣れていない。

 

座って休むことに、少し罪悪感でもあるように見えた。

 

美沙はそれを見て、胸の奥が少し痛んだ。

 

「皆さん、お砂糖は使われますか?」

 

「私は結構です」

 

深夜が答える。

 

「私も大丈夫です」

 

穂波も続く。

 

深雪は少し迷ってから、小さく言った。

 

「少しだけ、いただいてもよろしいですか」

 

「もちろん」

 

美沙は柔らかく微笑んだ。

 

角砂糖を一つ、深雪の湯呑みの横へ置く。

 

深雪はそれを両手で受け取るようにして、小さく頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

その仕草は、とても丁寧だった。

 

丁寧すぎるほどに。

 

美沙は思う。

 

この子たちは、みんな少しずつ何かを抑えている。

 

子供らしさ。

 

疲労。

 

不安。

 

甘え。

 

それらを、きちんと畳んで、見えない場所へ置いている。

 

美沙は、そういう子供たちを何人も見てきた。

 

結婚する前、彼女は教師をしていた。

 

教室には、いろいろな家庭の子供がいた。

 

明るく笑う子。

 

乱暴な子。

 

成績のいい子。

 

反抗的な子。

 

大人の顔色ばかり見る子。

 

家では何も与えられていないのに、参観日だけ綺麗な服を着せられてくる子。

 

外では我が子を愛しているように振る舞いながら、実際には自分の保身や世間体のために子供を利用している親も見た。

 

逆もあった。

 

不器用で、言葉も足りず、周囲からは冷たく見えるのに、必死に子供を守ろうとしている親もいた。

 

だから、美沙は表面だけで親子を決めつけない。

 

深夜と達也の関係は、確かに異様だった。

 

母と息子には見えない。

 

どの角度から見ても、主と従者にしか見えなかった。

 

だが、それだけで愛情がないと決めつけるには、何かが違う。

 

深夜は達也を見ていないようで、見ていた。

 

達也は深夜に従っているようで、完全には従者ではなかった。

 

二人の間にある線は、ひどく細い。

 

今にも切れそうで、冷たくて、歪んでいる。

 

それでも、切れてはいない。

 

その線の真ん中に、深雪がいる。

 

美沙には、そう見えた。

 

「深雪さん」

 

美沙が声をかけると、深雪は少しだけ緊張したように顔を上げた。

 

「はい」

 

「お兄様がいないと、少し落ち着かない?」

 

深雪の表情が、わずかに揺れた。

 

穂波が少しだけ身じろぎする。

 

深夜は何も言わなかった。

 

深雪はしばらく迷ってから、小さく頷いた。

 

「はい。少しだけ」

 

「そう」

 

美沙は責めるでもなく、ただ頷いた。

 

「でも、ちゃんと待っていられるのね。偉いわ」

 

深雪は目を瞬かせた。

 

褒められると思っていなかったようだった。

 

「私は……」

 

「無理に平気な顔をしなくてもいいのよ」

 

美沙は静かに言った。

 

「大切な人が見えないところへ行けば、不安になるものだから」

 

深雪は湯呑みに視線を落とした。

 

その小さな手が、湯呑みの縁に触れる。

 

「お兄様は、すぐ戻ると言いました」

 

「ええ」

 

「なら、大丈夫です」

 

その言い方は、幼い信頼というより、祈りに近かった。

 

美沙はその声を聞いて、深夜へ視線を向けた。

 

深夜は静かに茶を見つめている。

 

その横顔は美しい。

 

だが、どこか遠い。

 

母親というより、家の当主のように見える。

 

それでも、美沙には分かった。

 

深雪の「お兄様」という言葉が出た時、深夜の指がほんのわずかに動いた。

 

反応している。

 

無関心ではない。

 

ただ、それを表へ出す方法が壊れているだけだ。

 

「深夜さん」

 

美沙は静かに呼んだ。

 

深夜は顔を上げる。

 

「はい」

 

「失礼を承知でお聞きします」

 

深夜の目が、わずかに細くなる。

 

「何でしょう」

 

「達也さんは、いつもあのように立っていらっしゃるのですか」

 

