3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~   作:式守 芽衣

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第5話 はい、合流完了

 ドアが閉まった音が、まだ耳の奥に残っていた。

 

 ローテーブルのコップを、流しに運ぶ。二つ。

 

 タブレットは片付けた。

 

(……静かだな)

 

 静かなのに、昨夜までの賑やかさが、まだ耳の奥に残っていた。

 

 ——徹夜明けの疲れが、急に身体に落ちてくる。

 

 冷蔵庫を開けかけて、やめた。

 

 俺は、そのまま寝ることにした。

 

◇ ◇ ◇

 

 数日が経った。

 

 和太郎さんの配信日。夕方、スマホが震えた。

 

 『今日、ちょっと早めに行っていい? コンビニでよければ晩ごはん買ってくけど。リクエストある?』

 

 和太郎(わたろう)さんからのDMだった。

 

 『全然いいですよ! パスタ系があれば、それでお願いします』

 

 しばらくして、チャイムが鳴った。

 

「おじゃましまーす」

 

 薄手のロング丈プルオーバーにレギンス。手にはコンビニの袋。パスタに、中華丼。いつものプリンと炭酸水。

 

「リクエスト通り、パスタね。季節の和風のやつ」

 

「ありがとうございます」

 

 迷いのない足取りで、和太郎さんがリビングに上がった。

 

 洗面所の歯ブラシは、二本並んだまま。戸棚の中のコップは、定位置にある。

 

(……前からあったっけ)

 

 自分で買った記憶が、曖昧だった。歯ブラシの予備も、コップも、いつの間にか「そこにある」状態になっていた。

 

紗雪(さゆき)ちゃん?」

 

「あ、いえ。お茶、出しますね」

 

 冷蔵庫からお茶を出す。コップを二つ並べるのは、もう手癖だった。

 

 ソファに並んで、配信前の晩ごはんにした。

 

 和太郎さんは中華丼の蓋を開けて、割り箸を割った。

 

 ソファの上で胡座をかいて、かきこんでいる。

 

 ロング丈のプルオーバーが膝まで被さって、すっぽり収まっていた。

 

 タブレットで誰かのアーカイブを流しながら。

 

 俺も和風パスタのフィルムを剥がした。大葉の匂いがふわっときた。

 

 ——そうだ。

 

「そういえば」

 

 つい、口が動いていた。

 

「この前言ってた弟さんって、どんな感じの人なんですか」

 

 和太郎さんが、ふと目を瞬かせた。

 

「あれ、覚えてたんだ」

 

 お茶に視線を落とした。

 

「なんとなく気になって」

 

「ふーん」

 

 和太郎さんは、少しだけ笑って、お茶を置いた。

 

「弟ねぇ。けっこう年離れててね、まだ大学生」

 

「あ、そうなんですね」

 

「今はあんまり会わないかな。受験のとき何週間かうちに泊まりに来てたけど、それっきり」

 

 声の調子が、いつもより柔らかかった。和太郎の豪快さでもない、いたずらっ子のからかいでもない。——姉としての顔だった。

 

「最近ね、ゲーム配信にハマっちゃってて。自分もやりたいって——あ、VTuberじゃなくて顔出しの方ね。好きな配信者がいるらしくて」

 

「あ、顔出し」

 

「大学入ってから、そっち系にハマったみたいでね」

 

「そうなんですね」

 

「配信やりたいって言われたとき、無駄にドキッとしちゃってさ」

 

 和太郎さんが、困ったように笑った。

 

「……わかります。身内にそれ言われたら焦りますよね」

 

 話題が、自然に広がっていく。

 

「紗雪ちゃんとこ、最近コメント増えたよね。新しい人も来てない?」

 

「あ、わかります? 常連さんが話を振ってくれるおかげで、新規の人も書き込みやすくなったみたいで」

 

「いいねぇ。うちはね、古株がもう勝手に仕切ってくれてるから楽なんだけどさ」

 

「和太郎さんのところ、コメント欄の空気いいですよね。ツッコミの間とか絶妙で」

 

「あれは常連さんの芸だよ。私が育てたわけじゃない」

 

 タブレットの画面が切り替わって、誰かのVR配信が映った。薄暗い西洋の城の中を歩いている。壁に蝋燭が並んでいた。

 

「あっ、これ。ムチで敵倒すやつに似てない?」

 

「ああ、階段で落とされるやつ」

 

「それそれ! 子供の頃めっちゃやってた。思い出すなぁ」

 

 遠くを見るような目で、お茶をすすった。

 

(子どもの頃の和太郎さん、どんなだったんだろう)

