釣り堀での時間は、思ったよりも短く終わった。
理由は単純だった。
達也が、釣ったからだ。
浮きの動き。
水流。
魚影。
餌の沈み方。
それらをしばらく見ていた達也は、何かを判断したように竿をわずかに動かした。
次の瞬間、浮きが沈む。
達也は迷わず竿を上げた。
水面が跳ねる。
銀色の魚が、針にかかって宙へ上がった。
聖火はしばらく無言でそれを見ていた。
「……本当に釣った」
「一匹釣れたら行くと言っていた」
達也は淡々と言った。
「条件は満たした」
「釣りを条件達成で処理する人、初めて見たよ」
聖火が呆れたように言う。
治憲は声を上げて笑った。
「いい釣りだったな」
「今のでいいの?」
「釣れたからな」
「父さんも結構雑だよね」
治憲は竿を片づけながら、何食わぬ顔で言った。
「さて、今度こそケーキを買いに行くぞ」
「最初からその予定だったんだけど」
聖火はそう言いながらも、達也の横顔を見た。
達也は釣り上げた魚を見ている。
勝ち誇るわけでもない。
喜ぶわけでもない。
ただ、結果を確認しているだけだった。
それでも、深夜の背後に立っていた時よりは、少しだけ空気が違って見えた。
少なくとも今の達也は、誰かを守るために立っているわけではなかった。
ただ、釣り竿を持っていた。
それだけだった。
三人は釣り堀を出て、今度こそ洋菓子店へ向かった。
店の中には、甘い匂いが満ちていた。
ショーケースには、色とりどりのケーキが並んでいる。
苺のショートケーキ。
チョコレートケーキ。
チーズケーキ。
果物のタルト。
季節のロールケーキ。
聖火はショーケースを覗き込みながら言った。
「全員分だよね」
「当然だ」
治憲が答える。
「深夜さん、深雪ちゃん、穂波さん、母さん、父さん、俺、達也君……七人分?」
「足りないよりはいい」
「父さん、そういう時だいたい買いすぎるんだよ」
「余れば明日食べればいい」
「それは賛成」
達也は黙ってショーケースを見ていた。
その視線が、苺のショートケーキで止まる。
聖火はそれに気づいた。
「深雪ちゃん?」
「ああ」
達也は短く答えた。
「深雪は苺を使った菓子を好む傾向がある」
「傾向って言い方が達也君らしいね」
「事実だ」
「うん。否定はしない」
治憲は店員に注文を伝えた。
苺のショートケーキを二つ。
チョコレートケーキを二つ。
チーズケーキを二つ。
果物のタルトを二つ。
少し多めの箱になった。
聖火が箱を受け取ろうとすると、達也が手を伸ばした。
「俺が持とう」
「いいよ。これは俺が持つ」
「理由は?」
「今日は達也君は客だから」
達也は一瞬、答えなかった。
客。
その言葉を、どう扱えばいいのか分からないようだった。
治憲が穏やかに言った。
「そうだ。今日は、君は客だ」
達也は少しだけ二人を見る。
それから、静かに頷いた。
「分かった」
三人が鷹山家へ戻る頃には、空は少しだけ夕方の色を帯びていた。
聖火はケーキの箱を持ち直しながら、玄関の前で足を止める。
「思ったより遅くなったね」
「そうだな」
治憲は平然としていた。
「母さんに怒られるかな」
「怒られるだろうな」
「分かってて寄り道したんだ」
「必要だった」
達也が二人を見る。
「なぜ、怒られると分かっていて遅れた」
聖火は少し考えた。
「うーん」
それから、困ったように笑う。
「たぶん、必要だったからかな」
「ケーキがか」
「いや」
聖火は達也を見る。
「寄り道が」
達也は答えなかった。
その時だった。
聖火が玄関の扉に手をかけるより早く、内側から扉が開いた。
深雪が、そこに立っていた。
背筋を伸ばし、両手を前で重ねている。
けれど、その表情には、隠しきれない安堵があった。
「お帰りなさいませ、お兄様」
達也は一瞬だけ足を止めた。
「ただいま、深雪」
それだけだった。
