視線の先でもうもうと舞い上がったチョークの粉が収まる。その下から現れたジャージ姿の千雨さんが、ふるふると肩を震わせた。
「ああ、そうだな、私の不注意だ。予想できなかった私が悪い。だけど美空と風香と史伽、あとで覚悟しとけ」
決して大きい声ではなかったのに、その宣言は教室中に響いた。復讐を宣告された三人が、「ぎゃー、ばれたー」と悲鳴を上げている。あなた達以外の誰がこんなことすると言うのか。
黒板消しで注意を上に逸らしつつ、足下のロープに引っ掛けるという巧妙な罠だが、そちらはしっかりと回避して、千雨さんは席へと歩いてきた。
「なんなんだ、今日は。厄日か」
髪や肩、眼鏡についたチョークの粉を払い落としながら千雨さんがぼやく。千雨ちゃんがああいうのに引っかかるって珍しいよねー、と笑う桜子さんにうっせえと返している姿は、少々不機嫌であることを除けばいつも通りの千雨さんだ。
喉まで出かかっていた言葉を飲み込む。危うく、何故と問うところだった。
なんで、ジャージ姿なのか。
頭の中をぐるぐると回る嫌な予想を否定することができない。だって、状況が揃い過ぎている。千雨さんがジャージを着て登校してくる理由が、一つの可能性以外に思い浮かばない。
「おはようです、千雨。なぜジャージなのですか?」
私の疑問を言葉にしてくれたのは、夕映さんだった。
良く聞いてくれたと思うと同時に、自分が聞いても良かったのだと遅れて気づく。普通に考えれば、千雨さんがジャージで登校してこなければならない理由など無いのだから、疑問に思うのは当然なのだ。むしろ、聞かない方がおかしい。
千雨さんは夕映さんに挨拶を返してから、わずかに表情をゆがめた。
「来る途中で転んで制服のボタンが吹っ飛んだ」
……間違いない。
けれど、ここで取り乱すわけにはいかない。無意味に黙り込んだだけでも失態なのに、ここで机に突っ伏して頭を抱えるとか、そういう馬鹿なことをしてはならないのだ。
私は小さく息を吸いこんで、吐く。そうしてようやく、体が強張っていたことに気づいて、意識的に力を抜いた。
ちょっとだけ呆れた表情を作って、千雨さんに声をかける。
「枝にでもひっかけたの? 普通は転んだくらいでボタンとれないでしょ」
「ああ、そんな感じだ」
一年生の頃から変わらない、私の左斜め前の席にバッグを置きながら、千雨さんはうなずく。
その曖昧な返答に、私はもう一つの情報を得る。たぶん千雨さんは、既にネギ・スプリングフィールドが普通の子供でないことに気づいている。もしかしたら、魔法の存在にまで。
だって、今の千雨さんなら、制服のボタンを吹き飛ばした非常識な現象に、「あり得ねえ」と声を上げるはずだ。おかしいという思いを内に溜め込まず、突っ込みに変えるはずなのだ。
「那波か柿崎。悪いけどソーイングセット持ってたら貸してくれ」
そう言って、美沙さんから針と糸を借りると、千雨さんは自分の席で制服にボタンをつけ始めた。ソーイングセットを貸し出した美沙さんが目を丸くする。
「千雨ちゃんって、裁縫できたんだ」
出来ないはずが無い。千雨さんは衣装の自作もするレイヤーにして、それなり以上に人気のネットアイドルだ。
「ボタンつけるくらいなら誰でもできるだろ」
言いながらも、服とボタンを繋いだ部分にくるくると糸を巻きつけてボタンの下に隙間を確保する。千雨さんは流れるように指を動かして玉止めを作り、余った糸を切った。手を止めることなく、二つ目のボタンに取り掛かる。
「できるのと手馴れてるのとは違うでしょうよ」
美沙さんは素直な感心の気持ちを込めて言ったのだろうけど、それは千雨さんからしてみれば痛いところを突く言葉だ。実際、千雨さんは誤魔化すように苦笑していた。
