2016年2月9日。肌を刺すような寒さとなっている冬真っ只中の昼下がり。
とある青年と一匹の白いウミウシのような生物が路地裏で隠れるようにして話をしていた。
特筆すべき点として、青年の腰あたりに包丁が刺さっており、少しずつだが血が地面を赤くしている事だろうか。
「そっか。君はその子の笑顔が見たくてここまで来たのか」
お尻を地面につけ、壁にもたれながら穏やかに微笑む姿は、流れ続ける血と相反して少し歪に感じた。
でも、青年は私の言葉を心から喜んでいるように見えた。
「後数十年後······もし、助けが必要になったら言ってくれ。そん時は全力で助けに行くからな!」
満面の笑顔でこちらを照らす青年。
この八千年の時を経て、こうも清い青年がいただろうか。自身は一歩間違えれば死ぬであろう体だと言うのに、何故こうもこちらを心配するのか。
そんな姿を見たからだろう。ポツリと言の葉が零れ落ちた。
青年が困ったような表情を浮かべた。
「俺は大丈夫だよ。心配しなくていい。
俺は最後までカッコよく生きていくと七年前に誓ったからな。こんな所で死ぬ訳にはいかないんだ」
震える青年の手がウミウシの毛に触れる。
辛うじて動かしているのか、とてもゆっくりと毛を撫でていく。
その手は未だ汚れず、安心させるような暖かさを有していた。
「だから、君は思うままにゴールを目指すんだ。その子のとびっきりの笑顔、俺にも見せてくれよな」
その言葉を別れとし、壁に手をつきながら立ち上がる。
背に包丁が刺さったまま路地裏の奥へと進んでいく後ろ姿をウミウシはただ眺める他なかった。
そんな折、何かを思い出したように立ち止まった。そして、こちらに歩み寄ってくる。
「すまん、連絡先渡さなきゃだったな」
青年は自身のポケットから小さな紙切れを取り出し、胸ポケットに挿していたボールペンでスラスラと電話番号を書いていった。
「よし。それじゃあこれを、っと」
膝をつき、できる限りウミウシに視線を合わせようとする。
小さな小さな布巾着に丸めた紙をいれ、ウミウシの推定首であろう所にかける。
キツくならないよう締め、最後にまた一撫でし、壁に手をつきながら立ち上がった。
「じゃっ、またどっかで」
顔色が青くなり始めた青年は死にたいの体を壁に擦りながら歩んでいく。このままでは数分もすれば息絶えることになる。
しかし、彼はまだ一人ではない。
「勇斗さんっ!」
路地裏の曲がり角から黒髪の少年が血相変えて飛び出してきた。
その少年はすぐさま青年、―――黒耀 勇斗に駆け寄り、脇の間に滑り込んで肩を貸すように補助する。
だが、そこまで密接したのなら気づくだろう。未だ背に刺さり続けている包丁に。
「―――ッ!?
なんで、こんな········っ、勇斗さん!どうして包丁が―――」
「すまん、少ししくじった」
「しくじったじゃ、〜〜〜〜っ゛だぁもう!!
俺ん家行きますよ!」
唸ることで怒りを抑え、目的地を決める少年。おそらく、青年はこういった危険な事をよくするのだろう。仲が顔見知り程度ではない。
「いや、それだとお前に危害が―――」
「うるさいですっ!こんなフラフラで何処に行くんですか!!」
「········ありがとな、大和」
「いいですよ、慣れてますから!」
角で曲がったことで姿が見えなくなったのを確認したウミウシは、怒り狂う大衆がいる大通りを避けながら自身の定住地に戻っていくのだった。
時は流れ2030年7月中旬。
仮想空間ツクヨミの管理者のみしか立ち入ることを許されない一室にて、白衣を着た男性が悠々自適に畳を踏み締めていく。
その進む先に座している者こそ、このツクヨミにて不動のトップライバー―――月見ヤチヨ。
男性はあと3歩という所で止まり、自身の中にある情報を開示し始める。
「16年前、栃木県で、勇斗と大和に会ってんのか。ただまあ、なんでアイツは俺の電話番号をお前に渡したのか··········わかるか?」
「私にもわかんないかな」
「ったく。当の本人は4カ月前から音信不通で行方不明だしな。奥さんと子供置いて、何処で何やってんだか」
「それは困ったさんですなぁ」
二人して想起するのは閃光のように全てを照らす青年の姿。16年も経てば青年と言えないだろうが、印象に残っている姿はあれしかない。
「まあいいや。
俺がお前に貸しがあるのはわかったからな。貸しは返すさ。勇斗巻き込んでな」
「それはそれは心強い。期待しちゃっていいかな〜?」
その問題に全てを識っている白衣の男はほんの一瞬出そとうした言葉を飲み込んだ。そうして、意を決して答えを返す。
「輪廻を弄ることはできない。技術進歩が遅くなる。
だが、少しだけなら··········見たいだろ?とびっきりの笑顔」
返しの言葉はない。ただ微笑むだけで電子の姫は何も言わない。まるで、運命をあるがままに受け入れているかのようだった。