3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~ 作:式守 芽衣
隣の布団が空だった。
枕がずれている。掛け布団が薄く畳まれている。出かけたらしい。
スマホを見た。LINEが一件。
『今日早めに出るね。夜話す!』
送信時刻、六時過ぎ。今は八時。二時間前にはもう出ていたことになる。
——夜話す。
昨日の夜、布団の中で「こわいかも」と言ったアキラさんの声が、まだ残っている。
……大丈夫かな。
大丈夫だろう。あの人はやると決めたらやる人だ。
リビングに出た。テーブルの上には何もない。台所も片付いている。
コーヒーを一人で淹れた。いつもは二つ並ぶマグカップが一つだけ。
仕事用のPCを開いた。案件が二本溜まっている。手を動かした。動いた。頭も動く。
ただ、時々スマホに目が行く。既読はつけた。返信は打たなかった。
何を返せばいいかわからなかった。「頑張って」は違う。「待ってる」は重い。何も返さないのが、たぶん正解。
◇ ◇ ◇
玄関のドアが開いたのは、夜の七時過ぎだった。
「ただいまー! 言えた! めっちゃ驚かれたよ!」
声が廊下に響いた。テンションが高い。靴を脱ぐ音。荷物を置く音。ぱたぱたとスリッパが近づいてくる。
「
「……うまくいったんだ」
「うまくいったっていうか、がっはっはやったら窓が震えてさ」
「……窓?」
「会議室の窓。びりって」
「……また、声が成長してる?」
アキラさんがソファにどさっと座った。カーキのジャケットの襟が少し乱れている。
髪がいつもより乱れている。走って帰ってきたのかもしれない。
「でね、上司の田所さんがさ、レトロゲーの切り口が詳しいと思ってたって言ってくれて——」
「……へぇ」
「あと田所さんが報酬ルートも調整してくれるって。ほんとありがたい」
「……面倒見いいんだな、その人」
「ね! 田所さんまじ頼りになるんだよ。あとね、田所さんが——」
……田所さん田所さん田所さん。肩が、少し強張った。
別にいい。上司なんだから当然だ。面倒見てもらえるのはいいことだ。
いいことなのに、なんか、引っかかる。
そこで、ふいにこっちを見た。
「……何?」
「ん? 何が?」
「いや、今見てたでしょ」
「見てない見てない。えっと、田所さんがね——」
話を続けた。でも三分後にまたこっちを見ていた。目が合うとそらす。
……何だろう。今日のアキラさん、なんかおかしい。
「——で、他のスタッフには内緒にしてくれるって。当日の動き方も田所さんが一緒に考えてくれるみたい」
「……よかった。全部うまく収まったんだ」
よかった。本当にそう思う。うまくいって、よかった。
——「昴さん以外に
あの夜の声が、耳の奥を掠めた。初めては、もう終わった。
胸のあたりが少しだけ重い。なんでだろう。いいことのはずなのに。
「うん。昴さんのおかげ」
——不意打ちだった。上司の話をずっと聞いていたのに、急にこっちを向いた。
「昨日整理してくれなかったら、たぶんまだ悩んでたし」
「……俺は何もしてないよ」
「したよ」
アキラさんが、まっすぐ見てきた。今度はそらさなかった。
「……ありがと」
顔が、熱くなった。
(……やめてくれ)
「あ、そうだ。展示のアーカイブ、先に選んじゃわない?」
話が切り替わった。ありがたい。
「POPとか物販はまだ先だけどさ、映像展示はDMにも書いてあったし、どの配信使うかは先に決められるじゃん」
「……確かに、それは会社の指示を待たなくてもできるな」
「でしょ? それに
「……もちろん」
◇ ◇ ◇
配信部屋のゲーミングノートで、和太郎チャンネルのアーカイブ一覧を開いた。
ずらっと並ぶサムネイル。レトロゲーナイトのシリーズが時系列で並んでいる。
初期のものはサムネがシンプルで、最近のものほど凝っている。
「どのあたりから見る?」
「古い方から流しながら、展示映えしそうなの拾っていこうよ」
アキラさんが椅子に座って、俺は横から覗き込んだ。肩が近い。
最初の数本を早送りで流していく。初期の配信は画質が粗くて、和太郎の声も少しぎこちない。
「うわ、初期のやつ声カッチカチだね」
「……最初はこんな感じだったんだな」
「いやー、恥ずかしい。でもこの頃の方がレトロゲームの解説は丁寧かも」
しばらく流していると、コラボ回が増えてくる。紗雪が画面に映り始める。
「あ、ここから紗雪ちゃん登場だ」
画面の中で、和太郎と紗雪が並んでいる。笑い合っている。過去の自分たちを、外から見ている。
「……この回、映像きれいだね。使えるかも」