私はそんな二人の様子を視界に入れながら、思考を回す。
千雨さんがくしゃみか何かで制服を吹き飛ばされたことは、ほぼ確定。黒板消しトラップに引っかかるほど「何か」に気を取られていたことから、その何か――つまりは制服を吹き飛ばされたという現象の記憶を消されていないと予想される。そこに異常現象に対する突っ込みが無かったという事実を加える、と。
順番に考えれば、答えが出た。千雨さんは、魔法のことを秘密にして欲しいと頼まれて、それを受け入れたに違いない。
だとしたら、連鎖的にもう一つ分かることがある。千雨さんは、きっとネギの味方になる。
異国の地で一人。風習も常識もまるで違う土地で、一人。しかも明かすことのできない秘密を抱えている少年に関わってしまったら。それを、ただ捨て置けるような人じゃないのだ。千雨さんは。
例えば、ネギの不注意によって魔法がばれそうになったとしたら、千雨さんはどうするか。陰に日向に、フォローに走ってしまう千雨さんの姿が目に浮かぶ。それはきっと、ものすごく嫌そうに眉間に皺を寄せて、盛大に文句を言いながら。
そう、だから考えようによっては、この状況は……。
「来たか」
隣の席からぼそりと聞こえたエヴァンジェリンさんの呟きで、私の思考は中断された。
頭の中で言語化される直前だった言葉を振り払う。自分が、ひどく嫌な人間になった気がした。
ともあれ、この状況で来る人物など、一人しかいない。
ほどなくして、教室の前方で本日二度目の白煙が舞い、ロープで転倒、バケツの落下、おもちゃの矢による射撃というフルコースの歓迎と共に、物語の主人公が登場した。
放課後、ネギ先生の歓迎会まではもう少し時間がある。のどかさんが閉館前に図書館へ本を返しに行かなければと言い出したので、私たちは二人して準備を少しだけ抜けてきた。
最初は準備を優先して欲しいと遠慮していたのどかさんも、千雨さんが「絶対転ぶ」と断言したら折れてくれた。両手で山ほど本を抱えてよろよろ教室を出て行こうとすれば、私や千雨さんじゃなくても心配するというものだ。
ついでにあやかさんへ声をかけて、足りていない物の買い出しを引き受けた。帰りに生協へ寄らなければならないけれど、準備中に抜ける後ろめたさも少しは晴れるだろう。
中等部図書館へと歩きながらの話題は、もちろんネギ先生のことである。
「ネギ先生って、可愛いよねー」
のどかさんが少し顔を赤らめながら呟く。女子校育ちだから無理も無いのだけれど、私たちは男の子との接触が極端に少ない。
うちのクラスで言うなら、特に免疫が無さそうなのは、のどかさんや大河内さんだ。初めてまともに接する同年代の男の子がネギ先生。豪華だ。文句なくかわいらしい男の子で、物腰も柔らかいと来るのだから、そりゃあ顔を赤らめたくもなるだろう。
「そうだね。八十年代ラブコメものかと思ったよ」
私が冗談めかして言ったラブコメという単語に、のどかさんは今朝のことを思い出したのか、小さく笑みをこぼした。
「そう言われてみると、ちょっとベタだったかも」
「ベッタベタだったわ」
悪戯でダメージを受けたネギ先生へ、あやかさん筆頭にしての慰め攻勢。後から入って来た明日菜さん達三人は呆れ顔で、だからやめとけって言ったのに、なんて呟いていた。
私たちがベタだと言っているのはその後のことだ。
教卓前に立ったネギ先生は、着任の挨拶をはじめると、その途中で何かに気づいたのか、急に笑顔になったのだ。何に気づいたのか分かっていたのは、私と千雨さん本人くらいだろう。
