3D彼女♂とレトロ彼氏♀ ~男女あべこべVTuber、中の人ごと好きになる~ 作:式守 芽衣
『いぇーい——』
腕を突き上げて、ぴょんと跳ねる。
——まだだ。
ヘッドセットの中で、一度、息を整える。
仕事はとっくに終わっている。
机の上の時計は、二十時を少し過ぎていた。配信まで、あと一時間弱。
スマホが、光った。
——【和太郎】今日は遅くなりそう。夕飯も済ませて帰るね。
——【和太郎】二十二時くらいに着くと思う~。
「お、余裕あるな」
独り言が漏れた。
今日は、紗雪のソロ配信の日。
和太郎さんが帰ってくる前に、終わらせたい。
——本番で、決める。
手首を振って、一度、力を抜いた。
冷えたお茶を一口、喉を湿らせる。
ボイチェンを通した声を、もう一度確認する。
「こんきちぃ〜」
うん、可愛い。
——紗雪が、俺に宿った。
◇ ◇ ◇
二十一時、配信開始。
『こんきちぃ〜!
紗雪の挨拶。アバターの手がフリフリと動く。
『今日は一人で、まったりやっていくよぉ〜』
コメントが流れ始めた。
『こんきちー』
『キレッキレ期待』
『最近の紗雪ちゃん可愛さ覚醒してない?』
(……やっぱり、そう思われてる)
紗雪モードの、少し深いところで、そう思った。
ここ最近、アバターの動きが、身体に馴染んできている。
ふとした時に、手が、勝手に可愛いポーズを取ろうとしている。
俺の方が、紗雪に引きずられている感覚があった。
——多分、気のせいじゃない。
『じゃあ〜、久しぶりに動いてみようかな〜』
VR空間で、軽く手を振る。
アバターの髪が、ふわりと揺れる。
『おー』『動いてる!』『相変わらずぬるぬる』
『実はね、最近、特訓してたんだよぉ』
『おお!』『何の特訓!?』『気になる!』
『ふふふ、見てのお楽しみ〜』
少し、タメる。
『じゃあ、いっちゃうよ〜、せーのっ』
心拍が、少し上がった。
——失敗したら、また恥ずかしいぞ。
両手をぐっと握って、胸の前に引き寄せる。
腰をちょっとひねって、顔を斜め上に向ける。
肘を引いて、タメて——
『いぇーいっ!』
勢いよく腕を突き上げて、ぴょんと跳ねる。
アバターがくるっと半回転した。
——決まった。
『可愛ええぇ!!』
『すげえw前はできなかったのにw』
『紗雪ちゃんかっこいい!』『かわいい!』
『でしょ〜? 特訓したんだよぉ〜』
以前、和太郎さんに教わって、できなかったやつだ。
一人で、何十回も練習した。
やっと身体が覚えた。
『他のポーズもあるよぉ。見たい?』
『見たい!』『全部見せて!』
くるりと回って、手を頬に添える「えへへ」ポーズ。
両手で顔の横にハートを作って、覗くように。
片足を上げて、軽くジャンプ。
最後に、腰を少しひねって、カメラに肩越しの流し目。
『さゆきち進化してる』
『ほんと可愛い』
『これでバ美肉ってんだから、可能性感じるなあ』
『言うな言うな』
いつものメンバーが、楽しそうに返してくれる。
——やった。
一人で何十回もやり直した。
モニターに映る紗雪を、何度も見直した。
身体が覚えるまで、繰り返した。
紗雪モードの高揚が、頂点に近かった。
◇ ◇ ◇
——あ、時間過ぎてる。
紗雪モードで喋っていると、時間の感覚が曖昧になる。
『じゃあ、そろそろ時間だね。今日はここまで〜』
配信を終えるボタンに手を伸ばす。
『さゆきち、またね〜』
『お疲れ〜』
『今日も可愛かった』
『おつきち〜、またね〜!』
アバターが手を振る。
配信終了ボタンを押した。
紗雪のアバターが、視界から消える。
俺は、ヘッドセットに手をかけた。
——そのとき、背後から声が降ってきた。
「すごいじゃん! かわいい〜!」
ヘッドセットを外しかけた手が、止まった。
ギギギ、と音がしそうな勢いで、俺は首だけ振り返った。
仕事部屋の引き戸が開いていて、リビングにアキラさんが立っていた。
——いつから、そこにいたんだろう。
ジャージ姿。髪の先が、まだ少し湿っている。
思ったより早く帰れて、シャワーまで済ませたらしい。
目を輝かせて、腕を組んで、にこにこしていた。
「み、て、たんです、か」
声が、震えた。
「見てた見てた! ちょっと早く帰ってこられてさ。ポーズも様になっていいじゃん!」
——ッ。
頬が、一瞬で熱くなった。
「声もいい感じ。まさに紗雪ちゃん! って感じ。あ、あと」
アキラさんが、思い出したように、付け加えた。
「生声だとオネエっぽくなるんだね?」
俺は、力が抜けたように、その場にへたり込んだ。
床に、ずるずると、両手が滑り落ちた。
(……大丈夫、まだ致命傷だ)
「ちょっと紗雪ちゃーん、そんな恥ずかしがらないでって〜」
アキラさんが、笑いながら部屋に入ってきた。
「ずっと練習してたんだね」
「……はい」
