3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~ 作:式守 芽衣
マンションを出ると、夜の風が髪に触れた。
五月の夜は、少しだけぬるい。
アキラさんが、サンダルの先で軽くアスファルトを蹴った。
こつっと、薄い音がした。
「あー、外、気持ちいいー」
俺は、二歩遅れて隣に並んだ。
耳の奥で、まだ薄く息の感触が残っていた。
自分の心臓の音が、まだ少しだけ不規則だった。
「コンビニ、いつものとこでいい?」
「そうですね」
夜の道に、二人の足音が薄く重なった。
道の脇で、誰かの家の窓に、テレビの薄い光が見えていた。
アキラさんの歩幅が、いつもよりほんの少しだけゆっくりだった。
「あのね」
アキラさんが、視線を前に向けたまま口を開いた。
「パルサーさんのことなんだけど」
一拍。
声が、ほんの少しだけ低かった。
しばらく、二人の足音だけが流れていた。
「あの人ね、最初はほんと、熱心だったんだよ」
「私が色々やるようになって、少しずつコメントが変わってきてね」
「ASMRとか手を出した辺りから、アンチコメントとかセクハラコメントも、増えてきて」
俺の指が、ふっとこわばった。
胸の奥で、何かが熱くなった気がした。
……。
言葉が、すぐには出てこなかった。
コンビニの明かりが、すぐそこに見えていた。
◇ ◇ ◇
コンビニの自動ドアが、ピンポンと軽い音で開いた。
白い照明が、目にふっと差した。
冷蔵棚の前で、アキラさんが缶を二本、手に取った。
レモンと、グレープフルーツ。
「いつもの! 何本か買っとこ」
「追加しておきましょうか」
もう二本、棚から手に取った。
お菓子の棚で、アキラさんがナッツとチップスを両手に持って、見比べていた。
「ナッツとチップス、どっち?」
「……どっちでも」
「じゃ、両方」
ふっと笑った。
レジで、ピッと軽い音がした。
コンビニの袋を、俺が受け取った。
ずっしりと重みが手に来た。
◇ ◇ ◇
夜の道を、また二人で歩いた。
コンビニ袋が、カサカサと薄く鳴った。
空には、半分くらいの月が薄く浮かんでいた。
しばらく、二人の足音だけが流れた。
「……」
「セクハラは、許せないですけど」
一拍。
「あの人が、本当にレトロゲー好きだったのは、なんとなく伝わってきます」
アキラさんの足が、ふっと遅くなった。
俺の足も、自然に遅くなった。
「……うん」
一拍。
「そう、だからこそ、裏切られたって、感じたんだろうなって」
一拍。
アキラさんが、ふっと息を吐いた。
「変わったのは、リスナーじゃなくて私だった」
また、二人の足音だけが流れた。
「数字追って、自分の軸見失って、色々やりすぎて」
「どんどん疲弊してね」
「ある日ね、仕事で、結構大きなミスしちゃって」
「……」
信号が赤になった。
二人で、立ち止まった。
「もう、駄目だなって思って」
「焔れとろは、引退したんだ」
信号が青に変わった。
しばらく、歩く音だけが流れた。
「でね、半年くらい何もせず、休んでたの」
「でもやっぱり、レトロゲーを広めたいって思いは、変わらなくてさ」
「今度は無理のない範囲で、本当に好きなことだけ、少しずつやろうかなって」
アキラさんの声が、少しだけ温かくなった。
「同じ声でバレてもなんだし、性別ごと変えちゃって」
「で、和太郎。いわゆる、転生ってやつね」
VTuberが、別のキャラで再デビューすること。俗に「転生」と呼ばれている。
「声の方は聞いての通り、びっくりするくらい上手く出ちゃってさ」
一拍。
「おじいちゃんの、おかげかも」
ふっと笑った。
「いやー、『転生したら、昭和のおじさんだった』みたいな、ね」
軽く、笑った。
俺は、しばらく考えた。
「……つまり」
「焔れとろさんが、本来の動機を取り戻して、和太郎さんに転生した」
「ってことは」
「和太郎さんの中には、本当のれとろさんも、ちゃんと生きてるんですね」
アキラさんが、ふっと、こっちを向いた。
目が、ふっと揺れた。
「……」
「……うん」
