3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~ 作:式守 芽衣
誰かの顔が、見えた。
大学の時の友人だった。名前が——出てこない。
でも顔は覚えている。気まずそうに、目をそらしていた。
「あのさ」
テーブルの上に、コーヒーがあった気がする。湯気は、もう出ていなかった。
「言いにくいんだけど」
「お前の彼女が——男と、2人で——朝、出てくるところを——」
声が、遠かった。所々しか、聞き取れなかった。
彼女の顔が浮かばない。声が聞こえない。最後に何を言われたか、思い出せない。
テーブルの上のコーヒーだけが、妙にはっきり見えていた。
がらんとした部屋だった。
自分の荷物だけが、壁際に積まれている。
床に、テープの跡が薄く残っている。
窓の向こうは暗い。冬の、底冷えのする夜だった。
星が見えていた。その間を、ほんの少しの雪が、静かに舞っていた。
二人で住むはずだった2DKの部屋。敷金も礼金も払った。解約するのも面倒で、違約金も惜しくて。
ここに、ひとりで住むことにした。
◇ ◇ ◇
目が開いた。
夢を見ていた。何の夢だったか、もう思い出せない。
天井が、薄暗い。
六月の朝の湿気が、肌に貼りついていた。Tシャツの背中が、少しだけ汗で重い。
隣の部屋から、かすかに、気配がした。
呼吸とも寝返りともつかない、小さな音。アキラさんが、まだ寝ている。
しばらく、天井を見ていた。
起き上がり、洗面所へ向かう。
蛇口をひねって水を出した。両手ですくって顔を洗う。冷たさが、目の奥に届いた。
歯ブラシが二本、コップに立っている。棚の隅にヘアゴムが三つ。
台所へ移動して、やかんをコンロの火にかける。湯が沸くまでの間に、冷蔵庫を開けた。
アキラさんの野菜ジュースが、二本並んでいた。隣に俺の炭酸水。その奥に、プリンが一つ。
冷蔵庫の扉を閉める。やかんが鳴った。インスタントコーヒーを入れたマグカップにお湯を注ぐ。
レトロゲームのロゴが入ったマグカップ。
アキラさんが『かわいいでしょ』と置いていったやつ。俺の無地のマグカップと並んでいる。
湯気が、ゆっくり立ち上がっている。
(……いつから、こんなに)
俺は、マグカップを両手で包んだまま、リビングを見回していた。
同じ部屋のはずだった。必要最低限の荷物で住み始めた、あのがらんとした部屋と。
マグカップの熱が、手のひらに沁みていた。
◇ ◇ ◇
「おはよー」
アキラさんが台所に現れた。オーバーサイズのTシャツにショートパンツ、髪はぼさぼさのまま。目が半分閉じている。
「おはようございます」
「んー、コーヒーいい匂い」
俺はアキラさんのマグカップにコーヒーを注いで、テーブルに置いた。
「あ、ありがとー」
アキラさんがテーブルに座って、両手でマグカップを包んだ。ふーふーと息を吹きかけている。
「トースト焼きましょうか」
「んー、おねがい」
パンを二枚、トースターに入れた。ジーッと音が鳴り始める。
アキラさんがコーヒーを一口飲んで、ふっと息を吐いた。
「ねー、昴さんってさ」
「はい」
「なんで敬語なの? いつも」
「……和太郎さん、年上ですし」
アキラさんが、むっとした顔になった。マグカップをテーブルに置いた。
「私は違うからね!? 和太郎と私は別でしょ!?」
「いや、でも……和太郎さんと紗雪で付き合い長かったんで。なかなか切り替わらないっていうか……」
「私、昴さんより年下だよ? 21歳78か月だからね!」
「……それ何歳ですか」
「30歳マイナス3か月の人に言われたくないんだけどー」
「……あと3か月で30ってことを突きつけないでください……」
「あっはっは! ほら、私のが下じゃん。敬語いらないじゃん」
「……とはいえ、なかなかすぐには難しいですよ」
「あ、今も敬語」
アキラさんが、ぷぅっと頬を膨らませた。それから、ケラケラ笑った。
「まあいいけどー。バーチャルとリアルでごっちゃになるのはわかるけどさ。でも変だからねー、ほんと」
チン、とトースターが鳴った。
「あ、焼けた」
俺は立ち上がって、トースターからパンを取り出した。皿に二枚並べる。バターナイフを添えて、テーブルに置いた。
「ありがとー」
アキラさんがバターを塗りながら言った。
「あ、そういえばさー。弟がね、ゲーム実況デビューに向けて動き出したんだって」
「へぇ、そうなんですか」
「うん。昨日LINE来て。『姉ちゃん、配信ってどうやんの?』って」
「……なんて答えたんですか」
「『知らんがな』って返した」
「知ってるじゃないですか」
「弟には流石に和太郎のこと教えてないしー。もちろん、その前も含めて」
アキラさんがトーストをかじった。バターの匂いが広がる。
窓の外が、白く、明るかった。
「洗い物やるねー」
アキラさんが立ち上がった。
「あ、俺やりま——」
「いいからいいから」
水の音が聞こえてきた。
俺はテーブルに座ったまま、コーヒーを飲んでいた。
——なんで敬語なの?
