ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

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白き影は凍る糸を見る

 

第14話

 

終業式の日。

 

校内には、いつもとは少し違う空気が流れていた。

 

長かった二学期が終わる。

 

冬休みを前に、廊下を歩く生徒たちの声はどこか軽い。

 

試験の緊張も、体育祭の熱も、ペーパーシャッフルの重さも、少しずつ遠ざかっていく。

 

多くの生徒にとって、この日は区切りの日だった。

 

だが、Cクラスだけは違っていた。

 

少なくとも、龍園翔の周囲だけは。

 

影は教室の端から、龍園の様子を見ていた。

 

龍園はいつものように席に座り、端末を操作している。

 

表情は退屈そうに見える。

 

だが、その目は笑っていた。

 

獲物を追い詰める直前の狩人の目。

 

石崎は落ち着かない様子で、何度も龍園の方を見ている。

 

伊吹は不機嫌そうに腕を組み、アルベルトは黙って立っていた。

 

真鍋たちは、教室の隅で固まっている。

 

いつもより顔色が悪い。

 

特に藪と山下は、今日が何の日なのかを知っているように、視線を落としたままだった。

 

龍園が端末を閉じる。

 

「今日やる」

 

その一言で、周囲の空気が変わった。

 

石崎が小さく息を呑む。

 

「……軽井沢っすか」

 

「ああ」

 

龍園は短く答えた。

 

「終業式の日だ。学校全体が浮ついてる。放課後に一人消えても、気づくやつは少ねぇ」

 

伊吹が冷たい目で龍園を見る。

 

「本当に趣味悪い」

 

「聞き飽きた」

 

龍園は笑う。

 

「軽井沢を揺らす。Xが本物なら、必ず動く」

 

影は静かに龍園を見る。

 

合理的だ。

 

この日を選ぶ理由も分かる。

 

二学期最後の日。

 

生徒たちの意識は冬休みへ向いている。

 

誰か一人の表情の変化や、放課後の行動を細かく見る者は少ない。

 

だからこそ、龍園は今日を選んだ。

 

「龍園さん」

 

影が口を開いた。

 

「あ?」

 

「凍った糸は、強く引くと簡単に切れます」

 

龍園は影を見て、喉の奥で笑った。

 

「まだ言ってんのか」

 

「はい」

 

「切れる前に、Xが出てくりゃいい」

 

「出てこなかった場合は?」

 

「その時は、軽井沢がそこまでの存在だったってだけだ」

 

影は何も言わなかった。

 

その答えは、龍園らしい。

 

軽井沢が壊れるかどうかではない。

 

Xが動くかどうか。

 

龍園の中では、それだけが重要だった。

 

「お前は見てろ」

 

龍園は言う。

 

「壊れるのか、出てくるのかをな」

 

「はい」

 

影は静かに頷いた。

 

「見届けます」

 

けれど、その言葉はいつもより少しだけ重かった。

 

見届ける。

 

それは、自分が動かないための言葉なのか。

 

それとも、最後まで目を逸らさないための言葉なのか。

 

影自身にも、まだ分からなかった。

 

 

終業式は淡々と終わった。

 

体育館での式。

 

教師の話。

 

冬休みの注意。

 

生活指導の話。

 

いつものように並び、いつものように聞き流し、いつものように終わる。

 

生徒たちは教室へ戻り、配布物を受け取り、冬休みの予定を話し始めた。

 

Dクラスも例外ではない。

 

廊下では、佐藤や篠原たちの明るい声が聞こえていた。

 

「冬休み、どっか行く?」

 

「まだ決めてないかも」

 

「えー、もったいない」

 

軽井沢恵は、その中でいつものように笑っていた。

 

佐藤、松下、篠原、森。

 

いつもの女子グループ。

 

軽井沢はその中心で、軽く返し、冗談を言い、空気を明るく保っている。

 

だが、影には分かった。

 

その笑顔は、いつもより薄い。

 

視線が周囲を確認する回数が増えている。

 

Cクラスの生徒とすれ違うたびに、ほんの少しだけ肩が強張る。

 

それでも軽井沢は笑う。

 

笑っていなければ、何かが崩れると知っているかのように。

 

「軽井沢さん、今日ちょっと元気なくない?」

 

森が控えめに言った。

 

「え? そう?」

 

軽井沢はすぐに笑う。

 

「普通だけど」

 

佐藤も心配そうに見る。

 

「無理してない?」

 

「してないって。何なの、みんなして」

 

軽井沢は軽く笑って、話題を流した。

 

篠原が腕を組みながら言う。

 

「ていうか、最近Cクラスの視線多くない?」

 

その言葉に、軽井沢の動きが一瞬だけ止まった。

 

松下もそれを見逃さなかった。

 

「気のせいじゃないかもね」

 

松下が静かに言う。

 

軽井沢は明るく返す。

 

