3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~   作:式守 芽衣

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第6話 同居初日

 玄関のドアが、開いている。

 

 中を見ている。

 

 空っぽの部屋。家具はない。音もない。

 

 壁が遠い。

 

 手のひらに、鍵があった。

 

 指の間から、こぼれていった。

 

 足元を見た。鍵は、なかった。

 

 自分の影も、なかった。

 

 じゃあ、俺には——

 

 ——ドォン。

 

 壁が、鳴った。

 

◇ ◇ ◇

 

「――っ!」

 

 息を吸って、まぶたを開けると、見慣れた天井があった。

 仕事部屋の布団の上だった。

 

 朝の光が、カーテンの隙間から斜めに差している。

 

(……今の音、なんだった?)

 

「……いったぁ……」

 

 壁の向こうから、くぐもった声がした。

 

◇ ◇ ◇

 

 仕事部屋の引き戸を開けると、リビングの壁際に和太郎(わたろう)さんがいた。

 

 ぶかっとした紺色のジャージに、寝癖の残った髪。

 

 目元に何も入っていなくて、唇の色も薄かった。

 

 片手で、額を押さえている。

 

「あ、おはよー。起こしちゃった? ごめーん。寝ぼけて、壁にぶつかった……」

 

「……おはようございます。大丈夫ですか」

 

「うん、ぼちぼち」

 

 俺は台所に立って、コーヒーを淹れ始めた。二人分。

 

(……朝早くに会うの、初めてだな)

 

 そうだ、繁忙期の間だけ、和太郎さんが配信継続の為にここに住むことになったんだった。

 

 決まってからここまでがあまりにも早すぎたから、まだ実感できていない。

 

 マグカップを二つ、テーブルに置いた。

 

「ありがと」

 

 和太郎さんが、湯気越しにぼんやり、マグカップを手に取った。

 

「……」

 

「……紗雪ちゃん?」

 

「……あ、はい」

 

「さては、紗雪ちゃんも寝ぼけてるな?」

 

 和太郎さんが、欠伸をかみ殺しながら笑った。

 

 窓の外は、いつもの平日の朝だった。

 

(……いつもの朝に、誰かがいる)

 

 慌ただしくて、まだ慣れない。

 

 けれど、いつもの静寂とは、違う朝だった。

 

◇ ◇ ◇

 

 しばらくして、和太郎さんが時計を見上げた。

 

「やばっ、もうこんな時間!?」

 

 マグをテーブルに置いて、ソファから立ち上がる。

 

「やばいやばいやばい」

 

 洗面所に駆け込む音。水を出す音が続いて、ドライヤーが唸り始めた。

 

 しばらくして、髪を一本の束にまとめた和太郎さんが戻ってくる。

 

 「着替えてくるっ」と言って、そのまま自室に駆け込んでいった。

 

 ——キャリーケースを開ける音。バタバタと動く気配。

 

 俺は、マグカップを両手で包んで、その音をぼんやり聞いていた。

 

 ほどなく、白いブラウスに黒のスラックス姿で、和太郎さんが戻ってきた。ジャケットは肘にかけている。

 

 化粧ポーチを開けて、テーブルにスマホを立てる。鏡の代わりらしい。

 

 手早い手つきで、顔に色を乗せていく。目元——片目、もう片目。最後に口紅。

 

 ジャケットを羽織りながら、立ち上がる。

 

 そのまま玄関へ駆け込んだ。

 

 俺もマグカップを置いて、急いで玄関へ向かう。

 

 和太郎さんはパンプスに足を突っ込んでいた。片足だけ。

 

 もう片方のパンプスに足を伸ばしかけた。

 

 ふと、腕時計に目を落とした。

 

「……あ」

 

 何かに気づいたように、固まる。

 

 片足パンプス、片足裸足。化粧も髪も、完成している。

 爪先が、床のパンプスの上で宙に浮いたまま、止まっている。

 

 苦笑いが、口元にこぼれる。

 

「……まだ、余裕あった」

 

 玄関で、そのままの姿勢で止まっていた。

 

「……前より近くなったの、忘れてた」

 

「……」

 

 俺は、廊下の奥で、立ったまま、動けなかった。

 

「……軽く、何か食べる時間ありますか? パンでも焼きますよ」

 

「助かる~。まだ何も食べてなかったんだよね。時間は大丈夫」

 

 和太郎さんがパンプスを脱いで、リビングに戻ってきた。

 

◇ ◇ ◇

 

 パンを焼く香ばしい匂い。コーヒーも淹れ直した。

 

