3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~   作:式守 芽衣

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第4話 わたさゆシークレット

 たこ焼きの上でかつお節が揺れている。

 

紗雪(さゆき)ちゃん最近忙しい? ここんとこ、あんまりVR来ないじゃん」

 

 乙奏(おとな)ちとせさん。もともと和太郎(わたろう)さんのV仲間で、コラボをきっかけに俺とも知り合った。

 

 配信では千歳飴モチーフの和風ロリアバターなのに、VRだとたこ焼きになる人。

 子持ちで、4歳の子どもが寝た後にVRに来ることが多い。

 

「すみません、ちょっとバタバタしてて……」

 

「いいよいいよ。来てくれた時に話せればさ」

 

「——あ、そういえば和太郎さんの配信たまに見てるんだけどさ、最近なんか楽しそうだよね」

 

 端から見れば美少女とたこ焼きの女子トーク。片方はボイチェンの男だが。

 

「……うん、確かに最近調子良さそうですよねっ」

 

「でしょ? 前よりなんか、余裕がある感じ」

 

 ——理由は知っている。防音室で全力の声を出せるようになったこと。演出がリスナーに受けたこと。でもそれは言えない。

 

「まあいいことだよね〜。和太郎さんが楽しそうだと、こっちも嬉しいし」

 

 ちとせさんはそれ以上踏み込まなかった。たこ焼きが少し揺れて、話題が変わる。

 

「そういえば、うちの子がさ〜、最近やっと自分で靴履けるようになったの」

 

「わぁ」

 

「でも左右逆なの。毎回。逆に器用じゃない?」

 

「……あはは、確かに」

 

「旦那も苦笑いしてるけど、本人が満足してるからいいかなって。まあなんやかんや、三人で平和にやってるよ〜」

 

「……いいですね」

 

「紗雪ちゃんは? 誰かいい人いないの?」

 

 ——こちらに微笑みかける、女性の顔がよぎった。

 

(……そういうのは)

 

「いないです」

 

「ふーん。まあ紗雪ちゃんモテそうだけどね〜」

 

「……えーっ、どうですかね」

 

 ちとせさんはそれ以上聞かなかった。「あ、子ども起きたかも。またね〜!」とたこ焼きが手を振って、ログアウトしていった。

 

 ヘッドセットを外した。

 

 部屋が静かだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 翌日。

 

 冷蔵庫を開けると、プリンがあった。俺が買ったものじゃない。玄関には和太郎さんのスリッパが揃えてある。

 

 ——いつからあったっけ。

 

 今日は紗雪(さゆき)の配信日だ。和太郎さんが仕事帰りに機材の設定を確認しに来て——用事が終わった後も、リビングのソファに座っている。

 

「ねえ、今日の配信ワールドどうするの?」

 

「この前教えてもらった通りに。小さいのから回って、最後に——」

 

「元気なやつね。いいじゃん。楽しみ」

 

 和太郎さんが笑った。俺は防音室に入って、ヘッドセットを被った。

 

 配信を始める。

 

 最初に小さなカフェのワールドに入った。狭い空間。暖色の照明。窓の外に雨が降っている。

 

『……ここ、落ち着きますね。見てくださいこの窓、雨の音がするんですよ』

 

 次に、少し広い和風庭園。石畳と水の音。

 

『見て見て、この苔……すごくないですか? 近づくと模様が変わるんです』

 

 コメントの反応がいい。「紗雪ちゃん今日楽しそう」「ワールド選びいいね」——

 

 最後に、あの広場。色鮮やかで、空が広い。

 

 ——確かに違う。小さいワールドを経由したから、ここに着いた時の開放感が倍になっている。

 

 配信が終わった。

 

◇ ◇ ◇

 

 リビングに戻ると、和太郎さんがソファでスマホを置いた。

 

「よかったよ! あのワールドの順番、正解だったね。最後の広場に着いた時の紗雪ちゃんの声、全然違ってた」

 

「和太郎さんのアドバイスのおかげです。リスナーの反応も良かったです」

 

「ふふ。楽しんでもらえると嬉しいよね。——ねえ、ところでさ」

 

 和太郎さんが、少しだけ前のめりになった。

 

「私もあれ被ってみたい」

 

「……え?」

 

「VR。あのヘッドセット。ずっと気になってたんだよね」

 