「『紗雪ちゃんが映ってる回、使っていい?』って一応聞くけど」
「もちろん」
アキラさんがメモを取りながら、選定リストを作り始めた。手際がいい。仕事でやってる人の手つきだった。
上司に打ち明けて、会社のバックアップも得て。和太郎のことを知っているのは、もう俺だけじゃない。
……でも、れとろのことは。あの夜のアキラさんのことは——まだ、俺しか知らない。
(……何考えてんだ)
自分の考えに、少し引いた。なんでそんなことを確認しようとするのか、わからない。
わからないのに、そこだけが妙に鮮明だった。
——アーカイブ選定は、前回の配信にたどり着いた。
「あっ、格ゲー回!」
対戦格闘ゲームスペシャル。ブラック紗雪が爆誕した回。
再生を押した。
画面の中で、紗雪がブチ切れていた。
『はぁ!? 今の当たってないでしょ!!!』
『いや当たってたね。リプレイ見るかぁあ? 見ようぜぇ紗雪ちゃん——』
コメント欄が流れてくる。「ブラック紗雪降臨」「ボイチェン限界で草」。
「ぶふっ」
アキラさんが吹き出した。
「やばい、私こんな煽り声出してたの?」
「……出してた」
「昴さんも相当だよ。ここ見て、『バ美肉隠すつもりすらなくなった』って」
「……やめてくれ」
「あはははは! やばいやばいやばい」
アキラさんが笑いながら横に倒れてきた。肩にぶつかる。そのまま体重を預けてくる。
「ちょ、見て、このコメント。『痴話喧嘩にしか見えない』って」
「……」
「がっはっは! まあそうなんだけどさー!」
笑いが止まらない。俺も笑った。画面の中の自分たちがまだ怒鳴り合っている。コメント欄が大喜びしている。
十五分くらい、作業にならなかった。
アキラさんが肩にもたれたまま、ようやく息をついた。
「……あーおかし。これ展示で流したら来場者引くかな」
「……引くと思う」
「だよねー。でも面白いのは間違いないんだよねぇ」
まだ肩にいる。離れない。
……離れてくれ、とは言えなかった。
アキラさんが息を整えた。目尻に涙が残っている。
気を取り直して、また古い方のアーカイブに戻った。
もっと古い配信に戻っていく。紗雪がまだいない頃。
和太郎が一人でレトロゲームを遊んでいる回。
——ふいに、指が止まった。
画面の中で、和太郎が高難易度のレトロゲームに挑んでいる。
何度もゲームオーバーになりながら、笑って再挑戦している。
『まあ気楽にいこうぜ、何度やられたっていい。人生なんとかなるもんだ』
仕事で潰れかけていた深夜に、たまたま開いた配信。
ゲームの話をしているだけだった。それだけなのに、胸の奥がじんとした。
あの夜の自分が、画面の向こうにいる。
——そしてその画面のさらに向こうにいた人が、今、隣に座っている。
指が動かなかった。
「……昴さん?」
「……ん?」
「止まってるけど。この回どうする?」
「……画質がちょっと」
「あー、確かに初期だもんね」
アキラさんがスクロールした。次の配信に移った。
指の先に、まだ残っている。
◇ ◇ ◇
夜。布団が二枚並んでいる。いつもの配置。
電気を消した。
「今日、めっちゃ疲れたー。でもいい疲れ」
「……お疲れさま」
「昴さんも遅くまでありがと。付き合ってくれて」
「……いつものことでしょ」
暗闘の中で、笑う気配がした。
しばらく、黙っていた。
「……ねぇ」
「うん」
「明日も続きやろうね」
「……うん」
アキラさんの呼吸が、すぐに静かになった。今日は疲れていたらしい。すとんと眠った。
天井を見ていた。
配信越しに聴いていた時は、何も起きなかった。
隣にいるようになって、同じ笑い方を何度も見て、それでも何も。
今日、やっと指が止まった。
隣から、寝息が聞こえている。アキラさんはすっきりした顔で眠っている。
上司に言えて、会社のバックアップも得て、展示会に向けて動き始めた。全部、自分の力で。
……俺は、何をしてるんだろう。
暗闇に目が慣れてきた。アキラさんの横顔が、うっすら見える。髪が頬にかかっている。
手が動いた。指先が、その髪に触れる直前で止まった。
——やめた。何をしようとしたのか、自分でわからなくなった。
あの配信を見ていた頃、この人のことを知っているのは俺だけだった。
今はもう、そうじゃない。それは正しいことだ。正しいのに、胸のあたりが重い。
手を引いた。指先が、まだ温い。触れてもいないのに。
顔が、まだ熱い。だけど胸の奥が、冷たい。
◇ ◇ ◇
数日が経った。展示会の準備は着々と進んでいた。
夜、玄関のドアが開いた。
「ただいまー!
