3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~ 作:式守 芽衣
休日の昼前。掃除機をかけ終えて、部屋を見回す。
奥の洋室が作業部屋。防音カーテン、モニターと音声機材。
ケーブルはまとめ直した。デスクの上も拭いた。
リビングに戻る。シンクに食器はない。ローテーブルも拭いた。
(推しが来るだけだ。落ち着け)
冷蔵庫を開ける。お茶とミネラルウォーター。他に何か要るだろうか。
いや、防音設備を見に来るだけなんだから。
スマホが震えた。
『あと10分ほどで駅着くぜぇ!』
通知の横に、見慣れた
靴を履いて、外階段を駆け下りた。
◇ ◇ ◇
駅前のロータリーに、黒髪が揺れていた。
淡いベージュの薄手のシャツにデニムのワイドパンツ。袖をラフにまくっている。
喫茶店で会った時とは少し違う、休日の軽い空気。
片手に車輪付きの大きなキャリーバッグ、もう片方に小さめの紙袋。
「お待たせしました」
「全然待ってないよ」
キャリーバッグが目に入る。サイズからして——
「それ、配信用のPCですか?」
「そうそう、ゲーミングノート。試さないと意味ないかなって」
「ここまで持ってくるの大変だったでしょう」
「転がしてきただけだよ。車輪ついてるし」
そうは言うが、冷却ファンを2基積んだゲーミングノートだ。電車の乗り降りだけでも相当なはずで。
「ここからは俺が持ちますよ。階段あるんで」
「……ありがと、
駅を出て、住宅街の路地に入る。四月の風が少しだけぬるい。
「紗雪ちゃんの家、この辺なんだ。静かだね」
「駅から少し歩くんですけど、その分——」
「——家賃が安い?」
「……はい」
和太郎さんはふっと笑った。
「わかるわかる。私も似たようなもん。1Kで駅徒歩15分」
「防音とか、どうしてたんですか。今の部屋で」
「やれることは全部やったよ? 壁に吸音材貼ったり、カーテン二重にしたり」
「それでもダメだった」
「うん。で、最終兵器に手を出したの。頭だけ囲むタイプの防音ボックス、知ってる?」
「ありますよね」
「DIYの解説動画見ながら自作したんだけどさ。——暑い」
「……暑い?」
「夏場、配信用ノートPCも一緒に入れるから、5分で蒸し風呂」
「うわぁ……」
「もともとエアコン調子悪かったのもあるけどね。しかも板の接合が甘くて隙間から音漏れるし、防音効果も微妙で」
淡々と語っているが、全部試行錯誤の重さがあった。
「結局バラして押入れの奥。あれ置きっぱだと、マジで生活スペースが無くなっちゃう」
「わかります。機材って場所取りますよね」
「ほんとそれ。足の踏み場がなくなって、でも捨てるに捨てられなくて——あ、紗雪ちゃんの防音ってどんな感じなの?」
歩きながら、こちらの顔を覗き込んでくる。
「見たらわかります」
「おっ、自信あり?」
「自信というか……着けばわかるので」
「はいはい、お楽しみね」
角を曲がると、2階建ての小さな建物が見えた。
「ここです」
「……こぢんまりしてるね」
「1階が丸ごと倉庫で、2階に三部屋です。隣はその倉庫を使っている事務所で、夜と休日はほぼ無人です。そのさらに隣にもう一世帯」
「えっ——じゃあ」
「はい。夜は壁の向こうに誰もいない状態です、結果的に」
和太郎さんの足が止まった。
「……紗雪ちゃん、それめちゃくちゃ恵まれてない?」
「物件の構造がたまたまそうなだけで。——中、どうぞ」
外階段を上がり、端の部屋の鍵を開ける。
「お邪魔します」
玄関で靴を脱ぐ。和太郎さんはリビングに入ったところで紙袋を持ち上げた。
「あ、これ。お邪魔しますの気持ち」
中を覗くと、焼き菓子の箱だった。
「わざわざすみません」
「それはこっちの台詞。無理言って見学させてもらうんだし、このくらいはね。——で、防音室は?」
ローテーブルに紙袋を置いて、奥の作業部屋へ案内する。
和太郎さんは入った瞬間、ゆっくりと部屋を見回した。
