3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~   作:式守 芽衣

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第16話 直球でいいんじゃないかな。(後半アキラ視点)

 ソファの上で、アキラさんが固まっていた。

 

 スマホを両手で持ったまま、DMの末尾を見つめている。

 

 会社名は、さっき見た。その下の担当者名を、今、読んでいる。

 

「……これ、うちの上の人だ」

 

「……知ってる人?」

 

「知ってるも何も、直属の上司。この人に和太郎(わたろう)バレしたらもう——」

 

 テーブルの上のコーヒーが、すっかり冷めていた。

 

「……PCでちゃんと読む」

 

 アキラさんがソファから立ち上がって、配信部屋に向かった。

 

「あ——和太郎のDM見せるのは、(すばる)さんいつも手伝ってくれてるし別にいいんだけどさ。うちの会社がどう絡んでるかとか、担当が誰とかは——」

 

「了解。そこはわかってる」

 

「うん。ごめんね、そこだけほんとに」

 

 ゲーミングノートを開いて、パジャマのまま椅子に座った。

 

 SNSを開く手つきが速い。

 

 DMの本文が画面いっぱいに広がった。

 

「ねぇ、ちょっと来て。見てこれ」

 

 画面を指さしている。覗き込んだ。肩が近い。

 

 ゲーム文化展示会。会場は秋葉原UPX、個人VTuber数十名参加。

 

 ジャンルはRPG、FPS、音ゲー、インディー、レトロゲーム。

 

 各ジャンルの代表は企画側からの声掛けで、一般枠は公募。

 

「……これ、社内メールで回覧来てたやつだ。ここから会社の話になるけど——ほんとに内緒ね」

 

「もちろん。回覧来てたってことは、イベントの事自体は知ってた?」

 

「イベント自体はね。大元はイベント会社が仕切ってて、うちには企画協力と実務の一部が降りてきてるんだよ。プレスも前に出てた気がするけど、ちゃんとチェックしてなかった」

 

「……VTuber募集は?」

 

「聞いてない。上のほうだけで動いてたんだと思う」

 

 アキラさんが小さくごくりと喉を鳴らした。

 

「……やば、これ普通に機密案件じゃん」と呟いて、でもすぐ画面に目を戻した。

 

 背筋が少しだけ伸びた。機密案件。

 

 自分がここにいていい話なのか、一瞬わからなくなる。

 

「和太郎さん宛てってことは……レトロゲー枠代表の声掛けですよね」

 

「……そういうことだね」

 

 アキラさんが画面に顔を寄せた。指で文字を追うたびに、腕がぶつかる。

 

 モニターの光が二人の顔を青白く照らしている。

 

 朝なのに、カーテンを閉めたままだった。

 

「ねぇこれ見て。『昭 和太郎様のレトロゲーへの造詣と発信力に注目しております』って」

 

「……数字じゃなくて、中身で見てくれたんだなぁ」

 

「だよね。登録者数で言ったらうちなんか全然なのにさ——って、ちょっと待って。これ配信ちゃんと見たうえで声掛けてきてるよね」

 

「……造詣とか発信力とか書いてるし、そうだと思う」

 

「……上司が、和太郎の配信見てた?」

 

 耳が赤くなっていた。

 

「がっはっは、とか言ってるの全部見られてたってこと……? うわぁ……」

 

 しばらく両手で頬を押さえていたが、ふうっと息を吐いて画面に向き直った。

 

「……よし。それはそれとして」

 

 アキラさんの指が画面をスクロールした。参加VTuberの枠組み。

 

 大画面ステージ枠は有名どころの生配信と来場者参加大会。

 

 中小規模枠はブース展示。

 

「大画面のほうはさすがに無理だけど、ブースならいけるよね。アーカイブ映像流して、推しゲーのPOP並べて……」

 

「……和太郎さんのコーナーが、リアルの会場にできるってことだ」

 

「そう! そういうこと!」

 

 声が、少しずつ変わっていた。

 

「秋葉原UPX、あそこでかいんだよ。弟と昔イベント行ったことあってさ——いやそれはいいんだけど」

 

 画面に目を戻した。展示ブースの概要。アーカイブ映像の上映。POP展示。物販もありらしい。小規模でも、自分のブースが持てる。

 