靴を蹴るように脱ぐ音。スリッパがぱたぱた近づいてくる。
「会場の近くにあるレトロゲーショップ、ハイパーナゲットさんとのコラボが正式に決まった!」
「……おお」
「実機の貸し出しオッケー、買取販売コーナーも隣に出してくれるって。
アキラさんがソファにどさっと座った。カーキのブラウスの袖が肘までまくってある。
額に汗が光っている。七月の帰り道は、もう暑い。
「で、今日それの最終打ち合わせ行ったんだけどさ」
「うん」
「ハイパーナゲットの店長さんがね、めちゃくちゃ和太郎チャンネル見てくれてて。『和太郎さんのレトロゲー愛はホンモノですね、ぜひご一緒したかった』って」
「……へぇ」
「で、私はにこにこしながら『ありがとうございます、和太郎さんにお伝えしますね』って返して」
「…………伝える相手、自分じゃん」
「自分なの! 帰社してからさ、報告書に『和太郎氏側との連携は円滑に進行中』って書いたの。和太郎氏側、私なんだけど!」
笑った。声に出して笑った。
「あとね、田所さんが横で必死に真顔キープしてるの。だめだよ田所さん、目が笑ってるよって」
「……それは、きついな」
「きついの! 会議で誰かが和太郎さんの配信数字の話始めると、田所さんがこう——ちらっと目配せしてきてさ。目配せしないで! 余計こわい!」
アキラさんが膝を抱えて笑っている。今日一日の疲れと興奮が全部まぜこぜになった顔だった。
——面白い。本当に面白い。
でも、ハイパーナゲットとの折衝も、会議の立ち回りも、全部アキラさんが一人で回している。制作チームが素材を繋いでくれるし、権利関係は法務が見る。
俺が選んだアーカイブリストは、ちゃんと採用された。でもそれは先週の話だ。もう、俺のやることは終わっている。
「あ、そうだ。今日配信で発表しちゃうから。重大発表って煽っちゃった」
「……今日?」
「うん。鉄は熱いうちに。見ててね」
立ち上がって、配信部屋に向かっていった。ドアが閉まる。リビングに一人。
麦茶のグラスに汗が滴っている。エアコンの風が、さっきアキラさんが座っていた場所を冷やしていく。
◇ ◇ ◇
ノートPCで和太郎チャンネルを開いた。配信開始の通知が来ている。
画面に和太郎のアバターが映った。レトロゲーナイトのいつものセット。がっはっはの笑い声。コメント欄がぽつぽつ動き始める。
いつもの雑談。今日遊んだゲームの話。コメント欄のツッコミに和太郎が返す。
——さて。和太郎の声が一段落ちた。
『今日は皆さんにお知らせがありまして』
『!?』
『なになに』
『引退とかじゃないよね!?』
『みやぢー:ドキドキしますね〜何だろう』
『いやいや引退じゃねぇよ。むしろ逆だ。——八月に、秋葉原で開催されるゲーム文化展示会に参加することになったぜぇ!』
コメント欄が一気に流れた。
『パルサー:えええええ!!行きます!!絶対行きます!!!』
『マジ!? おめでとう!!』
『レトロゲーナイト リアル版じゃん』
『みやぢー:和太郎さんの展示……人間国宝ついに国に認められた……?』
『国じゃねえって。しかもだ。秋葉原のレトロゲーショップ、ハイパーナゲットさんとのコラボも決定。実機触れるぞ。買取販売コーナーも横に出る』
『ガチすぎる』
『ハイパーナゲット知ってる!あの店すごいよ』
『みやぢー:実機プレイ可能って、令和に実機触れる機会ほんと貴重ですよ』
『パルサー:和太郎さんのブース、絶対混む!前の方で待機します!!』
画面の中で、和太郎が嬉しそうに笑っている。