「……うん、そうだね」
声が、少しだけかすれていた。
「……ありがと」
二人の足音だけが、しばらく流れた。
「あ、そういえばさ」
「紗雪ちゃんって、前世はある?」
「……いえ」
「紗雪が、初めてですね」
「そっかー」
一拍。
「じゃあ、大事にしなね」
「私、紗雪ちゃんのこと、大好きだから」
俺の足が、少しだけ乱れた。
「……はい」
また、少し歩いた。
アスファルトを踏む音が、二つ重なっていた。
「アンチコメも、たぶん」
「根っこにあったのは、レトロゲー愛だったんだよね」
「……」
「私が本来やりたいこと出来てる自分に戻ったら」
「あの人も、本来の純粋なファンとして戻ってきた」
「戻ってきたっていうのも変かな? 姿も声も違ってて、中身が同じだって気付かれてもいないのに」
一拍。
「……きっとお互い、映し合ってたんでしょうね」
アキラさんの足が止まった。
俺も、自然に止まった。
街灯の下で、二人の影が薄く伸びていた。
夜の音が、ふっと聞こえてきた。
遠くの車の音、葉ずれの音。
アキラさんが、空を見上げた。
笑わなかった。
少し経って、また歩き出した。
俺も、半歩遅れてついていった。
マンションのエントランスが、見えてきた。
◇ ◇ ◇
玄関のドアが、軽い音で開いた。
コンビニ袋を、ローテーブルに置く。
ガサっ、と、ビニールが薄く鳴った。
「ふー、話しちゃったね」
アキラさんが、両手を上に伸ばした。
Tシャツの裾が、少しめくれた。
「アキラさん」
「ん?」
「……話してくれて、ありがとうございます」
「……!」
アキラさんが、ふっと顔をそむけた。
「ちょっと洗面所行ってくる〜」
声が、少しだけ震えていた。
アキラさんが、廊下の方へふらりと消えた。
——廊下のドアの、向こうから。
グスッ、と小さな音が聞こえた。
俺はコンビニ袋から二本だけ残して、缶をひとつずつ、冷蔵庫に入れていった。
アルミの冷たさが、指先にしみた。
しばらく、台所に立っていた。
冷蔵庫の唸る音だけが、薄く続いていた。
手のひらは、まだ缶の冷たさを覚えていた。
水を流す音が聞こえた。
しばらくして、また止まる。
しん、とした。
廊下のドアが、開く音。
「お待たせ」
アキラさんが戻ってきた。
髪を軽く、整え直していた。
目が、少し赤かった。
俺は、何も言わなかった。
「じゃ、飲み直そっか」
声はもう、いつも通りだった。
◇ ◇ ◇
俺たちは、ソファに戻った。
ローテーブルの上に、コンビニ袋から缶を二本、取り出す。
レモンの方を、アキラさんに渡した。
俺は、グレープフルーツの方を開けた。
プシュッと軽い音がした。
カチン。
軽く、合わせた。
一口飲むと、冷たい炭酸が舌の奥ではじけた。
アキラさんが、ふっと息を吐いた。
「聞いてくれて、ありがと」
短い言葉だった。それだけだったのに、なんだか元気をもらえた気がした。
「あ、そういえばさ」
アキラさんが、缶をふっと傾けた。
「次は、紗雪ちゃん始めた理由、もっと詳しく聞かせてもらおうかなー」
「……和太郎さんがきっかけ、でした」
「それは前聞いた。それ以外も、絶対あるでしょー?」
「……機会があれば」
「えー、絶対だよー」
ふっと笑った。
アキラさんの柔らかい笑顔に、ほんの少し元気が戻っている気がした。
お互いに何か、心の余裕の様なものが回復した。そんな感触。
壁の時計が、また薄く鳴った。
夜は、まだ続いていた。
◇ ◇ ◇
数日後の、週末の夜だった。
夕飯のスパゲッティの皿をシンクに置いた。二人分の白い皿に、ミートソースの跡が薄く残っている。
開けたままの窓から、六月の生ぬるい風が流れてくる。
「そろそろ配信行ってくるねー」
アキラさんが、リビングを横切った。
Tシャツに短パン、髪をふわっと束ね直しながら配信部屋の方へ歩いていく。
「今日、楽しみだなー」
「コラボですもんね」
アキラさんが、ふっと立ち止まった。
「コラボもなんだけどさ。パルサーさん、来てくれるかなー、って」
「ちょっと、緊張しちゃって」
「……大丈夫ですよ、きっと」