「和太郎で、レトロゲーの展示……」

 

 いつかレトロゲーの展示やってみたい——あの夜の声が、耳の奥を掠めた。

 

「やばい。昴さん、これ——」

 

 腕を掴まれた。

 

 振り向くと、目が潤んでいた。笑っている。頬が赤い。

 

「ほんとに来た。ほんとに来たんだ」

 

 もう片方の手で画面を指さしている。掴まれた腕に力がこもっている。

 

「でもさ——」

 

 指が止まった。

 

 DMの末尾。会社名。担当者名。

 

「……参加したら、会社バレするじゃん」

 

 掴まれた腕の力が変わった。さっきまでの興奮じゃない。指が食い込んでいる。

 

「うちの会社の共催イベントに、自分がVTuberとして出るんだよ?」

 

「……落ち着いて。うまくやれば行けると思う」

 

「……え?」

 

「上役だけに話して、他のスタッフには普通の参加者として扱ってもらえばいいんじゃ?」

 

「……でも、当日は? 私スタッフ側で入るかもしれないのに、ブースにも和太郎がいるって——」

 

「スタッフとして現場に入るのと、和太郎のブースが出てるのは、別の話。知ってるのは上役だけ。他のスタッフには和太郎はただの参加者に見える」

 

「……見える、かなぁ。まあ権利関係は法務通せばいいし、報酬も会社経由にすれば筋は通る、か……」

 

 アキラさんの呼吸が、少しだけ浅くなっている。でも指の力は、さっきより弱い。考えている顔だった。

 

「……声でバレない?」

 

「ブースに本人はいないでしょ。映像とPOPだけだし」

 

「あ、そうか。そうだよね……」

 

 アキラさんの指が、まだ腕にある。

 

 本人は気づいていない。

 

(……掴まれてる)

 

 胸のあたりが変な感じだった。

 

 整理しようとしている頭の裏で、何かが鳴っている。

 

「……昴さん、冷静だね」

 

「……まあ」

 

 画面を見た。見たふりをした。

 

 しばらく、二人でDMの条件を確認した。報酬。著作権。スケジュール。

 

「……八月中旬? 今から六週間しかないじゃん」

 

「……短いなあ」

 

「うぇー……。あ、でもさ、ボイチェンないから声は違うけど、笑い方とか喋りの間合いって一緒じゃん。バレる時はバレるよね」

 

「……まあ、配信ちゃんと見てる人ならわかるかも」

 

「あはは、想像したら面白くなってきた。上司の前でうっかり和太郎の間で笑っちゃうの……いや無理無理無理」

 

 布団が擦れた。笑いながらゴロゴロと寝返りを繰り返している。

 

「……でもさ、嬉しいんだよね。和太郎でレトロゲーの展示って、ほんとに来たんだなって」

 

 声の温度が変わった。さっきまで笑っていたのに、ちょっと弾んで、ちょっと震えている。

 

 しばらく黙っていた。エアコンの音だけが続いている。

 

 隣の布団で、指がまた掛け布団の端をいじっている。

 

 かさ、かさ、と小さな音が暗闇に混じる。

 

「……昴さん以外に和太郎のこと話すの、明日が初めてだ」

 

 小さい声だった。

 

 胸の奥が、ちくりとした。

 

「……ちょっと、こわいかも」

 

「……」

 

 返せなかった。「大丈夫」でも「頑張って」でもない言葉が要る気がして、見つからなかった。

 

 しばらくして、呼吸が静かになった。指のかさかさも止まった。先に眠ったらしい。

 

 天井の輪郭が、うっすら見えている。

 

 腕が、まだ温かった。心臓が、まだおかしい。

 

 目を閉じても消えない。泣きそうに笑った顔。髪をかき上げた横顔。暗闘の中の、小さな声。

 

 全部違う顔なのに、全部同じところが鳴る。

 

 顔が、熱かった。

 

 その温度が冷めないまま、眠りに落ちた。

 

 ◇ ◇ ◇ アキラ視点 ◇ ◇ ◇

 

 私の中には、おじさんが住んでいる。

 

 住んでるけど、私がおじさんなわけじゃない。

 