だが、深雪の表情は、ふっと柔らかくなる。
「はい」
聖火はケーキの箱を少し持ち上げた。
「ごめん、遅くなった。ちゃんとケーキは買ってきたよ」
「ありがとうございます、聖火さん」
深雪は丁寧に頭を下げる。
その視線が達也へ向いた。
「お兄様、釣り堀へ行かれたのですか」
「聞いていたのか」
「聖火さんの声が、少し」
聖火は目をそらした。
「俺、そんなに声大きかった?」
「玄関の近くにいましたので」
深雪はそう言って、少しだけ微笑んだ。
「釣れましたか?」
「ああ」
「まあ」
深雪の目が、嬉しそうに輝いた。
「さすがです、お兄様」
達也は表情を変えなかった。
「特別なことはしていない」
「それでも、お兄様が釣られたのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、すごいです」
達也はしばらく黙った。
その返答に困っているようだった。
聖火は笑いをこらえる。
「達也君、褒められてるよ」
「分かっている」
「分かってる顔じゃないけど」
「処理に困っているだけだ」
「正直だなあ」
奥から美沙の声が聞こえた。
「聖火?」
「はい」
「遅かったわね」
「はい」
「返事は一回」
「はい」
治憲が咳払いをする。
「美沙、ケーキを買ってきた」
「それは見れば分かります」
「少し寄り道をした」
「それも聞こえました」
聖火は小声で達也に言った。
「達也君、こういう時は黙っていた方がいい」
「そうなのか」
「そう」
「理解した」
深雪が小さく笑った。
居間へ戻ると、空気が少し変わっていた。
出ていく前の張り詰めた静けさは薄れ、代わりに温かな匂いが家の中に広がっている。
食卓には、すでに夕飯の準備が整っていた。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。
煮物。
小鉢。
炊きたての白いご飯。
特別な料理ではない。
けれど、きちんと誰かを迎えるための食事だった。
深夜は、それを見て一度だけ目を伏せた。
「これは……」
美沙が微笑む。
「よろしければ、皆さんもご一緒にどうぞ」
深夜はすぐには答えなかった。
「ですが、そこまでお世話になるわけには」
「もうケーキまで買ってきましたし」
美沙は柔らかく言った。
「夕飯だけ遠慮される方が、こちらも困ってしまいます」
聖火が横から言う。
「母さん、こういう時は引かないから、諦めた方がいいですよ」
「聖火」
「はい」
「余計なことを言わない」
「はい」
深雪は少しだけ深夜を見る。
何かを期待している。
だが、自分から言い出すことはしない。
達也は、その深雪の視線を見ていた。
深夜はしばらく黙っていたが、やがて静かに頭を下げた。
「では、お言葉に甘えます」
深雪の表情が、わずかに明るくなった。
「ありがとうございます、お母様」
穂波も丁寧に頭を下げる。
「お世話になります」
治憲は頷いた。
「では、座ろう」
食卓に全員がついた。
深夜。
深雪。
穂波。
達也。
治憲。
美沙。
聖火。
達也は最初、当然のように深夜と深雪の後ろへ立とうとした。
だが、聖火が椅子を引いた。
「達也君、ここ」
達也は椅子を見る。
「俺も座るのか」
「食事だからね」
「ここで構わない」
「食事中に立たれると、こっちが落ち着かないって話、さっきもしたよね」
達也は少しだけ沈黙した。
深雪がそっと声をかける。
「お兄様」
達也は深雪を見る。
深雪は、自分の隣の椅子に手を添えていた。
「こちらに」
それだけだった。
達也は深夜を見る。
深夜は静かに頷いた。
「達也さん、座りなさい」
命令ではあった。
けれど、先ほどまでとは少し違う響きだった。
達也は短く答える。
「分かりました」
そして、椅子に腰を下ろした。
深雪の隣に。
美沙はその姿を見て、何も言わなかった。
