第13話
放課後。
特別棟の階段踊り場には、冷たい空気が流れていた。
普段なら人通りの少ない場所。
下の階から部活動へ向かう生徒の声がかすかに聞こえるだけで、そこにいる者たちの沈黙が妙に重く感じられた。
龍園は手すりにもたれ、退屈そうに立っている。
その前には、真鍋、藪、山下の三人。
少し離れて石崎、伊吹、アルベルト。
影は、踊り場の端に立ち、直接輪には入らずにその様子を見ていた。
真鍋は強気な顔を作っていた。
だが、藪は明らかに怯えている。
山下も俯いたまま、龍園の顔を見ようとしない。
龍園はそんな三人を見下ろし、低く笑った。
「さて」
その一言だけで、藪の肩が小さく跳ねた。
「軽井沢と何があった」
真鍋の表情が硬くなる。
「……別に」
「別に、か」
龍園は笑う。
「その程度の関係で、あれだけ怯えるわけねぇだろ」
「怯えてないし」
真鍋はすぐに言い返した。
だが、声の奥はわずかに震えていた。
龍園は一歩近づく。
「嘘が下手だな」
真鍋は唇を噛む。
藪は今にも泣き出しそうな顔で、山下は助けを求めるように真鍋を見ていた。
石崎が気まずそうに視線を逸らす。
伊吹は不機嫌そうに腕を組んでいた。
「黙ってりゃ済むと思ってんのか?」
龍園の声が低くなる。
「お前らが軽井沢を知ってることは分かってる。過去に何かあったこともな」
真鍋は何も言わない。
龍園の笑みが深くなる。
「言え」
その声には、命令以外のものはなかった。
藪の指先が震える。
山下は完全に俯いている。
真鍋だけが、必死に強がっていた。
その時だった。
「龍園さん」
影が一歩前に出た。
龍園の視線が、ゆっくりと影へ向く。
「あ?」
「それ以上強く引けば、糸が切れます」
踊り場の空気が止まった。
石崎がぎょっとしたように影を見る。
伊吹も少しだけ目を細めた。
真鍋たちは、驚いたように影を見ている。
龍園はしばらく黙った後、口元を歪めた。
「また糸か」
「はい」
「今度はこいつらを庇うのか?」
影は真鍋たちを見る。
怯えた目。
隠そうとする強がり。
逃げ場を失った沈黙。
その姿を見た時、ふと昔の声が記憶の奥をかすめた。
――壊すだけなら、つまらねぇだろ。
赤い色。
獣のように笑う誰か。
勝つことに貪欲で、乱暴で、けれど不思議と真っ直ぐだった者。
影は、その言葉を正しいと思ったことはなかった。
少なくとも、昔は。
だが今、真鍋たちを前にして、少しだけ分かる気がした。
壊せば終わる。
恐怖で吐かせれば早い。
だが、そこに残るものは少ない。
「庇う、というより」
影は静かに言った。
「壊すには、まだ早いと思います」
龍園の目が細くなる。
「誰かの受け売りか?」
影は少しだけ微笑んだ。
「そうかもしれません」
「へぇ。お前にもそんなやつがいたのか」
「はい」
影は穏やかに答える。
「少々、騒がしい方でした」
龍園は喉の奥で笑った。
「面白ぇな。お前が昔話とは」
「昔話をするつもりはありません」
「だろうな」
龍園は真鍋たちへ視線を戻す。
「で? どうする。お前が聞くか?」
影は少しだけ瞬きをした。
「私が、ですか」
「壊したくねぇんだろ」
龍園は楽しそうに言う。
「なら、お前がこいつらから聞き出せ」
真鍋の顔が強張る。
藪と山下も、影を見る。
影は少しだけ考え、それから静かに頷いた。
「承知いたしました」
⸻
影は真鍋たちの前へ立った。
龍園ほど近づかない。
威圧する距離ではなく、逃げ道を完全には塞がない距離。
それでも、三人にとっては十分に緊張する距離だった。
「真鍋さん」
影は穏やかに声をかける。
「全てを話す必要はありません」
真鍋は眉をひそめる。
「……は?」
「ですが、軽井沢さんの名前が出れば、龍園さんは必ず動きます」