 

 和太郎さんが、お茶のコップを両手で包んで、ふっと息をついた。

 

「なんかさー」

 

「はい?」

 

「自分ちみたいに落ち着くな、ここ」

 

 ——っ。

 

(……ああ、いや)

 

 曖昧に笑い返して、お茶をすする。

 

 ——この部屋に越してきた日の、何もなかった景色がよぎった。

 

 和太郎さんは何も気づかずに、画面を見ている。

 

「さ、そろそろ配信の準備しよっか」

 

 立ち上がって、ぐっと伸びをした。

 

「——よっしゃ、今日もいくかぁ!」

 

 和太郎の呼吸だった。

 

◇ ◇ ◇

 

 配信が終わって、和太郎さんが帰っていった。

 

 ドアが閉まった。

 

 ——静かだ。

 

 ローテーブルのコップを、流しに運ぶ。

 

 洗面所の歯ブラシが、二本並んでいる。

 

 ——どの動作にも、和太郎さんの痕跡があった。

 

(……いつのまに、こんなになったんだろう)

 

 口から零れそうになった言葉を、飲み込んだ。

 

 いつもの静けさのはずなのに、今日は落ち着かなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 数日後。

 

「来月から繁忙期なんだよね」

 

 配信前の準備をしながら、和太郎(わたろう)さんがぽつりと言った。

 

 ゲーミングノートを開いて、配信ソフトの設定を確認している。いつもの手つき。

 

「繁忙期、ですか」

 

 和太郎さんの仕事。小さな会社で、展覧会グッズの企画と、ショップ運営をしているらしい。ちゃんと聞くのは初めてだった。

 

「繁忙期自体は毎年あるんだけどね。今年はちょっと任されること増えちゃって」

 

 眉尻は下がっているのに、口元だけ少し嬉しそうだった。

 

「展覧会の開幕前がいっちばんヤバくて。グッズの納品とかショップ設営とか——土日も出なきゃいけないし」

 

「早くて20時退社かな。遅いと23時。流石にそこまでいったら翌日のことしか考えらんないけど」

 

「……きついですね」

 

「まあ仕方ないよ。配信はちょっとお休み増えるかも」

 

 何でもないように言って、画面をスクロールしている。

 

「止めたくはないんだけどね。せっかく最近、調子いいし」

 

 ……和太郎さんの地力と、この防音室。その両方があって、今の調子がある。言葉にはしなかった。

 

「でもさすがに毎回は無理だから、今日リスナーに言おうと思って。しばらく不定期になりますって」

 

「——そうですか」

 

(和太郎さんの配信が、減る)

 

 和太郎さんは配信ソフトに向き直ったまま、コーヒーに手を伸ばした。

 

「それにさ、最近あっちの部屋ほとんど寝に帰るだけだし。繁忙期はそういう日増えるから、ちょっとさみしいなって」

 

 笑っていた。でも、目がどこか遠かった。

 

「よし、準備おっけー。行ってくるね」

 

 和太郎さんが防音室に入った。

 

 俺はタブレットで配信画面を開いた。

 

◇ ◇ ◇

 

 20時。和太郎の配信が始まった。

 

『待たせたなっ! 昭和の良心、(あきら) 和太郎(わたろう)だ! 今夜も20時! 全員集合だぜっ!』

 

 おじさんの間合い。息遣いと抑揚だけで、喋りがおじさんになる。

 

 コメント欄が流れ始める。いつもの常連に混じって——

 

『最近の和太郎さん声の通りやばくない?』

『わかる 先月あたりから明らかに変わった』

『環境変えた? 音がクリアになってる気がする』

 

 ——俺の耳が、反応した。

 

 声を6割に殺していた和太郎さんが、防音室で全力を出せるようになった。

 

 俺もずっと聞いていた、この変化を。

 

 リスナーの耳が拾ってくれたのが、少し誇らしい。

 

 コメント欄に、ちとせさんの名前が見えた。

 

『ちとせ:和太郎さん最近すごくいいよね~。なんか余裕がある感じ?』

 

 ——あのときVRで言ってた言葉と、同じだ。今度はコメント欄で、みんなの目の前で。

 

『おっ、ちとせちゃんありがとよ~。マイクの位置ちょっと変えたんだ。それだけだぜ?』

 

 さらっと流して、話題が変わった。今日は90年代のハード周辺機器。

 

『今日はな、あの伝説のタワーの話するぞ。知ってるか?』

 

 和太郎さんの声を聞きながら、これまでのことを、ぼんやり考えていた。

 

『CDユニットの上に本体載せて——』

 

