3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~ 作:式守 芽衣
あれから二週間。
アキラさんは日に日に忙しくなった。帰りが遅い日が増えた。
配信は頻度を落としながらも続けている。
会場の設営計画が具体化し、ポスターの色校が出て、当日のオペレーションを詰める会議が毎日入っているらしい。
俺の方は、紗雪の配信をちょいちょいやりつつ、仕事をして、ごはんを作って、アキラさんの分をラップして冷蔵庫に入れている。
展示の素材はとっくに渡してある。たまに頼まれたことを手伝う。
でも基本的にはそれだけだった。
帰りを、待っている。
——待っている、という言い方は正しくない気がした。
でも他に合う言葉が見つからなかった。
八月初旬の夕暮れ。窓を開けると蝉の声が入ってくる。
リビングのテーブルにアキラさんのマグカップが置きっぱなしになっている。
今朝、慌てて出ていったから洗う暇がなかったんだろう。
スマホを見た。LINEが一件。
『今日も遅くなる〜ごめんね! ごはんあったら食べといて!』
——分かっている。忙しいのは当然だ。応援したい。嬉しいことだと思う。
分かっているのに、部屋が静かだった。
◇ ◇ ◇
玄関のドアが開いたのは十時を過ぎていた。
「ただいまー……」
いつもより声が小さい。スリッパの音も遅い。
「おかえり」
アキラさんがリビングに入ってきた。グレーのリネンシャツに紺のワイドパンツ。
髪がひとつに束ねてあって、後れ毛が首に貼りついている。暑い中を歩いてきたんだろう。
俺の顔を見て——苦笑した。
「……ただいま。ほんとにただいまだ。訳すとリアル・ジャスト・ナウ?」
「……おかえり。ごはん食べた?」
「……食べてない」
「作り置きあるから温めるよ。豚しゃぶと、なすの煮浸し」
「……天才。養って」
ソファに座り込んだ。靴下を脱いで足を投げ出す。力が抜けている。
冷蔵庫からおかずを出して、レンジに入れた。チンと鳴る間に麦茶を注いだ。
「ありがと……」
食べ始めた。箸が遅い。疲れているのに、ちゃんと「おいしい」と言った。
「
「いつも通り。仕事して、紗雪の配信ちょっとやって」
「あ、配信あったの? 見たかったなー。アーカイブ残してある?」
「勿論、残してある」
「あとで見る……」
目が半分閉じている。箸を動かしながらうとうとしかけている。
「……寝た方がいいんじゃ」
「んー……もうちょっと起きてる……」
起きていたいらしい。目をこすりながら、今日の出来事を話し始めた。
「ポスター、三回やり直しになってさ」
「三回」
「でもね、最終版めちゃくちゃ良くって。
「……見たい」
「来たら見れるよ。あ、そうだ——会場のレイアウト変わったんだ。ハイパーナゲットさんのコーナーが和太郎ブースの真横になったの。前は通路挟んでたんだけど」
「それは、いいな」
「でしょ? 田所さんが交渉してくれたの」
楽しそうに話している。疲れているのに話したがる。この時間が、この人にとって何なのか。
——分かっている。分かっているんだ、頭では。
「あとね、当日の動線がまだ決まりきってなくて——」
箸が止まった。目が完全に閉じかけている。
「……寝なよ」
「……うん」
素直だった。食器をシンクに置いた。
食器を洗った。なすの煮浸しが少し残っている。ラップをかけて冷蔵庫に戻した。
リビングに戻ると、アキラさんがソファに沈み込んでいた。
足を投げ出して、クッションを抱えている。
「……まだ足りない」
「……足りない? おかわりする?」
「ごはんじゃなくて」
怪訝に思いながら、隣に座った。
——瞬間、倒れ込んできた。半分眠ったまま、肩のあたりに顔を埋めてくる。
くん、と。首元を嗅がれた。
「……何してるの」
「ひっしゅえいようその、ほきゅう……」
「…………え?」
「必須栄養素の……補給……」
「……栄養素?」
もう一回嗅いだ。鼻先が首筋に触れる。くすぐったい。
「あ゛~~~これこれ! 生き返るなぁ!」
和太郎の間合いだった。
「……昴さんの匂いも、好きなの」
今度は、素の声だった。
「……」
「今まで言ってなかったけど。フェロモン?」
「…………」
「あっ! 身体目当てとかじゃないからね!!」
——噴き出した。
声に出して笑った。腹が震えた。アキラさんも笑っている。肩越しに振動が伝わってくる。