「……すごい」
防音カーテン。リフレクションフィルター。デスク上のモニターに機材一式。
「窓の防音カーテンは自分で入れました。あとリフレクションフィルターで反響を抑えてます。ただ一番効いてるのは、さっき言った建物の構造で——」
「試していい?」
説明を遮って、和太郎さんが言った。目がもう、配信者の目になっている。
「——もちろんです」
部屋の中央に立つ。軽く息を吸い、胸の前で手を組んだ。目を閉じる。
——そして。
「よっしゃあ来い! ここからが本番だぜ!」
壁が震えるかと思った。震えなかった。
あの声だ。腹の底から響かせる、和太郎の全力の声。喫茶店で一瞬聴いたのとは比べ物にならない。
声量の蓋を外した、本物の和太郎がここにいた。
和太郎さんの目が開いた。
沈黙。2秒。3秒。
「——漏れてないかな?」
「このくらいなら余裕です」
「もう一回やっていい?」
「どうぞ」
「——全力でいくよ?」
「全力でどうぞ」
深く息を吸い込む。
「ハッハッハ! これだよこれ! 声ってのはなぁ、腹から出すもんだ! わかるかお前ら!」
配信そのものだった。目の前に視聴者がいるかのように、身振り手振りを交えて和太郎が喋っている。
声は天井に跳ね、壁に吸われ、どこにも漏れない。漏れたところで隣人もいない。
——そして。
和太郎さんは急に黙って、両手を頭の上に持ち上げた。
くるり。
「——やったっ……!」
和太郎じゃなかった。
声が変わっていた。低音のおじさんボイスでもなく、喫茶店で聴いた丁寧なアキラさんの声でもない。
「ここなら全力で出せる……! 声、全力で出せるよ紗雪ちゃん……っ! ひゅ~ぅ!」
ただ嬉しくて、抑えきれなくて、両手を上げてくるくる回っている。
新しい遊び場を見つけた子供みたいに、防音カーテンの前で回っている。
——声を抑えて配信してきた人が、初めて枷を外した瞬間。
(ミュージカルみたいだ)
小さい頃、親に連れて行かれたやつ。ヒロインがこんなふうに回ってたのを思い出した。
ここにはスポットライトなんてない。蛍光灯の下の、防音カーテンの前。それだけの場所なのに。
「そんなに喜んでもらえるなんて思いませんでした」
なんだかつられて、こっちまで身体が揺れる。
◇ ◇ ◇
興奮が落ち着いてから、和太郎さんはキャリーバッグからゲーミングノートを取り出した。
「せっかくだから、ボイチェン通した状態でも試していい?」
「もちろん。セットアップ、手伝います」
デスクにPCを置き、マイクを接続。通話ソフトを立ち上げる。
俺は隣の部屋に移動して、ドアを閉めた。スマホで通話アプリを開く。
——数秒後、スピーカーから和太郎さんの声が届いた。
『どうもどうも! 昭 和太郎だっ! 今日は本気でいくからなぁ!うぉおお!』
いつもの挨拶。いつもの声。なのに——何かが違う。
声の厚みが、段違いだった。
普段の配信も十分に良い。ずっと好きだった声だ。
でも今聴いている和太郎さんは、その上にもう一段ある。
声の底に余裕がある。抑えていたものが全部乗っている。
(……化けた)
技術とかの話じゃない。同じ人の声が、場所が変わっただけでここまで変わるのか。
ドア越しに、くぐもった生声がかすかに聞こえている。
スマホからはボイチェンを通したクリアな和太郎の声。同じ人間の声が、二つの経路で届いている。
「——和太郎さん。これ、配信で聴いたらリスナーびっくりしますよ」
『マジか? そんな違うか?』
「全然違います」
『……へへ』
照れたような笑いが、ボイチェン越しでも漏れていた。
◇ ◇ ◇
リビングのローテーブルに焼き菓子の箱を広げた。
「いただきます」
「どうぞどうぞ」
和太郎さんがソファに腰を下ろして、お茶を手に取った。
——このソファに自分以外の誰かが座るのは、初めてだった。
「にしても、2DKかぁ。一人暮らしで2部屋あるの、いいなぁ」
「仕事部屋が要るんで」
「だよね。私も部屋がもうひとつあったらなぁ」