 昨日の夜、私は布団の中で「ちょっと、こわいかも」と言った。

 

 私の中に住んでるおじさん――和太郎なら、笑い飛ばせたかもなのに。

 

 隣の布団から返事はなかった。起きてたのか寝てたのか、わからない。でもあの沈黙は、イヤな沈黙じゃなかった。

 

 朝、いつもよりずっと早く目が覚めた。時計を見ると、五時半。まだ全然早い。

 

 隣の布団で昴さんがまだ眠っている。寝顔は見慣れたはずなのに、今朝はなんだかちゃんと見てしまう。

 

 イタズラしちゃおうか。

 

 ——やめやめ。今日はそれどころじゃない。

 

 二度寝できる気がしない。このまま出勤しちゃお。

 

 起き上がって、静かに部屋を出た。顔を洗ってちゃちゃっとメイク、髪を整えて、カーキのジャケットを羽織った。

 

 玄関で靴を履きながら、LINEを開いた。

 

『今日早めに出るね。夜話す!』

 

 送信。既読はまだつかない。そりゃそうだ、まだ6時過ぎだもん。

 

◇ ◇ ◇

 

 電車の中で、手が冷たかった。

 

 七月の朝なのに、指先が冷えてる。車窓の外を住宅街が流れていく。

 

 流れていく景色に、脳内で髭のおじさんを走らせる。屋根から屋根へ、テンポよくジャンプ。

 

 それにしても冷房効きすぎ。カバンを身体の前に抱えて、中に手を入れた。

 

 指先がピンバッジに触れる。ドット絵のキャラクターピンバッジ。カバンの内側に忍ばせてる、誰にも見えないお守り。

 

 はあー。とつい、ため息が漏れる。

 

 ホームに降りた。改札を抜けて、会社までの道。

 

 いつもなら街の匂いがするのに、今日は何も入ってこない。

 

 パン屋の前を通っても、バターの焦げた匂いがしない。アスファルトの熱気も。鼻が詰まってるわけじゃない。

 

 ——うまくやれば行ける。

 

 昴さんの声が耳の奥に残っている。昨日、腕を掴んだまま聞いていた声。

 

 いつもそう。あの人が話し始めると、なんか大丈夫な気がしてくるんだよね。

 

 私の代わりに落ち着いてくれてるっていうか。ずるいよね、あれ。

 

 つい、昴さんの腕を掴んでたの、途中まで気づかなかった。気づいた後も離さなかったけど。

 

 ……離す理由がなかったっていうか。うん。そういうことにしておく。

 

 意外に筋肉質だった。

 

 思い出して、顔だけ熱くなる。あー……そういうとこだぞ。

 

 交差点で信号が変わった。足が止まる。

 

 自分の両腕を一瞬、ギュッと掴んだ。

 

 昨日の夜、布団の中で「無理無理無理」って笑ったのも私だ。今、その無理を実行しに行っている。笑えてきた。

 

 信号が青になった。歩き出す。足は動く。大丈夫。

 

「――よしっ」

 

 会社のビルが見えてきたけど、重要なことに今更気付いた。

 

「……まだ開いてないじゃん」

 

 ——早く着きすぎた。しょうがないので駅前のカフェで時間を潰すことにした。

 

 アイスコーヒーの氷が全部溶けるまで、スマホを握ったり離したりしていた。

 

 考えれば考えるほど怖くなるタイプだって、知ってるのに。だから早く出たんじゃんか。

 

◇ ◇ ◇

 

 始業時間。エレベーターで三階。フロアに出ると、いつもの蛍光灯の白い光。

 

 同僚が二人、共有スペースで何か話している。「おはようございます」。声が普通に出た。よしっ。

 

 自分の席に荷物を置いて、一回深呼吸。

 

 上司の田所さんの席を見る。いる。缶コーヒーの微糖を開けたところ。

 

「田所さん、少しお時間いいですか」

 

「いいよー。どうした?」

 

 小さい会議室に移動した。ドアを閉める。田所さんが缶を持ったまま椅子に座った。

 

 田所(たどころ) 祥子(しょうこ)。30代半ば、既婚。直属の上司。

 

 ショートカットに、いつもの柔らかい笑い方。話しやすい人なんだよね、田所さんは。

 