影は静かに続けた。
「それを分かった上で、何を話すか決めてください」
藪が震える声で言う。
「話さなかったら……?」
「龍園さんは、別の方法で調べるでしょう」
「じゃあ同じじゃん」
真鍋が吐き捨てるように言う。
影は首を横に振った。
「同じではありません」
「何が違うの」
「あなたたちの口から出る言葉なら、少なくとも形を選べます」
真鍋は黙った。
その言葉の意味を考えているようだった。
龍園が無理やり暴けば、真鍋たちの事情も感情も関係なく、ただ材料として扱われる。
だが、自分たちの口で話すなら。
何を言い、何を伏せるかは選べる。
完全に守られるわけではない。
けれど、壊され方までは選ばなくて済む。
影の言葉は、優しさだけではなかった。
それでも、恐怖だけで押し潰す龍園の言葉よりは、三人に届いているように見えた。
「軽井沢さんと、何があったのですか?」
影は静かに尋ねた。
真鍋はしばらく答えなかった。
藪と山下は、真鍋の反応を待っている。
龍園は何も言わず、ただ見ていた。
やがて、真鍋が小さく息を吐いた。
「……別に、大したことじゃない」
「はい」
「ちょっと、揉めただけ」
「何についてでしょうか」
真鍋は視線を逸らした。
「軽井沢が、調子乗ってたから」
その言葉には、苛立ちが混じっていた。
だが、それだけではない。
悔しさ。
恐れ。
そして、過去に何かを握られているような歪み。
「調子に乗っていた、ですか」
「そう」
真鍋は強く言う。
「Dクラスで上手くやって、女子の中心みたいな顔して。こっちのことなんか、なかったみたいにして」
藪が小さく口を挟む。
「真鍋……」
「いいでしょ。少しくらい」
真鍋は藪を睨む。
山下は小さく震えながら言った。
「でも、あの時のことは……」
その瞬間、真鍋が鋭く山下を見た。
山下はすぐに口を閉じる。
影は、その言葉を拾った。
あの時のこと。
軽井沢と真鍋たちの間にあった過去。
それが、今も三人を縛っている。
「軽井沢さんに、何かしたのですか?」
影が尋ねる。
真鍋は答えない。
沈黙が続く。
龍園が口を開きかけたが、影がわずかに視線を向ける。
龍園はそれを見て、面白そうに笑い、黙った。
「話したくないことを、今ここで無理に話す必要はありません」
影は言った。
「ですが、ひとつだけ確認させてください」
三人が影を見る。
「あなたたちは、軽井沢さんを恐れているのですか?」
真鍋はすぐに否定しようとした。
だが、言葉が出なかった。
藪は目を伏せる。
山下は唇を噛む。
その沈黙だけで、答えは十分だった。
「軽井沢さんを恐れているのではなく」
影は続ける。
「軽井沢さんを通して、何かが明るみに出ることを恐れているのですね」
真鍋の表情が歪んだ。
「……あんた、ほんと気持ち悪い」
「よく言われます」
影は微笑む。
責めない。
問い詰めない。
だが、逃がしもしない。
その距離感が、真鍋にとってはかえって苦しいようだった。
「軽井沢は……」
真鍋は小さく言った。
「弱いくせに、強いふりしてる」
影は黙って聞く。
「昔は、あんな感じじゃなかった」
藪が不安そうに真鍋を見る。
山下は目を伏せたまま動かない。
「なのに、今はDクラスで上手くやってる。周りに人を置いて、平気な顔して」
真鍋の声には、恨みがあった。
だが、どこかで軽井沢の強がりを認めているようにも聞こえた。
「だから、気に入らなかったのですか?」
影が尋ねる。
真鍋はすぐには答えなかった。
「……そうかもね」
それは、真鍋の中にある本音の一部だった。
全てではない。
けれど、龍園にとっては十分な材料だった。
龍園の口元が、ゆっくりと歪む。
「弱いくせに強がってる、か」
その声を聞いて、真鍋の顔が青ざめた。
