3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~   作:式守 芽衣

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第13話 重大発表があります

 誰かの顔が、見えた。

 

 大学の時の友人だった。名前が——出てこない。

 でも顔は覚えている。気まずそうに、目をそらしていた。

 

「あのさ」

 

 テーブルの上に、コーヒーがあった気がする。湯気は、もう出ていなかった。

 

「言いにくいんだけど」

 

「お前の彼女が——男と、2人で——朝、出てくるところを——」

 

 声が、遠かった。所々しか、聞き取れなかった。

 

 彼女の顔が浮かばない。声が聞こえない。最後に何を言われたか、思い出せない。

 

 テーブルの上のコーヒーだけが、妙にはっきり見えていた。

 

 

 がらんとした部屋だった。

 

 自分の荷物だけが、壁際に積まれている。

 

 床に、テープの跡が薄く残っている。

 

 窓の向こうは暗い。冬の、底冷えのする夜だった。

 

 星が見えていた。その間を、ほんの少しの雪が、静かに舞っていた。

 

 二人で住むはずだった2DKの部屋。敷金も礼金も払った。解約するのも面倒で、違約金も惜しくて。

 

 ここに、ひとりで住むことにした。

 

◇ ◇ ◇

 

 目が開いた。

 

 夢を見ていた。何の夢だったか、もう思い出せない。

 

 天井が、薄暗い。

 

 六月の朝の湿気が、肌に貼りついていた。Tシャツの背中が、少しだけ汗で重い。

 

 隣の部屋から、かすかに、気配がした。

 

 呼吸とも寝返りともつかない、小さな音。アキラさんが、まだ寝ている。

 

 しばらく、天井を見ていた。

 

 起き上がり、洗面所へ向かう。

 

 蛇口をひねって水を出した。両手ですくって顔を洗う。冷たさが、目の奥に届いた。

 

 歯ブラシが二本、コップに立っている。棚の隅にヘアゴムが三つ。

 

 台所へ移動して、やかんをコンロの火にかける。湯が沸くまでの間に、冷蔵庫を開けた。

 

 アキラさんの野菜ジュースが、二本並んでいた。隣に俺の炭酸水。その奥に、プリンが一つ。

 

 冷蔵庫の扉を閉める。やかんが鳴った。インスタントコーヒーを入れたマグカップにお湯を注ぐ。

 

 レトロゲームのロゴが入ったマグカップ。

 アキラさんが『かわいいでしょ』と置いていったやつ。俺の無地のマグカップと並んでいる。

 

 湯気が、ゆっくり立ち上がっている。

 

 (……いつから、こんなに)

 

 俺は、マグカップを両手で包んだまま、リビングを見回していた。

 

 同じ部屋のはずだった。必要最低限の荷物で住み始めた、あのがらんとした部屋と。

 

 マグカップの熱が、手のひらに沁みていた。

 

◇ ◇ ◇

 

「おはよー」

 

 アキラさんが台所に現れた。オーバーサイズのTシャツにショートパンツ、髪はぼさぼさのまま。目が半分閉じている。

 

「おはようございます」

 

「んー、コーヒーいい匂い」

 

 俺はアキラさんのマグカップにコーヒーを注いで、テーブルに置いた。

 

「あ、ありがとー」

 

 アキラさんがテーブルに座って、両手でマグカップを包んだ。ふーふーと息を吹きかけている。

 

「トースト焼きましょうか」

 

「んー、おねがい」

 

 パンを二枚、トースターに入れた。ジーッと音が鳴り始める。

 

 アキラさんがコーヒーを一口飲んで、ふっと息を吐いた。

 

「ねー、昴さんってさ」

 

「はい」

 

「なんで敬語なの? いつも」

 

「……和太郎さん、年上ですし」

 

 アキラさんが、むっとした顔になった。マグカップをテーブルに置いた。

 

「私は違うからね!? 和太郎と私は別でしょ!?」

 

「いや、でも……和太郎さんと紗雪で付き合い長かったんで。なかなか切り替わらないっていうか……」

 

「私、昴さんより年下だよ? 21歳78か月だからね!」

 

「……それ何歳ですか」

 

「30歳マイナス3か月の人に言われたくないんだけどー」

 

「……あと3か月で30ってことを突きつけないでください……」

 

「あっはっは! ほら、私のが下じゃん。敬語いらないじゃん」

 

「……とはいえ、なかなかすぐには難しいですよ」

 

「あ、今も敬語」

 

 アキラさんが、ぷぅっと頬を膨らませた。それから、ケラケラ笑った。

 