居間の空気が、少しだけ変わった。

 

穂波の表情が引き締まる。

 

深雪も緊張したように美沙を見る。

 

だが、美沙は続けた。

 

「責めているわけではありません。ただ、気になったのです」

 

深夜はしばらく黙っていた。

 

それから、静かに答えた。

 

「ええ。あの子は、あれが一番落ち着くのでしょう」

 

「あの子」

 

美沙はその言葉を心の中で繰り返した。

 

達也さん。

 

あの子。

 

その呼び方の間に、深夜の揺れが見えた気がした。

 

「座らせたいと思うことはありませんか」

 

深夜はすぐには答えなかった。

 

湯呑みに視線を落とす。

 

「思わない、と言えば嘘になります」

 

その声は静かだった。

 

「ですが、座りなさいと言えば座るでしょう。あの子はそういう子です」

 

「はい」

 

「けれど、それはあの子が座りたいからではありません。命じられたから座るだけです」

 

美沙は黙って聞いていた。

 

「それは、意味があるのでしょうか」

 

深夜の言葉に、深雪が少しだけ顔を上げる。

 

穂波も、深夜を見る。

 

深夜は続けた。

 

「達也さんは、必要だと判断すれば座ります。不要だと判断すれば立っています。私はそれを、無理に変えられません」

 

「変えられない?」

 

「変えれば、別のものを壊すかもしれない」

 

その言葉は、ひどく重かった。

 

美沙は、聖火から聞いた話を思い出す。

 

親子だという認識はある。

 

けれど、感情がそこに繋がっていない。

 

知識としては母と息子。

 

だが、心は他人として処理している。

 

それでも、美沙には思えた。

 

この人は、何も感じていないわけではない。

 

何もしてこなかったわけでもない。

 

ただ、触れれば壊れるものを、ずっと前に置かれている。

 

だから手を伸ばせない。

 

手を伸ばせないまま、見ている。

 

それは、親として正しい姿ではないのかもしれない。

 

けれど、少なくとも保身のために子供を利用する親の顔ではなかった。

 

美沙は教師だった頃、そういう顔を見てきた。

 

自分の体裁だけを守る親。

 

子供の傷を、家の恥として隠す親。

 

自分が悪く見えないために、子供へ笑顔を強いる親。

 

深夜の顔は、それとは違った。

 

冷たい。

 

遠い。

 

不器用。

 

歪んでいる。

 

だが、見捨てた顔ではない。

 

「深夜さん」

 

美沙は、湯呑みに手を添えながら言った。

 

「私は、結婚する前は教師をしていました」

 

深夜は少しだけ意外そうに目を動かした。

 

「そうなのですか」

 

「ええ。短い間でしたけれど」

 

美沙は微笑む。

 

「その時、いろいろな親子を見ました」

 

深夜は黙っていた。

 

「外では子供を大切にしているように見えるのに、本当は自分の立場を守るためだけに子供を使っている親もいました」

 

深雪が少しだけ不安そうにする。

 

穂波は静かに深雪の様子を見ていた。

 

美沙は声を柔らかくした。

 

「逆に、周囲からは冷たく見えるのに、必死に子供を守ろうとしている親もいました」

 

深夜の目が、わずかに揺れる。

 

「私は、あなた方の事情を知りません」

 

美沙は言った。

 

「知ったようなことを言うつもりもありません」

 

深夜は何も言わない。

 

「でも、深夜さん」

 

美沙はまっすぐに深夜を見た。

 

「あなたが達也さんを見ていないとは、思いませんでした」

 

深夜の呼吸が、ほんの少し止まった。

 

「……そう見えますか」

 

「ええ」

 

「私たちは、親子には見えなかったでしょう」

 

「見えませんでした」

 

美沙は正直に答えた。

 

穂波の肩が少しだけ強張る。

 

深雪も息を呑む。

 

だが、美沙の声は穏やかだった。

 

「けれど、完全な他人にも見えませんでした」

 

深夜は目を伏せる。

 

美沙は続けた。

 

「深雪さんが、間にいるからでしょうか」

 

その言葉に、深雪が小さく反応した。

 