 予備のHMDはある。仕事用と開発用で複数台持っている。

 

「……いいですけど、酔うかもしれないですよ」

 

「大丈夫大丈夫。ちょっとだけ」

 

 ちょっとだけ、とこの人が言った時は、ちょっとだけで終わった試しがない。

 

 紗雪のアカウントでログインした状態で、和太郎さんにHMDを渡す。装着を手伝った。ストラップ等を調整。

 

「見えます?」

 

「——うわっ。すごい」

 

 目の前に鏡がある。鏡の中に紗雪が立っている。

 

「紗雪ちゃんが目の前にいる! マジで目の前にいる!」

 

「それ鏡です。和太郎さんが動くと——」

 

「動いてる! わー! 紗雪ちゃんになっちゃった〜!」

 

「……いい反応です。テンション上がりますよね」

 

「あはは、手がちっちゃい。かわいい」

 

「せっかくなんで、フルトラ(フルボディトラッキング)もつけますか。全身動くようになりますよ」

 

「え、やるやる」

 

 トラッカーを取り出す。

 

「トラッカーつけるんで、一回ヘッドセット外してもらって——」

 

「やだ。外したくない。紗雪ちゃんが消えちゃう」

 

「腰と足首にベルトで巻くんですけど……」

 

「さっき紗雪ちゃんがつけてるの見てたから大丈夫。付けてもらっていい?」

 

「……じゃあ、つけますね。失礼します」

 

 和太郎さんはHMDを被ったまま、鏡の中の紗雪に夢中だ。

 

 腰にベルトを巻いた。ブラウスの上から。手が、少しだけ震えた。

 

 足首に屈んでストラップを締める。和太郎さんは上で「あ、なんか足に何かついた」と笑っている。

 

「きつくないですか」

 

「大丈夫〜」

 

 別のHMDを被って、別アカウントでログインした。和太郎さん……紗雪のアバターの横に立ち、鏡の前で調整操作。

 

「——すごい、足も動く」

 

 鏡の中の紗雪が一歩踏み出した。和太郎さんの歩幅で。

 

「ちょっと気持ち悪い……いや待って、慣れる」

 

 俺はパブリックアバターの初期状態で、和太郎さんが操る紗雪の隣に立った。

 

「ねえねえ、ポーズ取っていい?」

 

 紗雪が、鏡の前でくるっと回った。

 

 ——前にカワイイポーズを教わった時と同じ動きだった。肘を内側に入れて、首を傾けて、片足を少し後ろに引く。

 

 教わらなくても、この人の身体に染みついている。

 

「おお、動く動く! すごいこれ!」

 

 鏡の中の紗雪が、片足に重心を預けて、首を傾けて、こちらに微笑んでいる。

 

 俺がやったらぎこちなくなるポーズを、和太郎さんは何の意識もなくやっている。

 

 本人は動くことに喜んでいるだけで、自分がどれだけ様になっているか気にしていない。

 

「ねえ、さっきの配信の場所行ってみたい!」

 

「いいですよ」

 

 さっき配信で回ったワールドを、今度は二人で歩いた。

 

 カフェのワールド。和太郎さんが——紗雪のアバターが、窓の外の雨を見上げた。

 

「すごい、配信で見てるのと全然違う。ここにいる感じがする……ここ、落ち着くね」

 

 落ち着く……さっき俺が配信でも言ったこと。

 

 和風庭園。石畳の上をゆっくり歩いている。俺が操作する時より、自然と歩幅が小さい。

 

 最後の広場に着いた。くるりと振り返った。

 

「——すごい。ここ最高じゃん」

 

 両手を広げて、色鮮やかな空の下で回っている。

 

 ——やっぱりうちのこ可愛い。

 

 でも——それだけではない、気がした。

 

 紗雪の動きが、いつもと違う。俺が動かす時は、意識してポーズを取る。可愛く見せようとする。

 

 でも動いている和太郎さんは、何も意識していない。振り返る時の重心の移し方、手の開き方、首の傾け方。全部が自然で、全部が——

 

「ねえ、あっちにも行ってみていい?」

 

「……あ、はい。どうぞ」

 

「やった!」

 

 紗雪が歩き出した。俺が動かす時とは違う、小さな歩幅で。

 

 ワールドを三つ、四つ。新しい場所に着くたびに「わっ、綺麗~!」「えっ何ここ!?」と和太郎さんが声を上げる。

 