だが、胸の奥で小さく息を吐いた。
ただ座っただけ。
けれど、それは今日の中で一番大きな変化のように思えた。
全員の前に食事が並ぶ。
美沙が手を合わせた。
「それでは」
聖火が続く。
「いただきます」
治憲も手を合わせる。
「いただきます」
深雪が少し緊張したように、けれど嬉しそうに手を合わせた。
「いただきます」
穂波も静かに続く。
「いただきます」
深夜も、わずかに間を置いてから言った。
「いただきます」
最後に、達也が小さく手を合わせた。
「いただきます」
その声は淡々としていた。
だが、確かに食卓の中に混ざっていた。
食事は、穏やかに始まった。
最初は、当たり障りのない話が続いた。
釣り堀のこと。
ケーキ屋のこと。
深雪が玄関で待っていたこと。
聖火がケーキの箱を落としそうになっていないか、美沙が確認したこと。
そのたびに聖火が抗議し、治憲が軽く受け流し、深雪が小さく笑った。
やがて、話題は達也の魔法へ移った。
きっかけは、聖火だった。
「そういえば、達也君って、ものを分解するのが得意なんだよね」
達也は箸を止めた。
「得意、という表現が適切かは分からない」
「でも、できるんでしょ?」
「できる」
短い答えだった。
治憲が、少し興味を引かれたように達也を見る。
「ものを分解する、か」
「父さん?」
聖火が嫌な予感を覚えたように言う。
治憲は達也へ向き直った。
「達也君」
「何だ」
「将来、うちに来ないか」
聖火が味噌汁を吹き出しそうになった。
「父さん、小学生を勧誘しないで」
「冗談だ」
「冗談に聞こえないんだよ」
治憲は笑いながら続ける。
「いや、解体の現場なら即戦力かと思ってな」
達也は真面目に治憲を見た。
「俺を雇用する利点は限定的だと思う」
「達也君も真面目に検討しないで」
深雪は少し困ったように微笑む。
穂波も口元を抑えていた。
美沙は呆れたように治憲を見る。
「あなた、食事中に仕事の勧誘はやめてください」
「可能性の話だ」
「それを勧誘と言います」
治憲は軽く頭を下げた。
「すまん」
深夜はその様子を見て、薄く笑った。
「治憲さんは、建設関係のお仕事を?」
「ああ、そうです」
治憲は深夜に向き直ると、口調を少し丁寧に戻した。
「十堂建設という会社で、役員をしています」
その瞬間、深夜の目がわずかに動いた。
穂波も、ほんの少しだけ表情を引き締める。
達也も箸を止めた。
「十堂、ですか」
深夜が静かに言った。
治憲は苦笑する。
「やはり、魔法士の方は数字の入った名前に反応されますね」
「職業柄、と言うべきでしょうか」
深夜は穏やかに返す。
治憲は湯呑みに手を添えながら説明を続けた。
「十文字家とは資本提携があります。ただ、元々は十文字家への対抗心から生まれた会社です」
深雪が少しだけ首を傾げる。
「対抗心、ですか?」
「ええ」
治憲は頷いた。
「うちの社長の東堂は、昔は十堂と名乗っていた家の出でしてね。元々は十文字家の傘下筋だったそうです」
深夜は黙って聞いていた。
「ですが、何代か前から魔法士が生まれなくなった。それで、家としては十の字を降ろし、東堂と名乗るようになった」
「それでも、会社名には十堂の名を残したのですね」
穂波が静かに言った。
治憲は少し嬉しそうに頷く。
「ええ。あいつらしい選択です」
「あいつ?」
聖火が横から補足する。
「十堂建設の社長です。父さんの親友なんです」
「親友というには、少々面倒な男だがな」
治憲は笑った。
「家名から十を外した。けれど、会社名にはあえて旧名を残した。十文字家への対抗心を隠さないためです」
深夜は興味深そうに目を細めた。
「現在も、十文字家とは対立を?」
「いえ」
治憲は首を横に振る。
「今は敵対関係ではありません。むしろ、事業によっては協力関係にあります。資本提携もその一つです」