 ——音声機材を貸したのが、最初だった。

 

『さらに拡張ユニット突っ込んで——』

 

 ——防音室。終電。いろんな話をした。

 

『コンバーターまで噛ませる! もうね、見た目が完全にバカ。設計思想バラバラのものを積んでんだからな』

 

 ——これから、どうなるんだろう。

 

『でもな——動くんだよ、これが』

 

 コメント欄が笑いで流れた。

 

『積めば積むほど愛着湧くやつ』

『このメーカーだからこそ成立する無茶w』

 

『だろぉ? 無茶なのにちゃんと噛み合ってるとさ、なんか愛しくなるんだよなぁ!』

 

 ——手が、止まった。

 

 なんだろう。今の、妙に刺さった。

 

 常連がツッコミを入れて、新規の人もコメントし始めて。

 

 和太郎さんの声が、楽しそうだった。心底、楽しそうだった。

 

 ——配信の終盤。

 

『あ、そうだ。最後にちょっとお知らせがあるんだがよ——』

 

『何何!?』

『新企画?』

『和太郎さんのお知らせ楽しみ!』

 

 コメント欄が沸く。

 

 和太郎さんの声が——一瞬だけ、止まった。

 

 俺も、息を止めていた。

 

『……あー、やっぱ次にすっか! 今日はこのまま終わるぞ!』

 

『えーっ』

『じらすねー和太郎さんw』

『次回予告! 気になる!』

 

『わはは、悪い悪い。んじゃ今日はここまでだ! みんなありがとな! また次の配信で会おうぜ。チャンネル登録、高評価よろしくな!』

 

 配信が終わった。

 

 防音室のドアが開いた。

 

「……言えなかった」

 

 小さな声だった。さっきまであんな声を出していた人とは思えないくらい、肩が小さくすぼんでいた。

 

◇ ◇ ◇

 

 冷たいお茶を出した。配信後の、いつもの。

 

「……あそこで言わなくてよかったと思いますよ。あの空気で言ったら、和太郎さんが一番つらいじゃないですか」

 

 少し間があった。

 

「……ありがと」

 

 和太郎さんがコップを受け取った。結露で指が濡れる。防音室は空調を切って配信するから、5月はもう暑い。

 

 お茶を一口飲んでから、ぽつりと言った。

 

「盛り上がってるのにさ、水差せないじゃんね。声のこと言ってもらえて——嬉しかったし」

 

 ——さっきの配信のことだ。タブレット越しに、ずっと見ていた。

 

 リスナーが音質を褒めるのも、ちとせさんが「いいよね」と言うのも、和太郎さんが嬉しそうに笑うのも。お知らせを飲み込んだ瞬間も。

 

 全部、見ていた。

 

 ——何か、できることはないか。

 

 和太郎さんのコップに、水滴がゆっくり伝っていく。

 

「毎回20時は無理でも、できる日はありますよ」

 

 和太郎さんが顔を上げた。

 

「……え?」

 

「少し遅くなる日だけ、開始時間ずらすとか。来れる日だけでも使ってください」

 

「……でも、遅くなると帰るのしんどいし。紗雪ちゃんの配信もあるし」

 

「そこは上手く調整しましょう。紗雪の配信予定は多少融通も効くので大丈夫です」

 

「そうは言ってもなぁ……ん?……いっそ、ここから職場通った方が早い?」

 

 ——それだ。

 

「……あ、ごめん。今の、さすがに巻き込みすぎ――」

 

 和太郎さんの言葉を遮るように言った。

 

「部屋は分けられますし、問題ないと思います」

 

 ——和太郎さんの目が、一瞬だけ大きくなった。

 伸びかけた手が、行き場をなくしたみたいに宙で止まる。

 

「……え」

 

「繁忙期の間だけ、お試しで。そうしましょうか」

 

 自分でも驚くくらい、自然に出た。配信と生活の問題を、最短距離で解決しただけだ。

 

 ——なのに、一瞬、何かが引っかかった。

 思わず、目をそらした。

 

(……和太郎さんの配信が止まる方が、問題だ)

 

 タブレットを引き寄せた。地図アプリを開く。

 

「職場、ここですよね」

 

「うん」

 

「和太郎さんの部屋が、ここ」

 

「うん」

 

「うち、この間なんですよ」

 

「……ほんとだ」

 

 和太郎さんが身を乗り出して画面を覗き込んだ。肩が触れそうな距離。

 

 俺が経路をタップすると、和太郎さんの指も画面に伸びてきて「ここ乗り換え」と駅をなぞった。指が交差する。

 