 途中、VR酔いで「うっ」と立ち止まることもあったけど、少し休んで「もうちょっと」とまた歩き出す。

 

「ねえこの箱なに?」

 

「あ、それギミックで——触ると——」

 

 紗雪の手が箱に触れた瞬間、中から光の粒がポンと弾けて飛び散った。

 

「きゃっ」

 

 和太郎さんの声が聞こえた。ヘッドセットの外から。VRの中の紗雪は、両手で顔を覆っている。

 

 ——和太郎でもいたずらっ子でもない声だった。

 

「……びっくりした。ねえ今の何?」

 

「すみません、先に言えばよかった」

 

「いやいや。もう一回やって。心の準備するから」

 

 ヘッドセットの外から聞こえる和太郎さんの笑い声。VRの中で聞こえる紗雪の笑い声。二つが、少しだけずれて重なった。

 

◇ ◇ ◇

 

 ——ひとしきり遊んだ後、和太郎さんがヘッドセットを外した。

 

「……さすがに酔いがきつくなってきた」

 

「初めてでこれだけ動けたの、すごいですよ」

 

「ふふ、楽しかった〜。またやりたい」

 

 和太郎さんが目を瞬かせている。ヘッドセットを外した直後の、現実に焦点が戻りきっていない顔。

 

「——さて、そろそろ帰らないと」

 

 和太郎さんがスマホを手に取った。画面を見て、止まった。

 

「…………え」

 

「どうしました?」

 

「終電……ない」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 終電が、なくなっていた。

 

 スマホをもう一度覗き込んだ。最終は十五分前に出ている。

 

「……あー」

 

 和太郎(わたろう)さんが、天井を見上げたまま固まっている。

 

「……明日って仕事休み?」

 

「休みです」

 

「ほんっと申し訳ないんだけど、始発までいさせてもらってもいい? 何もしないから!」

 

「……はい!?」

 

 両手をぶんぶんと胸の前で振っている。眉が下がって、目はまん丸。

 

「ほら、あの、ね? 何もしないからね!?」

 

(何を言っているんだ、この人は)

 

「——だってよ」

 

 低い声だった。和太郎の声だった。

 

おっさん(和太郎)美少女(紗雪)だぞ!? どう見ても通報案件じゃねえか! 何かあったら長文スクショ添付ツイートで晒されて、活動終了だからな!?」

 

 ——腹の底から声を出して、和太郎さんが言い放った。

 

 でも現実は真逆だ。女性と、普通の男。

 

 事案なのは、どっちかといえばこっちの方で——

 

「……っ、ふ」

 

 笑ってしまった。

 

 和太郎さんも笑っている。おじさんの声で、女の人の顔で。

 

「ね? だから大丈夫。——紗雪ちゃんじゃなきゃ、こんなことお願いできないし」

 

 和太郎さんがこちらをじっと見ている。返事を待っている顔だった。

 

 ——あの声を出すとき、和太郎さんの指先が少しだけ握り込まれていたのを、見なかったことにした。

 

「……わかりました。じゃあ、夜食でも買ってきます?」

 

「おっ、いいじゃん。いこいこ!」

 

 和太郎さんがくるりと玄関の方を向いた。さっきまでの低い声が嘘みたいに、肩の力が抜けていた。

 

 始発は、五時十三分。あと五時間。

 

◇ ◇ ◇

 

 戻ってきた頃には、夜風で頬が冷えていた。五月の深夜はまだ上着がいる。

 

 会計は和太郎さんが引き取った。「お邪魔するんだから」だそうだ。

 

 買ってきたお菓子をローテーブルに並べた。ポテチ、チョコ、グミ。

 

 袋の底に、歯ブラシが残っていた。

 

「あ、それ洗面所置いていい?」

 

「……どうぞ」

 

 和太郎さんが歯ブラシを持って洗面所に消えた。戻ってきたときにはもうポテチを開けている。

 

「せっかくだし、作業しよっか。BGM代わりに何か流す?」

 

「……じゃあ、誰かの配信アーカイブでも」

 

 ソファに並んで腰を下ろして、ローテーブルにタブレットを立てかけた。他の個人VTuberのアーカイブを流す。

 

 ——三十分後。

 

 俺たちはどちらも、作業を始めていなかった。

 

