Episode 64「愛してる」
避難所の入口は炎に包まれていた。
近づけない。
奈央との無線は繋がっている。
だが、距離が縮まらない。
「アデルさん!」
三上が叫ぶ。
アデルが炎へ向かって突っ込もうとしていた。
「待ってください!」
黒瀬がその腕を掴む。
「無理です、その状態では」
「でも……!」
アデルの声が震えていた。
「リサが……!」
「冷静になってください」
三上が低く言う。
「今行っても、お前まで死ぬだけだ」
アデルの足が止まる。
唇を噛んでいた。
炎を見つめたまま、動けない。
長い沈黙が落ちる。
誰も何も言えなかった。
打つ手がなかった。
敵兵の足音が近づいてくる。
時間が無かった。
その時。
アデルの表情が変わった。
何かに気づいたような顔だった。
「……黒瀬さん」
「はい」
「無線、貸してもらえますか」
「リサと、話したいんです」
黒瀬は一瞬迷った。
だが、アデルの目を見て、無線を渡した。
アデルは静かに端末を受け取る。
「リサ」
『……おにい!』
リサの声が返ってきた。
焦っていた。
『どうしよう、おにい! どうすれば良い!?』
「大丈夫ですよ」
アデルの声は静かだった。
「リサ、絶対に助けますから」
『……うん』
少しだけ、リサの声が落ち着く。
アデルは少し目を伏せた。
それから。
「リサ」
『……何?』
「愛してますよ」
短い沈黙。
リサの息が止まる。
『……おにい』
声が、震え始めた。
『何する気?』
「リサ」
『何か、しようとしてるよね』
『方法は分からないけど』
『自分を犠牲にして、私達を助けようとしてるんでしょ』
アデルは答えなかった。
それが答えだった。
『……駄目』
リサの声が崩れる。
『おにい、絶対に死んじゃ駄目だからね』
アデルは少しだけ笑った。
「死にませんよ」
『噓』
即答だった。
『その笑い方、絶対噓』
アデルは何も言えなかった。
『おにい……!』
リサが泣き始める。
『嫌だよ、嫌だ……!』
「……やっぱり」
アデルは静かに息を吐いた。
「リサには、隠し事は出来ませんね」
その声は、優しかった。
「だから」
少しだけ間が空く。
「最後に、リサの声を聞かせてください」
『……っ』
アデルは少しだけ笑った。
「最後に一度だけ」
「声だけでも聞かせてくれませんか」
『そんなの……』
リサの声が震える。
『無理だよ……』
『だって……』
『おにい、いなくなっちゃうんでしょ……?』
アデルは答えなかった。
『嫌だよ……』
『嫌だ……』
『そんなの嫌……』
すすり泣く声だけが聞こえる。
アデルは静かに目を閉じた。
「そうですね」
「ごめんなさい」
「最後まで、困らせてしまいました」
しばらく。
誰も何も言わなかった。
無線の向こうから聞こえるのは。
リサの泣き声だけだった。
やがて。
震える息遣いが聞こえる。
必死に。
本当に必死に。
涙を堪えようとしているのが分かった。
『……おにい』
小さな声だった。
『愛してる』
涙声だった。
それでも。
確かに聞こえた。
アデルは目を閉じた。
「はい」
静かな声だった。
「リサ」
「僕も、愛してます」
その瞬間。
アデルの体が、薄くなり始めた。
輪郭が淡くなる。
光の粒子のようなものが、体から零れ落ちていく。
ゆっくりと。
静かに。
粒子は風に舞いながら、一点へ集まっていく。
黒瀬はそれを、ただ見ていた。
止める方法はなかった。
止めるべきではないと、分かっていた。
アデルの最後の声が、聞こえる。
「黒瀬君」
「……はい」
「最後に、お願いを聞いてもらえますか」
「リサを」
「この村を」
「どうか、お願いします」
その声は、穏やかだった。
覚悟を決めた声だった。
黒瀬の視界が、滲んだ。
涙が落ちそうになる。
それでも。
黒瀬は静かに頷いた。
涙を拭う。
覚悟を決める。
「はい」
短い返事だった。
それで、全て伝わった。
アデルの体は、もうほとんど形を失っていた。
最後に、頭の中で思う。
――結局、僕は両親の子だった。
昔から思っていた。
父さんも。
母さんも。
どうしようもないくらい、お人好しだった。
誰かを助けるためなら。
自分の事なんて後回しにしてしまう人達だった。
村人達を守って。
そして、逝った。
子供だった僕達を残して。
だからきっと。
僕も同じなのだろう。
リサが助かるなら。
村が助かるなら。
この命を賭けられる。
それでも本当は。
もっと。
もっとリサと一緒にいたかった。
リサが大人になる姿も見たかった。
もっと沢山、話をしたかった。
まだ教えたい事もあった。
何気ない明日を。
これからも一緒に迎えたかった。
怖くないと言えば、嘘になる。
そして。
リサに、自分と同じ思いをさせてしまう。
それだけは。
本当に申し訳なかった。
だけど。
それでも良かった。
リサが生きてくれるなら。
その未来だけは、守りたかった。
「リサ、幸せになって下さいね」
アデルの姿は、完全に消えた。
代わりに。
地面に、一冊の黒い本が静かに残されていた。