第11話
ペーパーシャッフルが終わってから、Cクラスの空気は少し変わった。
退学者は出なかった。
それだけを見れば、結果は悪くない。
石崎は生き延びたことに安堵し、金田は最低限の成果に満足し、教室には試験前の張り詰めた空気が少しずつ薄れていた。
だが、教室の中心にいる男だけは違った。
龍園翔。
彼は勝敗とは別の場所を見ていた。
「X……か」
龍園は机に座り、退屈そうに呟いた。
その声は小さかったが、近くにいた者には十分に聞こえた。
石崎が少し身構える。
「龍園さん、まだその話っすか」
「まだ?」
龍園の視線が石崎に向く。
石崎は慌てて背筋を伸ばした。
「いや、まだっていうか……その、ペーパーシャッフルは終わったんで」
「終わってねぇよ」
龍園は口元を歪めた。
「むしろ、ここからだ」
教室の空気が少し冷えた。
影はその様子を少し離れた席から見ていた。
ペーパーシャッフルは、表面上は終わった。
だが、そこから残ったものがある。
櫛田というDクラスの穴。
真鍋たちというCクラスの亀裂。
そして、Xという名前のない存在。
龍園はそれを見つけた。
いや、見つけたというより、匂いを嗅ぎつけたと言うべきかもしれない。
狩人が獲物の足跡を見つけた時のように、龍園の目には熱があった。
「堀北じゃねぇ」
龍園は低く言った。
「平田でもねぇ。櫛田でもねぇ」
石崎が恐る恐る聞く。
「じゃあ、誰なんすか」
「それを探すんだろうが」
龍園は笑った。
「Dクラスの裏に隠れてるやつをな」
影は龍園の横顔を見つめる。
体育祭の時、龍園はDクラスを崩すことを楽しんでいた。
ペーパーシャッフルでは、櫛田を使って堀北を潰そうとした。
だが今は違う。
Dクラスそのものより、その奥にいる誰かへ意識が向いている。
龍園の狩りは、形を変え始めていた。
⸻
昼休み。
教室の空気はいつも通りに戻っているように見えた。
石崎と小宮が話し、金田が本を読み、西野が友人と小さく笑う。
だが、真鍋たちの周囲だけは、少し違った。
真鍋志保。
藪菜々美。
山下沙希。
三人は教室の隅で固まることが増えた。
声は小さい。
笑っている時もある。
けれど、ふとした瞬間に誰かの視線を気にする。
特に、龍園の視線を。
影はそれを見逃さなかった。
前よりも怯えが濃い。
ペーパーシャッフル前の彼女たちは、見つかることを恐れていた。
今は違う。
見つかることだけではなく、次に何が起きるのかを恐れている。
つまり、彼女たちは知っている。
Xへ繋がる糸が、まだ切れていないことを。
「見すぎじゃねぇか」
横から声がした。
時任だった。
影は視線を戻す。
「何をでしょうか」
「とぼけんな。真鍋たちだよ」
時任は面倒そうに言う。
「最近、あいつら妙に落ち着かねぇ。龍園も変だし、お前も何か知ってる顔してる」
「そう見えますか?」
「見える」
「では、時任さんもよく見ていますね」
「茶化すな」
時任は小さく舌打ちした。
影は少しだけ微笑む。
ペーパーシャッフルでペアになってから、時任は以前よりも影へ言葉を向けるようになった。
信頼ではない。
警戒。
あるいは、理解できないものへの苛立ち。
それでも、以前より距離は近い。
「龍園さんの様子が変わったと感じますか?」
影が尋ねると、時任は少しだけ黙った。
「……前より、狙いが細かくなった気がする」
「細かく」
「ああ。前は力で押し潰す感じだった。でも今は、誰が誰に繋がってるかを探ってるように見える」
時任は龍園の方を見る。
「正直、気に入らねぇ」
「なぜですか?」
「嫌な予感がするからだよ」
影は時任を見る。
時任の言葉は、感情的ではある。
だが、的外れではない。
龍園は今、Xを探すためならCクラス内の亀裂も利用する。
真鍋たちを炙り出すことも、そこから別の誰かへ辿り着くことも、すべて狩りの一部になる。