 ふと立ち上がった拍子に、冷蔵庫からお茶を出していた。コップを二つ並べてから手が止まった。

 

(……配信でもないのに)

 

 和太郎さんは画面から目を離さずにコップを受け取った。ありがと、と小さく言う声が、もう完全にだらけていた。

 

 お互いソファに体重を預けて、タブレットの方を向いている。お互いの顔は見えない。

 

 それだけで、なぜか声が出やすくなった。

 

「手だけのVTuberもいるんですね……右手ライトさん?」

 

「いるいる。この人ね、喋らないんだけど、手の動きが妙に達者で見てて飽きないんだよね」

 

「動きだけで……」

 

「うん。手だけぶんぶん振ったり、ピースしたり。何か伝わってくるんだよね」

 

「個人は何でもありだよ。商業みたいに売れなくてもいいし」

 

 話題が飛ぶ。タブレットの画面が変わるたびに、別の話になる。

 

「弟がさ、ゲーム実況始めたいとか言い出してて」

 

「弟さんいるんですか」

 

「うん。けっこう年離れててね、まだ——あっ、ちょっと待って待って、見てこれ」

 

 和太郎さんが急にタブレットを指差した。画面の中で、配信者がレトロゲーの隠し落とし穴に派手にハマっていた。

 

「あー、痛い痛い痛い。これ罠だってわかんないんだよなぁ」

 

「初見殺しですね……」

 

「私もこれ初見でやられたんだよね。同じとこで」

 

 時計を見ていなかった。見なくていい夜だった。

 

 ——レトロゲーの話題になった。画面に映った配信者が、昔のRPGのBGMを口ずさんでいた。

 

「あー、これ懐かしい。おじいちゃんの家にあったやつだ」

 

 和太郎さんの声が、一瞬だけ変わった。

 

「……おじいさん?」

 

「うん。おじいちゃんの影響でね、レトロゲーム」

 

 それだけだった。すぐに画面に目を戻して、「あ、この人のゲーム選び面白い」と話題が移っていった。

 

 ——口を開きかけて、やめた。和太郎さんの横顔が、もうタブレットの方を向いていた。

 

◇ ◇ ◇

 

「あ、ちとせさん配信してる。珍しい」

 

 タブレットの画面に、和風ロリアバターが映っていた。千歳飴モチーフの着物姿。配信中の乙奏(おとな)ちとせさんだ。

 

 俺はスマホで紗雪のアカウントを開いて、コメントを打ち込んだ。

 『こんばんは~。久々の配信ですね~』

 

 画面の中のちとせさんが「あ、紗雪ちゃん来てくれた〜! ありがと〜」と手を振った。

 

 隣で和太郎さんも、笑いながらスマホを操作している。

 

 『おっ、元気してたか~』

 

「和太郎さんも来た〜! 今日豪華メンバーじゃん」

 

 画面の中のちとせさんが嬉しそうに笑っている。

 

 ——和太郎さんと顔を見合わせた。

 

 ちとせさんの画面の中では、二人は別々の場所からコメントしているはずの知り合いだ。

 

 俺たちが今、同じソファでこれを見ながらコメントしていることなんて、想像もしていない。

 

「この前VRで会いましたよ」

 

「わーそうなんだ、元気だった?」

 

「たこ焼きでした」

 

「たこ焼き!?」

 

「パックの。六個入りの。手足が生えてる」

 

「なにそれ!? いや全然想像つかないんだけど」

 

 画面の和風ロリちとせさんは上品に喋っている。あのたこ焼きと同一人物だと思うと、深夜テンションも相まって笑いが止まらなくなった。

 

「あはは、VRの姿知ってると別物すぎるよね」

 

「かつお節が揺れてました」

 

「ぶふっ……いやだめ、想像したらだめ……かつお節がぁ……」

 

 和太郎さんが腹を抱えている。

 

 笑いが収まった頃、和太郎さんがタブレットの画面をぼんやり見たまま呟いた。

 

「ねえ、今のこの状況って何て言えばいいんだろうね」

 

「……リアルコラボ? ですかね」

 

「でもこれ配信じゃなくてシークレットだし」

 

「リアルシークレットコラボ……?」

 

「なっが。あと名前入れとこ。わたさゆで」

 

「わたさゆ……リアルシークレットコラボ」

 