「何それ、怖い話?」

 

「そういうわけじゃないけど」

 

「大丈夫でしょ。向こうだってそんな暇じゃないって」

 

軽井沢は笑った。

 

けれど、その笑いは少しだけ乾いていた。

 

影は廊下の少し離れた場所から、その様子を見ていた。

 

薄い膜。

 

軽井沢の笑顔の奥に見えたそれが、今はさらに張りつめている。

 

明るく振る舞うほど、膜は薄くなる。

 

強く笑うほど、奥の震えが見えてしまう。

 

そこへ、真鍋たちが通りかかった。

 

真鍋、藪、山下。

 

三人は軽井沢たちと距離を取って歩いていた。

 

直接話しかけることはない。

 

ただ、すれ違う。

 

それだけだった。

 

だが、軽井沢が真鍋たちの姿に気づいた瞬間、笑顔が消えた。

 

ほんの一瞬。

 

すぐに戻る。

 

だが、消えたことは確かだった。

 

真鍋もまた、軽井沢を見た。

 

そこには恨みだけではなく、怯えがあった。

 

藪は視線を落とし、山下は俯いたまま通り過ぎる。

 

誰も声をかけない。

 

何も起こらない。

 

それでも、糸は確実に引かれていた。

 

影はその場に立ったまま、静かに息を吐いた。

 

凍った糸。

 

まだ切れていない。

 

だが、ひびは入り始めている。

 

 

放課後。

 

校舎は少しずつ静かになっていった。

 

終業式の日の放課後は、いつもより生徒の動きが早い。

 

部活動へ向かう者。

 

友人と遊びに行く者。

 

そのまま帰る者。

 

冬休み前の浮ついた空気が、廊下のあちこちに残っている。

 

軽井沢は、佐藤たちと別れた後、一人で廊下を歩いていた。

 

スマホを片手に、何かを確認するように画面へ視線を落とす。

 

その足取りは、少しだけ早い。

 

誰かの視線を避けるように。

 

誰にも呼び止められないように。

 

その時。

 

軽井沢のスマホが小さく震えた。

 

彼女は反射的に画面を見る。

 

そして、表情が凍った。

 

画面に表示された短い文章。

 

来なければ、過去をバラす。

 

誰かに話しても同じ。

 

屋上。

 

その文字が、軽井沢の足元から熱を奪っていく。

 

彼女はしばらく動けなかった。

 

廊下を歩く生徒たちの声が遠ざかる。

 

冬休みの話。

 

笑い声。

 

足音。

 

そのすべてが、軽井沢から離れていくようだった。

 

スマホを握る指が震える。

 

「……何で」

 

声にならない声が漏れた。

 

過去。

 

隠したいもの。

 

忘れたふりをしてきたもの。

 

今の自分を守るために、必死に遠ざけてきたもの。

 

それが、たった数文字で引きずり出される。

 

軽井沢は唇を噛んだ。

 

行かなければ、バラされる。

 

誰かに話しても、バラされる。

 

逃げ道はない。

 

彼女は廊下の端へ寄り、スマホを握りしめた。

 

胸の奥が冷えていく。

 

それでも、すぐには動かなかった。

 

画面を閉じようとして、指が止まる。

 

別の画面を開く。

 

誰かに連絡するために。

 

だが、文字を打つ指は震えていた。

 

送っていいのか。

 

送れば、また巻き込むことになる。

 

自分の過去が知られるかもしれない。

 

それでも。

 

軽井沢は目を閉じた。

 

そして、震える指で短いメッセージを打った。

 

それは助けを求める言葉ではなかった。

 

泣きつくような文章でもなかった。

 

ただ、必要最低限の短い知らせ。

 

送信。

 

画面に表示されたその文字を見て、軽井沢は小さく息を吐いた。

 

次の瞬間には、いつもの顔を作る。

 

強く見える顔。

 

平気なふりをする顔。

 

誰にも助けを求めていないように見せる顔。

 

そして、スマホをしまった。

 

向かう先は、屋上。

 

冬の冷たい空気が、窓の隙間から廊下へ流れ込んでいた。

 

 

同じ頃。

 

特別棟の階段踊り場には、龍園たちが集まっていた。

 

龍園。

 

石崎。

 

伊吹。

 

アルベルト。

 

そして影。

 

石崎は落ち着かない様子で、何度も階段の上を見ている。

 

伊吹は腕を組み、明らかに不機嫌そうだった。

 

アルベルトは無言で立っている。

 

龍園は端末を片手に、楽しそうに笑っていた。

 

「送ったんすか」

 

石崎が小さく聞く。

 

「ああ」

 

龍園は軽く答える。

 

「来るんすかね」

 

「来る」

 

龍園は迷わず言った。

 

「来なきゃ、過去がバラされる。誰かに話しても同じ。あいつに選択肢はねぇ」

 