 ソファに、二人で並んだ。

 

「ごめんね、用意してもらっちゃって」

 

「いえ」

 

 トーストにバターを塗りながら、和太郎さんが、コーヒーの湯気を吸い込んだ。

 

 そのまま、一度、深呼吸をする。

 

「今日のコラボ、遅れても大丈夫なように組んでありますから」

 

 同居初日の配信は、コラボで、俺——紗雪さえいればなんとか回るようにしておいた。

 

「おー、助かるわぁ」

 

「二十一時から紗雪で始めます。和太郎さんの機材もセッティングしておくので、帰ってきてすぐ合流できますよ」

 

「ありがと、マジで。なるべく早く帰るよ。今日はどんなに遅くても二十一時半には合流できるはず」

 

 しばらく、二人で黙ってコーヒーを飲んだ。

 

 やがて、和太郎さんがマグカップを置いた。

 

◇ ◇ ◇

 

 和太郎さんが、もう一度玄関に立った。

 

 今度は両足ともパンプス。鞄も肩にかけている。

 

「それじゃあ、いってくるぜ」

 

 ふっと、和太郎さんの息遣いになった。

 

「いってらっしゃい」

 

 ドアが閉まった。

 

 一瞬だけ、ヒールの音が、廊下を遠ざかっていく。

 

 その音も、すぐに聞こえなくなった。

 

◇ ◇ ◇

 

 静かだった。

 

 靴箱の上を見た。

 俺の鍵だけが、残っていた。

 

 リビングに戻った。

 

 テーブルの上には、マグカップが二つ並んでいる。

 机の上には、あのタワーが、朝の光の中で静かに立っていた。

 

 スマホのメモアプリで、配信の段取り表を開いた。

 

 紗雪、二十一時から。和太郎、二十一時半合流。

 

 その下に、今日の自分の予定を書き足した。

 十時、仕事の定例リモート会議。午後も仕事の続き。

 

 二十時半までに、紗雪の準備。

 

 和太郎さんの配信卓も事前セッティング——帰ってきてすぐ入れるように。

 

(……忙しくなる。けど、今日が山場だ)

 

 ふと、玄関のほうに目をやった。

 

 玄関にあるのは、俺のスニーカーだけだった。

 

 視線を戻す途中で、二つのマグカップが、もう一度目に入った。

 俺は、和太郎さんの側のマグに、指先で触れた。

 ほんのりと、ぬるかった。

 

 朝の夢が、ふいに、頭の隅で蘇りかける。

 

 首を、軽く振る。

 

(……今の俺は、ここにいる)

 

 新しい日常が、始まっていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 仕事が終わった。

 昼の会議も、午後のメールも、気がつけば片付いていた。

 

 机の上の時計は、二十時を指していた。

 

 俺は和太郎(わたろう)さんの配信卓の前に立ち、PCのセッティングを済ませる。

 和太郎さんが帰ってきたら、すぐに配信に入れるようにしておいた。

 

 机の上のメモに、今日の段取りが書いてあった。

 ——二十一時半合流。

 

 スマホで時刻を確認する。二十時二十七分。

 

 俺は自分の仕事部屋に戻った。

 

 ヘッドセットを手に取る。コントローラーを手首のストラップで固定する。

 

 VRゴーグルを被った瞬間、俺は夜空紗雪(よぞらさゆき)になった。

 

◇ ◇ ◇

 

 二十一時、配信開始。

 

『こんきちぃ〜! 夜空紗雪だよぉ〜』

 

 紗雪の挨拶。アバターの手がフリフリと動く。

 

 「こんばんは」と、いつの間にかリスナーが呼び始めたニックネーム「さゆきち」が合わさって「こんきちー」。

 

 誰が最初に言い出したかは、もう誰にも分からない。

 

 気がつけば定着していた挨拶だった。

 

『今日は和太郎さんとのコラボ回だよ〜。でも、和太郎さん、お仕事で少し遅れちゃうから、先に紗雪一人でVRワールド巡り始めるよ~』

 

 コメントが流れ始めた。

 

『こんきちー』

『最近さゆきち可愛くない?』

『今日キレッキレ』

『さゆきちが楽しそうで俺も楽しい』

 

 流れるコメントを、紗雪が目で追った。

 

(……最近、紗雪でいるのが、楽しい)

 

 まずは昭和レトロのワールドに降り立った。

 

 狭い路地。古い商店街。軒先に吊り下げられた赤い提灯。夕焼け色の光。

 駄菓子屋のガラス戸の向こうに、ラムネの瓶が並んでいるのが見えた。

 