「だから長いって。わたさゆシークレットでいいんじゃない」

 

 ——その名前が、妙にしっくりきた。

 

 長い名前が、二人の間で削られていく。「リアル」が落ちた。「コラボ」も落ちた。

 

 残ったのは二つだけだった。

 

「わたさゆシークレット。……いいですね」

 

「でしょ?」

 

 和太郎さんが膝を抱えて、満足そうに笑った。

 

 ——笑いが、少しだけ引いた。

 

 タブレットから配信の音だけが鳴っている。和太郎さんはもうこちらを見ていなくて、画面のちとせさんをぼんやり眺めていた。

 

 この人には言えない。誰にも言えない。

 

 言葉にしてしまうと、この時間が秘密になる。秘密になる、ということは——たぶん、もう普通じゃない。

 

 和太郎さんが何を考えているのかはわからなかった。膝を抱えた姿勢のまま、ただ画面を見ている。

 

 深夜の空気が、ほんの少しだけ静かになった。

 

◇ ◇ ◇

 

 タブレットの音が、遠くなっていた。

 

 お菓子の袋は空になっている。エアコンの微かな音。和太郎さんの声がゆるやかになって、返事が遠くなって——

 

 意識が、落ちかけた。

 

 ——柔らかいものに頭が触れた。肩だった。シャンプーの匂いが、近すぎた。

 

「——っ」

 

 跳ねるように身体を起こした。心臓がうるさい。

 

「す、すみません」

 

「いいよ別に。眠いなら寝なよ」

 

「あ、いえ、大丈夫です(あきら)さん」

 

 ——口から出ていた。

 

 和太郎さんが、ぴたりと止まった。

 

 俺の脳が、三秒遅れて理解した。

 

「あっ、いや、その」

 

「……ふふっ」

 

 和太郎さんが、口元を押さえて笑っている。半分本気で面白がっている顔だった。

 

「やっと呼んでくれた」

 

「……いや、寝ぼけてただけで」

 

「ふーん?」

 

「本当です」

 

「やだ、覚えとく」

 

 心臓がうるさい。完全に目が覚めた。

 

 俺は——もう眠れなくなっていた。

 

 仕方がないから、一緒にタブレットを見るふりをした。

 

◇ ◇ ◇

 

 窓の外が、白くなっていた。

 

 カーテンの隙間から差す光。タブレットもいつの間にか暗くなっていた。いつスリープしたんだったか——和太郎さんが消したのか、俺が消したのか、覚えていない。

 

 隣で和太郎さんが伸びをした。

 

「うわー、徹夜しちゃった。久しぶり」

 

「俺もです……」

 

 目の下が少しだけ重い。でも、嫌じゃなかった。

 

 和太郎さんがソファから立ち上がった。

 

「お茶でも飲む?」

 

「あ、俺が——」

 

「いいから座ってて。昴さん寝かけてたじゃん」

 

 和太郎さんが冷蔵庫を開けて、お茶を二つ出している。手慣れていた。

 

 ——うちの冷蔵庫なのに、俺より迷いがない。

 

「はい、お茶」

 

 コップを受け取る。冷たい。少しだけ目が覚めた。

 

 和太郎さんがローテーブルのお菓子の残骸を片付け始めている。これも手慣れていた。

 

 ——ちゃんと言わなきゃ。

 

「……和太郎さん」

 

「ん?」

 

「昨夜はすみませんでした」

 

「何が?」

 

「終電とか、色々」

 

 和太郎さんの手が止まった。

 

 こちらを見て、ふっと笑った。

 

「——楽しかったのに、なんで謝るの?」

 

「…………」

 

「私は楽しかったよ。わたさゆシークレット」

 

 お菓子の袋をゴミ箱に入れて、手を払った。

 

「またやろうね」

 

 玄関に向かう背中を見送った。

 

 ドアが閉まった。

 

 ——静かだ。

 

 ついさっきまで、この部屋には人の声があった。今はエアコンの微かな音が、天井から落ちてくる。

 

 ローテーブルの上には、お茶のコップが二つ。

 スリープしたままのタブレット。

 ソファのクッションには、二人ぶんのへこみ。

 

 洗面所には、二本の歯ブラシ。

 

 ——人がいた、ということだけが、部屋に残っていた。

 

 昨夜の感触は、まだ消えていなかった。

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