深夜もまた、湯呑みを持つ指に力を入れた。

 

「達也さんは、深雪さんを見る。深雪さんは、達也さんを見る。そして深夜さんは、その二人を見ている」

 

美沙は静かに言った。

 

「それで、かろうじて繋がっているように見えました」

 

深夜はしばらく何も言わなかった。

 

居間の外から、遠く子供の声が聞こえる。

 

休日の住宅街の音。

 

戦場とは違う音。

 

深夜はようやく口を開いた。

 

「……鋭い方ですね」

 

「教師の癖です」

 

「嫌な癖です」

 

「聖火にも、よく似たことを言われます」

 

美沙がそう言うと、深夜はほんの少しだけ笑った。

 

「親子ですね」

 

「最近、ようやくそう言えるようになりました」

 

その言葉に、深夜は美沙を見る。

 

美沙の笑みは柔らかい。

 

けれど、その奥には痛みがあった。

 

深夜は、それ以上踏み込まなかった。

 

「私は」

 

深夜は静かに言った。

 

「達也さんに、普通の母親らしいことはできません」

 

「はい」

 

「したいと思っても、きっとできないのでしょう」

 

深雪が、悲しそうに深夜を見る。

 

穂波も目を伏せた。

 

深夜は続ける。

 

「けれど、深雪が達也さんを必要としていることは分かります。達也さんが深雪を必要としていることも」

 

「ええ」

 

「なら、私はその形を守るしかありません」

 

美沙はその言葉を聞いて、深夜の妥協を理解した。

 

愛している。

 

そういう言葉ではない。

 

母です。

 

そう胸を張れる形でもない。

 

だが、深雪を通して、達也を家族の内側に留めている。

 

それが、この親子の今の形なのだ。

 

壊れている。

 

歪んでいる。

 

それでも、何かを守ろうとしている。

 

「それは」

 

美沙はゆっくりと言った。

 

「とても苦しい形ですね」

 

深夜はすぐには答えなかった。

 

それから、薄く笑う。

 

「苦しいかどうかも、よく分かりません」

 

「そうですか」

 

「ですが」

 

深夜は深雪を見た。

 

深雪は不安そうに母を見返している。

 

「失いたくはありません」

 

その一言だけは、はっきりしていた。

 

美沙は頷いた。

 

「それで十分な時もあります」

 

深夜は美沙を見る。

 

「十分、ですか」

 

「完全な母親でなくても、子供を失いたくないと思うなら、そこから始められることもあります」

 

深夜は何も言わなかった。

 

だが、その言葉は確かに届いたようだった。

 

深雪が小さく口を開く。

 

「あの……」

 

全員の視線が深雪へ向いた。

 

深雪は少し迷いながらも、言った。

 

「私は、お母様も、お兄様も、穂波も、ここにいてくださるのが嬉しいです」

 

その言葉は幼かった。

 

けれど、真っ直ぐだった。

 

深夜の表情が、わずかに動く。

 

穂波は静かに目を伏せた。

 

「深雪様……」

 

美沙は深雪を見る。

 

この子が、繋いでいる。

 

母と兄。

 

兄と家。

 

家と未来。

 

小さな肩に、あまりにも大きなものが乗っている。

 

だが、それをただ重荷と決めつけることもできない。

 

深雪にとって、それは愛情でもあるのだ。

 

美沙は柔らかく微笑んだ。

 

「では、深雪さん」

 

「はい」

 

「お兄様たちが帰ってくるまで、私たちでお茶を楽しみましょう」

 

「はい」

 

深雪は少しだけ笑った。

 

今度は、先ほどより自然な笑みだった。

 

美沙は皿を差し出す。

 

「これは聖火の好きなお菓子なんです」

 

「聖火さんの?」

 

「ええ。昔から好きで。最近また、よく食べるようになりました」

 

深夜が静かに口を挟む。

 

「聖火さんらしいですね」

 

「どういう意味でしょう」

 

「甘いものに弱そうです」

 

「ええ。とても」

 

美沙は迷わず答えた。

 

その即答に、深雪が小さく笑った。

 

穂波も少しだけ表情を緩める。

 

