「はあ。この女の子が、ですか」
瀬流彦は高畑から渡された写真に目を細めた。元から細い目が糸のようになる。
写真は本校女子初等部の生徒名簿からとってきたものらしく、正面を向いた女の子が写っている。長い髪を後ろに垂らした少女の胸辺りに、坂本春香と名前が印字してある。
麻帆良学園の魔法生徒である瀬流彦だが、今日の仕事にはあまり乗り気でない。小学生の女の子が写っている写真を見つめる図は危なすぎるので、人払いの結界構築からは手を抜いていないが。
「そうだよ。精神操作を受けている可能性がある。本人が工作員という線はないから、その点は安心してくれていい」
「いや、精神操作だってありえませんよ。美空ちゃんと同い年じゃないですか」
瀬流彦は自身の良く知る、魔法使い見習いの女の子を思い浮かべる。時折ものすごくませたことを言うが、基本的にはやはり子どもだ。幼いと言ってもいい。
しかし、瀬流彦の対面に立つ高畑は真面目な顔を崩さない。写真と一緒に渡された、何枚かの書類を示す。
「その報告書に書いてあるとおり、坂本春香は毎月の第一日曜日になると、一人で麻帆良の外まで出向いている。もう一年近く続いている習慣とのことらしいが、そこで何者かと接触している可能性は否定できない」
「遠くの友達に会いに行ってるだけかもしれないじゃないですか。まさか……尾行とかしたんですか?」
こんな幼い少女を? と、幾分非難のこもった視線で、瀬流彦は高畑を見る。
「いや、危険だからね。せいぜい麻帆良中央駅までだそうだよ」
「危険って、そんな」
高畑は年に何度も海外出張を行い、各地の紛争地帯へと出向いている。その口から語られる危険が、どういう類のものなのか。それくらいは瀬流彦にも分かる。
その表情に気づいたのか、高畑が苦笑をもらす。
「ああ、尾行した人がじゃないよ。麻帆良の魔法先生の質はそこまで低くない。危険なのは、坂本春香の方だ」
それは、余計に笑えない。高畑の表情も元の真面目なものに戻っている。
「本当に精神操作を受けていたら、尾行がばれた時点で人質に取られるだろうね。操られている彼女が、自分の首にナイフでも押し付けるだけで良い」
重苦しい沈黙。瀬流彦としてはそんな馬鹿なと笑い飛ばしたかったが、高畑は真剣だ。
「経歴の怪しい人間くらい、麻帆良にはいくらでもいる。僕だってそうだ。代わりに、そういう人は自衛の手段も持っている。それに、麻帆良がどういうところかを知っているから限度を超えた無茶はしないし、できない。
本当に危険なのは、何も知らない一般人が巻き込まれているときだ。僕達には彼らを守る責任がある。たぶん大丈夫だろうで、見過ごすことはできないんだよ」
真剣な表情を緩めて、高畑は笑う。
「麻帆良の冗談みたいな平和を保つには、過敏なほどで丁度良い。今回も無駄骨だったと、愚痴りあうくらいが一番なんだよ、瀬流彦君」
それは騒動の原因を笑いながらぶっ飛ばす、デスメガネの微笑みだった。
「分かりました。真面目にやりますよ。この写真の子が暗示や魔法で操られていないか、それを調べれば良いわけですね」
瀬流彦は防御と補助に特化した魔法使いだ。魔法先生の多くは武闘派で、そういう繊細な作業ができる者は少ない。弐集院や明石といった、補助向きの魔法先生の体があかない場合、こうして瀬流彦にお鉢が回ってくる。
「よろしく頼むよ。今日は陸上部の練習があるから、グラウンドから駅の方に抜ける道で待っていようか」
「え、美空ちゃんと同じ部なんですかこの子」
高畑がため息をついた。教師としての表情が顔に浮かぶ。
「それも資料に書いてあるからね。時間はまだあるから、ちゃんと目を通しておくこと」
瀬流彦は小さく肩をすくめた。確かに、今のは自分が悪い。
「はい、わかりました。高畑先生」
アブラゼミの鳴き声がいい加減うっとうしくなってきたころ、道の向こうから女の子が二人歩いてきた。一人は今日の目標である、坂本春香だ。その二、三歩先を歩いてくる少女が、自分の良く知る女の子だと気づいて、瀬流彦は思わず口を開いた。
「げ、美空ちゃん」
その時点で二人とも眠らせてしまえば面倒は無かったのだろうが、瀬流彦は背後の高畑にどうしようかと視線を送った。そのわずかな躊躇いが、春日美空に気づかれてしまうだけの時間を作ってしまう。
瀬流彦の姿をみとめた美空が、ぱっと笑顔をみせた。手を振りながらこちらへ駆け寄ってくる。
「坂本君だけで良い、眠らせてくれ」
「はい」
短く答え、瀬流彦は無詠唱で魔法を発動させた。次いで、周辺に張っておいた人払いの結界を起動する。意識を失った坂本の上体がぐらりと揺れ、倒れこみそうになる。その体がアスファルトの地面に衝突する直前、高畑が瞬動で近づいて坂本を抱え上げた。
前方にいたはずなのに突然背後に現れた高畑と、意識を失っているらしい坂本という状況に頭が追いつかず、美空は困惑顔で瀬流彦に視線を送ってきている。