「……これでよければ、いくらでも」
軽く言った。そのつもりだった。
アキラさんが黙った。
一秒。二秒。肩にもたれたまま、呼吸だけが聞こえる。
「……じゃあ遠慮なく」
いたずらっぽく笑った気配がした。
また、くんと嗅いだ。首元から鎖骨のあたりに鼻先が移動する。Tシャツの襟ぐりに沿うように。
——近い。
顔が上がってきた。顎のライン、頬のあたり。息が肌に当たる。
さっきまでの、眠そうな呼吸じゃない。
次第に呼吸が速くなっていく。
少し走ったあとみたいな、浅くて速い息。肩が小さく上下している。
指先が、Tシャツの胸元をつまんだ。引っ張るでもなく、離すでもなく。ただ掴んでいる。
「昴さん、もう……」
体重が、じわりとかかってきた。もたれていた肩から、胸のほうに。
——息を、呑んだ。
心臓が跳ねた。アキラさんの顔だけが近い。
身体が傾いてくる。このまま受け止めるのか。押し返すのか。
——頭が、真っ白になった。
気づいたら手が動いていた。アキラさんの肩に触れていた。引き寄せようと——
……すぅ。
——寝息。
手が、止まった。
アキラさんの頭が、俺の肩に落ちていた。完全に、落ちていた。体重が預けられている。
伸ばしかけた手を、静かに引いた。
肩に、まだ息がかかっている。
心臓がうるさい。顔が熱い。身体の真ん中あたりが、どうしようもなく落ち着かない。
——寝てる相手に、どうしろっていうんだ。
呼吸を整えようとした。整わない。鎖骨のあたりに鼻先が触れた感触が、まだ残っている。
……しばらく、そのまま動けなかった。
アキラさんの寝息が、ゆっくりとリビングを満たしていく。規則的で、深くて、安心しきった呼吸。
——匂い。
和太郎を支える人は、もうたくさんいる。
会社が動いて、コラボが決まって、ファンが応援して。
俺にしかできないことなんて、そうはない。
なのに——この匂いだけは、取りに来た。
こんな単純なもの。でも——俺にしかない。
(……そんなんで、良かったのか)
胸のあたりが、ふっと軽くなった。身体はまだ熱いのに、胸だけが軽い。
◇ ◇ ◇
アキラさんを起こさないように、ソファから腕を回した。
膝の裏と背中に手を入れて、持ち上げた。——軽い。ちゃんとお昼食べてるのか。
配信部屋の奥、布団が二枚並んでいる。いつもの配置。
ゆっくりと、敷布団の上に下ろした。
掛け布団をかけるとき、近かった。アキラさんの寝顔が、真下にある。
後れ毛が頬に貼りついたままだった。
指が伸びた。髪を払おうとして——やめた。
代わりに、掛け布団の端を整えた。
自分の布団に入った。
和太郎の重大発表配信の夜は眠れなかった。
今夜も眠れない。でも——理由が、全然違う。
展示会まで、あと十日ほど。
——何か、できることあるかな。
浮かんだのはそれだけだった。技術の話じゃない。素材の話でもない。
ただ、あの人の一番いい日を、一番近くで見たい。
……いや、見たいじゃなくて。
見届けたい、のかもしれない。
目を閉じた。
——閉じたのに、見える。
がっはっは、と笑う和太郎。スマホの光に照らされた、れとろの笑顔。
初めて会った日、片目をぱちりと閉じた顔。
「うぇー」と嫌いなものを食べた子供みたいな渋い顔。
片足パンプスで「まだ余裕あった」と苦笑いした朝。はにかんだ顔。
配信部屋から出てきた満面の笑み。
そして——「もう」と言いかけた瞬間の、潤んだ瞳。
あれだけは、どの顔にも似ていなかった。
全部、同じ人。
さっきまで、俺の肩で眠っていた人。
……眠れるわけがなかった。
ふと、自分のTシャツの襟を引っ張って、嗅いでみた。
——くさいのか? 俺。
アキラさんの匂いがした。
……なおさら眠れなかった。
◇ ◇ ◇
そして展示会当日——。
秋葉原UPXの入口は、八月の日差しと人混みで蒸していた。
一般来場者用のリストバンドを巻いて、中に入った。
正面の大画面ステージから、司会のアナウンスが響いている。
『続きまして大画面ステージ! 「グランドクライムVI」先行プレイ実況、まもなくスタートでーす! 出演は——』
歓声。人だかり。有名個人Vの名前が飛び交っている。
来場者の多くがそちらに流れていく。
どんなものか覗いてみたが、人垣が厚くて画面がほとんど見えない。
まあいいか、と足を進めた。