「そっか。うん、ありがと」
笑って、配信部屋のドアが軽く閉まった。
俺はリビングのソファに腰を下ろした。タブレットを開く。
缶の炭酸水をローテーブルに置いて、プルタブを引いた。プシュ、と小さく鳴る。
配信が始まった。
◇ ◇ ◇
『よっ、
画面の左半分に、銀髪の女性アバターが現れた。
黒を基調にした潜入スーツが身体の線にぴったり張り付いている。
腰にそれらしい武装、手の甲に薄い手袋の刻印。軽くお辞儀をした。
『どうも、シルヴィ・ノワールです。よろしくお願いしまーす』
声はクールビューティ系。ただ語尾がほんの少しだけ柔らかい。
コメント欄が流れていく。
「銀髪きれい」「和太郎と絵面違いすぎw」「待ってた」「銀×黒映えるわ」
『いやー、スパイキャラだからな。潜入とか得意そうだろ? 期待してんぞー』
『えっ、ハードル上がってるじゃないですか! 設定と腕前は別なんですけど……』
『はっはっは。あらためて、今日のゲームは、これだ!』
画面にレトロなタイトルロゴが浮かび上がった。
潜入アクションの古典——スパイが敵の基地に侵入して、巨大兵器を破壊するやつ。
『あ、これ!』
『お前さんの設定にぴったりだろ? スパイには潜入アクション』
『えー、嬉しいー! でもこれ初めてなんだよね』
『そうなのか。じゃ軽く解説するな』
和太郎さんが、ゲームの基本を簡単に語った。
主人公がスパイで、敵に見つからず進むのが基本。
見つかったらあの独特の警報音が鳴り、一気に不利になる——というシステム。
『へぇー、見つかると音鳴るんだ。面白い』
ファミコンのドット絵が画面に立ち上がった。主人公が、潜入施設の入り口に立っている。
『よし、行ってみっか!』
ノワールがコントローラーを握り直す音がマイク越しに聞こえた。
数分後。
ピロリッ。
画面の中で、敵の頭上に見覚えのある記号が浮かんだ。
『あ、見つかった』
『あ、また見つかった』
『えっ、なんで……敵の視界範囲、意味不明なんだけど……』
『おい見つかりすぎだろ潜入できてねぇぞ!』
和太郎さんの声に笑いが混じった。
『もっと壁沿いに進め! あと敵の動きのパターン覚えるんだ』
『えー、難しいよー。勘じゃダメ?』
『勘でいけるゲームじゃねぇんだよ!』
「www」「素出てるw」「ノワールさんかわいい」「勘プレイw」「!マーク量産」
『うぇーん! また! なにこの敵、視界360度じゃないの?』
『違う違う。ちゃんと範囲決まってるから。敵の動きのパターン覚えろって』
『覚えるの?! ちょっと待ってムリムリわかんないぃ……』
「シルヴィおもしろすぎ」「設定崩壊」「スパイ失格w」
ふと、画面の隅に四角い箱のアイコンが見えた。
『あ、それ隠れる装備だ。拾っとけ~』
『え、隠れる?』
『箱だ、箱。被るんだよ』
『……箱? いや、なんでスパイが箱で隠れるの?』
『そこは突っ込むなー、これがこのゲームのロマンだから』
「箱は紳士のたしなみ」「歴代スパイの礼儀」「異論は認めない」
ノワールの操作キャラが画面の中で箱を被った。四角い箱がふらふらと進んでいる。
『ナニコレww 箱が動いてる! 敵から見てどうなの? いけてる?』
『いけてるいけてる。ロマンだ、ロマン』
『ロマンで片付けるなー!』
俺はふっと口の端を上げた。缶を一口飲んだ。炭酸が舌の奥ではじける。
画面の中でノワールが箱のまま移動して、ようやく敵を一人やり過ごした。
『あ、いけた! 箱すごい!』
『だろ? だからロマンなんだよ』
コメント欄が「箱の信仰」「入信しましたw」と流れていく。
和太郎さんが、ふっと声のトーンを変えた。
『そういえばよ。ノワールの潜入スーツの意匠、いいねぇ。銀と黒の組み合わせが渋いんだよなぁ、この腕のラインとか』
『あー、ありがとうございます。デザイナーさんがこだわって作ってくれたんですよ』
ノワールの銀髪が、画面の中で揺れた。長さがアキラさんと同じくらいで——色は違うのに、ふと、重なった。
あの黒い潜入スーツを、アキラさんが着ている姿が。