「では、対抗心だけが残っていると」
「そうですね」
治憲は少し考えてから言った。
「敵意ではなく、矜持に近いのでしょう」
その言葉に、深夜は少しだけ納得したように頷いた。
「分かる気がします」
「分かりますか」
「ええ。魔法士の家において、名前は単なる記号ではありませんから」
その言葉に、食卓の空気がほんの少しだけ引き締まった。
だが、すぐに聖火が口を挟む。
「まあ、父さんはその親友に誘われなかったら、たぶん今頃、土を掘ってましたけどね」
深雪が目を瞬かせる。
「土を、ですか?」
治憲は苦笑した。
「考古学を専攻していたんです」
「考古学……」
達也が静かに繰り返す。
「歴史的遺物や過去の人間活動を調査する学問か」
「そうだ」
治憲は、達也には普通の口調で頷いた。
「古い土地を調べ、過去の人間が何を考え、どう生きたのかを探る。私は本来、そちらの方が性に合っていた」
「それが、なぜ建設会社へ?」
深夜が尋ねる。
治憲は少しだけ遠い目をした。
「東堂に誘われましてね」
「それだけですか?」
「それだけです」
聖火が横から言った。
「父さん、昔から友達に弱いんですよ」
「聖火」
「はい」
「余計なことを言わない」
「はい」
治憲は咳払いをして続けた。
「もっとも、建設も考古学と無関係ではありません。土地を調べ、地盤を調べ、歴史を調べる。何かを建てるには、まずその土地を知らなければならない」
達也の目が、わずかに動いた。
「地域ごとの歴史を調べるのか」
「調べる」
治憲は頷いた。
「地形、災害の記録、古い水路、埋設物、土地の信仰、過去の開発計画。そういうものを調べると、図面だけでは見えないものが見える」
「合理的だ」
達也は短く言った。
「建築物は、土地と切り離せない」
「その通りだ」
治憲は少し嬉しそうに笑った。
「だから、考古学者にはなれなかったが、完全に夢を捨てたわけでもない」
美沙が静かに言う。
「そのせいで、調査資料が家に増え続けるのですけどね」
「必要資料だ」
「家の廊下に積むものではありません」
「反省している」
「していませんね」
聖火が小さく笑う。
深雪も、つられるように笑った。
穂波も表情を緩める。
深夜もまた、茶を一口飲みながら、ほんの少しだけ微笑んだ。
食卓の空気は、いつの間にか柔らかくなっていた。
食事が終わると、美沙がケーキの箱を開けた。
甘い香りが広がる。
深雪の前に苺のショートケーキが置かれると、彼女は小さく目を輝かせた。
「ありがとうございます」
聖火は得意げに言う。
「それ、達也君が選んだんだよ」
「お兄様が?」
深雪が達也を見る。
達也は淡々と答えた。
「深雪が好むと思った」
深雪は嬉しそうに微笑んだ。
「はい。とても好きです」
「そうか」
その一言だけだった。
だが、達也の声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
聖火はそれに気づいたが、何も言わなかった。
美沙が達也の前にチョコレートケーキを置く。
「達也さんは、こちらでよろしい?」
「構いません」
「何でもいい、ではありませんよ」
達也は美沙を見る。
美沙は柔らかく微笑んでいた。
「今日は、達也さんの分ですから」
達也は少しだけ沈黙した。
それから、チョコレートケーキを見る。
「では、これをいただきます」
「はい」
深雪は隣で、嬉しそうにそれを見ていた。
ケーキを食べ終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
司波家が帰る支度を始める。
深雪は少しだけ名残惜しそうに玄関に立っていた。
穂波は静かにその後ろに控えている。
深夜は美沙と治憲に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「本日は、長居をしてしまいました」