「まあいいけどー。バーチャルとリアルでごっちゃになるのはわかるけどさ。でも変だからねー、ほんと」

 

 チン、とトースターが鳴った。

 

「あ、焼けた」

 

 俺は立ち上がって、トースターからパンを取り出した。皿に二枚並べる。バターナイフを添えて、テーブルに置いた。

 

「ありがとー」

 

 アキラさんがバターを塗りながら言った。

 

「あ、そういえばさー。弟がね、ゲーム実況デビューに向けて動き出したんだって」

 

「へぇ、そうなんですか」

 

「うん。昨日LINE来て。『姉ちゃん、配信ってどうやんの?』って」

 

「……なんて答えたんですか」

 

「『知らんがな』って返した」

 

「知ってるじゃないですか」

 

「弟には流石に和太郎のこと教えてないしー。もちろん、その前も含めて」

 

 アキラさんがトーストをかじった。バターの匂いが広がる。

 

 窓の外が、白く、明るかった。

 

「洗い物やるねー」

 

 アキラさんが立ち上がった。

 

「あ、俺やりま——」

 

「いいからいいから」

 

 水の音が聞こえてきた。

 

 俺はテーブルに座ったまま、コーヒーを飲んでいた。

 

 ——なんで敬語なの?

 

 さっきの声が、まだ少しだけ、耳に残っていた。

 

 マグカップの中身がぬるくなっていた。指先に、その温度が伝わっていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 六月の夜は、じっとしているだけで肌がべたつく。

 

 晩ごはんの片づけが終わって、ソファに並んで座っていた。アキラさんはスマホ、俺はぼんやりテレビを見ている。

 

 ニュース番組が、どこかの美術館の特別展の話題を映していた。人混みの映像が切り替わって、天気予報になる。画面の端に傘マークが並んでいた。

 

「明日、雨かー」

 

 アキラさんが画面を見ずに言った。

 

「みたいですね」

 

「洗濯物もう取り込んどいたからね。ベランダ出たとき風がぬるかったから、これは降るなーって」

 

「……さすがです」

 

「えへへ」

 

 開けっぱなしの窓から、ぬるい風が入ってくる。カーテンの裾が小さく揺れていた。テーブルの上に、俺の麦茶と、アキラさんのカルピスソーダが並んでいる。

 

 何でもない、夜。

 

◇ ◇ ◇

 

「あ、ちょっとこれ見て」

 

 アキラさんがスマホをこっちに傾けた。

 

 画面にノワールのアイコンが表示されていた。銀髪に黒いベレー帽のアイコンの横に、ハートの絵文字が三つ並んでいる。

 

「何ですかこれ」

 

「ノワールが今日ポストしたやつ。読んで読んで」

 

 画面をスクロールする。『今日、レオが私の好きなケーキをサプライズで買ってきてくれました。好きな味がわかるの怖い。でもうれしい。ありがと、レオ』。文末にスパイの絵文字。

 

「……スパイが素になってますね」

 

「ねー! 普段あんなにクールキャラなのに」

 

 アキラさんがけらけら笑いながら、リプ欄をスクロールした。

 

「見てこれ、てぇてぇの嵐」

 

「すごい数ですね……」

 

「ファンアートももう出てるし。告知から二週間でこれって、すごくない?」

 

 画面の中を、ハートとイラストと『おめでとう』が埋め尽くしていた。

 

「コラボの数字も見たんだけどさ、告知前と変わんないんだよね。むしろちょっと増えてる」

 

「コラボ配信のときもコメント多かったですもんね」

 

「うんうん。V同士で付き合ってもさ、活動に支障出てないじゃん、全然」

 

 アキラさんの指が、リプ欄をゆっくりスクロールしている。

 

「なんかさー、ファンの反応見てるとさ、ほんとに祝福してる感じなんだよね。茶化してるんじゃなくて」

 

「……そうですね」

 

「レオのほうもさ、照れ隠しみたいなポストしてて。『ノワールが自分のことを書いてるのを見るのは新鮮な気持ちです』って。かたいなー!」

 

「レオさんにしては堅いですね」

 

「あ、そこ同意するんだ」

 

「……いや、まあ」

 

 アキラさんが、ぷっと吹き出した。

 

「あ、そういえばさ。さっきテレビでやってた展覧会の特集見た?」

 

「あー、なんかやってましたね」

 

「ああいうのさ」

 

 アキラさんがスマホを膝に置いて、天井を見た。

 

「いつかさ、レトロゲーの展示とかやってみたいんだよね」

 

「展示?」

 