「手を振りながら『あっ、千雨さん。このクラスだったんですね!』だよ。惚れ惚れするほど完璧」
結構上手く声真似できたと思ったのだけど、のどかさんからは似てないよーと辛口の評価をいただいた。
「転校生じゃなくて先生だけどね」
「後は千雨さんの反応がもう少しかわいらしければっ」
「すごーく面倒くさそうな顔してたよね」
のどかさんはくすくすと笑う。
実際、面倒くさい事態には陥った。
そりゃそうだ。本日麻帆良にやってきたばかりのあの可愛い少年が、なぜかクラスメイトと顔見知りだったとなれば、経緯が気にならないわけがない。
ざわついたクラス中から質問の集中砲火を受けて、千雨さんは非常に大変そうだった。
それでも今朝の事――駅で道を訊ねていたネギ先生を不本意ながら案内していたらしい――について律儀に答えていたあたり、私の推測は大きく外れていないのだろう。
おそらく、千雨さんはネギ先生を庇っている。
純朴な少年が女子中学生からの質問攻めにあって、ぽろりと口を滑らせる可能性を懸念していたのだと思う。本人は絶対に認めないだろうけれど、人の良さで言えばA組でも指折りなのだ。
そうやって今朝の事を話しながら、のどかさんと並んで歩く。中等部図書館はもうすぐそこと言って良い距離だけど、気を抜くことはできない。
この先に、下り階段がある。
のどかさんや夕映さんと一緒に何度も通った道だ。けれど、今日だけは細心の注意を払ってそこを下る。
頭の中で何度も思い出したのどかさんの転倒シーン。進行方向から見て、階段の左側に倒れこんだはずだ。
もちろん、転倒の原因となった大量の本は、その半分を私が持っている。けれど、それだけで転ばないとは限らない。
だから私はさりげなくのどかさんの左側を歩く。転ばなければ、それで良い。でももし、のどかさんが転んでしまったとしても、その体をすぐに支えられるように。
階段にさしかかった。
のどかさんは危なげなく歩いている。
抱えている本が半分になったから、ちゃんと前が見えているのだ。
われ知らず、小さく息を吐いた。杞憂だったのだと、安心した。気を抜いて良いはずなどなかったのに。
「あっ」
その瞬間を狙い澄ましたかのようなタイミングだった。
隣で上がった小さな声。
足を踏み外してぐらりと傾くのどかさんの体。
気を抜いてしまっていた。それでも、私は反応した。
この状況を予想していた。いや、知っていたのだ。動けないはずがない。
持っていた本から手を離し、体格差のあるのどかさんを抱きとめようと身構えた。
やけにゆっくりと、本が落ちて行ったように感じる。
引き延ばされた時間の中、のどかさんが空中で身をひねった。
――転倒に私を巻き込まないように。
私の眼前をすり抜けるようにしてのどかさんが落ちていく。
体を捻って手を伸ばす。
届かない。
手を伸ばす。
届かない。
頬に風を感じた瞬間、手が届いた。
力任せにのどかさんの腕を引いて、抱え込む。
バランスを崩した無茶な体勢で、私はそのまま階段に倒れこんだ。
ざぁっ、と木々の葉が風に揺れる音と共に、時間が戻ってきた。
心臓が早鐘を打っている。体中から熱い汗が噴き出して、一気に体温を奪っていく。耳の奥がじんじんと痛い。
階段に引っかからなかった本が、ばらばらと下へ転がり落ちていった。
のどかさんは私の腕の中で目を回している。私たちは階段の中腹で折り重なるようにして座り込んでいる。だというのに、段差に打ちつけたはずの体は少しも痛くない。
打ちつけなかったのだから、当たり前だ。私たちは風の壁に守られた。
階段からゆうに五メートルは離れた視線の先、その小さな体に不釣り合いな大きい杖を構えたネギ先生と、目が合った。