少し奥にVRゾーンがあった。ヘッドセットの試遊コーナーに列ができている。
壁面の大型モニターにソーシャルVR内の映像が流れていた。
VR界隈では活動する二人のVTuber、だんじにっぽんとミセスVRが並んで、来場者にVR空間を案内している。画面の中でわいわいやっている。
——その後ろに、見覚えのあるアバターが映り込んでいた。
たこ焼き……じゃない。今日はソフトクリームだ。
相変わらずのちとせさんだった。
『はーい、目の前のおにーさーん。こっちから見えてるよ~』
スクリーン上のカメラに映った会場の様子が、VR空間に投影されているらしい。ちとせさんがこっちに手を振っている。
……こっちが紗雪の中身だと気づくはずもない。
(……楽しそうだな)
……今度は何か、自分でも出てみたいな。紗雪として。
そんなことを考えながら画面に手を振った。
会場は広い。ジャンルごとにゾーンが分かれていて、どこからも音が聞こえる。
実機の電子音、笑い声、配信のBGM。
インディーゲームのゾーンで足が止まる。
試遊台に見たことのないドット絵のアクションが映っていて、つい手が伸びた。
思いの外難しい。三面であっさりやられて、コントローラーを置くとき指が少し湿っていた。
歩いていると焼きそばの匂いが流れてきた。
屋台の前のテーブルで、二人連れが焼きそばを分け合っている。
なんとなく目が留まって、なんとなく通り過ぎた。
◇ ◇ ◇
和太郎ブースは会場の隅の方にある。
大画面側に比べると静かだけど、足を止めている人たちの表情が明るい。
画面を覗き込んでうなずいたり、小声で「これ知ってる」と話したりしている。
ブースの前で、二人連れがモニターを覗き込んでいた。
小柄で小動物系の可愛さのある女性と、恰幅の良いおじさん。
女性の方がなぜか恥ずかしそうにもじもじしていて、おじさんがそれを温かい目で笑っている。
俺が近づくと、二人は手を繋いで隣のブースに移っていった。
入れ替わりにモニターを覗くと、潜入ゲームのアーカイブが流れていた。
画面の中で段ボール箱がこそこそ移動している。
顔を上げると、和太郎ブースの案内ポスターが目に入った。ハイパーナゲットとのコラボポスター。
実機写真がどーんと載っている。アキラさんが言ってた通りだ。これはいいものだ。
アーカイブ映像が壁面モニターで流れている。
——紗雪の声が聞こえた。
画面の中で、和太郎と紗雪が笑い合っている。格ゲー回だ。
ブラック紗雪が暴れている。前を通った来場者が「これ面白いな」と足を止めた。
……しぶしぶ許可した甲斐があったかもしれない。
◇ ◇ ◇
スタッフ通路の方に目をやると、アキラさんが女性と話しているのが見えた。
見覚えのない人だった。会社の人だろう。
何か笑い合って、アキラさんが軽く頭を下げた。
それから、こっちに向かって歩き出した。
「おまたせー! 休憩もらった!」
スタッフパスを首から下げたまま。白いブラウスに紺のスラックス。仕事着だった。髪はいつもより丁寧にまとめてある。
「ブース見た?」
「見た。ポスターいいね」
「でしょ! 実機写真のインパクトすごいよね」
二人で和太郎ブースの前に立った。アキラさんがPOPの位置を微調整している。
スタッフの顔と、和太郎の中の人の顔が、一瞬で切り替わる。
「ごはん行こ。おなかすいた~」
会場の外に出ると、屋台が並んでいた。
カレーとサラダを買って、空いているテーブルに座った。
日差しはテントで遮られているけど、風がぬるい。
「VRゾーンすごかった。ちとせさんいたよ」
「あー、いそう。見たかったな~」
「大画面の方は?」
「チラッとだけ見たよ」
「もったいなー。結構盛り上がってたのに」
「和太郎ブースの方が面白い」
「……えへへ」
素で笑った。スタッフモードが一瞬で剥がれる。
「ハイパーナゲットの実機コーナー、みんないい顔して遊んでたよ」
「ほんと? 嬉しいなぁ。あとね、ポスター写真に撮ってくれてる人いたんだよ」
「見た。何人かいた」
「うわー、田所さんに報告しよ」
「田所さん、来てるの?」
「うん、さっき話してた人。田所さんがいると現場の仕切りが安心できるんだよね。お子さんいるのに今日も来てくれてて、旦那さんが見てくれてるんだって」
——お子さん。旦那さん。
「……あ、女性なんだ」
「え? 言ってなかったっけ」
なんだろう。少し、拍子抜けした。