顔が、上げられない。
「……ちょっと、アーカイブ出してもらっていい?」
俺は、のろのろとPCの前に戻って、配信アーカイブを開いた。
アキラさんが、マウスを奪って、再生バーを動かす。
ガッツポーズの場面で、止まった。
「ここ。ここが特にさ——あれが、こんなに仕上がるんだ、って」
画面の中で、紗雪が跳ねて、くるっと半回転している。
俺は、口を、開いた。
「……この間、お手本で見せてもらったポーズと」
「うん」
「アキラさんが紗雪でVRに入った時の、あの時の動き」
「……え?」
「凄く、可愛くて。目に焼き付いてて——それを、目指しました」
しばらく、アキラさんの声がしなかった。
横目で見ると、アキラさんが口元のあたりを指の背で軽く押さえて、画面に目線を逃していた。
「……そっか」
声が、少しこもっていた。
一度、小さく咳払いをして——
「リスナーも楽しんでたしさ。私も、見てて楽しかったよ」
「……どっちを、ですか?」
「勿論配信!」
少しだけ、早口だった。
俺は、小さく頷いた。
恥ずかしさと、何か別のものが、胸の奥でせめぎ合っていた。
「じゃ、落ち着いたら、リビング来て。晩酌しよ」
アキラさんが、先に部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
リビングに移動して、冷蔵庫から缶チューハイを二本取り出した。
「お疲れさまでした」
「お疲れ〜」
ソファに並んで座る。
アキラさんが、缶を掲げた。俺も、小さく掲げて返した。
かつん、と、金属の音が鳴った。
一口、飲む。
レモンの香りと、舌を刺す細かい炭酸。
「ふぃ〜、生き返る〜」
アキラさんが、ソファに深く身体を預けた。
いつものアキラさんだった。
「今日のリスナー、みんな優しかったねぇ」
「……はい」
「いい常連、育ってきた感じするよ」
「……そうですね」
しばらく、二人で、缶だけ傾けた。
壁の時計が、静かに時を刻んでいた。
今日は、これで十分だった。
◇ ◇ ◇
数日後の夜。
仕事から帰ってきたアキラさんが、リビングの真ん中で——
「おはようVTuber——!」
両手を顔の横で開いて、首を軽く傾げ、キメ顔でポーズを取っていた。
まだジャケットは脱いでない。
ストッキングのままの足が、フローリングに吸い付いている。
肩まで伸びた髪が、首の角度でふわっと流れた。
俺は、仕事部屋から出てきた足を、止めた。
引き戸に添えた指が、そのまま、固まった。
(……どういう状況だろ、これ)
「あ、
アキラさんが、ポーズをそのまま、こちらへ視線だけ向けた。
「……おはVの画像、考えてたんだけどね」
少し、間。
「色々考えてたら、こんがらがっちゃって。気づいたら、このポーズ決めてた」
(……なるほど?)
いわゆる「おはV」。
SNSでのおはよう投稿で個人Vがよく使うハッシュタグ。
画像や短い動画に一言添えて、リスナーとの接点を保つ。地味だが重要なルーティンだ。
アキラさんが、ふっと息をついて、ポーズを解いた。冷蔵庫へ向かう。
「——あ、お茶ない」
やかんに水を入れて、火にかけた。
俺も、ソファに腰を下ろす。
「もう一週間くらい、同じ画像でやっててさ。そろそろ変えたいんだよね」
「……ですよね。俺も、VRで撮り溜めた画像の使い回しです」
「あー、紗雪ちゃんはそういうストックいっぱいあるからいいよねー」
「楽ではあるんですけど。——リプ来ると嬉しいから、つい毎日投稿しちゃいます」
「あー、その気持ちわかる」
「思い切って、動画にしちゃう?」
「……動画、ですか?」
「そう、三十秒くらいの動画。流石に毎朝は無理だけど」
「……ですよね」
動画のおはVは、構図、音声、タイミング。丁寧にやると1時間は溶ける。
伝えられる事は多い。でも、手間が追いつかない。
毎朝それをやるのは、個人Vの狂気の沙汰だ。
「普通に画像でもいいんじゃないですか」
「あー、うん。それでもいいんだけどね」
やかんが、笛のような音を立て始めた。
アキラさんが、火を止める。
音が、すっと消えた。
ポットに、茶葉をぽんと放り込む。甘い匂いが、ふわりと流れてきた。
「正直、これで配信にすぐ新規が来てくれる、とかはあんまりないんだけどさ」
「……それは確かに」
コップを二つ、テーブルに置いた。
ジャケットはいつの間にか背もたれにかけられていて、白いブラウスの袖が、無造作にまくられている。
「でも、画像でも全然伝わるのよ。『毎日生きてるぞ!』って見せられれば、それで充分」
「……ですよね」
「リスナーだけじゃなくて、他のV仲間ともSNSで繋がれるしさ。そこが一番大事かなって」
声のトーンが、一段だけ落ちていた。
「……わかります」