さっきの声が、まだ少しだけ、耳に残っていた。
マグカップの中身がぬるくなっていた。指先に、その温度が伝わっていた。
◇ ◇ ◇
六月の夜は、じっとしているだけで肌がべたつく。
晩ごはんの片づけが終わって、ソファに並んで座っていた。アキラさんはスマホ、俺はぼんやりテレビを見ている。
ニュース番組が、どこかの美術館の特別展の話題を映していた。人混みの映像が切り替わって、天気予報になる。画面の端に傘マークが並んでいた。
「明日、雨かー」
アキラさんが画面を見ずに言った。
「みたいですね」
「洗濯物もう取り込んどいたからね。ベランダ出たとき風がぬるかったから、これは降るなーって」
「……さすがです」
「えへへ」
開けっぱなしの窓から、ぬるい風が入ってくる。カーテンの裾が小さく揺れていた。テーブルの上に、俺の麦茶と、アキラさんのカルピスソーダが並んでいる。
何でもない、夜。
◇ ◇ ◇
「あ、ちょっとこれ見て」
アキラさんがスマホをこっちに傾けた。
画面にノワールのアイコンが表示されていた。銀髪に黒いベレー帽のアイコンの横に、ハートの絵文字が三つ並んでいる。
「何ですかこれ」
「ノワールが今日ポストしたやつ。読んで読んで」
画面をスクロールする。『今日、レオが私の好きなケーキをサプライズで買ってきてくれました。好きな味がわかるの怖い。でもうれしい。ありがと、レオ』。文末にスパイの絵文字。
「……スパイが素になってますね」
「ねー! 普段あんなにクールキャラなのに」
アキラさんがけらけら笑いながら、リプ欄をスクロールした。
「見てこれ、てぇてぇの嵐」
「すごい数ですね……」
「ファンアートももう出てるし。告知から二週間でこれって、すごくない?」
画面の中を、ハートとイラストと『おめでとう』が埋め尽くしていた。
「コラボの数字も見たんだけどさ、告知前と変わんないんだよね。むしろちょっと増えてる」
「コラボ配信のときもコメント多かったですもんね」
「うんうん。V同士で付き合ってもさ、活動に支障出てないじゃん、全然」
アキラさんの指が、リプ欄をゆっくりスクロールしている。
「なんかさー、ファンの反応見てるとさ、ほんとに祝福してる感じなんだよね。茶化してるんじゃなくて」
「……そうですね」
「レオのほうもさ、照れ隠しみたいなポストしてて。『ノワールが自分のことを書いてるのを見るのは新鮮な気持ちです』って。かたいなー!」
「レオさんにしては堅いですね」
「あ、そこ同意するんだ」
「……いや、まあ」
アキラさんが、ぷっと吹き出した。
「あ、そういえばさ。さっきテレビでやってた展覧会の特集見た?」
「あー、なんかやってましたね」
「ああいうのさ」
アキラさんがスマホを膝に置いて、天井を見た。
「いつかさ、レトロゲーの展示とかやってみたいんだよね」
「展示?」
「うん。うちの会社、展覧会のグッズとかショップの運営やってるじゃん? でもそっちだけじゃなくて、企画のほうで。どういうゲームを並べて、どう見せるか、みたいの」
「
「あー、それいいね! 実機で遊べるコーナーとかさ、子どもにも触らせたいし。じいちゃんの家で初めてファミコン触ったとき、すっごい感動したからさ。あの感じをさ、知らない世代にも味わってほしいんだよね」
アキラさんの目が、少し輝いていた。
「いいですね、それ」
「でしょー? まあ、公私混同だし、今はまだ全然夢の話なんだけどねー」
アキラさんが笑って、またスマホを持ち上げた。
