3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~ 作:式守 芽衣
翌朝。
台所で、シンクの前に立っていた。
昨日のコップが、二つ伏せて並んでいる。
俺は、フィルターにコーヒーの粉を入れた。
ヤカンが、ふつふつと立ち始めている。
「——おはよー!」
廊下からアキラさんの声が、いつもより半拍だけ早く届いた。
昨夜の、信じられないものでも見るような、あの目が、ふっと、よぎった。
「……おはようございます」
Tシャツに短パン姿のアキラさんが、髪をくしゃっと束ね直しながら、台所に入ってきた。
「コーヒー、いま淹れる?」
「あ、はい。もうすぐ」
「私、トースト焼くねー」
アキラさんが、冷蔵庫からマーガリンを出した。
動きがいつもより、少しだけ滑らかだった。
「今日いい天気だねー」
昨日の顔が、嘘のようだった。
「……ですね」
マグカップを二つ並べた。
俺のと、アキラさんのと。
窓の外で、雀の声がふっと一回鳴いた。
俺は、ドリッパーにゆっくりお湯を注いでいった。
◇ ◇ ◇
翌日の夜。
アキラさんが、ヘッドセットを片手に「そろそろー」と配信部屋へ入っていった。
俺は、リビングのソファに腰を下ろした。
タブレットを開いて、和太郎さんの配信ページにアクセスする。
……。
前回は、隣で観ていた配信。
今日は、リビングで聴く側。
配信開始の音が流れる。
『よっ、和太郎だ。今夜もよろしく頼むぜ』
画面の中で、赤毛の冒険者が走り出している。
馴染みのゲーム。
馴染みのリスナー。
ステージを一つクリアしたところで、コメント欄に、あの名前が流れた。
『パルサー:子供の頃、父親と一緒にやってました。
和太郎さんの実況聞いてると、当時の感じ思い出します』
半拍、和太郎の声が、消えた。
『——あー、いいよなぁ、それ。親子でゲームってさ』
戻ってきた声が、ほんの少しだけ、早かった。
「ですよねー」「うちは親の理解が無かったな~」
リスナーの相槌が、流れていく。
タブレットの中で、和太郎が次のステージへ進んでいた。
俺は、麦茶のコップを、置き直した。
◇ ◇ ◇
平日の昼だった。
俺は、ヘッドセットをかぶってVR空間に立っていた。
今日のワールドは、夏のビーチ。
遠くにパームツリーと、薄青い山が霞んでいる。
水面が、きらきらと光っていた。
紗雪のアバターは、水着衣装に着替えてある。
膝下まで、水に浸かっていた。
「お、紗雪ちゃーん! 可愛い水着じゃーん!」
その声で、振り返った。
ちとせさんが、いた。
水面に、大きな丸い皿が、ぷかぷかと浮かんでいた。
その上に、マグロ、サーモン、エビ、ホタテ、いかが、隙間なく盛られている。
皿の中央に、シュノーケルとダイビングマスクが刺さっていた。
皿の下から、細い足が、四本生えている。
「……ちとせさん」
「ん?」
「それ、何のアバターですか」
「シュノーケル付き刺身盛りよー。夏でしょー」
「夏、関係ありますか?」
「あるよー、海だしー」
ちとせさんの皿が、水面で、ゆらゆらと揺れている。
「最近、子供がさー、保育園で板前ごっこやってるんだってー」
「……板前ごっこ、ですか」
「卵焼き配る係らしいよー、なんか大将って呼ばれてるんだってー」
「……大将」
「気づいたらやってたんだって。私、板前なんて絶対教えてないんだけどー」
刺身の皿が、ふっと震えた。
「で、紗雪ちゃんはー、最近どう?」
「……特には、まあ」
「ふーん」
波が、ふっと足元を撫でていった。
「……あ、そうだ、ちとせさん」
「ん?」
「ちょっと聞いていいですか」
「うん、なになにー」
「……友人、うん、友人の隠し事とか、秘密とか、どう思います?」