深夜もまた、茶を一口飲んだ。

 

居間の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 

女たちの茶会は、静かに始まった。

 

 

 

 

ケーキを買いに行く。

 

そう言って家を出たはずだった。

 

だが、三人が立っていたのは、洋菓子店の前ではなかった。

 

水面。

 

釣り竿。

 

古びたベンチ。

 

休日の親子連れ。

 

そして、ゆっくりと泳ぐ魚の影。

 

達也は、目の前の釣り堀を無表情に見つめていた。

 

数秒の沈黙。

 

それから、静かに口を開く。

 

「ケーキを買いに行くのではなかったのか」

 

「行くぞ」

 

治憲は当然のように答えた。

 

「その前に寄るだけだ」

 

「寄り道か」

 

「そうだ」

 

達也は釣り堀を見た。

 

それから、治憲を見る。

 

「必要性が分からない」

 

「男にはな」

 

治憲は腕を組み、妙に重々しく言った。

 

「時々、目的地と違う場所に行く時間が必要なんだ」

 

聖火は隣で遠い目をした。

 

「父さん、それっぽく言ってるけど、ただの寄り道だよね」

 

「寄り道にも意味はある」

 

「意味を後から生やすの、父さんの悪い癖だと思う」

 

「お前にだけは言われたくない」

 

「それは否定できない」

 

達也は二人を見ていた。

 

判断に迷っているようだった。

 

戦術的な意味もない。

 

移動効率も悪い。

 

深雪の待機時間も伸びる。

 

目的地はケーキ屋であり、釣り堀ではない。

 

にもかかわらず、鷹山治憲は迷いなく釣り堀の受付へ向かっている。

 

達也には、その行動の理由が分からなかった。

 

「達也君」

 

聖火が横から声をかける。

 

「うちの父さんは、たまにこういう理不尽を正面から押し通す」

 

「そうなのか」

 

「そう。で、だいたい後から妙に納得させられる」

 

「厄介だな」

 

「分かる」

 

治憲が振り返った。

 

「二人とも、何をしている。早く来なさい」

 

「はいはい」

 

「返事は一回」

 

「はい」

 

聖火は肩をすくめて歩き出す。

 

達也も、少し遅れてその後に続いた。

 

受付で竿を三本借りると、治憲は池の端にあるベンチへ向かった。

 

三人分の餌と小さなバケツを置き、治憲は達也に一本の釣り竿を差し出す。

 

「はい」

 

達也は竿を見る。

 

「俺もやるのか」

 

「三人で来たからな」

 

「俺は付き添いのつもりだったが」

 

「今から参加者だ」

 

「強制なのか」

 

「男にはな、時々、強制的に休まされる時間も必要なんだ」

 

聖火が吹き出しそうになった。

 

「父さん、またそれっぽく言った」

 

「黙って釣れ」

 

「はい」

 

達也は釣り竿を受け取った。

 

持ち方は正確だった。

 

だが、釣りを楽しむ者の持ち方ではない。

 

道具の重さ、長さ、しなり、周囲の安全範囲を確認するような手つきだった。

 

聖火はそれを見て、苦笑する。

 

「達也君、竿は武器じゃないから」

 

「分かっている」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、その構えをちょっと緩めようか。魚もびっくりするから」

 

達也は数秒だけ考え、わずかに力を抜いた。

 

治憲は何も言わず、隣に腰を下ろす。

 

聖火もその横へ座った。

 

達也だけが、まだ立っていた。

 

治憲は水面を見たまま言う。

 

「座りなさい」

 

達也は治憲を見た。

 

「ここで構わない」

 

「釣りは立ってやってもいいが、今日は座ってやる」

 

「理由は?」

 

「俺がそうしたいからだ」

 

あまりにも普通の答えだった。

 

達也は少しだけ沈黙した。

 

命令ではない。

 

任務でもない。

 

効率でもない。

 

ただ、目の前の大人が「そうしたい」と言っている。

 

達也はその扱いに、少しだけ戸惑った。

 

聖火が隣で小さく笑う。

 

「達也君、諦めた方がいいよ。父さんのこういうの、理屈で突破できないから」

 