「時任さんは、龍園さんを止めたいのですか?」
「止められるわけねぇだろ」
時任は即答した。
「ただ、巻き込まれるのはごめんだ」
「もう巻き込まれているのでは?」
「お前、本当に嫌なこと言うな」
「よく言われます」
時任は呆れたように息を吐いた。
「お前はどうなんだよ」
「私ですか?」
「龍園に近いくせに、全部言ってるわけじゃねぇだろ」
影は少しだけ黙った。
時任は鋭い。
それは頭の良さというより、龍園への反発が感覚を鋭くしているのかもしれない。
「言うべきことは言っています」
影は静かに答えた。
「言うべきではないことは?」
「見ています」
「答えになってねぇ」
「そうでしょうか」
時任は顔をしかめた。
「お前、龍園より分かりづれぇ」
「それは少し意外です」
「褒めてねぇよ」
影は小さく笑った。
時任の言葉は乱暴だが、真っ直ぐだった。
その真っ直ぐさは、龍園の近くでは少し浮いている。
だからこそ、影には興味深かった。
⸻
放課後。
龍園は石崎、伊吹、アルベルトを連れて、特別棟の階段踊り場にいた。
普段ならこの時間、人通りはほとんどない。
下の階から部活動へ向かう生徒の声が、かすかに聞こえる程度だった。
影は、踊り場から少し離れた廊下の壁にもたれ、直接輪には入らずにその様子を見ていた。
「Xを引きずり出す」
龍園はそう言った。
石崎が真剣な顔になる。
「どうやってっすか」
「周りから削る」
龍園は簡単に答える。
「Dクラスの中で、Xに近いやつを探す。Xが守る価値のあるやつを見つける」
伊吹が腕を組む。
「そんなの分かるの?」
「分からせるんだよ」
龍園は笑った。
「人間はな、自分が隠れてても、守りたいものが傷つけば動く」
影はその言葉を聞いて、静かに目を細めた。
守りたいもの。
その言葉が、人気のない踊り場に重く落ちる。
龍園はもう、ただDクラスを崩そうとしているのではない。
Xの感情を探っている。
Xが何に反応するのか。
誰を守るのか。
どこを突けば、姿を見せるのか。
「真鍋たちは?」
伊吹が言った。
石崎が少し周囲を見た。
声を落とす。
「ここで名前出して大丈夫なんすか」
「だからここに来てんだろ」
龍園は短く返す。
「使える」
龍園は続けた。
「だが、今すぐ潰す必要はねぇ。あいつらは糸だ」
「糸?」
石崎が聞き返す。
「辿れば、先に何かいる」
龍園の口元が歪む。
「Xか、それに近い何かがな」
影は黙っていた。
龍園も気づいている。
真鍋たちが、ただの裏切り者ではないことに。
自分の意思だけで動いているわけではないことに。
だが、龍園はあえて泳がせている。
影がした判断と同じ。
ただし、目的は違う。
影は見たい。
龍園は引きずり出したい。
その違いは大きい。
「龍園さん」
影が口を開いた。
龍園が視線を向ける。
「あ?」
「糸を強く引きすぎると、切れるかもしれません」
踊り場の空気が少し止まった。
石崎が影と龍園を交互に見る。
伊吹は黙っている。
アルベルトは表情を変えない。
龍園は笑った。
「切れたら、別の糸を探す」
「その糸が一本しかなければ?」
「なら、切れる前に掴む」
龍園の返答に迷いはなかった。
影は小さく息を吐く。
「合理的ですね」
「美しくはねぇんだろ?」
龍園が先に言った。
影は少しだけ目を開いた。
それから微笑む。
「はい」
「お前の美しさなんざ知らねぇよ」
龍園は踊り場の手すりに軽く手を置く。
「俺は勝つ。Xを引きずり出す。そのためなら、多少壊れても構わねぇ」
影は何も言わなかった。
人気のない階段踊り場に、龍園の声だけが低く残る。
「影」
龍園が声をかける。
「お前も見てろ」
「はい」
「Xが出てくる瞬間をな」
影は静かに頷いた。
「見逃すつもりはありません」
龍園は満足そうに笑った。
⸻
翌日。
龍園の動きはさらに露骨になった。