「あー、隠し事ねぇ……私も友達どころか旦那にも言えないこと、いっぱいあるよ〜」
「……そうなんですか」
「夜中に冷蔵庫のプリン食べたりさー、毎月のVRアバター課金額とかさー」
刺身の皿が、ぐるりと一回転した。
「でも浮気はないよ、それだけはダメダメ」
俺は、コントローラーを軽く握り直した。
「あれは絶対ダメ。私もダメだし、相手にもさせないから」
「……ですね」
「で、なになに、何の話?」
「……知り合いに、なんか秘密ありそうな人がいて。どうしたらいいのかなって」
「ふーん」
皿の中央のシュノーケルが、こっちを向いた。
「誰とは聞かないけどさー」
「……」
「聞いてほしそうなら、聞いてみたら〜?」
「……」
「相手が話したそうにしてるなら、聞くのも優しさだよー」
「……そうですね」
VRの中で、波の音が、薄く流れていた。
遠くを、誰かのイルカのアバターが、跳ねていった。
「で、その相手ってさー」
「いやちとせさん、聞かないって言ったじゃないですか」
「あはは、そっかー。残念ー」
ちとせさんが、軽く笑った。
◇ ◇ ◇
休前日の夜だった。
アキラさんが「よっしゃ、いってくるぜ!」と、配信部屋へ入っていった。
俺は、ソファに座って、タブレットを開いた。
……。
配信が、始まる。
『よっ、和太郎だ。今夜もよろしくな』
しばらく、ゲームの実況が流れていた。
コメント欄に、あの名前が流れた。
『パルサー:このBGM、今聴いてもいいですね』
『だろー? これさ、サントラ持ってんだよ俺。ボロボロのカセットでさ』
「www」「カセットの時代」「いいなー」
声は、いつも通りだった。
いや。
いつも通り、よりも、少しだけ軽かった。
肩の上に乗っていた何かが、抜けたような動き方だった。
俺は、タブレットの音声から、何かが抜けたのを聴き取った。
……。
画面の中で、赤毛の冒険者が、また走り出している。
◇ ◇ ◇
配信終了の挨拶が、聞こえた。
しばらくして、配信部屋からアキラさんが出てきた。
ヘッドセットを首にかけたまま、肩を回している。
「お疲れさまー」
「お疲れさまでした」
アキラさんが、冷蔵庫を開けた。
ガラスの瓶がぶつかる軽い音。
「紗雪ちゃんは今日配信なし?」
「ええ」
「じゃ、飲もっか〜」
「はい」
◇ ◇ ◇
ローテーブルの上に、チューハイの缶が二本、並んだ。
レモンの方をアキラさんが、グレープフルーツの方を俺が取った。
軽くカチンと合わせて、一口飲む。
「いやー、休みの前の晩酌は最高だわー」
「ですね」
アキラさんが、ソファの背に頭を預けた。
「明日、何かする予定ある?」
「特には。アキラさんは?」
「私もー。じゃ、適当にだらだらするねー」
他愛のない掛け合いが、ふっと、一拍空いた。
俺は缶を、一度テーブルに置いた。
アキラさんの目を、見た。
「……アキラさん」
「ん?」
「ここのところ、気になってたんですが」
「うん?」
一拍。
「……和太郎さんの配信、パルサーってリスナーが」
アキラさんが、缶を持ち上げかけた手を、止めた。
「あー……」
缶を一口含んでから、テーブルに置いた。
「……うん。聞かれたら、答えるつもりだった」
◇ ◇ ◇
アキラさんが、ソファに座り直した。
窓の外で、夜の音が薄く流れていた。
「
……。
アキラさんの指が、缶のラベルの端を爪でめくっていた。
「炎とレトロゲーハードをイメージした衣装と髪でね、元気系の女の子で」
爪先が、ほんの少し進んだ。
「そのファンネームが『れとろ民』」
(……あの、コメント。)
俺は、缶の表面の冷たさが、急に手のひらに戻ってきた気がした。
アキラさんの指が、止まった。
