「ちょっと、坂本さん。しゃきっとしてください。やる気が足りませんよ」
ペンを握り締めたまま机に突っ伏す私に、葉加瀬さんの叱咤が飛ぶ。
「やる気はね、あるの。無いのはね、理解力。ほら私まだ三年生だし」
「確かに小学生には難しい内容ですけど、それはまず前提条件が間違っています」
普通の三年生は高校レベルの数学を勉強しようとはしません、と葉加瀬さんは言う。ごもっともです。
正直なところ、甘かった。高校の文理選択でここまで学ぶ内容が変わるなんて思ってもいなかったのだ。山崎郁恵の知識は文系に偏っているので、これまではとんとん拍子に進んでいた勉強がかなりペースダウンしてしまった。
「世界樹をこよなく愛する会に入りたいなら、最低でも化学、生物、植物学に数学と気象学あたりを修めていないと話になりませんよ。欲を言えば物理学や材料工学、歴史や民俗学だって……。世界樹について調査を行うためには、多岐に渡る総合的な学力を要求されるんです。分かってますか?」
「あ、最後の二つは得意だよ」
私は机から顔を上げて宣言した。
葉加瀬さんは額に手を当ててため息をつくと、椅子から立ち上がった。
「研究がありますので失礼します」
「ごめん、ごめんって。頑張るから見捨てないで」
慌てて私がすがりつくと、葉加瀬さんはもう一度ため息をついて席に戻ってくれた。
暇なときで良いから勉強を見て欲しいと頼んできた生徒の態度がこれでは、葉加瀬さんが呆れるのも無理はないだろう。
「坂本さんの場合、頭は決して悪くありません。私が言うのもなんですけど、小学生としては破格です。ただ絶望的なほど理数系に向いていないです。数式を見たら眠くなるってどういう症状ですか」
「面目ないです」
私は素直に頭を下げる。たぶん葉加瀬さんみたいなタイプからすると、私の詰まっているようなところは「なんで分からないのか分からない」レベルの話に違いない。図書館での勉強会はこれで三度目だが、よく付き合ってくれるものだ。
「学園史編纂室に入りたいという目標なら話は簡単だったんですけど……。たぶん坂本さんは自力で必要学力まで到達したと思います」
「学園祭の時に見た世界樹の発光が忘れられなくてさ。もっと知りたい、って思っちゃったんだよね」
と、いうことになっている。
一応、半分くらいは本当だ。あの巨大な木の全体がぼんやりと淡く光るという神秘性は、ちょっと言葉にできない。特殊なヒカリゴケの一種ということになっているけれど、私の知識が正しければ、あれは世界樹の中に蓄えられている魔力なのだ。山崎郁恵の人生経験の中には存在しない現象。私が興奮するのも仕方ない。
世界樹は、世界に十二箇所あるパワースポットの一つ。私の記憶ではそう言われていた。私は十二、という数字にどうしても引っかかりを覚えてしまう。
旧世界と魔法世界を繋ぐゲートポートの数もまた、十二なのだ。十一個はフェイト・アーウェルンクスによって破壊され、最後の一つは崩落したオスティアにあった。この数字の一致は偶然なのだろうか。
学園祭編の最後、超が未来へ帰る場所として選んだ倒壊した立石群は、イギリスのゲートポートに似てはいなかっただろうか。
「坂本さん、大丈夫ですか?」
「あっ、ごめん。ぼーっとしてた」
葉加瀬さんの声で我にかえる。全然関係のないところに思考を飛ばしていた。こういうことは、麻帆良の中ではあまり考えないようにしていたのに。
「頑張ると言ったそばからぼーっとするとは、なかなかチャレンジャーですね」
ふふふふふ、と葉加瀬さんが低く笑う。眼鏡がきらりと光った。
「そんな坂本さんにはこれ。薬学部のお姉さんがくれた、試作栄養ドリンクをプレゼントします」
鞄の中から、手のひらサイズの茶色い小瓶を取り出す葉加瀬さん。
「いやおかしいでしょ。なんで栄養ドリンクにドクロマークがプリントされてるのっ」
「眠気を滅殺してくれるそうですよ?」
「字面が不穏当すぎる……」
せめて打破とかそういうレベルで満足しておいて欲しい。
「大丈夫です。飲んだあとの経過はちゃんと記録してお姉さんにお渡ししますから」
「明らかに被検体扱いだよね、それ」
「あれ、分かりましたか?」
「分からいでかっ」
そうやってしばらく分かりやすい茶番を繰り広げていたが、ふと我に返った。ここは図書館である。静かに利用するのがマナーであることを、私達はようやく思い出したので、今さらながら声を落とした。
周りを見回してみたが、幸いなことに司書や図書委員の人が睨んでいるということはなかった。広々とした図書館に感謝である。
「まあ、なんだかんだ言いましたが、たぶん大丈夫ですよ。目標があり、学ぶ意欲があるなら、大体の努力は実を結びます。二、三年計画で地道に頑張りましょう」
葉加瀬さんは苦笑しながら私を慰めてくれた。
「うん、頑張る」
つまりは、高校で三年かけて学ぶことを、放課後の時間を利用して三年かけて学ぶというだけの話だ。自分の平凡さにちょっとため息が出そうになるけれど、大事なのはモチベーションを失わないことだ。
私が考えつくことのできたフラグ潰しの中で、実現する手段があり、最も効果が高いのは航時機の譲渡阻止だ。勉強が難しいから、なんていう理由で諦めることはしたくない。
成果が出なくても腐らずに続けること。簡単なようで難しいことだが、息抜きしたり誤魔化したりしながら、どうにか続けていきたいものだ。
「葉加瀬さんの方はどう? 研究は順調かな」