Cクラスの中で、真鍋たちへ向けられる視線が増える。
龍園が直接問い詰めたわけではない。
だが、石崎や伊吹の動きが、真鍋たちの逃げ道を少しずつ狭めていた。
「最近、真鍋たち静かじゃねぇか」
石崎が何気なく言った。
真鍋は強気な顔で返す。
「別に普通だけど」
「そうか?」
「そうだけど」
藪は黙っている。
山下も目を合わせない。
石崎はそれ以上踏み込まなかった。
だが、それだけで十分だった。
龍園は急がない。
ただ、少しずつ圧をかける。
逃げ場を減らす。
誰かが耐えられなくなり、何かを漏らすのを待っている。
影はその様子を見ていた。
糸は揺れている。
まだ切れてはいない。
だが、強く張りつめ始めている。
時任が影の横に立った。
「気分悪いな」
「真鍋さんたちのことですか?」
「ああ」
時任は低く言う。
「裏切ったなら自業自得かもしれねぇ。でも、ああやってじわじわ追い詰めるのは、見てて気持ちいいもんじゃねぇ」
「優しいのですね」
「違ぇよ」
時任は即答した。
「胸糞悪いだけだ」
影は時任を見る。
その違いは、時任にとっては大事なのだろう。
優しさではない。
嫌悪。
それでも、誰かが傷つくことに反応する。
それは十分に人間らしい。
「龍園さんは、Xを出すためなら止まりません」
影が言う。
「分かってる」
「では、時任さんはどうしますか?」
時任は黙った。
しばらくして、苦い顔で言う。
「何もしねぇよ。俺に何ができるわけでもない」
「そうですか」
「責めてんのか?」
「いいえ」
影は静かに答える。
「何もしないことも、選択ですので」
時任は顔をしかめた。
「そういう言い方、嫌いだ」
「よく言われます」
「だろうな」
時任はそれだけ言って、教室の外へ歩いていった。
影はその背中を見送る。
何もしない者。
動かされる者。
動かす者。
見ている者。
この教室には、さまざまな立場の人間がいる。
そして龍園は、そのすべてを盤面として見ている。
⸻
放課後。
真鍋たちは、校舎の端にある人気の少ない廊下で小さく話していた。
近くには空き教室が並び、生徒の足音もほとんど聞こえない。
影は偶然を装い、その廊下を通りかかった。
声ははっきりとは聞こえない。
だが、断片だけは拾えた。
「もう無理だって……」
藪の声。
「龍園にバレたら……」
山下の震えた声。
真鍋が低く言う。
「黙ってればいいでしょ。あいつだって、全部は分かってない」
「でも……」
「それに、あっちにも……」
そこで、真鍋は言葉を止めた。
影は足を止めなかった。
通り過ぎる。
ただ、聞こえた言葉だけを記憶する。
あっち。
その曖昧な言葉。
龍園ではない。
Xでもないかもしれない。
もしかすると、彼女たちの過去に関わる誰か。
あるいは、まだ表に出ていない別の名前。
影はまだ、その名前を掴んでいない。
だが、糸は確実に伸びている。
真鍋たちから、Dクラスへ。
Dクラスの誰かへ。
そして、その先にXがいる。
影は廊下を曲がりながら、小さく呟いた。
「もう少しですね」
誰にも聞こえない声だった。
⸻
その夜。
Cクラスの教室には、龍園だけが残っていた。
窓の外は暗い。
教室の照明だけが、机の上を白く照らしている。
龍園は端末を見ながら、低く笑った。
「軽井沢……か」
その名前が、初めて龍園の口から零れた。
誰もいない教室。
だが、その名前は確かに空気を変えた。
Dクラスの女子。
真鍋たちと過去に何かがある生徒。
そして、Xを引きずり出すための餌になり得る存在。
龍園はゆっくりと立ち上がる。
「隠れてるなら、隠れてろ」
彼は暗い窓に映る自分へ向けて笑った。
「守りたいものを潰せば、出てくるしかねぇ」
その声には、冷たい熱があった。
狩りは始まった。
そして、その狩りの矛先は、少しずつ一人の少女へ向かい始めていた。