中等部に進学しておおよそ一月。ゴールデンウィークも終わり、季節はどんどん夏に向かっていく。時間はずるずると過ぎて、寮という新しい空間での生活ペースにも慣れてきた。
私の朝はそれなりに早い。陸上部時代からの日課であるランニングのために、目覚まし時計は六時にセットしてある。雨が降っていればこれ幸いと二度寝を決め込むけれど、晴れているときはベッドから起き出し、洗顔などして身支度を整える。
ジャージに着替えたら、腰まで伸ばしている髪をポニーテールにくくり、首にタオルを引っ掛けて部屋を出る。
この時点では大抵、千雨さんは夢の中の住人だ。というか、遅くとも零時には寝る私と、チャットが盛り上がっていれば二時、三時まで平気で起きている千雨さんとでは、朝の時間がずれてくるのも当然と言える。
寮の前で軽くストレッチをして体をほぐす。日によってはまき絵さんや大河内さんあたりが出てきて一緒に走ることもあるけれど、今日はどうやら私ひとりのようだ。
携帯電話に十五分のタイマーをセットして、走り始める。最初はゆっくりとしたペースから始めて、徐々に速度を上げる。呼吸に気を遣いながら走り続けて、タイマーが鳴ったら折り返しだ。おおよそ三十分のランニングを終えて寮に戻ってきたら、呼吸が落ち着くまでまた柔軟である。
こうやって時間を区切って走っていると、時間あたりに走る距離が少しずつ伸びているのが分かる。成長期だからとか、スタミナがついたからとかよりも、走るくらいでは滅多にバランスを崩さなくなったから、ということが理由の大部分を占めていて、少し悲しい。
部屋に戻って、シャワーで汗を流す。走ることを日課にしているおかげか、体のラインはなかなか引き締まっている。あともう少し身長と胸が欲しいところだが、お母さんの体型を見る限り、高望みはしない方がいいだろう。あと五センチほど伸びてくれれば、身体感覚のずれはほぼ無くなるのだけど……。
ドライヤーで髪を乾かし終わったら、ついでに三つ編みにしてしまう。ポニーテールだと大河内さんと、そのまま後ろに流すと近衛さんと髪型が被るので、最近はいつも三つ編みだ。
この辺りでだいたい七時過ぎ。千雨さんがまだ寝ているようなら、起こすことにしている。低血圧なのか寝不足なのか、千雨さんはいつも不機嫌そうなお目覚めなのだけど、その不機嫌を人にぶつけるのは格好悪いと思っているのか、大抵はしぶしぶながらも起き出してくる。
千雨さんが身支度を整えるのを待って、食堂に朝ごはんを食べに行く。部屋で作るという選択肢もあるけれど、準備も片付けも手間なので、休日でもない限り、ほとんどそういうことはしない。
「なんつーかなぁ」
正面に座っている千雨さんが、納豆をかき混ぜながら口を開いた。
「最近、ふ抜けてないか?」
「ふ抜けてるって、何が?」
「春香が」
言われて、ぼんやりと考える。確かに、ふ抜けているのかもしれない。
入学式があった日の夜、超さんに言われた言葉。私が何をしても、何をしなくても変わらない。この一ヶ月、私はただ惰性だけで日々を過ごしていた。
「そうかもね」
私がうなずくと、千雨さんは小さくため息をついた。
「本格的にふ抜けてるな、お前」
だって仕方ないじゃないか。私は私なりに、いろいろやってきたつもりだった。けど、手を出せば出すほど、私が考えてもいなかった方向に話は進んで行って。私だけじゃフォローもできないところまで行ってしまっているのに、超さんはそんなの些細なことって扱いで。……だったら、ぎりぎりまで超さんの邪魔をしないようにすることが一番なんじゃないかって、そんな風に思ってしまったのだ。
「せっかく入った大学のサークルも、あんまり顔を出してないみたいだし。何がやりたいんだよ」
「何がやりたいんだろうね。そこが、分かんなくなっちゃってさ」
私は玉子焼きを口に放り込んで咀嚼する。ここの味付けは、家のものよりも少し甘めだ。
超さんに大発光が早まることを伝えてしまった今、私が世界樹をこよなく愛する会に残り続ける意味はない。魔法という概念を持たないあのサークルでの解析だと、世界樹に対する理解はどうしても表面的なものになる。もとより、理数系の進路に執着があるわけでもない。今年の学園祭までは籍を置いて、そこでの成果発表会が終わったら、やめてしまおうかなんて考えてもいる。
「坂本殿も、そういう悩みを持つのでござるな」