『わあ〜、すごい再現度! 紗雪、こういうの好きなんだぁ』

 

 駄菓子屋のガラス戸を覗いた。

 ラムネ、ハッカ飴、ゼリービーンズ。

 瓶のラベルが、どれも少しだけ色褪せていた。

 

『これ、見覚えあるなぁ。子供のころ、こういうの、見たかも』

 

『わかる』

『駄菓子屋ってまだあるよね』

『紗雪ちゃん、昭和生まれ?』

 

『ふふ、世代がバレちゃう〜』

 

 三輪車の横に立って、少しかがんだ。

 

『これ、乗ってみたい』

 

『乗れるかもw』『VRだから制限なしw』『紗雪ちゃんそれは画になりすぎるw』

 

 紗雪は笑って、三輪車にまたがるポーズを取った。

 もちろん、アバターが大きすぎてサドルに座れなかった。

 

『無理だったぁー!』

 

 両手をぱっと上げて、バンザイした。

 アバターの髪が、ふわりと跳ねる。

 

 コメント欄が「www」で溢れた。

 

『和太郎さんがね、昭和レトロとか詳しいからさ、一緒に歩きたかったんだぁ』

 

『紗雪ちゃん優しい』

『和太郎さんに見せたかったのね』

『良い娘さんや』

『娘ってwww』

 

 アバター越しに、俺も夕焼けを浴びていた気がした。

 

 ここ数日、和太郎さんの配信を隣の部屋から聞いていた。

 画面越しに見るのとは、違う密度で聞こえた。

 

 リスナーを楽しませたい、という芯が、もっとはっきり見えた。

 

 ——魂ごと和太郎になるの。

 

 初めて会った日、喫茶店で和太郎さんが言っていた。

 俺も、そうなってみ——

 

 視界の隅に、通知が光った。

 

 ——【和太郎】あと5分でつく!

 

 紗雪の手が、一瞬、止まった。

 

『あっ、えっと……』

 

 言葉が、続かなかった。

 

『紗雪ちゃん?』『どうした?』『急にどうしたw』

 

『な、なんでもない、なんでもない〜。えーっと、和太郎さん、もうすぐ合流できるって!』

 

『おお!』『和太郎さんきた!』『待機』

 

 紗雪の口調が、さっきまでと違った。

 俺は、自分の声に、紗雪の皮をもう一度被せようとした。

 

 被せきれなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

 時計の針が、二十一時半に近づいた。

 

 視界の隅に、通知が光った。

 

 ——【和太郎】着いたー

 

 肩に、ぽんと手が触れた。

 

 その数十秒後、通話ソフトの向こうから、ボイチェン越しの和太郎さんの声が届いた。

 

『よっ、紗雪ちゃん、遅れてすまん!』

 

 触れた温度と、届いた声が、ネットワークの遅延でズレていた。

 

 ——生身が先、アバターが後。

 

 俺は、それを噛みしめた。

 

『わ、和太郎さん、おかえり〜』

 

 紗雪の口調を、なんとか戻す。

 壁の向こうにいる本人の気配は、消えなかった。

 

『待ってたよー和太郎さん』『おかえりー』『合流きたー』

 

『そしたらさ、早速ワールド回ろうぜ。紗雪ちゃん、案内してくれよ』

 

『え〜、プレッシャー〜』

 

『大丈夫大丈夫、適当でいいからさ。俺の配信モットー、適当が一番』

 

『もう和太郎さんテキトー〜』

 

◇ ◇ ◇

 

 和太郎の2Dアバターが、配信画面に現れた。

 

 VRの3Dと、2Dは、同じ世界には入れない。

 配信ソフト上で、無理やり重ねているだけだ。

 

 マウスのポインタが和太郎を掴んで、すすすと動かす。ホイールで大きさも変わる。

 

 「いかにも操作している」のがそのまま画面に映る。

 没入感としてはちょっと残念な絵。

 

 でもリスナーはそれごと、「同じ場所にいる」感覚として楽しんでくれる。

 

 俺は指示に従って動く、ただの被写体。

 

『紗雪ちゃん、そこの駄菓子屋の前で止まってくれや』

 

 指示通り、駄菓子屋の前に立つ。

 

『もうちょい左。……うん、そこで、ピース』

 

 得意げにピースした。可愛くなるよう、手の方向に首をかしげる。

 

『俺はここで……』

 

 和太郎が、紗雪の隣にすっと寄った。

 

『よし、せーの!』

 

 シャッター音。

 

『画になるぅw』『てぇてぇ』『父娘っぽいw』

 

 ここでの撮影はOK。次のワールドへ飛んだ。

 

 派手な照明。ターンテーブル。七〇年代の歌番組セット。

 

『紗雪ちゃん、センターでマイク持ってくれ』

 

 マイクを握るポーズを取る。

 

『ちょっと身を反らす感じで。そう、もっと……あ、もうちょっと前傾。そうそう』

 

 和太郎さんの声に従って、身体を動かす。歌っているような姿勢って、こうかな?