それ以上は聞いてこなかった。
窓の外が暮れ始めている。
フィナンシェは最後のひとつになっていた。和太郎さんが迷わず手を伸ばす。
「いい場所だね、ここ」
何気ない一言だった。
——さっきのくるくるが、まだ頭に残っている。
あの声を、あの全力を、防音ボックスの中で殺していた人が。解放されて舞っていた。
「和太郎さん」
「ん?」
「……よかったら、配信にも使いませんか。夜遅くなりすぎない範囲で、ですけど」
和太郎さんのフィナンシェを持つ手が止まった。
「……いいの?」
「見学だけって言ってたのは知ってます。でも——さっきの全力の和太郎さん、配信で観たいと思っちゃいました」
ファンとしての本音だった。それ以上でも以下でもない。——たぶん。
「……ありがと、紗雪ちゃん」
窓の外はもう暗い。
焼き菓子の甘い匂いが、まだ部屋に残っていた。
◇ ◇ ◇
数日後。
チャイムが鳴って、玄関を開ける。
オーバーサイズのカットソーにレギンス。髪はざっくりひとつに束ねている。
「おじゃましまーす。はい、これ」
差し出されたのはコンビニの袋。中を覗くと、プリンが二つと炭酸水。
「炭酸水、
靴を脱いで、迷いなくリビングに上がる。和太郎さんが週に二、三回、ここで配信するようになった。
最初は「今週ももう一回使っていい?」と遠慮がちだったのが、いつの間にか「明日行くね」に変わっている。
遠慮しなくていいのに、とは思う。こっちだって全開の和太郎さんの配信を間近で聴けるんだから、お互い様だ。
プリンを冷蔵庫に入れて、防音室で配信前の機材チェック。マイクの位置を確認して、リビングに戻る。
和太郎さんはソファでスマホを操作していた。
「紗雪ちゃん、この前の配信のアーカイブ見てたんだけどさ」
「はい」
「登録者500人のお礼リアクション。フルトラでやってたよね。あれすごいよね~! 全身の動きが反映されるんでしょ?」
「そうなんですよ。没入感が全然違うし、自分も紗雪になれた気がするっていうか」
「うんうん」
「和太郎さんは声だけで完全に別人になるじゃないですか。俺は機材に頼ってるぶん、まだまだで」
「いやいや、身体ごと入り込んでるのは紗雪ちゃんの方がすごいって。——そう、入り込むの大事なんだよね」
スマホの画面をこちらに向けた。紗雪のアバターが両こぶしを握ってガッツポーズしている。
「で、このポーズなんだけどさ。元気いっぱいで可愛いんだけど、紗雪ちゃんのアバターあれだけ可愛いんだから——ポーズも合わせたらもっとやばいよ。破壊力段違い」
(……考えたことなかった)
アバターの見た目は美少女でも、中で動いているのは俺の身体だ。意識しないと男の動作がそのまま出る。
「こういうのはなぁ——」
和太郎さんが声の調子を変えて立ち上がった。部屋の真ん中に立つ。
「——こう」
両手を胸の前に上げた。こぶしを外側にふわっと開いて、肘を内側に入れる。
小首をかしげて、少しだけ膝を曲げる。
「脇を締めて、こぶしは外向き。肘を内側に入れると女の子のラインになるんだぜ」
声が和太郎モードに入っていた。低音で、コラボのゲストにアドバイスするときの口調そのまま。
「で、ここで顎を引いて、視線は上目遣い」
——なのに。身体は、完全に女性の仕草だった。
指先の開き方。首のかしげ方。重心の落とし方。
どれも自然で、身体に染みついた動きだった。
「どうだ、これで完璧だぁ!」
和太郎の声で、アキラさんの身体が可愛いポーズを取っている。
配信者の目が分析する——肘の角度、重心の位置。なるほど。
ファンの目が反応する——推しが直々に教えてくれている。
——もうひとつの目が、黙った。指先が、テーブルの端を掴んでいた。
「紗雪ちゃん?」
「……あ。肘の角度、なるほどです」
「でしょ? ちょっとしたことで全然変わるんだよ」
和太郎さんは涼しい顔で座り直した。
(女性だから、こういう動きは自然にできるんだろうな)
「じゃあ紗雪ちゃん、やってみ? 配信前に練習しとこうよ」