声をかけられた方に視線をやると、朝食のトレイを持った長瀬さんがこちらに歩いてくるところだった。
「お隣、失礼するでござるよ」
広い食堂だ。空席はまだたくさんあるが、一人で食べるのも味気ないということだろう。同じクラスや部活動の人間が集まって食べる光景は、よく見られる。
「よう長瀬。双子は一緒じゃないのか?」
「昨日、遅くまで起きていたようで、まだ寝てるでござるな」
流石に遅刻しそうなら起こすでござるよ、と長瀬さんは言う。鳴滝姉妹と長瀬さんの関係は良好なようだ。放課後になると、三人で散歩しているのをたまに見かける。
私は挨拶もそこそこに、長瀬さんに問いかけた。
「そういう悩み、ってどういう意味?」
「普通の中学生みたいな悩み、という意味でござるが?」
「その言い方だと私が普通じゃないみたいなんだけど……」
じと目で睨んでやると、長瀬さんは誤魔化すようにはっはっは、と笑った。だいたい、普通の中学生じゃない度を考えるなら、長瀬さんの方がよっぽどひどい。体力測定の反復横とびで分身の術を見ることになるとは予想もしていなかった。忍ぼうよ、少しは。
「ああ、なるほど。春香には無いもんだとばかり思ってたけど、普通に思春期になっただけか」
肩を落とす私とは裏腹に、千雨さんは納得したような口調でうなずく。
「なんか、そういう言い方されると途端に恥ずかしくなるなあ」
私は苦笑する。思春期。確かに外からは、そういう時期にありがちな悩み事で右往左往しているように見えるのかもしれない。
実際、超さんからしてみれば、私の行動なんてそれと大差ない扱いだろう。超さんを手伝おうと考えていたはずなのに、手伝っているのか邪魔しているのかも自分では分からないという体たらくで、実に情けない。
「何がやりたいのか分からない……。や、青春でござるなあ」
ずず、と温かいお茶をすすりながらまったりとした表情をする長瀬さん。つい数分前までは確かに存在したはずの朝食は、すでに半分以上が長瀬さんのお腹の中に消えている。健啖というにもほどがあるレベルだ。
「それに、坂本殿はそれくらい隙を見せた方がとっつきやすくなるのではござらんか。風香などは『いいんちょと並ぶ完璧超人』と評してござったが」
「いや、それは完全に過大評価だと思うんだけど」
雪広さんをオールマイティとするなら、私は器用貧乏と言うべきだろう。総合的な学力の面だけは、まだ私の方が上だろうけど、テスト勉強というものを基本的にしないので、順位的には雪広さんの方が高かったりする。(お小遣いは寮暮らしということもあって生活費込みの定額制になった)
「まあ、いいんちょのさらに上位互換で超がいるしな、うちのクラス。てか、一芸入試とかしたら大学合格できるレベルの奴が多すぎるだろ」
「確かに、古などは十分合格できそうでござるなあ」
「おめーもだよ、エセ忍者」
「はっはっは、拙者は忍者などではござらんよ」
「じゃあまずその喋り方をなんとかしろよ……」
A組では頭から否定されることはないと気づいたからなのか、千雨さんはここのところ、この手の突っ込みが厳しめだ。図書館探検部なんていう特殊な部活動に参加しているし、知らないうちに魔法の存在にたどり着いてしまいそうで、ちょっと怖い。
かといって、どうすれば千雨さんに魔法を隠したままでいられるのかと考えても、良案は浮かんでこない。むしろ、この時期に千雨さんが自力で魔法に気づくところまで行けば、超さんが自陣営に引き込もうとするんじゃないかという気もする。
私の記憶にある「長谷川千雨」は、なんだかんだ言っても自分の日常を気に入っているから、それを壊されたくないという動機があった。けれど、非常識を「良く分からないけどそこにあるもの」として、それなりに受け入れている今の千雨さんの「現実」は、結構ファンタジーに寄っているはずだ。説得の余地はあると思う。
そして、超さんが引き込むことをしないなら、それほど時を置かずして、千雨さんは魔法を知ったという記憶を消されるだろう。ネギの赴任前ならそうなるのが妥当な展開というものだ。
ほら、やっぱり、私がしないといけないことは、なにもない。
「春香、どうした、ぼーっとして。置いてくぞ」
問いかけられて、顔を上げる。千雨さんの朝食もすっかりなくなっていた。長瀬さんは既にトレイを手に持って立ち上がっている。
いつの間にか考え込んでいた私だけれど、無意識のうちにちゃんとご飯は食べていたらしい。