目がふっと、上にあがった。
「和太郎の前に、やってたの。私が」
目の前のアキラさんの顔に、和太郎以外の知らない誰かが、薄く重なった気がした。
……。
壁の時計の音が、聞こえていた。
俺は、缶を持ったまま、息を浅く吐いた。
◇ ◇ ◇
壁の時計が、また、薄く鳴った。
アキラさんの指が、缶のラベルの端にまた戻った。
爪先が薄いラベルを、少しずつめくっていく。
めくれた紙の端が、手のひらの熱で薄く湿っていた。
「……ちょっと長くなるんだけどさ」
アキラさんが、ふっと肩の力を抜いた。
ソファの背に、頭を半分預ける。
「最初はね、普通に、レトロゲー配信から始めたの」
ラベルの端が、少しめくれて、缶の側面に立った。
「動機は、今の
俺は、缶を持ったまま、頷いた。
頷いたつもりだったが、首の角度がたぶん、足りていなかった。
「おじいちゃんの影響ってのは、もう言ったよね。すっかりハマっててさ」
アキラさんの目が、少し遠くを見た。
「あの、カートリッジ抜き差しする感じとか好きでさ」
「あとサターンのね、電源入れた時の、あの独特な起動音、知ってる?」
「……動画サイトで聴いたことはありますね」
「あれ聴いただけで、これから何時間も遊べるぞーって、ワクワクしてたんだよねー、子供の頃」
ふっと、笑った。
「で、配信始めて、ちょっとずつでもファンが増えていって」
「『懐かしい』とか、『初めて見た、面白そう』とか、コメントもらうとすっごい嬉しくてさ」
「あ、伝わってる……って」
缶を、一口。
「あ、それでね」
視線がふっと、こっちに動いた。
「あのリスナーの人、パルサーさん」
「あの人ね、その頃から見てくれてた人で」
一拍。
「すっごい、熱心なレトロゲー好きの人だったの」
「コメントもさ、めっちゃ細かくてさ」
「『このBGM、海外版だとアレンジ違うんですよね』とか」
「『この敵の出現パターン、後期ロムだと変わってます』とか」
アキラさんが、ふっと笑った。
今度の笑い方は、少し温かかった。
「ほんと好きなんだなー、この人、って思ってた」
俺は、缶の表面を、指先で撫でた。
(……やっぱり)
冷たさが、さっきより薄かった。
手のひらの熱が、缶に移っていた。
「でさ、もっと数字があれば、もっと多くの人にこれの良さを知ってもらえる、って」
「そう、思ってさ」
一拍。
「ここが、間違いの始まりだったんだけどね」
「あ、数字を追うこと自体が、悪いわけじゃないからね」
「目的のためにちゃんと使えれば、必要なこと」
「ただ、私の場合は、追い方がおかしくなってただけ」
しばらくの沈黙。
冷蔵庫が、薄く唸る音を立てた。
「あ、ちなみにね」
アキラさんが、ふっと、こっちを見た。
「当時のチャンネル、もうぜんぶ消してあるからね」
「サムネとか、私名義の素材とか、ぜんぶ消したの」
「探そうと思っても、たぶん出てこないと思う」
◇ ◇ ◇
「で、数字の話なんだけど」
「最新ゲームのコラボに出たり、流行り物追いかけたり、ほんと色々やったの」
アキラさんの爪が、ラベルをまた進めた。
めくれた紙が、半分くらい剥がれていた。
「新作の派手なホラゲーとか、流行ってるバトロワとか」
「相手のVTuberさんと、自分のチャンネルの色って合ってないなー、とか」
「薄々、わかってたんだけど」
もう一口、缶を傾けた。
「再生数の伸びる方に、ぐーって、流れていって」
「気づいたら、最新タイトルの実況の方が再生回数で上に来てて」
「あれ? 私、何やってたんだっけ? ってなった時には、結構深く入ってた」
しばらく、沈黙が流れた。
アキラさんの指が、ラベルの上で、止まっている。
◇ ◇ ◇
「で、まあ」