『あと、ブースでは過去のアーカイブ映像も展示する予定だ。これまでコラボしてくれたみんなの映像も映したいんで、個別に許可取りに行くからよろしくな』
『全コラボ回見返す準備できてます!!』
『みやぢー:和太郎さんのコラボ回、全部再生リスト入れてますよ〜』
——指が動いた。
『夜空紗雪:和太郎さんおめでとう〜!楽しみにしてるね!』
『おっ紗雪ちゃんきた』
『みやぢー:紗雪ちゃんお久しぶりです〜』
和太郎がコメントを拾った。
『おお紗雪ちゃん! ありがとな! また対戦しようぜ!』
『ブラック紗雪また期待してますw』
『格ゲー回の再来頼む!!』
『パルサー:格ゲー回じっくり見返して大笑いしました!!あれ絶対外さないで!!』
『そうだなぁ、紗雪ちゃん頼むよ! あの回外すのは俺も惜しい』
——打った。
『夜空紗雪:……わかりました(しぶしぶ)』
『しぶしぶ許可が出たw』
『紗雪ちゃん優しいw』
コメント欄が流れていく。次の話題に移っている。和太郎が展示のコンセプトを語り始めている。
指をキーボードから離した。
「しぶしぶ」は嘘じゃない。格ゲー回、あれはあれで恥ずかしい。
でも本当に言いたいことは、そんな言葉じゃなかった。
コメント欄では、みやぢーさんが場を回している。
パルサーが興奮して連投している。みんな自分の名前で祝福している。
——俺だけが、紗雪の名前で書いている。
◇ ◇ ◇
配信部屋のドアが開いた。
「おつかれー! いい配信だった!」
アキラさんがリビングに出て近づいてきた。頬が少し赤い。配信の興奮がまだ残っている。
「紗雪ちゃんコメントありがと!」
——至近距離で、満面の笑み。
それだけ。理由は言わない。ただ嬉しそうだった。
(……反則だろ)
「反応すごかったね。パルサーさんが絶対行くって」
「ね! みやぢーさんも人間国宝って言ってくれてたし。あ——おなかすいた。ごはんどうしよっか?」
「冷蔵庫にそうめん茹でて入れてあるよ」
「えっ、最高。昴さん最高」
台所に向かうアキラさんの背中を見ていた。冷蔵庫を開けて、器を出して、つゆを注いでいる。
鼻歌がかすかに聞こえる。知らない曲だった。
笑顔の宛先が、わからなかった。
紗雪のコメントが嬉しかったのか。俺がそうめんを作っていたのが嬉しかったのか。
たぶん、全部同じなんだ。この人の中では。
◇ ◇ ◇
夜。布団が二枚並んでいる。いつもの配置。
電気を消した。
「……ごめんねぇ、勢いで決まっちゃったかな。格ゲー回上映」
「……いや。和太郎さんのブースが盛り上がるなら本望だし」
「ん」
しばらく黙っていた。アキラさんの呼吸が少しだけ浅い。考え事をしている時の呼吸だった。
「……なんか、速いね。いろいろ」
「……速い?」
「コラボも決まって、発表もして、チームも動き始めて。嬉しいんだけど、なんか——」
言いかけて、やめた。
そのまま、黙った。呼吸が深くなっていく。今日一日の疲れが、一気に来たらしい。
——先に、眠った。
暗闘の中で、寝息だけが聞こえている。
そのとき、指が触れた。
アキラさんの手が、布団の隙間を越えて伸びてきていた。眠ったまま、俺の手を掴んでいる。
指は少しだけ冷たくて、でも力がある。寝ている人の手だとは思えないくらい、しっかりと。
——振りほどけなかった。
天井を見ていた。
さっき紗雪として「しぶしぶ」を打った指が、今アキラさんの掌の中にある。
配信では、紗雪の言葉で祝福した。帰ってきたアキラさんには「本望だし」と返した。
全部嘘じゃない。全部が本当でもない。
手の中の温度だけが、確かだった。