アキラさんがカレーを食べながら、ふと大画面ステージの方を見た。
遠くから、歓声が聞こえている。
「……れとろだったらさ、あっちに立ちに行こうとしてたかもね」
声が、軽かった。風に乗せるみたいに、さらっと。
「和太郎さんのブースがいい。れとろの思いも引き継いでる分、強い」
アキラさんが、スプーンを止めた。
一秒。それから、笑った。
「……そっか。ありがと」
その笑い方は、和太郎でもなかったし、配信後のテンションでもなかった。
目が少しやわらいで、口元だけが緩んでいる。ただ、嬉しそうだった。
カレーを食べ終えて、トレイを片付けた。会場に戻る途中、アキラさんがスマホで時間を確認した。
「そろそろ戻らないと。——ゆっくり見てってね」
「行ってらっしゃい」
軽く言った。アキラさんがぶんぶんと手を振って、スタッフ用の通路に消えていった。
◇ ◇ ◇
一人で和太郎ブースに戻った。
さっきと同じ場所に立った。アーカイブ映像が流れている。
紗雪の声がまた聞こえる。画面の中の自分たち。
推しゲー紹介のPOPが並んでいる。
レトロゲー好きの個人Vが一枚ずつ書いたもので、和太郎のカードはブース代表として一番上に掲げてあった。
他のVのカードも一枚ずつ読んだ。
選んでいるゲームも語り口もバラバラで、でもどれも熱い。つい読み込んでしまう。
「お、これ懐かしいな」
隣にいた親子連れの父親が、POPを指さして笑っていた。男の子が「どれどれ?」と背伸びしている。
ハイパーナゲットの実機コーナーに移動した。ファミコンの実機を触った。ブラウン管の画面が眩しい。
初期コントローラーの角ばった感触が指に馴染む。
二面をクリアしたところで、隣で順番を待っていた女性に話しかけられた。
「実機触れるの、ほんと貴重ですよね。令和にこの体験ができる場所ってなかなかないので」
——丁寧な話し方の、穏やかな女性だった。
「……ですね」
「和太郎さんのセレクトがまたいいんですよ。渋いんですけど、ちゃんと理由があるっていうか——あっ、すみません、語りすぎですよね。再生リスト全部入れてるくらいには好きなんです。推しなので!」
——最後だけ、急にテンションが上がった。熱い人だ。
目の前では、スタッフとしてブース間を行き来するアキラさんの背中がときどき見える。
忙しそうだった。でも動きに迷いがない。
翻って、俺はスタッフでもない。出展者でもない。ただの客。
——でも、それでいい。見たかったものは、見れている。
◇ ◇ ◇
閉場のアナウンスが流れた。来場者が出口に向かっていく。
アキラさんが小走りでこっちに来た。額に汗が光っている。
「おつかれさま。楽しかった?」
「楽しかった」
「よかったー。——あのね、打ち上げ行ってくるね。会社の方の。夕飯はそっちで済ませちゃうから、先に食べてて」
「行ってらっしゃい」
さっきと同じ言葉のはずだった。でも、少しだけ声が柔らかくなっていた気がする。
アキラさんが、一瞬だけ目を見開いた。
「……うん。行ってきます」
和太郎と同じサムズアップが、さっきの屋台の笑顔に重なった。
同じ人の、同じ手なのに。
笑って、スタッフ通路に走っていった。
◇ ◇ ◇
秋葉原の夜は、まだ暑かった。
帰宅して、静かな部屋。エアコンをつけた。
冷蔵庫から麦茶を出して、一杯注いだ。冷たい。うまい。
……ふう。
ソファに座った。スマホを開いた。
SNSのイベントハッシュタグで、来場者の写真が上がり始めている。
ブースの前で撮った写真。実機で遊んでいる写真。あのポスター。
——あの場所に、
しばらく写真を眺めていた。テレビはつけなかった。
エアコンの音だけが鳴っている。
静かだった。でも、嫌じゃなかった。
今日は、いい一日だったと思う。
(……いい、一日だった)
——玄関の外から、階段を上がる足音が聞こえた。カンカン、と軽い音。
アキラさんはまだ打ち上げのはずだけど。隣の部屋か?
玄関ドアの開く音。
早い。思ったより、ずっと早い。
「ただいまー! 1次会だけで帰ってきちゃった」
靴を蹴るように脱ぐ音。スリッパがぱたぱた近づいてくる。
がさり、とコンビニ袋の音がした。
「……おかえり。早かったね」
「えっとね——」
リビングに入ってきたアキラさんが、コンビニ袋を持ち上げた。チューハイとつまみが覗いている。
「……うちらだけの、打ち上げしよ?」