早乙女さん達の部屋までは、急いで歩けば一分とかからない。そんな寮の廊下を、私はことさらゆっくり歩く。
千雨さんに告げた目的は、別に方便だけというわけではなかった。けれどそれ以上に、考える時間が欲しかったというのが、部屋を出た理由の大部分を占めていた。
私と「いくちゃん」が同一人物であると、早乙女さんは気づいているのか。気づいているのなら、できるだけ自分に有利な条件での口止めを。完全に私のためだけの目的だ。
けれど。
それをした結果が、本当に私だけの問題で済むのか、分からない。
できるだけ何もしないように、誰とも関わらないようにしなければ、本来の流れとのずれはどんどん大きくなっていくのではないだろうか。いや、「中等部に上がるなり塞ぎこんだように人との関わりを避ける私」という存在は、それだけでもクラスメイトに影響を与えずに置かないだろう。
動くのは怖い。でも、動かなければさらに状況が悪化するかもしれない。
なぜ私はあんなにも気楽に動けていたのだろう。こんなにもたくさんの人と関わってしまったのだろう。
ぐるぐると、益体もない考えが回る。だって、結局は動いても動かなくても歯車が狂っていくと目に見えているのだ。でも私は、どっちでも変わらないと笑い飛ばせるような、拠って立つものを持ち合わせてはいなかった。
「おや、坂本サン。思いつめた表情でどうかしたネ?」
階段の方から声をかけられて、振り向く。そこには、お風呂道具を抱えた超さんが立っていた。
「適当に座ってもらって構わないヨ。今お茶をいれるから、少し待つといいネ」
超さんの言葉にうなずいて、座卓の前に腰を下ろした。同じ二人部屋のため、左右の違い以外は自分達の部屋とほとんど変わらない間取りだ。
私は誘われるままに、超さんの部屋へお邪魔していた。悩んでいるなら相談に乗るヨ、という言葉に釣られたわけではないし、そもそも相談できるような悩みでもない。
ただ、彼女だけなのだ。
この学園の中で……いや、魔法世界まで含めたこの世界で唯一、「山崎郁恵の知る物語よりも悪い未来に変えてしまう恐怖」を感じずに話せる相手。それは自ら未来を変えるために動いている超さん以外には存在しない。
「お茶と言ておきながら、買い置きしてあるのはコーヒーだけだたヨ」
たいした時間をあけずに、超さんは戻ってきた。コトン、コトンと空のカップが二つ座卓に並べられる。そこにコーヒーパウダーがスプーンで放り込まれ、続いてポットからお湯が注がれた。
カップの中身をくるくるとスプーンでかき混ぜた後、超さんは私を見た。
「できたヨ。インスタントで悪いケドネ」
超さんはどちらのカップも、私の方へ押し出すことはしない。そして、超さん自身もカップを取ることはしない。
「ありがとう。いただきます」
私がそう言って片方のカップを引き寄せると、超さんはどういたしましてと言いながらもう一つのカップを取ってコーヒーに口をつけた。
「ちょと熱いネ」
超さんは舌を出して顔をしかめた。舌の先が少し赤くなっている。
ここまでやられれば、流石に私にもどういうことかは分かる。この対応、去年の体育用具室でのことを受けているのだろうけど、普通にコーヒーを出してくれれば私は疑問も抱かずに飲んでいただろう。超さんが何らかの薬を盛る理由が存在しないという以上に、私にはそういうものを警戒するという危機意識がなかった。
私も超さんに倣ってコーヒーに口をつけた。私はブラック派だが、超さんもそうだったというのは、少し意外な事実である。
「そういえば、葉加瀬さんは? まだお風呂かな」
超さんと同室であるはずの葉加瀬さんの姿が見えないことを疑問に思い、問いかける。
「ああ、ハカセは茶々丸の調整があるから、今日は研究室の方に泊まりこむという話ヨ」