自分が何を渡してしまったのか。
ようやく気づいたのだ。
「龍園さん」
影が静かに声をかける。
龍園は笑う。
「分かってる。今日はここまでにしてやる」
真鍋たちは驚いたように龍園を見る。
龍園は三人を見下ろした。
「だが、忘れんな。お前らはもう糸だ」
藪が小さく震える。
「俺が引くまで、勝手に切れるなよ」
そう言って、龍園は踊り場から歩き出した。
石崎、伊吹、アルベルトも続く。
影は少しだけ残った。
真鍋たちはその場に立ち尽くしている。
「……結局、あんたも龍園の味方じゃん」
真鍋が低く言った。
影は否定しなかった。
「私はCクラスの生徒ですので」
「そういう話じゃない」
「はい」
影は頷く。
「分かっています」
真鍋は悔しそうに顔を伏せた。
藪は小さく言う。
「私たち、どうなるの……?」
影はすぐには答えなかった。
救えると約束することはできない。
守ると誓うこともできない。
自分は善人ではない。
ただ、壊れるところを見たいわけでもない。
「少なくとも」
影は静かに言った。
「壊れる前に、気づけることはあると思います」
「何に……?」
山下が不安そうに尋ねる。
影は三人を見る。
「自分たちが、誰に何を引かれているのかに」
三人は何も言わなかった。
影は軽く頭を下げる。
「失礼いたしました」
そう言って、階段を下りていく。
背後には、真鍋たちの重い沈黙だけが残った。
⸻
その日の夕方。
Cクラスの教室に戻った龍園は、楽しそうに端末を眺めていた。
石崎はどこか落ち着かない様子で、伊吹は不機嫌そうに窓の外を見ている。
アルベルトは何も言わない。
影は自分の席に座り、龍園を見た。
「材料は揃った」
龍園が低く言う。
「軽井沢は弱い。だが強いふりをしてる」
「そのようですね」
「真鍋たちとの過去もある。つつけば揺れる」
龍園は笑う。
「問題は、どこまで揺らせばXが出てくるかだ」
石崎が顔をしかめる。
「本当に出てくるんすかね」
「出てこなきゃ、その程度だ」
龍園は即答した。
「Xが軽井沢を守るなら動く。守らないなら、軽井沢が潰れるだけだ」
伊吹が舌打ちする。
「胸糞悪い」
「なら見るな」
「見るよ」
伊吹は龍園を睨む。
「見た上で、胸糞悪いって言ってる」
龍園は面白そうに笑った。
影は、そのやり取りを見ながら思う。
龍園の周りにいる者たちは、誰も完全には同じ方向を向いていない。
石崎は従うが迷う。
伊吹は反発しながら従う。
アルベルトは黙して動く。
影は見届ける。
同じCクラス。
同じ龍園の下。
けれど、その内側は決して一枚岩ではない。
「影」
龍園が呼ぶ。
「はい」
「お前、さっき本気でこいつらを庇ったのか?」
影は少しだけ考えた。
「庇った、という言葉が正しいかは分かりません」
「じゃあ何だ」
「壊れるところを、今は見たくなかっただけです」
龍園は口元を歪める。
「優しくなったな」
「そうでしょうか」
「誰かの影響か?」
影は一瞬だけ黙った。
記憶の奥に、赤い色が揺れる。
獣のように笑う誰か。
壊すだけならつまらないと、騒がしく言い放った声。
影は目を伏せ、少しだけ笑った。
「少しだけ、昔を思い出しました」
「へぇ」
龍園の目が細くなる。
「お前の昔話は高く売れそうだな」
「高くはありませんよ」
「安くもねぇだろ」
影は答えなかった。
龍園はそれ以上追及しない。
ただ、楽しそうに笑った。
「まあいい。お前がどう変わろうが、俺には関係ねぇ」
「はい」
「使えるなら使う」
「承知しております」
影は静かに頷いた。
だが、自分の中で何かが少しだけ変わっていることも感じていた。
真鍋たちを庇った。
いや、庇ったというより、壊される速度を遅らせた。