「こちらこそ、楽しい時間でした」
美沙が答える。
治憲も頷いた。
「また、いつでもいらしてください」
深夜は一瞬だけ答えに迷ったようだった。
だが、すぐに薄く微笑む。
「ありがとうございます」
深雪も頭を下げた。
「本日は、ありがとうございました」
聖火は軽く手を振る。
「またね、深雪ちゃん」
「はい、聖火さん」
達也は最後に玄関で足を止めた。
治憲を見る。
美沙を見る。
そして、聖火を見る。
「世話になった」
短い言葉だった。
だが、形式だけの礼ではなかった。
聖火は少しだけ笑った。
「うん。また釣り行こう」
「必要があれば」
「そこは、必要がなくても、でいいんだけどね」
達也は答えなかった。
だが、否定もしなかった。
深雪がその横で小さく微笑む。
「お兄様」
「何だ」
「今日は、楽しかったですね」
達也は少しだけ間を置いた。
深雪は、達也の答えを待っていた。
急かすこともなく。
不安そうにすることもなく。
ただ、今日という日を、兄と同じ言葉で確かめたいように。
達也は静かに答えた。
「そうだな」
それだけだった。
けれど、深雪は本当に嬉しそうに笑った。
「はい」
司波家の一行は、夜の道へと出ていった。
玄関の扉が閉まる。
家の中に、静けさが戻った。
さっきまで食卓にあった声が、少しだけ遠くなったように感じる。
聖火は、しばらく扉を見ていた。
深雪の最後の笑顔を思い出す。
そして、達也の短い返事を思い出す。
そうだな。
たったそれだけの言葉で、あれほど嬉しそうに笑えるのだ。
聖火は小さく息を吐いた。
「不思議な子たちだったわね」
美沙が静かに言った。
「うん」
聖火は頷く。
「でも、悪い時間じゃなかった」
治憲もそう言って、玄関の鍵を確認した。
「達也君も、最後は少しだけ表情が柔らかかったな」
「分かる?」
「多少はな」
治憲は居間へ戻りながら言った。
「父親だからな」
「その理屈、便利だね」
「便利ではない。経験だ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
いつものやり取りだった。
けれど、その日だけは、少しだけ違って聞こえた。
聖火は居間へ戻り、椅子に腰を下ろした。
食卓には、食器がまだ少し残っている。
美沙が片づけようとしたので、聖火は先に手を伸ばした。
「俺がやるよ」
「珍しいわね」
「今日はさすがにね」
「明日、雪でも降るかしら」
「母さん、ひどくない?」
美沙は小さく笑った。
治憲は湯呑みに残った茶を飲みながら、聖火を見た。
「どうした」
「何が?」
「まだ何か考えている顔だ」
聖火は手を止めた。
少し迷ってから、口を開く。
「そういえばさ」
「うん」
「穂波さんに助けてもらった時の話、したよね」
美沙の表情が少しだけ真面目になる。
「ええ」
「あの時、俺、どうも無意識に魔法みたいなものを使いかけたらしい」
治憲は湯呑みを置いた。
大きく驚いた様子はなかった。
ただ、聖火の言葉を聞き逃さないように、静かに姿勢を正した。
「魔法、か」
「うん。俺も詳しくは分からないけど」
聖火は自分の手を見る。
「何かが勝手に動いたというか、出そうになったというか。穂波さんがそれを止めてくれた、みたいな感じらしい」
美沙は聖火の手を見た。
「身体は大丈夫なの?」
「今は何ともない」
「痛みは?」
「ない」
「気分が悪いとか、変に疲れるとかは?」
「それもない」
美沙は小さく息を吐いた。
「なら、今はよかった」
その言い方に、聖火は少しだけ笑った。
「そこなんだ」
「そこよ」
美沙は当然のように言った。
「魔法がどうこうより、まず身体でしょう」
「まあ、それはそうだけど」
治憲はしばらく黙っていた。
それから、聖火を見る。
「聖火」
「何?」
「魔法士になりたいのか?」