(……待て待て待て)
炭酸が喉に刺さった。
◇ ◇ ◇
配信がしばらく進んだ。
ノワールがようやく一区画クリアした。
『やったー!』
『おう、やっと潜入っぽくなってきたな』
コメント欄に見覚えのある名前が流れた。
「パルサー:このゲーム懐かしい! うちの兄が当時ハマってましたよ」
和太郎さんの声がふっと優しくなった。
『お、パルサー! 来てくれてありがとな。相変わらずレトロゲー詳しいなぁ』
「パルサー:ノワールさん、頑張ってくださいー!」
『ありがとうございますー!』
ノワールが軽く笑った。
『常連さんですか?』
『最近来てくれてるんだ。いいやつだよ』
和太郎さんの声に余裕があった。普通の温かさだった。
◇ ◇ ◇
配信が後半に入った。ノワールが何度かのチャレンジの末にもう一区画進んで、時計を見ると配信開始から二時間ほど経っていた。
『よし、今日はこの辺でお開きにすっか』
『うんうん。長時間ありがとうございましたー』
『じゃあノワール、最後に何か告知があれば言ってくれ~』
ノワールが、一拍置いた。
『あ、あります』
声が、いつもより少しだけ低い。
『実はこのあと、SNSで重大発表があります』
「えっ」「なに」「気になる」「重大発表!?」
コメントがざわついた。
『え、なに何? 俺聞いてないぞ?』
和太郎さんが素で驚いた声を出した。
『ふふっ、見ててくださいね』
『ちょっと、教えろよー!』
『ふふふ、後でね』
「www」「ノワール意地悪」「タイムライン張る」「待機」
『よし、じゃ今日はここまでだ! みんな来てくれてありがとなー!』
『ありがとうございましたー! 楽しかったです!』
配信が終わった。
◇ ◇ ◇
タブレットの画面を閉じた。スマホを手に取る。
SNSのアプリを開いて、タイムラインをスクロールした。
……あった。
ノワールのアカウントから、長文スクショの画像。ほぼ同時刻に、レオからも同じ形式の画像。
「……」
俺はソファの上で固まった。
冷蔵庫が低く唸っている。窓の外から、遠い車の音が聞こえていた。
◇ ◇ ◇
ぱたぱた、と廊下から足音が聞こえた。
「ねー、みたみた?!」
アキラさんがリビングに勢いよく飛び込んできた。
息が少し上がっていて、頬がうっすら紅い。
「私びっくりしてさー、配信のあとちょっと固まってたよ」
ソファの隣にぺたんと座った。肩が軽く触れる。
「これね、これ」
俺の手のスマホを覗き込んだ。
二人で長文の画像を目で追った。
「『日頃応援いただいている皆様へ』」
アキラさんが読み上げ始めた。
「『私事ですが——』」
「『
俺が続きを読んだ。
「『今後とも、それぞれのVTuber活動は継続して参ります』」
「『応援、よろしくお願い申し上げます』」
画像の最後に、両者の名前が並んでいた。
「はー」
アキラさんが、ソファの背に頭を預けた。天井を見上げている。
「VTuber同士のカップルか〜」
「最近、珍しくなくなってきたよね」
「確かに。この手の報告、よく見るようになりましたよね」
二人の間に、薄い沈黙が流れた。六月の夜の、湿った空気が動かない。
「あ、そういえばさ、ノワールさんって私よりだいぶ先輩なんだよね。けっこう長くやってるって聞いた」
アキラさんが首を傾けた。
「……そうなんですか」
「うん。すごいよねー、長く続けてる人って」
アキラさんが、ふっと、自分の手を見て、天井を見て、軽く息を吐いた。
「今日、このあと紗雪ちゃんの配信あるんだったよね」
「……ですね」
俺は立ち上がった。
「ちょっと、準備しときます」
「うん。私お風呂入ってくるねー。お風呂にスマホ持ちこんでゆっくり見よっと」
アキラさんがぱたぱたと廊下の方へ消えていった。
俺は配信部屋のドアを開けた。
椅子に座って、配信ソフトを開く。今日の配信メモを確認しようとして——手が止まった。
何を話すんだっけ?
いつもなら、ここで迷わない。
雑談のネタ、リスナーへのお礼、今週のこと。全部、頭に入っているはずなのに。
モニターの光が、指先を薄く照らしていた。