 目が、真剣だった。配信のときとは違う、素の目。完全に、打ち合わせの顔だった。

 

「20時に出たら、20時半には着きますよね。配信を21時開始にずらすのはどうですか」

 

「……いける。できないよりずっといい」

 

「23時退社の日は配信なし。次の日もあるし、無理はしない」

 

「うん」

 

「じゃあ紗雪(さゆき)ちゃんの配信は?」

 

「スケジュールが被らないように調整すれば問題ないです。紗雪の方は融通ききますから」

 

 和太郎さんが、タブレットから顔を上げた。

 

「……迷惑じゃない?」

 

 和太郎さんが、少しだけ声のトーンを落とした。冗談ではなくなっていた。

 

「効率の問題ですし。生活リズムは……こっちで合わせます」

 

「遅い日は無理せず、配信できる日だけ回しましょう。荷物も最低限でいいです。必要になったらその都度考えれば」

 

 和太郎さんが、じっとこちらを見ていた。

 

 ……なんだろう、この顔。眉が少し下がって、口が半開きのまま止まっている。

 指先が落ち着かなさそうに、タブレットの縁を行ったり来たりしていた。

 

 驚いているのか、困っているのか、どちらとも読めなかった。

 

 ——ふっと、和らいだ。

 少しだけ、はにかんだ。

 

「じゃあ、お試しルームメイト……毎日、わたさゆシークレットだね」

 

 タブレットの地図が、まだ二人の間にある。職場と、うちと、水野さんの部屋が、一直線に並んでいる。

 

◇ ◇ ◇

 

 お試しが決まった後も、何も変わらなかった。

 

 いつものお茶。いつもの距離。和太郎さんはソファで足を投げ出して、さっきの地図をスクロールしている。

 

 決まる前と、決まった後が、同じ景色だった。

 

「——あ、やば」

 

 和太郎さんが急に顔を上げた。時計を見て立ち上がる。

 

「終電!」

 

 バタバタと玄関に駆けていった。靴を引っかけて、ドアノブに手をかける。

 

「急いで帰って、明日着替えとか持ってくるね!」

 

「……はい」

 

「じゃ、明日な! うぉお!」

 

 和太郎モードの声だった。

 

 ドアが閉まった。

 

 ——と思ったら、開いた。和太郎さんが顔だけ覗かせる。

 

「……ありがと」

 

 小さな声だった。和太郎じゃない、素の声。

 

 ドアが、もう一度閉まった。

 

 ——静かだ。

 

 ローテーブルにコップが二つ。タブレットが、まだ地図を映している。

 

 玄関に、和太郎さんのスリッパが揃えてある。

 

 タブレットの地図を閉じた。画面が暗くなる。

 

 あの終電を逃した夜も、ドアが閉まって、こうなった。

 

 「いない方が落ち着かない」と思った、あの夜も。

 

 同じ静けさのはずだった。

 

 ——でも、違う。

 

 この静けさは、何かが減った音じゃなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 昼下がり、駅まで迎えに行った。

 

 改札を出てきた和太郎(わたろう)さんは、キャリーケースと、大きめの紙袋。背中にはリュックまで背負っている。両手どころか、肩まで塞がっていた。

 

「紙袋、持ちますよ」

 

「——ありがと。これ重いから気をつけて」

 

 紙袋を受け取った。ずっしり重い。何が入ってるかは、聞かないでおく。

 

◇ ◇ ◇

 

 玄関のドアを開けた。

 

「おじゃましまーす」

 

「——じゃなくて」

 

 一拍。

 

「これからしばらく、よろしくお願いします、でいいのかな?」

 

「……こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 俺の声は少しぎこちなかった。

 

 和太郎さんが少しだけ笑って、靴を脱いだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 キャリーケースを開けながら、和太郎さんが中身を出していく。

 

 着替えのポーチ。タオル類。仕事用のスーツ。

 

 そして——

 

「……あれ」

 

 出てきたのは、手のひらサイズの『ゲーム機タワー』だった。CDユニットの上に本体、その上に拡張ユニット、コンバーターまで。公式の再現ミニ版。

 

「……それが最低限なんですか」

 

「最低限だよ」

 

 和太郎さんが真顔で言った。

 

「これ無いと落ち着かないし」

 

 配信机の上に、慎重に置いた。

 

 配信で熱弁してたやつだ。

 キャラ作りでも配信ネタでもなく、本当に愛してる人の所作。

 

(……愛しくなるんだよなぁ、か)

 

 昨夜の配信の言葉を受けたものが、今、机の上に置かれている。

 

◇ ◇ ◇

 