それが正しかったのかは分からない。
だが、あの赤い記憶の声が、少しだけ今の自分を動かしたのは確かだった。
⸻
翌日。
軽井沢への圧は、少しずつ強くなっていった。
まだ直接的ではない。
龍園が軽井沢の前に立ったわけでもない。
石崎たちが取り囲んだわけでもない。
だが、視線が増えた。
廊下ですれ違う時。
昼休みの購買前。
教室移動の途中。
Cクラスの生徒が、さりげなく軽井沢を見る。
それだけで、人は気づく。
見られている。
探られている。
軽井沢もまた、その違和感に気づいたようだった。
表情は崩さない。
佐藤たちと話し、笑い、軽い調子で返す。
だが、目の奥に一瞬だけ警戒が浮かぶ。
影は遠くからそれを見ていた。
軽井沢は強い。
いや、強く振る舞うことに慣れている。
その強さが、本物かどうかはまだ分からない。
だが、偽物だから価値がないわけではない。
作り物の強さでも、人はそれで生きていけることがある。
影はそう思った。
龍園は、それを剥がそうとしている。
中にある弱さを見つけるために。
Xを引きずり出すために。
「上代」
背後から時任の声がした。
影は振り返る。
「はい」
時任は軽井沢の方を見ていた。
「今度はあいつか」
「そう見えますか?」
「見える」
「時任さんは、本当によく見ていますね」
「茶化すなって言ってんだろ」
時任は顔をしかめる。
「龍園は、あの子を使ってXを出すつもりなんだろ」
影は答えなかった。
時任はその沈黙に、苦い顔をした。
「胸糞悪いな」
「止めますか?」
「……無理だろ」
「無理だから、止めないのですか?」
時任は影を睨む。
「お前、ほんと嫌なこと聞くな」
「申し訳ありません」
「謝る気ねぇだろ」
影は静かに微笑む。
時任は大きく息を吐いた。
「俺は龍園みたいにはなれねぇ。でも、逆らうほどの覚悟もねぇ」
その声は、いつもより低かった。
「だから、見てるだけだ」
影は時任を見る。
その言葉には、自嘲が混じっていた。
何もしないことも選択。
以前、影が言った言葉が、今は少し違う重さを持っている。
「見ているだけでも、覚えておくことはできます」
影は言った。
時任は眉をひそめる。
「何を」
「誰が、何をしたのか」
時任は少し黙った。
それから、小さく言う。
「それで何か変わるのかよ」
「すぐには変わらないかもしれません」
「意味ねぇじゃん」
「ですが、忘れなければ、いつか意味を持つこともあります」
時任は答えなかった。
ただ、軽井沢の方を一度見てから、背を向けた。
「……やっぱり、お前は分かりづれぇ」
「よく言われます」
時任は振り返らずに手を振り、その場を離れた。
影は軽井沢へ視線を戻す。
軽井沢はまだ笑っていた。
だが、その笑顔はほんの少しだけ硬い。
糸は、彼女へ向かって伸びている。
そして、その糸の先で、Xはどう動くのか。
影はまだ知らない。
⸻
その日の夜。
龍園は一人、端末を見ていた。
画面には、軽井沢に関する断片的な情報が並んでいる。
真鍋たちとの関係。
過去の揉め事。
Dクラスでの立ち位置。
そして、彼女が誰と繋がっているのか。
まだ、Xへ直接繋がる証拠はない。
だが、龍園にとっては十分だった。
「隠れてるやつは、守るものを間違える」
龍園は低く呟く。
「守ろうとした瞬間、そこが弱点になる」
彼は端末を閉じた。
暗い画面に、自分の笑みが映る。
「出てこいよ、X」
その声には、冷たい期待があった。
狩りは、もう軽井沢へ向かっている。
次に揺れるのは、Dクラスの奥ではない。
その手前にいる、一人の少女。
そして彼女が揺れた時。
顔の見えないXは、沈黙を守るのか。
それとも、動くのか。
白き影はまだ知らない。
だが、盤面は確実に、屋上へ向かい始めていた。