 

『俺はこっちで、サムズアップな』

 

 和太郎のアバターが、ステージ端で親指を立てた。

 

『マイクに口寄せる感じで。うん、いいじゃねえか』

 

『はい〜』

 

『いいねぇ! じゃあ、せーの!』

 

 シャッター音。

 

『紗雪ちゃん言いなりw』『和太郎さんの構図センスいい』『これアーティストの新譜ジャケ』

 

 ちょっとだけ得意げに、ポーズを保った。

 

 ——和太郎が、画面の向こうで構図を決めている。

 それに合わせて、紗雪がポーズを取る。

 

 入り込んでる、と思った。

 けれど、心地よかった。

 

『じゃあラスト、あのスナックな』

 

 狭いカウンター。低い天井のランプ。昭和柄の壁紙。赤いスツールが二つ。

 

『紗雪ちゃん、カウンター座ってくれ』

 

 スツールに腰掛けて、カウンターに肘を置く。

 

『俺はここで……』

 

 和太郎が、紗雪の隣のスツールに現れた。

 

『おっ、結構近いな』

 

 和太郎の声に、笑いが混じっていた。

 壁越しの生声が、かすかに笑っていた。

 

『グラス持って、紗雪ちゃん』

 

 用意されていたグラスを手に取る。

 和太郎さんは、2Dグラスのアイコンを手の位置に重ねる。

 

『じゃあ、せーの! 乾杯!』

 

 シャッター音。

 

 コメント欄が、洪水になった。

 

『事案www』

『娘を飲み屋街連れ回すパパじゃんw』

『スナックで何してるんですかw』

『てぇてぇてぇてぇ』

『いや幼女連れ回し案件だろww』

『警察呼んでw』

 

 和太郎が、カウンターの向こうで大笑いした。

 

『おいおいおい、事案ってなんだ事案って。バーチャルに事案はねぇだろ』

 

『そーそー、同意の上だから〜』

 

 紗雪も、グラスを掲げて、声を上げて笑った。

 

◇ ◇ ◇

 

 配信終了ボタンを押した。

 

 紗雪のアバターが、視界から消えた。

 

 俺はコントローラーを置いた。

 ヘッドセットを、ゆっくり外した。

 

 耳に張り付いていた音が、遠ざかる。

 頬に、素の空気が触れた。

 

 部屋の空気が、急に、重くなった気がした。

 

 机の前に、両手をついた。

 

(……やりきった)

 

 隣の配信室から、慌ただしい足音が近づいてきた。

 

 仕事部屋の引き戸が、勢いよく開かれた。

 

「紗雪ちゃーん、お疲れー!」

 

 アキラさんが、目を輝かせて立っていた。

 和太郎じゃない、素の声。

 

「めっちゃ楽しかったー!」

 

「楽しかった……!」

 

 気づけば、口から出ていた。

 

 アキラさんが、にんまりと笑った。

 

「お疲れさまでしたー! 一杯やろっか」

 

 俺も後を追って、リビングへ向かった。

 

 アキラさんが、冷蔵庫を開けた。

 取り出したのは、缶チューハイが二つ。

 

「写真見ながら」

 

「お、いいですね」

 

 ソファに並んで、PCの画面を開いた。

 スクショがいくつも、並んでいた。

 駄菓子屋の前。歌番組のステージ。そして、スナックのカウンター。

 

 最後のスナックの写真で、俺の視線が止まった。

 

 並んで座っている紗雪と和太郎。

 暖色のランプの下、乾杯のグラス。

 

 画の中に、紗雪も和太郎さんもいた。

 ——中の人は、壁一枚向こうにいて、同じ家にいる。

 

「昴さん、コレ、あとで送るね」

 

「はい……和太……(あきら)さん」

 

 アキラさんは、スクショをゆっくり並べ直していた。

 その手つきが、配信中の構図指示と、同じテンポだった。

 

 アキラさんが、チューハイの缶を掲げた。

 

「お疲れ、乾杯!」

 

 俺も、缶を掲げた。

 

 配信のスナックとは、違う乾杯だった。

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