 一段落してから、冷たいお茶を出した。

 

 和太郎さんがソファに座って、タワーを眺めている。

 

 ポケットから合鍵を取り出した。午前中のうちに、合鍵屋に寄っておいた。

 

「そういえばこれ、渡しておきます。基本的に在宅ワークがほとんどですが、外に出ることもあるので」

 

 差し出す手が、一瞬だけ止まった。

 

 この部屋の鍵を誰かに渡すのは、初めてのことだった。

 

「あ、ありがと。ルームメイトだもんね」

 

 和太郎さんが受け取って、バッグから何かを引っ張り出した。

 

 ——ファミコンカセットだった。

 

 本物。手のひらサイズ。表面に色褪せたシール。角に穴が開いていて、ボールチェーンが通してある。

 

「……え、それ本物ですか」

 

「うん、本物。端子は生かしてあるから、ちゃんと動くよ」

 

「穴、開けたんですか」

 

「開けた。こないだ配信で実際に使ってたのも、これ」

 

 誇らしげだった。

 

(……マジで)

 

「ちゃんと動くんだぜ? この鍵も、カセットも」

 

 和太郎さんの生声が、ふっとおじさんになった。

 

「……いい、ですね」

 

 他に、なんて言えばいいのかわからなかった。

 

 ——膝の高さでやられる、伝説的に弱い主人公の、本物の、今も現役の、カセットに、穴を。

 

 和太郎さんが、合鍵を取り付けようとリングに指をかけた。硬くて、なかなか開かない。

 

「……あ、貸してください」

 

 俺が代わりに押し開いて、合鍵を通した。カチリ、と小さく音が鳴った。

 

 和太郎さんが両手で受け取った。

 

「——わあ」

 

 そのまま目の前に掲げて、ゆらり、と揺らしてみせる。カセットが振り子みたいに揺れて、新しい鍵が光を拾った。

 

 見たことのない顔だった。

 

 歯を見せて笑っている。目尻が下がって、自分の宝物を誰かに見せたくてたまらない人の顔。

 

(……こういう顔、するんだ)

 

「はい、合流完了」

 

 カセットと、他の何やらと、新しい鍵が、じゃらっと音を立てた。

 

 新しい鍵だけが、やけにピカピカだった。

 

 寝る場所の話になった。和太郎さんは防音室。配信のある日もない日も、ここで寝起きする。俺は仕事部屋かリビング。

 

 昨日言った「部屋、分けられますし」が、現実の運用になっていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 夕方、二人で買い出しに出た。

 

 和太郎さんの布団と、足りない生活用品。

 

 ホームセンターの売り場。和太郎さんが、低反発の枕を手に取って重さを量っている。

 

「和太郎さ——」

 

 言いかけて、止まった。

 

 結局、こぼれた。

 

(あきら)、さん。その低反発、俺も気になってたんですよね」

 

 一拍。

 振り向いた和太郎さんが、にんまりと笑った。

 

「配信外でも、なんなら配信でもその呼び方でいいよ〜。そういう名前だし〜」

 

(……配信で?)

 

「……ま、家の中では和太郎さんでもいいけどね?」

 

 満足げに、枕をカゴに入れた。

 

 帰り道、スーパーでパック寿司を二人分買った。お祝いだから、だそうだ。

 

◇ ◇ ◇

 

 玄関のドアを開ける。

 

「ただいま〜」

 

 ——あのときの「ただいま」。

 今度は、言葉で来ている。

 

「おかえりなさい」

 

 出かける前のぎこちなさは、もう消えていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 寿司をテーブルに並べて、二人で食べた。

 

 食べながら、明日からの配信の段取りを詰めた。

 

 基本的に21時開始。紗雪は合間に差し込む。あとはその日の忙しさで適宜調整。

 

 話もおちついたところで片付けて、お茶を出した。

 

 和太郎さんがソファで足を投げ出している。俺はいつもの位置にいる。

 

 ——何度目かの、いつもの夜だった。

 

 その夜、和太郎さんがあくびをしながら言った。

 

「明日から繁忙期かぁ。でも、配信もやるぞ〜」

 

 穏やかに言った。大変だ、とは言わなかった。

 

 俺は、何か返したかった。何も思いつかなかった。

 

 ミニサイズのあのタワーが、机の上で静かに立っている。

 

 電気を消しかけて、ふと玄関を見た。

 

 靴箱の上に、合鍵のキーホルダーが置いてある。

 自分の鍵と、並んでいた。

 

(……なんで、こんなに落ち着くんだろう)

 

 仕事部屋の布団に入って、目を閉じた。

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