「あ、ごめんごめん。行こうか」
答えて、立ち上がる。
まったく、私にしかできないことはあるのかだなんて、本当に中学生そのものの悩みだ。長瀬さんの言葉ではないけれど、自分にも年相応な面があるということを、素直に喜んでおけばいいのだろうか。
もちろん、それでいいはずが無いのだけれど。
放課後になって、さて今日はどうしようかなと考える。
ゴールデンウィーク中に世界樹の樹皮から採取したコケは、サークルの研究室でいろいろ生育環境を変えつつ培養中だ。そこら辺の機器はまだ触らせてもらえないので、とりあえず今日のところは顔を出す必要もないだろう。急な用件でサークルのマスコットあるいは猫の手要員としての私が必要なら、昼休みの内に会長からメールが入っていたはずだ。
じゃあ図書館にでも行こうかと考えたけれど、つい昨日、本屋さんで買ってきた某ファンタジー小説の下巻が鞄の中に入っていることを思い出した。まずこちらを読むのが先だろう。いや、新潮文庫版も買ったから内容的には分かっているのだけど。良い小説は何度読んでも面白いから別にいいのだ。あと一冊出たら、新刊が出なくなるんだなあと思うと、ちょっと憂鬱である。
「や。難しい顔をしているネ」
「……いや、すごくくだらないことを考えてたんだけどね」
掛け値なしに本当なのだけれど、超さんは小さく笑っただけだった。
放課後の教室はいろいろと騒がしい。千雨さんが図書館探検部に入ったので、帰宅部の人間はいないはずだが、毎日活動のある気合が入った部活で無い限りは、お喋りに興じたり、遊びに行く約束をしたりと、すぐに教室を出て行く人は少ない。
だから、超さんが私に声をかけてきたからといって、予知能力云々の突っ込んだ話をすることはないだろう。
「今月お財布が厳しいから、肉まんは買えないんだけど……」
機会があればどこでも商売を始める超さんに、とりあえずけん制をかけておく。まあ、セイロを持っていないから、今日はそういう話じゃないとは思う。
「おや、それは好都合ヨ」
「好都合?」
「坂本サン、アルバイトをする気はないカナ?」
なんでも、来月行われる学園祭に向けて、超包子の営業規模を拡大する予定なのだそうだ。
私も何度と無く利用したが、現在のところ超包子の店舗数は一店のみ。メニューも点心などの軽食が中心で、夜の七時には営業を終了する。主要な客層は間食を目的とした学生や教師達で、決して夕飯を食べる場所ではない。
店員も基本的にはお料理研究会の面々から希望者を募ってローテーションを組んでいたということらしい。だが、学園祭の準備期間中は居残りをする者が増えるため、その消費増加を当て込んで、本格的に夕飯や夜食を食べられる店舗としてリニューアルするのだそうだ。
本店のテーブル数を増やすだけではなく、二号店を大学校舎近くに出すとの事で、超包子に協力してくれているお料理研究会の面子だけでは人手が足りないらしい。
「ハカセや古も手伝ってくれているのだけどネ。坂本サンもウェイトレスをやてくれないカ? お給金は弾むヨ」
「わかった、やる」
説明を受けた私は即答した。超さんが怪訝そうな顔をする。
「別に今すぐの返事でなくても良かたのだケド……そんなに厳しいネ?」
返事のタイミングが悪かったせいで、懐事情の心配をされてしまった。
いや、そういうことではなく。ただ私の中に超さんからの依頼を断るという選択肢が浮かびもしなかったというだけの話だ。
比べるまでも、また考えるまでもなく、私より超さんの方が現在の情勢を正しく把握しているだろう。その超さんがわざわざ持ちかけてきた話なのだから、私に否やはない。
しかし、それを言うわけにもいかないので、私は少し引きつった笑いを浮かべた。
「えっと、うん。ちょーっと本を買いすぎちゃったかなって、ね」
本当はちゃんとやり繰りして、余裕を持って使っているだけに、少し悔しい。むう、超さんに計画性のない人だと思われたらどうしよう。それはちょっとイヤだ。
私の引きつった笑顔を、照れ隠しだと思ったのか、それとも嘘だと思ったのかはわからないけれど、超さんはにっこりと笑った。
「私は人手が欲しい。坂本サンはお金が欲しい。これこそ正しい雇用関係というものネ」
そうだねとうなずいて、私は乾いた笑いを漏らした。
それからふと、超さんはなんで私をバイトに誘ったのだろうと、ようやく考えた。なるほど、私は確かに、ふ抜けているようだった。