勉強を見て欲しいと頼んだのは私だが、そのせいで絡繰茶々丸が完成しませんでした、では本末転倒である。
「ハード面、制御面で言うなら、技術的にはほぼ完成しつつありますよ。オートバランサーに歩行制御、手腕部マニピュレータを含めた関節可動なんかは、工学部内でも随分研究が進められていましたし」
水を向けてみると、葉加瀬さんは大雑把な概要をすらすらと説明してくれた。詳しいことを語らないのは、それなりに守秘の必要があるからなのか、それとも言っても私が分からないからなのか。葉加瀬さんは相手が理解していなくても嬉々として説明するタイプなので、たぶん前者だろう。
というか、概要でさえ良く分からない。光学認識による動体の三次元座標割り出しとパターンマッチングが云々とか言っているけど、それはデジカメの顔認識機能とどれくらい技術レベルが違うのだろうか。
「ともあれ、最終的なネックとなるのはロボットの動作を統括するAIと、動力関係でしょうね。動力については最悪有線というのもありかもしれませんが、知性を持つAIの開発となると……」
読書好き、ことに濫読の気がある人はたいていの場合、雑学王としてのスキルも磨かれる。私も文系ではあるものの、SF用語の基礎知識程度は持っている。
「何かで読んだことあるよ。チューリングテストとかいうのがあるんだっけ?」
私の質問に対して、葉加瀬さんは難しい表情を返す。
「そうですね。ローブナー賞の設立もあって、最近はそちらの研究も盛り上がりを見せていますけれど、私はチューリングテスト自体にはあまり重きを置いていないんですよ」
「どういうこと?」
チューリングテストは確か、人間とAIに対してノンジャンルの質問を投げかけ、その返答からどちらがAIなのかを判別できるか、というものだったはずだ。私からしてみると、人間と区別がつかないレベルのAIを開発する上で、避けては通れないテストという気がする。
「十分なデータベースと大量の条件分岐があればパスできるというのもありますが、それ以上に、人間の知性と機械の知性は異なるものだと考えているからです」
葉加瀬さんは小さな顎に手を当てて、しばし黙考したあと、私にも分かりやすい例えを出してきた。
「坂本さんは神林長平の『戦闘妖精・雪風』を読んだことはありますか?」
「あるよー。っていうか葉加瀬さんが読んでたことに驚きだけど」
娯楽小説も読むんだ、葉加瀬さん。
「未来が知りたければ漫画を読めばいい、という言葉はひとつの真理だと思いますよ。まあ、それはそれとして、読んだことがあるなら話は早いです。雪風に搭載されていたAIや、基地の管理システム、あれらはチューリングテストに合格できると思いますか?」
「……できないね」
葉加瀬さんの言わんとすることが分かった。雪風の作中、人間の登場人物とAIが会話するシーンは何度もあったが、あの無機質なまでに合理的な受け答えで人間と誤認するかと言われれば、たぶんしない。けれど、彼らに知性が無かったかと言われると、それもまた否だ。
「数理的な演算を正確に高速で行うことができ、世界を物理的な情報のみで把握する知性が、人間と同じになるわけもないと、私は思います。チューリングテストをクリアするテクニックには、わざと間違えて人間と誤認させることすら含まれるんですよ。それは、何かずれていると思いませんか。――私は確認したいんです。論理的思考を可能とする学習型AIを、アンドロイドやガイノイドといった『人に近い形体』のハードに組み込み、人間的な倫理や教育を与え、その結果生まれてくる知性がどういうものなのか、実験したいんです。価値判断基準はどうなるのか。嗜好や感情は発生するのか。人間的な知性と機械的な知性の関わりはどうなるのか。私は知りたいんです。ですから、最初から人の模倣を目標としたAIを作ることに、私はあまり価値を感じません」
ああ、だからか、と私は思う。
私の知る物語で葉加瀬さんが茶々丸に対して敬語を使わなかったのは、それが自身の製作物だからという理由以上に、自分達が一から育てた人格(ではなく、知格というべきか)だからということがあったのだろう。葉加瀬さんがどこまで意識していたのかは分からないけれど、それはどこか母性に近いものがあると思う。
「うん、だいたい分かった」
私はうなずく。彼女の作りたいロボットがどういうものなのか、なんとなく見えてきた。
「葉加瀬さんって、結構ロマンチストだ」
実験と言い、確認と言い、研究と言うが、彼女の興味は未だ存在しない機械の知性がどういうものなのか知りたいという、その一点にある。
数多くの創作者が想像して作り上げてきた機械の心を巡るお話と、実際にどうなのかを作って確かめる彼女の行動に、私は違いを見出すことができない。根源にあるのは同じ衝動に見えるのだ。
私が笑いながら言った台詞に、葉加瀬さんは顔を赤くした。
「科学に魂を売った私がロマンチストなわけないでしょう。私は徹底的なリアリストなんですよ」
こういうとき、私はどうしても頬が緩んでしまう。実際の葉加瀬さんの思いがどうであれ、照れてるなあ、かわいいなあと微笑ましく思ってしまう気持ちを止められない。
「もう、何を笑っているんですか。休憩は終わりです。教科書を開いてください。ほら、早く」
「はーい、分かりました」
なかなか笑いをおさめることはできなさそうだけれど、代わりに眠くなることもなさそうだ。真面目に勉強するので、その辺りで勘弁してもらえないだろうか、葉加瀬先生。