「そうなのか」

 

「そう。家庭内ではわりと強い」

 

「聖火」

 

治憲が低く言った。

 

「はい、すみません」

 

即答だった。

 

達也はそのやり取りを見て、わずかに目を細める。

 

そして、ゆっくりとベンチに腰を下ろした。

 

治憲はそれを確認してから、針に餌をつける。

 

「まずは、糸を垂らす」

 

達也は言われた通りにした。

 

浮きが水面に落ちる。

 

小さな波紋が広がった。

 

三人はしばらく、黙って水面を見ていた。

 

風が吹く。

 

水面が揺れる。

 

遠くで子供が魚を釣り上げ、歓声を上げている。

 

戦場の音は、ここにはなかった。

 

銃声も。

 

爆発音も。

 

命令も。

 

誰かを守るための立ち位置も。

 

ただ、釣り糸が水に沈んでいるだけだった。

 

治憲は、ようやく口を開いた。

 

「達也君」

 

「何だ」

 

「魚はな」

 

「はい」

 

「こちらが急いでも、食いつく時にしか食いつかない」

 

聖火が横からぼそりと言う。

 

「父さん、それ釣りの話?」

 

「釣りの話だ」

 

「本当に?」

 

「今はな」

 

達也は水面を見ていた。

 

「待つことが必要という意味か」

 

治憲は少しだけ笑った。

 

「君は理解が早いな」

 

「ただ、待つことに意味がある状況と、そうでない状況は分ける必要がある」

 

「もちろんだ」

 

治憲は頷いた。

 

「戦場では、待てば死ぬこともあるだろう」

 

達也の視線が、わずかに動いた。

 

治憲は続ける。

 

「だが、ここは戦場じゃない」

 

水面の浮きが、小さく揺れた。

 

「だから今日は、少し待てばいい」

 

達也は答えなかった。

 

聖火も、茶化さなかった。

 

治憲はそれ以上、踏み込まなかった。

 

説教をするために連れてきたわけではない。

 

聞き出すためでもない。

 

ただ、座らせるため。

 

ただ、水面を見せるため。

 

ただ、目的地ではない場所に寄る時間を渡すため。

 

それだけだった。

 

達也は水面を見ている。

 

その目はまだ冷静で、警戒も残っている。

 

けれど、深夜の背後に立っていた時よりは、ほんの少しだけ遠くを見ていなかった。

 

聖火はその横顔を見て、小さく息を吐いた。

 

「父さん」

 

「何だ」

 

「ケーキ屋、閉まらない?」

 

「閉まる前には行く」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「父さん、今たぶんって言った?」

 

「釣れたら行く」

 

「最初と条件変わってるんだけど」

 

達也が静かに言った。

 

「魚が釣れるまで帰れないということか」

 

聖火は達也を見る。

 

「達也君、そこ真面目に確認しなくていい」

 

治憲は笑った。

 

「一匹釣れたら行こう」

 

「誰が釣ってもいいのか」

 

達也が問う。

 

「誰が釣ってもいい」

 

「分かった」

 

達也の目が、わずかに真剣になった。

 

聖火は嫌な予感がした。

 

「達也君?」

 

「最短で釣る」

 

「待って。釣りを作戦にしないで」

 

「条件を満たす必要がある」

 

「父さん、達也君が本気になった」

 

「いいことだ」

 

「いいことかなあ」

 

達也は浮きの動きを見ていた。

 

水流。

 

魚影。

 

餌の沈み方。

 

浮きの揺れ。

 

周囲の釣果。

 

そのすべてを分析しているような目だった。

 

聖火は頭を抱えた。

 

「釣り堀で任務中みたいな集中力出すのやめようよ」

 

「任務ではない」

 

「否定するところ、そこ?」

 

治憲は楽しそうに笑った。

 

男三人の奇妙な寄り道は、こうして始まった。

 

 

 

 




基本的に鷹山家は「お節介」の一言に尽きると思います。

少し濁した言い方をします。
追憶編2で聖火は嘘を付いております。ただ応急処置なのは間違いないです。
話の中で語りませんのでこちらで補足させていただきます。
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