「……え」
「さっきの。あざと可愛いガッツポーズ」
フルトラのセンサーを身につける。モニターの紗雪が、俺の動きに合わせて動く。
——普段はひとりだ。
この部屋で、誰にも見られずにやっている。アバターが可愛く動けばいい。
中の男がどんな格好をしているかなんて、カメラにも映らない。
今、後ろに和太郎さんがいる。
(……見ないでほしい)
「さっきのポーズ、やってみて」
両手を上げる。こぶしを外に——肘を内側に——
「肩、力入ってるよ」
「……わかってます」
「もっとふわっと」
——だめだ。
見られている。アバターの裏で美少女ポーズを取ろうとしている男の姿を、そのまま見られている。
その絵面が頭に浮かんだ瞬間、腕が下がった。
「……今日は、無理です」
「えー。もうちょっと——」
「次までにやっときます。ひとりの時に」
和太郎さんは、くすっと笑った。
「フルトラは大変だよねぇ。全部出ちゃうもんね。——私は2Dだからポーズは映んないけどさ」
少しだけ声のトーンが変わった。
「声に乗せるために身体ごと作ってたから、気持ちはわかるよ」
(身体ごと——)
「グッてドンッ」を思い出した。あの喫茶店で、腹の底から声を出してみせた瞬間。あれも身体ごとだった。
声のために身体を作る人と、身体が全部出てしまう人。同じ悩みの、裏表だ。
◇ ◇ ◇
和太郎さんの配信が先。防音室のドアが閉まると、リビングにくぐもった声が届く。
リビングのソファに座って、スマホで和太郎さんの配信を開いた。壁の向こうの生声と、スマホから流れる
二つの声を同時に聴きながら、さっきのポーズのことを考える。肘の角度、重心の位置。ひとりになったら練習しよう。
交代して、紗雪の配信。VR空間の新しいワールドを探索する回。ゆるく、穏やかに。
配信を終えてリビングに戻ると、和太郎さんがソファに沈んでいた。
さっき冷蔵庫に入れたプリンが、ローテーブルに二つ並んでいる。スプーンも二本。
「おつかれー。開けていい?」
「お疲れ様です。どうぞ」
カラメルが舌の奥でほろ苦い。高級でもなんでもないコンビニのプリンが、配信の後だと妙にうまい。
そのまま、今日の配信の振り返りが始まる。
「今日のコメント欄見ました? 『最近の和太郎さん声の張りすごくないですか』って」
「見た見た。嬉しいねぇ。紗雪ちゃんのおかげだよ」
「部屋の構造のおかげです」
和太郎さんがプリンのカップを逆さに傾けて、残ったカラメルを口に流し込もうとしている。——落ちてこない。
「……あと、紗雪の方も最近コメント欄に新しい人が来てくれるようになって」
「いいじゃん。コメント同士で盛り上がってくれると、自分の配信が居場所になってる感じするよね」
「そうなんです、それです」
配信後にこうしてお土産を食べながら振り返りをする。
いつの間にか、そういう時間ができていた。静かな部屋に、二人の話し声だけが響く。
(……いつからだっけ)
和太郎さんがキャリーバッグにゲーミングノートを詰め直している。レトロゲーの実機が入ったポーチ、キャプチャデバイス、ケーブル類。丸めて、押し込んで、ファスナーを閉じる。
「毎回セッティングに20分かかるの、地味にきついんだよね……」
独り言みたいな呟きだった。
重いキャリーバッグを引いて電車に乗り、ここまで来て、セッティングして、終わったらまた全部詰めて帰る。それを週に二、三回。
「……置いていきます? デスク、空いてますし」
言ってから、自分でも驚いた。でも撤回する理由が見つからない。
和太郎さんの手が止まった。
「……いいの?」
「毎回運ぶ方が大変でしょう」
ファスナーに手をかけたまま、和太郎さんはこちらを見た。
「——じゃあ、お言葉に甘えようかな。配信以外は基本、スマホで済むし」
ファスナーが開いた。閉じたばかりのゲーミングノートが、また出てくる。
デスクの上に置かれた瞬間、部屋の重心が少しだけ変わった気がした。