「うん。うちの会社、展覧会のグッズとかショップの運営やってるじゃん? でもそっちだけじゃなくて、企画のほうで。どういうゲームを並べて、どう見せるか、みたいの」

 

和太郎(わたろう)さんのチャンネルで取り上げたやつとか並べる感じですか」

 

「あー、それいいね! 実機で遊べるコーナーとかさ、子どもにも触らせたいし。じいちゃんの家で初めてファミコン触ったとき、すっごい感動したからさ。あの感じをさ、知らない世代にも味わってほしいんだよね」

 

 アキラさんの目が、少し輝いていた。

 

「いいですね、それ」

 

「でしょー? まあ、公私混同だし、今はまだ全然夢の話なんだけどねー」

 

 アキラさんが笑って、またスマホを持ち上げた。

 

「あ、見てこのファンアート」

 

 画面に、ノワールとレオがゲームのコントローラーを取り合っているイラストが表示されていた。

 

「うまいなー。こういうの、ほんとにファンが楽しんでるって感じでいいよね」

 

「告知前の配信の空気感がそのまま残ってますよね。変に構えてないっていうか」

 

「そうそう。あの二人、コラボのときと全然変わんないもんね」

 

 アキラさんがスマホを俺のほうに傾けた。画面の光が、アキラさんの横顔を薄く照らしている。

 

 肩のあたりに、アキラさんの髪が触れていた。

 

「いいよね、ああいうの」

 

「……いいですね」

 

 (……いつまで、続くんだろう)

 

 麦茶のグラスに、手を伸ばした。

 

 アキラさんがふふっと笑った。俺もつられてしまい、少しだけ笑った。

 

 窓の外で、虫の声がしていた。遠くで車が通る音。それだけが、リビングに流れていた。

 

 アキラさんが、スマホをテーブルに伏せた。

 

 画面の光が消えた。

 

 少しの間があった。

 

「あ、ところでさー」

 

「はい」

 

(すばる)さんに重大発表があります」

 

「……え、長文スクショですか」

 

「ううん、ひとこと」

 

「好きになっちゃった」

 

 アキラさんは、天井を見ていた。

 

 俺の指が、止まった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 アキラさんは、天井を見ていた。

 

 虫の声だけが、部屋に残っていた。

 

「……え」

 

「あ、もちろんライクじゃなくてラブのほうね。(すばる)さんのこと」

 

 アキラさんが、なんでもないことみたいに言った。

 

 俺の指が、まだ止まったままだった。理解が追いつかない。

 

「……」

 

「あはは、変な空気にしちゃったかな」

 

 アキラさんが立ち上がった。テーブルの上のカルピスソーダを持って、台所に向かう。

 

「おやすみー」

 

 足音が遠ざかって、引き戸が閉まった。

 

 俺は、ソファに座ったまま動けなかった。テーブルの上に、麦茶のグラスが一つ残っていた。氷が、かすかに鳴った。

 

◇ ◇ ◇

 

 目が覚めたのか覚めていなかったのか、よくわからなかった。

 

 天井が白い。六月の朝の光が、カーテンの隙間から細く差している。

 

 首の後ろが重い。枕が合わなかったみたいに、右の肩だけ凝っていた。

 

 台所へ向かう。やかんをコンロにかけた。冷蔵庫を開ける。アキラさんの野菜ジュースが二本、炭酸水の隣に並んでいる。

 

 インスタントコーヒーにお湯を注いだ。湯気がゆっくり立ち上がるのを、ぼんやり見ていた。

 

「おはよー」

 

 アキラさんがリビングに出てきた。Tシャツにジャージのハーフパンツ、髪をざっくりひとつに束ねている。目がまだ少し眠そうだった。

 

「おはようございます」

 

「ん、コーヒーの匂いー。いいねぇ」

 

 アキラさんのマグカップにもコーヒーを注いだ。レトロゲームのロゴ入りマグカップ。テーブルに二つ並べる。

 

「ありがとー」

 

 いつも通りだった。声のトーンも、座り方も、マグカップの持ち方も。少しだけ機嫌がいいような気もする。鼻歌が、かすかに混じっていた。

 

 パンを二枚、トースターに入れた。ジーッと音が鳴り始める。

 

「あのさー、冷蔵庫の卵、今日で期限だから使っちゃってね」

 

「……わかりました」

 

「あと洗濯物、昴さんの分も畳んどいたから」

 

「ありがとうございます」

 

 昨夜のことにはお互いに触れない。触れられない。何事もなかったみたいに、朝が流れていく。

 

 チン、とトースターが鳴った。パンを二枚出して、皿に並べる。

 

 俺の口が、動きかけた。

 