「——ただまあ、動画だと声も動きも乗るから、もう一段リッチなんだよねぇ。せっかくなら、やれたらやってみたいけど」
「手間が、追いつかないですよね」
「そうそう」
アキラさんが、少し笑った。
「——あ、そういえば、この前おはV経由で入ってくれた人いたんだよね。みやぢーさんって」
「……ああ、あの」
最近、和太郎さんの配信コメント欄で、たまに見かける名前。
「これが地味に嬉しかったのもあるし、——ああいうのあると、もっとサービスしたくなっちゃうのよ」
少し、間。
「——たまに、ちょっと怖い距離感の人もいるけどね」
「……怖い、ですか」
「まあ、今はそんなでもないけど。それより動画、上手い方法ないかなぁ」
アキラさんが、コップを両手で包んだ。
湯気を、ふっと目で追っている。
コップに伸ばした俺の手が、一瞬だけ、宙で止まった。
少し遅れて、口に運ぶ。渋みの奥に、かすかな甘みがあった。
配信中の和太郎の声じゃない。静かな、アキラさんの温度。
(……この人は、こういうところがあるんだよな)
コップを下ろした指に、少し、力が入った。
俺は、コップをテーブルに置いた。
「……構図は、いつもの配信背景でいいですか?」
「うん?」
「それなら、喋って、前後をトリミングするだけで済みます」
アキラさんが「え?」という顔をした。
「字幕とかは、やればできますけど、毎日だとチリツモで作業量が膨れ上がりますね」
「あー、そこまではやらないほうがいいね」
アキラさんが、コップの縁を、指でなぞった。
「……あとは、そもそも何話そう、って問題もあるんだけどね」
俺は、少し考えて——
「……それこそ、いつもの和太郎さんで充分じゃないですか」
アキラさんが、一瞬、黙った。
それから、口元を押さえて、小さく笑った。
「だよねー」
——削ぎ落としていった後に、残ったものがあった。
「収録の方法は、配信と同じ設定のまま。録画ボタン押して、三十秒くらい喋る。あとはトリミングして書き出すだけ」
アキラさんが、こちらを見た。
「……それだけ?」
「それだけです」
少し考えて、補足した。
「……配信と同じトラッキング、同じ声設定のままでいけるので。慣れれば毎朝五分くらいで一本」
「マジで」
◇ ◇ ◇
俺は、PCの前に移動した。
アキラさんが、後ろから覗き込んできた。
コップを片手に、興味津々の顔で。
配信用のOBSシーンを流用して、録画用のプロファイルを分ける。
保存先と命名規則、よく使う操作のショートカット。
(……配信環境の整備だ。当然のことだ)
作業は、十分ほどで終わった。
「できました」
「え、もう?」
アキラさんが身を乗り出して、画面を覗き込む。
「ほんとに五分でいける?」
「試しにやってみますか」
俺は、録画ボタンを押した。録画中の赤いインジケーターが点く。
アキラさんが、コップを置いて——
『おう、みんなおはよう!』
画面の中で、
両手を顔の横で開いて、首を軽く傾げて。
ストッキングのままの足で立つアキラさんと、画面の中の和太郎が、同じ形をしていた。
十秒ほど回して、停止した。
録画ファイルが保存される。
トリミングソフトで、前後の余りをカット。書き出し。
一連の作業は、三分もかからなかった。
書き出し完了の、小さな通知音。
アキラさんの目が、動画ファイルのアイコンから、しばらく動かなかった。
「……マジだ」
アキラさんの声が、少し上ずった。
「神じゃん紗雪ちゃん。——っていうか、配信と同じでよかったんじゃん、私」
——語尾が、ふっと素に戻っていた。
「……まあ」
マウスに置いた指が、意味もなく、軽く動いた。
俺は、少し間を置いて、続けた。
「一旦はこんな感じで、どうですか」
アキラさんが、コップを軽く掲げた。
「ほんと助かるわぁ。——みんなも、こういうの喜んでくれるといいなぁ」
俺も、コップを掲げ返した。
「明日の朝、使ってみてくださいね」
「うん。起きたらやってみる」
アキラさんが、コップを両手で包み直した。
明日の朝、アキラさんがおはV動画を収録する姿が、頭の隅に浮かんだ。
——投稿したあとに、きっとまた、あのポーズを決めている。
起きる時間が、少しだけ、楽しみだった。
◇ ◇ ◇
窓の外から、遠い電車の音が、一度だけ、通り過ぎた。
アキラさんが、ふと思い出したように顔を上げた。
「——そういえば。来週のレトロゲーチャレンジ、レオくんがゲストだよ」
レトロゲーチャレンジは、和太郎さんの看板コラボ枠。
ゲストがレトロゲームに挑戦して、和太郎さんがアドバイスを入れる人気企画だ。
「レオくん、ギャップ激しくて面白いですよね」
「うちらが言うか~?」
アキラさんが、噴き出した。
笑いがおさまって、コップに口をつける。
——口の端が、まだ少しだけ、上がっていた。