そうか、言われてみれば、絡繰さんの起動からそんなに日が経っていない。特に、今日は集団生活というものを始めて経験させたのだから、いろいろと確認したいこともあるに違いない。
「そっかー。あんまり徹夜ばっかりするな、って超さんからも言ってやってね。葉加瀬さん、夢中になったら体力とか気にしなくなるし」
「フフ、そうだネ」
超さんは短く答えて微笑む。そして、コーヒーを一口飲んでから、すっと目を細めた。
「やはり坂本サンは、茶々丸が人間でないと気づいているネ」
「え?」
「普通、クラスメイトを『調整』するなんて言葉、そんな簡単に流すものではないヨ」
表情が固まる。
迂闊で済まされるレベルではなかった。未来を変えてしまうことに怯えなくても良いということと、気を抜いて良いということは、決してイコールではない。それどころか、超さんはA組の中でも最大限に気を遣って会話しなければならない相手だったというのに。
私は必死に頭を回転させて、この場を誤魔化す言葉を選び出した。
「え、と、それは冗談で言ってるわけ?」
「ン?」
「いやその、絡繰さん、どっから見てもロボットじゃない」
そうだ、ここまでは明かしていい。私と千雨さんは、学園結界による認識阻害の効きが悪い。それくらいの情報、調べればすぐに分かることだし、超さんが「やはり」と言った以上、そこまでは既に掴んでいるに違いない。
私が決して人に知られてはいけないことは二つ。
一つ目は、私が超さんの計画について情報を持っているということ。自衛手段を持たない私は、その情報を守りきることができない。だから、超さんに味方として引き入れられてしまうという事態にも陥りたくはない。
二つ目は、この世界のことを漫画で読んだ知識があるということ。それはこのことを知った相手の心情を慮ってということでもあるが、それ以上に私自身の心情の問題でもある。
私は誰なのかと問われれば、坂本春香だと答える。たとえ前世の記憶があったとしても、断じて山崎郁恵ではない。けれど、漫画などという一段階メタな視点を持ち出してしまったら、相手はもう私を「漫画でこの世界を読んだことのある人間」つまりは山崎郁恵としてしか見てはくれなくなるだろう。それは、嫌なのだ。
超さんはじっと私の目を見た後、いきなり笑い出した。
「アハハハハハ。そうダネ。確かに茶々丸はどう見てもロボだ。でも、どうせならガイノイドと言って欲しいネ」
どうやら、ひとまずは乗り切れたらしい。私は安堵を悟られないように口を開く。
「それはロボットじゃないよアンドロイドだよ、と同じ類の主張なのかな」
「ん、どういう意味カナ?」
どうやら超さんは少年漫画への造詣は深くないらしい。当たり前か。超さんがこの時代に来て数ヶ月、そんな娯楽に触れる時間があったとは思えない。
「いや気にしないで。漫画の話」
私はそう言って、間を持たせるようにコーヒーを飲む。
「茶々丸は麻帆良大工学部とハカセが総力を挙げて製作したものヨ。今は実際に人の間で問題なく生活できるかのテスト中、ということになるネ」
まさか教えてくれるとは思っていなかった情報を、超さんがさらりと明かした。またさっきと同じ様にかまかけなのかと一瞬疑ったけれど、そういう要素はなさそうに思える。
だから私はただ素直に、今日の朝、葉加瀬さんに言いたくてしかたなかった言葉を、口にした。
「そう、か。葉加瀬さんの夢だったもんね。アトムみたいなロボットを作るって、初等部の頃からずっと言ってた。……おめでとう、って伝えておいてくれるかな。それとも、直接言ってもいいのかな」
目を向けると、超さんはにこりと笑ってくれた。
「ハカセに直接言て欲しいヨ。きと喜ぶネ」
「うん、そうする」
私も笑顔でうなずいた。
「そういえば、悩みについてはどうカナ。愚痴くらいなら聞くヨ? なんで茶々丸の外見を誰も不思議に思わないのかー、とかネ」