「あ、見てこのファンアート」
画面に、ノワールとレオがゲームのコントローラーを取り合っているイラストが表示されていた。
「うまいなー。こういうの、ほんとにファンが楽しんでるって感じでいいよね」
「告知前の配信の空気感がそのまま残ってますよね。変に構えてないっていうか」
「そうそう。あの二人、コラボのときと全然変わんないもんね」
アキラさんがスマホを俺のほうに傾けた。画面の光が、アキラさんの横顔を薄く照らしている。
肩のあたりに、アキラさんの髪が触れていた。
「いいよね、ああいうの」
「……いいですね」
(……いつまで、続くんだろう)
麦茶のグラスに、手を伸ばした。
アキラさんがふふっと笑った。俺もつられてしまい、少しだけ笑った。
窓の外で、虫の声がしていた。遠くで車が通る音。それだけが、リビングに流れていた。
アキラさんが、スマホをテーブルに伏せた。
画面の光が消えた。
少しの間があった。
「あ、ところでさー」
「はい」
「
「……え、長文スクショですか」
「ううん、ひとこと」
「好きになっちゃった」
アキラさんは、天井を見ていた。
俺の指が、止まった。
◇ ◇ ◇
アキラさんは、天井を見ていた。
虫の声だけが、部屋に残っていた。
「……え」
「あ、もちろんライクじゃなくてラブのほうね。
アキラさんが、なんでもないことみたいに言った。
俺の指が、まだ止まったままだった。理解が追いつかない。
「……」
「あはは、変な空気にしちゃったかな」
アキラさんが立ち上がった。テーブルの上のカルピスソーダを持って、台所に向かう。
「おやすみー」
足音が遠ざかって、引き戸が閉まった。
俺は、ソファに座ったまま動けなかった。テーブルの上に、麦茶のグラスが一つ残っていた。氷が、かすかに鳴った。
◇ ◇ ◇
目が覚めたのか覚めていなかったのか、よくわからなかった。
天井が白い。六月の朝の光が、カーテンの隙間から細く差している。
首の後ろが重い。枕が合わなかったみたいに、右の肩だけ凝っていた。
台所へ向かう。やかんをコンロにかけた。冷蔵庫を開ける。アキラさんの野菜ジュースが二本、炭酸水の隣に並んでいる。
インスタントコーヒーにお湯を注いだ。湯気がゆっくり立ち上がるのを、ぼんやり見ていた。
「おはよー」
アキラさんがリビングに出てきた。Tシャツにジャージのハーフパンツ、髪をざっくりひとつに束ねている。目がまだ少し眠そうだった。
「おはようございます」
「ん、コーヒーの匂いー。いいねぇ」
アキラさんのマグカップにもコーヒーを注いだ。レトロゲームのロゴ入りマグカップ。テーブルに二つ並べる。
「ありがとー」
いつも通りだった。声のトーンも、座り方も、マグカップの持ち方も。少しだけ機嫌がいいような気もする。鼻歌が、かすかに混じっていた。
パンを二枚、トースターに入れた。ジーッと音が鳴り始める。
「あのさー、冷蔵庫の卵、今日で期限だから使っちゃってね」
「……わかりました」
「あと洗濯物、昴さんの分も畳んどいたから」
「ありがとうございます」
昨夜のことにはお互いに触れない。触れられない。何事もなかったみたいに、朝が流れていく。
チン、とトースターが鳴った。パンを二枚出して、皿に並べる。
俺の口が、動きかけた。
「あの、昨日の——」
「あ、やば。今日シフト早いんだった。いってきまーす!」
アキラさんがトーストを一枚持って玄関に向かった。ばたばたとスニーカーを履く音。
「いってらっしゃい」
ドアが閉まった。