「あの、昨日の——」

 

「あ、やば。今日シフト早いんだった。いってきまーす!」

 

 アキラさんがトーストを一枚持って玄関に向かった。ばたばたとスニーカーを履く音。

 

「いってらっしゃい」

 

 ドアが閉まった。

 

 テーブルの上に、トーストが一枚残っていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 夜。作業部屋で配信を始めた。

 

 いつも通りのはずだった。

 

 コメントが流れているのに、拾い損ねた。『紗雪ちゃんさっきの見てー!』で気がついて、慌ててスクロールを戻す。

 

「あっ、ごめんなさい……見落としちゃいました」

 

 リアクションが一拍遅れる。リスナーの名前を読み上げるとき、声が少し上ずった。

 

 自分でわかっていた。壁一枚向こうに、さっき「ただいまー」と帰ってきた人がいる。それだけで、いつもの声が出ない。

 

 配信を終えた。ヘッドセットを外す。耳の裏が汗ばんでいた。

 

 隣の部屋から、笑い声が聞こえていた。

 

 和太郎(わたろう)さんの、腹の底から出る声。ソロのレトロゲー配信。今日はいつも以上に弾んでいる。壁越しでもわかるくらい、声の張りが違った。

 

 スマホで和太郎さんのチャンネルを開いた。コメント欄が流れていく。

 

 『和太郎今日キレてんな』『ノーミスいけるんじゃね』『声の張りが違う』

 

 画面の中で、和太郎さんがサクサク進めていた。判断が早い。テンポよくリスナーの名前を拾って、笑い声を混ぜている。

 

 壁越しのアキラさんの生声と、スマホから流れる和太郎さんの声が、重なっていた。

 

 やがて配信が終わった。「おつかれー! また来てくれよなー!」。壁の向こうから締めの挨拶が聞こえて、静かになった。

 

 スマホの画面に、和太郎さんのアーカイブ一覧が残っていた。サムネイルが並んでいる。渋い顔で「おう、今日もやっていくぞ」と言っている、あの表情。

 

 (……やっぱり、好きだな、この人の配信)

 

 困ったとき、和太郎さんの配信を見る。いつからかそうなっていた。あの声を聞いていると、なんとなく落ち着く。

 

 ——誰かに相談したい。

 

 この人に話を聞いてもらえたら、少しは楽になるだろうか。「和太郎さん、実は——」

 

 俺の指が、サムネイルの上で止まっていた。

 

 待て待て、本人じゃないか。

 

 さっき、隣の部屋で配信してた人だ。朝、トーストを持って出ていった人だ。昨日の夜、天井を見ながら——

 

 指が、サムネイルから離れた。

 

 でも、誰かには話したい。

 

 ちとせさん?

 

 デスクの端のVRヘッドセットに手を伸ばしかけて、止まった。紗雪(さゆき)として何て言えばいい。

 

「同居人に告白されました」? 同居のことも、VTuber同士のことも、全部秘密だ。事情を話そうとした瞬間に、全部がほどける。

 

 ちとせの「どうしたのー?」と言う顔が頭に浮かんだ。何ひとつ、答えられない。

 

 ヘッドセットを元に戻した。

 

 誰にも、言えない。

 

 ぬるくなったコーヒーのマグカップに手を伸ばして、一口だけ飲んだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 配信終わりの夜食に、冷蔵庫に残っていた卵でチャーハンを作った。

 

「今日さー、会社で面白いことがあってさ」

 

 アキラさんがチャーハンをかき込みながら喋っている。

 

「キャプションのデータ入稿したんだけどさ、文字が全部ゴシック体になってて。担当者がめっちゃ焦ってた」

 

「うわ……それは焦りますね」

 

「でしょー? 明朝体って指定してたのにさ。誰がどこで変えたんだろうねー。でもギリギリ直せたからオッケー」

 

 アキラさんは配信好調の余韻もあってか、よく喋った。声が軽い。俺は相槌を打ちながら付け合せのインスタントスープを飲んでいた。

 

 告白のことは、何も出てこなかった。

 

「ごちそうさまー。おやすみー」

 

「おやすみなさい」

 

 それぞれの部屋に引っ込んだ。引き戸一枚隔てた隣の部屋で、アキラさんが布団に入る気配がした。

 

 俺も布団に入って、天井を見ていた。暗い。窓の外で虫の声がしていた。

 

 ——好きになっちゃった。

 

 あの声が、暗闇の中で何度も再生される。天井を見ているのに、目が閉じない。

 

 からからっ、と音がした。

 

「ねーねー、もう寝ちゃった?」

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