聖火はすぐには答えなかった。
魔法士。
その言葉は、今日一日でずいぶん重さを持った。
深夜。
深雪。
穂波。
達也。
あの人たちは、魔法というものの近くにいた。
いや、近くにいるどころではない。
魔法によって立場が決まり、役割が決まり、距離まで決められているように見えた。
少なくとも、聖火にはそう見えた。
自分もああなりたいか。
そう問われると、答えはすぐに出た。
「別に」
治憲は頷いた。
「なら、今すぐ何かを変える必要はない」
「いいの?」
「よくない理由があるのか」
「いや、魔法の素質があるって、普通はもっと騒ぐものかなって」
「騒いだら、何か変わるのか」
「変わらないと思う」
「なら、騒ぐ必要はない」
聖火は父を見る。
治憲はいつも通りだった。
少なくとも、聖火を見る目は変わっていなかった。
美沙も静かに言う。
「ただし、危ないなら話は別よ」
「うん」
「自分でも分からない力なら、放っておいていいものではないと思うわ」
「それは分かる」
「必要なら、穂波さんか深夜さんに一度聞きましょう」
治憲も頷いた。
「そうだな。助けてもらった件もある。礼も兼ねて、一度きちんと話を聞いた方がいい」
「でも」
聖火は少しだけ言いにくそうにした。
「それで、何か大げさな話になるのは嫌だな」
治憲はすぐに答えた。
「なら、そうならないようにする」
「できるの?」
「できるかどうかではない。そうする」
その言い方が、妙に父らしかった。
聖火は少しだけ肩の力を抜いた。
「父さん、こういう時だけ頼もしいね」
「こういう時以外も頼もしいつもりだ」
「そこは要検討かな」
「聖火」
「はい」
「調子に乗るな」
「はい」
美沙が食器を重ねながら言う。
「魔法があってもなくても、明日の手伝いはしてもらいますからね」
聖火は目を瞬かせた。
「そこは変わらないんだ」
「当然でしょう」
「魔法の素質発覚より、明日の家の手伝いが優先?」
「家族ですから」
美沙は平然と言った。
「家族なら、手伝いくらいします」
聖火はしばらく母を見ていた。
それから、小さく笑った。
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
治憲はそのやり取りを見て、少しだけ笑った。
「聖火」
「何?」
「魔法があるなら、それはそれでいい。ないなら、ないでいい」
「うん」
「ただ、危ないものなら知らないままにはしない。そこだけだ」
「分かった」
聖火は頷いた。
不思議と、胸の中は重くなかった。
魔法の素質がある。
そう聞かされれば、もっと何かが変わると思っていた。
けれど、家の中は何も変わらない。
父はいつも通り少し強引で。
母はいつも通り現実的で。
食卓には、洗い物が残っている。
明日の手伝いも消えていない。
それが、少しだけありがたかった。
聖火は皿を持って立ち上がる。
「じゃあ、片づけるか」
美沙が微笑む。
「お願いします」
治憲も立ち上がった。
「俺も手伝おう」
「父さんが?」
「何だ、その顔は」
「いや、明日こそ雪が降るかなって」
「聖火」
「はい」
「皿を割るなよ」
「父さんこそ」
三人は食器を片づけ始めた。
夜の鷹山家に、またいつもの音が戻っていく。
水の音。
皿の触れる音。
母の小言。
父の咳払い。
聖火の返事。
魔法の素質がある。
その事実は、確かにそこにあった。
けれど、その夜の鷹山家では、それは夕飯の後片づけを中断させるほどのものではなかった。
感想でご指摘がありましたので補足を。
聖火の性格が違う件ですが、職場と自宅では性格が違う人がいると思いますが、それだと思っていただけると幸いです。
ほかにも理由はありますが、前者の説明が一番正しいです。
次回は深夜と穂波の診察をするために司波家に聖火が訪問する話です。1話で終わる予定です。