テーブルの上に、トーストが一枚残っていた。
◇ ◇ ◇
夜。作業部屋で配信を始めた。
いつも通りのはずだった。
コメントが流れているのに、拾い損ねた。『紗雪ちゃんさっきの見てー!』で気がついて、慌ててスクロールを戻す。
「あっ、ごめんなさい……見落としちゃいました」
リアクションが一拍遅れる。リスナーの名前を読み上げるとき、声が少し上ずった。
自分でわかっていた。壁一枚向こうに、さっき「ただいまー」と帰ってきた人がいる。それだけで、いつもの声が出ない。
配信を終えた。ヘッドセットを外す。耳の裏が汗ばんでいた。
隣の部屋から、笑い声が聞こえていた。
スマホで和太郎さんのチャンネルを開いた。コメント欄が流れていく。
『和太郎今日キレてんな』『ノーミスいけるんじゃね』『声の張りが違う』
画面の中で、和太郎さんがサクサク進めていた。判断が早い。テンポよくリスナーの名前を拾って、笑い声を混ぜている。
壁越しのアキラさんの生声と、スマホから流れる和太郎さんの声が、重なっていた。
やがて配信が終わった。「おつかれー! また来てくれよなー!」。壁の向こうから締めの挨拶が聞こえて、静かになった。
スマホの画面に、和太郎さんのアーカイブ一覧が残っていた。サムネイルが並んでいる。渋い顔で「おう、今日もやっていくぞ」と言っている、あの表情。
(……やっぱり、好きだな、この人の配信)
困ったとき、和太郎さんの配信を見る。いつからかそうなっていた。あの声を聞いていると、なんとなく落ち着く。
——誰かに相談したい。
この人に話を聞いてもらえたら、少しは楽になるだろうか。「和太郎さん、実は——」
俺の指が、サムネイルの上で止まっていた。
待て待て、本人じゃないか。
さっき、隣の部屋で配信してた人だ。朝、トーストを持って出ていった人だ。昨日の夜、天井を見ながら——
指が、サムネイルから離れた。
でも、誰かには話したい。
ちとせさん?
デスクの端のVRヘッドセットに手を伸ばしかけて、止まった。
「同居人に告白されました」? 同居のことも、VTuber同士のことも、全部秘密だ。事情を話そうとした瞬間に、全部がほどける。
ちとせの「どうしたのー?」と言う顔が頭に浮かんだ。何ひとつ、答えられない。
ヘッドセットを元に戻した。
誰にも、言えない。
ぬるくなったコーヒーのマグカップに手を伸ばして、一口だけ飲んだ。
◇ ◇ ◇
配信終わりの夜食に、冷蔵庫に残っていた卵でチャーハンを作った。
「今日さー、会社で面白いことがあってさ」
アキラさんがチャーハンをかき込みながら喋っている。
「キャプションのデータ入稿したんだけどさ、文字が全部ゴシック体になってて。担当者がめっちゃ焦ってた」
「うわ……それは焦りますね」
「でしょー? 明朝体って指定してたのにさ。誰がどこで変えたんだろうねー。でもギリギリ直せたからオッケー」
アキラさんは配信好調の余韻もあってか、よく喋った。声が軽い。俺は相槌を打ちながら付け合せのインスタントスープを飲んでいた。
告白のことは、何も出てこなかった。
「ごちそうさまー。おやすみー」
「おやすみなさい」
それぞれの部屋に引っ込んだ。引き戸一枚隔てた隣の部屋で、アキラさんが布団に入る気配がした。
俺も布団に入って、天井を見ていた。暗い。窓の外で虫の声がしていた。
——好きになっちゃった。
あの声が、暗闇の中で何度も再生される。天井を見ているのに、目が閉じない。
からからっ、と音がした。
「ねーねー、もう寝ちゃった?」