アキラさんの指が、ラベルから、ふっと離れた。
空中で、少し止まった。
「色々やってるうちにね」
「数字の伸び方を……なんていうのかな、優先する感じになってきて」
「流行りの最新ゲームばっかり、追いかけるようになって」
「お色気系にも、手を出してね」
「……ASMRとかも出したなー」
「……」
窓の外で、何かの車が、遠くを通り過ぎる音がした。
「いやー、今思うと、ほんと、ね……」
ふっ、と、笑った。
その笑い方が、今までより少しだけ低かった。
「自分で、何やってんだろなー? って思いながら、止められなかったんだよね。当時は」
アキラさんの指がラベルの上で、また止まった。
壁の時計が、また、鳴った。
◇ ◇ ◇
「
アキラさんの目が、こっちを見た。
「……名前を聞いたことくらいは、ありますけど」
「実際は、わからないです」
「あ、そっかー」
アキラさんが、缶をテーブルに置いた。
コトン、と軽い音がした。
「ええっとね、ダミーヘッドのマイクとか使ってさ」
両手で、何かの形を空中に描いている。
頭くらいの大きさのものを、両手で挟むような格好だった。
「マイクの右と左で、別々に音を録れるやつ」
「人間の頭と、同じ位置にマイクが付いててさ」
「だから、囁くと、聴いてる人の耳の真横で囁いてるみたいに聞こえるの」
「……」
「ほら、こうやって——」
アキラさんの顔が、すっと近づいてきた。
俺は、息を止めた。
「マイクの、すぐ側で——」
俺の耳の、すぐそばで声がふっと、低くなった。
「『おやすみなさい』とか、囁くわけ」
囁き声が、息が耳にかかった。
肩が、びくっと跳ねた。
心臓がひとつ、強くハネた。
時計の音が、聞こえなくなっていた。
◇ ◇ ◇
アキラさんが、ふっと身を引いた。
「——みたいな、ね」
缶を取って、一口。
「いやー、実際やってみると大変でさ」
もう一口。
「私の頃は、マイクも安いやつだったし、防音もちゃんとしてなくて、ノイズとか拾っちゃってさ」
「クオリティも、微妙だったし」
「ファンの人が、優しさで頑張って褒めてくれてた感じ」
ふっと、笑った。
「本気でやってる人たちは、ほんとすごいよ」
「機材も環境も、技術もぜんぶ別格でね」
「あの、息の質感とか間の取り方とか、ちゃんと届くの」
「聴いてると、ゾクゾクくるもん」
俺は、缶を持ったまま、まだ息ができていなかった。
(……充分、ゾクゾクしました)
「あー、まあでも」
アキラさんが、缶のラベルを、また指で撫でた。
めくれた紙がもう、ほとんど缶の側面で立っていた。
「ASMRに限らずさ、お色気路線とか、流行りのゲームとかもさ」
「結局、私の向き合い方が全部、中途半端だったんだよね」
「数字ばっかり見てて」
「……」
ふっと、目線が、窓の外に流れた。
「……」
戻ってきた声は、もう普通だった。
「あー、なんか、暑くなったね」
◇ ◇ ◇
アキラさんが、缶を空にして、テーブルに置いた。
めくれかけたラベルが、テーブルの天板に薄く触れていた。
「お酒もおつまみも切れちゃった。もうちょっと飲みたいかも。ね、コンビニ行かない?」
「……いいですよ、行きましょうか」
俺は、缶を持ったまま立ち上がった。
手のひらの中で、缶の中身が半分くらい、ちゃぷんと揺れた。
台所のシンクに、缶を置いた。
中で残った中身が、薄く底に動く音がした。
サンダルに、足を入れる。
アキラさんが、玄関の鍵に、手をかけた。
「あ、エコバッグ、いる?」
肩越しに、こっちを振り返る。
「あ、いっか、コンビニの袋で」
ひとりで、笑った。
「歩きながら、もうちょっと、続き話してもいい?」
軽い音を立てて、ドアが開いた。
夜の空気が、急に肌に当たった。