超さんがそういって話の水を向けてきた。そういえば、相談に乗る、と誘われたのだった。
「んー、そっちの愚痴は、あんまり無いかな。もう慣れちゃったし。おかしく思う私の方がおかしいんだってさ」
「長谷川サンもいるしネ?」
いたずらっぽく超さんが微笑んだ。やはり、知られているらしい。
「そうだね。千雨さんには、随分救われてる気がするよ」
もしも、千雨さんがいなかったら、初等部時代の私の神経は、もっとささくれだったものになっていただろう。
私はもう一口コーヒーを飲む。やっと、ちょうどいい温かさになってきた。
そんな私を見て、超さんが苦笑する。
「……坂本サン、駄目だヨ。その対応では、ただアナタの異常性が際立つだけネ」
「な……」
何を、言うのか。
超さんの表情は穏やかだ。そこから超さんの感情を読み取ることはできない。
「話を合わせる事なんかよりも先に、聞くべき言葉があたはずヨ。長谷川サンの件だけじゃない。ハカセの件についても、そうダネ」
言われて、気づく。違和感のないように話を繋ぐ、その行動自体が異常だ。私は、何よりも先に聞かなければならなかったのだ。
私は震える声で超さんに問う。
「なんで……そんなことを知っているの」
「それだネ。坂本サンはもっと早くそれを聞かなければならなかた」
そのとおりだ。なぜ絡繰さんがロボットだと知っているのか。それを葉加瀬さんが作ったと知っているのか。私と長谷川さんがこの学園の「おかしい」を共有していると知っているのか。聞かなければならなかった。
ただ、聞いてはいけない質問でもあった。そこから超さんの陣営に引き込まれる方向へ話が進んでしまう可能性のある質問だからだ。「それはこの世界に魔法というものがあるからヨ」などと言われようものなら、私の作戦は完全に破綻する。ただ超さんの陣営にお荷物が一つ増えるだけだ。無意識に避けてしまっていた部分も、あったと思う。
先の質問は、正しく誤魔化すために必要だったのは何か、というものだ。答えなど聞かなくても分かっている。超さんが未来人で、魔法を知っていて、葉加瀬さんを協力者として遇していて、そして目的のために学園のことを調べていたからだ。
だから、私はいまさらにならないと聞けない質問をする。
「私の、異常性って、何?」
認識阻害魔法の効きが悪かったかもしれない。でもそれは千雨さんも同じだ。中学生にしては頭が良いかもしれない。でもそれは葉加瀬さんも同じだ。
こんなだまし討ちのようなやり方をもってしてまで超さんが確かめたかった、私の異常性とは、何だ。
「交友関係ヨ」
「交友……関係?」
「坂本サンを除いたA組三十一人中十五人」
超さんが静かに言った。
「中等部入学以前に、坂本サンが面識を持ていた人数ヨ。この数字は少し、異常だネ」
「そんなの、ただの偶然……」
「麻帆良の女子初等部に生徒が何人いるか、言わないと駄目カナ。坂本サンがただ顔の広い人だたなら偶然という線もあるかもしれないガ、私の調べた限りアナタが友人と呼べるのは二十人に満たないネ。おや、さらに確率が低くなてしまたヨ」
偶然というには、あまりに出来すぎた事実。確率的にはゼロではない。が、限りなくゼロに近い。ならばそれは、十分確認に値する異常だ。誤差や例外で処理して良いものではない。
「まあ、だからその内確認するつもりだたのヨ。こんなに早く機会が巡てくるとは思てなかたケドネ」
そこで一度、超さんは言葉を切った。
「今度はこちらから聞く番ヨ。茶々丸がガイノイドであること、ハカセがその製作者であること、アナタと長谷川サンが非常識に敏感であること、それを私が知ているということを、自明のものとして受け答えした――坂本サン。アナタは、私の何を知ているネ?」