まだ魔法生徒でこそないが、美空は魔法の存在を知っている。瀬流彦と高畑という魔法関係者を見た直後に、自分と坂本の意識が同時に失われたとなれば、絶対に怪しむだろう。それならば、最初から事情を説明してしまった方がいい。
高畑がそう判断したのは瀬流彦にも理解できていたが、果たして説明して分かってもらえるだろうか。友達を疑っているとか普通に怒るよなあと、今から憂鬱になってしまう瀬流彦だった。
「……ほら、シロだったじゃないですか」
瀬流彦は認識阻害の魔法を展開したまま、高畑に愚痴をこぼす。隣を歩いていた高畑は笑いながら、瀬流彦の肩を叩いた。
「ははは、出る前に言っていたとおりになったね。良かった、良かった」
坂本春香に魔力の残滓や、暗示をかけられた形跡は見られなかった。もちろん、薬物の使用も確認されなかった。
「なんでか分からないけど、美空ちゃんに白玉あんみつを奢ることになっちゃいましたし……」
案の定怒り出した美空を説得している内に、いつの間にかそういうことになっていたのだ。
その上、瀬流彦達の調査結果がシロだったものだから、やっぱり大丈夫だったと美空に食って掛かられてしまった。あのタイミングで坂本の目が覚めてくれなかったら、今度はパフェか何かをご馳走することにされていただろう。
「所持品の検査もできれば万全だったんだけどね」
「魔力感知には何も引っかかりませんでしたよ。というか、さすがに鞄の中まで漁っていたら、二度と美空ちゃんに口をきいてもらえませんよ、僕は」
調査を行う瀬流彦達を、美空はじと目で見ていた。高校生である瀬流彦でさえ割り切れないものを感じているのだ。小学生の美空に魔法使いとしての分別を期待するのは無茶というものだろう。
坂本春香自身に危険がおよぶ可能性があるということを、どうにか納得してくれただけでも御の字である。
「それにしても、毎月麻帆良の外に行く小学生がいる、なんていう地味な情報をよく掴めましたね」
瀬流彦は報告書に目を通していたときから感じていた疑問を口にする。麻帆良という学園都市の規模を考えれば、重箱の隅もいいところだ。
「ああ、なんでも来年あたりに学園長のお孫さんが転校してくるらしくてね。本校の初等部だけ丁寧に洗いなおしたんだそうだよ」
「それは親馬鹿……じゃないな、じじ馬鹿が発端ってことですか?」
出発前の高畑の言葉を覚えているだけに、建前と本音の差にがっくりきてしまう瀬流彦だった。
「学園長がじじ馬鹿なのは否定しないけど、それだけじゃない。お孫さんは関西呪術協会会長の一人娘でもある。国内の魔法関係者の中では、間違いなく重要人物だ。職権濫用と言われるようなものではないよ」
そしてもう一つ、これは瀬流彦の知らないことだが、神楽坂明日菜の存在もある。彼女が黄昏の姫巫女と同一人物であることを知る者は、学園長と高畑を含めても麻帆良内に五人といない。
だが、その存在が持つ意味の大きさは、学園長の孫の比ではない。
彼女が麻帆良に移り住んでから、まだ二年も経っていないのだ。何かと理由をつけて女子初等部内の動きを探ることは、決して大げさな対応ではない。
「まあ、結果を見ればいつもどおり杞憂だったというだけのことだよ。ちょっと変わった子ではあったけどね」
「ああ、本当に頭が良いみたいですね。塾では中学生レベルの授業を受けてるとか書いてありませんでしたっけ」
瀬流彦は報告書の内容を思い出しながら言う。
「そうだね。瀬流彦君が僕の名前を呼んだときに少し反応してたから妙だと思っていたんだけど、まさかデスメガネなんてあだ名を知っているとは……」
いやいや、と高畑が苦笑する。初対面のはずの相手がこちらを知っているということに少し警戒したのだが、警戒した結果が学内新聞で見ましたでは、間抜けという他ない。
「ん……しまったな。まさかこんな初歩的なミスをするなんて」
初対面というキーワードで自身のミスに気づいた高畑の呟きに、瀬流彦が怪訝そうな顔をした。
「いや、名乗られていないのに名前を呼んでしまったなと思ってね」
「あっ」
瀬流彦も気づいた。美空は「春香」と呼んでいたのに、瀬流彦も高畑も「坂本」と苗字を呼んでしまっている。
「……たぶん、気づかないですよ。そんな細かいこと。小学生ですし」
「頭の良い子だって、瀬流彦君も言っていたじゃないか。『たぶん大丈夫』を基準にしちゃいけないよ」
しばしの思案のあと、高畑は申し訳無さそうな表情で瀬流彦を見た。
「悪いんだけど、美空君にフォローをお願いしておいてくれないかな。坂本君に聞かれたら、自分が名前を教えたと言ってくれるように」
「はあ、まあ、良いですけど」
それくらいの頼みなら、美空は簡単に引き受けてくれるだろう。パフェじゃなくてコンビニのケーキとかで勘弁してもらえないかなあと、瀬流彦はかわいい妹分の姿を思い出した。