 でも今日はそこに甘えちゃだめだ。

 

 思い切って、切り出す。

 

「8月のゲーム展示会の件で、ご相談がありまして」

 

「ああ、あれね。そろそろチーム組むから、水野さんにも入ってもらおうと思ってたんだよ。忙しくなるけど、楽しみにしてて」

 

「その件で——えっと、SNSのDMで参加者の勧誘かけてますよね?」

 

 田所さんの手が止まった。

 

「……なんで知ってるの? まだ下ろしてないはずだけど」

 

「あの——私のSNSに来たんです」

 

「……水野さんのSNSに? 展示会の勧誘が?」

 

「はい」

 

 スマホを出した。和太郎のSNSの管理画面。DM受信トレイ。

 

 田所さんが画面を覗き込んだ。しばらく黙って見ている。画面と私の顔を、二回見比べた。

 

「…………えっと。つまり水野さん、VTuber関係者?」

 

「……はい」

 

「……まじで?」

 

「まじです」

 

 田所さんが缶コーヒーを一口飲んだ。情報を整理している顔。

 

「……もしかしてこのVTuberのマネージャーポジション? 実際に演じてるのは別の人? あ、彼氏とか? 最近引っ越したのってそれ関係? ——あ、ごめん、上司といえども踏み込みすぎか」

 

 耳が熱くなった。

 

(彼氏じゃ、ない)

 

 ——ないけど。ないけど、まだ。

 

「え、あ、そうじゃなくて」

 

「そっかー。最近水野さん活き活きしてたもんねぇ」

 

 にこにこしてる。完全に間違ってる。否定しなきゃ。なのに、うまく出てこない。

 

「……あの、彼氏じゃなくて。演じてるのも——私……でして」

 

「……え?」

 

(あきら) 和太郎(わたろう)って。私なんです」

 

 田所さんの動きが止まった。缶コーヒーを持ち上げかけた手が、中途半端な位置で停止している。

 

「……水野さんが、あの——おじさんの? あの『がっはっは!』の?」

 

「……はい」

 

「……いや。いや、ちょっと待って。だって声が全然——」

 

 信じてもらえてない。そりゃそうだよね。私だって逆なら信じない。

 

 言葉じゃ伝わんない。こういう時は——見せた方が早い。

 

 ふうっと息を吐いた。肩の力を変える。呼吸を深くする。腹の底から。

 

「——がっはっは! いやぁ、お世話になっておりますッ。昭 和太郎ですッ」

 

 会議室の窓がびりっと震えた。

 

 ボイチェンはないから、声の高さは全然違う。

 

 でもこれが私の和太郎だ。間合いも、笑い方も、呼吸も。

 

 田所さんの目が見開かれた。缶コーヒーがコトンとデスクに戻った。

 

 五秒。

 

「……今の、笑い方。配信で聞いたのと同じじゃん」

 

「……はい」

 

「…………ほんとに水野さんなんだ」

 

 田所さんが両手で自分の頬を押さえた。信じられない、でも信じるしかない、みたいな顔。

 

「ていうか——あっ。だからレトロゲーの切り口やたら詳しかったのか! いやー!繋がった!」

 

 田所さんが笑い出した。つられて、笑った。手がまだ少し震えている。でも肺が軽い。

 

 言えた。

 

「あの、お声がけいただけたこと自体はすごく嬉しくて。和太郎として、ぜひ参加したいなと思ってます」

 

「うんうん」

 

「仕事は疎かにしません。そこは絶対」

 

「わかってるよ。水野さんの仕事ぶりは見てるから」

 

「……ありがとうございます。それで、えっと——出演報酬とかのルートって、ややこしくないですか? 中の人がウチの所属なのに、外部報酬が発生するっていうか」

 

「あー、なるほどね。そこは私が調整するよ。会社経由の手当って形にすれば筋は通ると思う」

 

「助かります。あと——できるだけ他の人には内緒でお願いします。ほんとまじで、ここだけは」

 

 頭を下げて、手を合わせて拝む格好になった。

 

「もちろん。私と水野さんだけの話。安心して」

 

 肩が、すとんと落ちた。知らないうちに止めてた息が出た。

 

「頑張ってね、水野さん」

 

「……はい!」

 

「あ、でもさ、さっきの声ほんとにすごいね。あれにボイスチェンジャー使うんだ?」

 

「はい……ただ技術の半分は天然なんで、説明しろって言われても……」

 

「いいよいいよ、秘密のままで。いやぁ——うちの部署にVTuberがいたとは」

 

 田所さんが楽しそうに首を振っている。

 

「……あと、田所さん。入社したばかりの頃——ご迷惑おかけしたの、覚えてますか」

 

 田所さんの顔が少しだけ変わった。覚えてるよね。あの時期のこと。

 

 れとろの活動にのめり込み過ぎて失敗して、しばらく抜け殻みたいに仕事してた私を。

 

 れとろのことは、流石に言えない。喉の奥が、きゅっと閉じる。ここだけは。

 

「あの時みたいにはなりません。もう同じことはしないって、決めてるんで」

 

「……うん。水野さんがそう言うなら、信じるよ。あの頃と今じゃ全然違うもん」

 

 声が、あったかかった。

 

 立ち上がりかけた時、ふいにこっちを見た。

 

「……よろしくね、昭 和太郎さん」

 

 にっと笑っている。

 

「……はい」

 

 なんか、泣きそうになった。泣かなかったけど。

 

◇ ◇ ◇

 

 席に戻った。何食わぬ顔でPCを開く。

 

 メールが三件来ている。展示会とは関係ない、通常業務のやつ。

 

 返信を打ち始めた。指が震えて、バックスペースを何度も叩いた。

 

「水野さーん、お昼どうするー?」

 

 同僚の声。振り向いて、笑った。

 

「あ、今日はお弁当持ってきたから大丈夫」

 

 嘘。持ってきてない。でもこの顔のまま人とご飯食べるのは無理だった。

 

 一人で屋上のベンチに座って、コンビニのおにぎりを食べた。

 

 匂いが少し戻ってきてる。海苔の匂い。うっすら潮風の匂い。

 

 午後は普通に仕事した。したつもり。企画書の修正。発注先への確認メール。

 

 什器レイアウトの図面チェック。手は動く。頭も動く。

 

 ただ胸の奥にずっと「言えた」が居座ってて、そいつが時々ぐっと膨らむ。

 

 田所さんと廊下ですれ違った時、ぱちっとウインクされた。誰にも見えない角度で。

 

 咄嗟にサムズアップで返した。

 

 思わず吹き出しそうになった。

 

◇ ◇ ◇

 

 退勤。

 

 荷物をまとめて席を立った。田所さんの席の前を通る時、小さく会釈した。

 

 田所さんはにこっと笑って、何も言わなかった。

 

 駅までの道を歩いていて、気づいた。

 

 パン屋の匂いがする。夕方の、総菜パンの焦げたチーズ。

 

 朝は何も感じなかったのに、今ははっきり匂う。

 

 鼻が、戻ってる。

 

 信号待ちで、空を見上げた。夕焼けが建物の隙間から覗いている。

 

 ふっと笑った。言えた。やった。無理じゃなかった。

 

 電車に乗った。窓の外が赤い。座席に座って、息を吐いた。

 

 昴さんのことを考えていた。

 

 声じゃなくて——なんだろう。あの部屋の温度。コーヒーが落ちた時の匂い。

 

 キーボードを打つ音が聞こえる距離。隣にいる時の、何も言わなくても大丈夫な空気。

 

 朝、LINEを送って出てきた。あの人はきっとあれを見て、何も聞かずに待ってるんだろうな。そういう人なんだよね。

 

 早く帰りたいな、と思った。電車の中だから足は速くできない。もどかしい。

 

 朝にビルの合間を駆け抜けた脳内髭おじさんは、宇宙を駆ける戦闘機になっていた。ビルの間を縫って飛んでる。

 

 スピードアップアイテムがいっぱい欲しい。

 

◇ ◇ ◇

 

 アパートの前に立った。

 

 ファミコンカートリッジのキーホルダーを出し、鍵を開ける。

 

 ドアの隙間から、明かりが漏れている。中に、いる。

 

 鼻が、すこしだけ動いた。

 

 あの匂い。

 

 ドアノブに手をかけた。

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