伊吹が低く言う。

 

「最低」

 

「何度目だ、それ」

 

「何度でも言う」

 

伊吹は龍園を睨む。

 

「最低」

 

龍園は笑うだけだった。

 

影は黙っていた。

 

軽井沢がメールを受け取ったところは見ていない。

 

彼女がどんな顔をしたのかも知らない。

 

ただ、想像はできた。

 

強がる少女。

 

笑顔の膜で自分を守る少女。

 

その膜を、たった一通の文面で凍らせる。

 

龍園は、直接触れずに軽井沢を動かした。

 

合理的だ。

 

そして、残酷だ。

 

「影」

 

龍園が声をかける。

 

「はい」

 

「お前、また糸がどうとか言うか?」

 

「はい」

 

影は静かに答えた。

 

「凍った糸に、さらに冷たい水をかけたようなものです」

 

石崎が思わず影を見る。

 

「それ、もう切れそうじゃないっすか」

 

「はい」

 

影は頷く。

 

「切れるかもしれません」

 

龍園は楽しそうに笑った。

 

「切れる前に、Xが出てくる」

 

「出てこなければ?」

 

「軽井沢が壊れる」

 

その声は冷たい。

 

石崎が顔を歪める。

 

伊吹は舌打ちした。

 

アルベルトは何も言わない。

 

影は龍園を見た。

 

「それが目的ですか?」

 

「違う」

 

龍園は即答した。

 

「目的はXだ。軽井沢は手段にすぎねぇ」

 

「手段が壊れた場合は?」

 

「壊れる方が悪い」

 

その言葉に、階段踊り場の空気が冷えた。

 

影は目を伏せる。

 

見届ける。

 

止めない。

 

それでいいのか。

 

問いは、まだ胸の奥に残っている。

 

しかし、ここで龍園を止めても、狩りは終わらない。

 

龍園は別の糸を探す。

 

別の場所を突く。

 

もっと乱暴に。

 

だから、影は今も見ている。

 

糸がどこへ繋がるのかを。

 

「軽井沢は屋上へ向かう」

 

龍園が言った。

 

「俺たちも行くぞ」

 

石崎が頷く。

 

伊吹は不快そうに顔を背ける。

 

アルベルトは黙って歩き出す。

 

影も続いた。

 

階段を上るたび、空気が冷たくなる。

 

屋上へ近づくほど、校内のざわめきが遠くなっていく。

 

冬の終業式。

 

二学期の終わり。

 

多くの生徒にとっては、ただの区切りの日。

 

だが、この階段の先では、別の終わりが始まろうとしていた。

 

 

屋上へ向かう途中。

 

影はふと立ち止まりかけた。

 

脳裏に、赤い色がよぎる。

 

獣のように笑う誰かの声。

 

――壊すだけなら、つまらねぇだろ。

 

その言葉は、今日も静かに影の奥で揺れていた。

 

壊すだけなら、つまらない。

 

では、壊れそうなものを見届けるだけなら。

 

それは美しいのか。

 

影にはまだ分からない。

 

だが、一つだけ分かっている。

 

軽井沢は、ただの餌ではない。

 

真鍋たちも、ただの糸ではない。

 

それぞれが恐れ、隠し、強がりながら、ここまで引かれてきた。

 

その先にいるX。

 

龍園が引きずり出そうとしている存在。

 

もし本当にいるのなら。

 

この凍った糸が切れる前に、姿を見せるのか。

 

それとも。

 

影は階段の先を見上げた。

 

屋上へ続く扉が、近づいている。

 

 

その少し前。

 

軽井沢は一人、階段を上っていた。

 

スマホはポケットの中にしまっている。

 

送ったメッセージに返事はない。

 

返事を待つ余裕もない。

 

足音が、冷たい階段に響く。

 

一段。

 

また一段。

 

上に行くほど、空気が冷たくなる。

 

彼女の呼吸は浅い。

 

それでも、足は止めない。

 

止めれば、すべてが終わる気がした。

 

屋上。

 

その場所に何が待っているか、分からないわけではない。

 

分からないふりをしているだけだ。

 

軽井沢は唇を噛む。

 

怖い。

 

本当は怖い。

 

だが、それを認めることも怖い。

 

認めてしまえば、今まで作ってきた自分が崩れてしまう。

 

Dクラスで笑っていた自分。

 

佐藤たちと話していた自分。

 

何もなかったように振る舞っていた自分。

 

全部が、壊れてしまう。

 

だから、軽井沢は顔を上げた。

 

強がるために。

 

平気なふりをするために。

 

壊れないふりをするために。

 

屋上の扉の前に立つ。

 

冷たい金属の扉。

 

その向こうには、きっと龍園がいる。

 

真鍋たちもいるかもしれない。

 

Cクラスの誰かも。

 

そして、誰も助けに来ないかもしれない。

 

軽井沢は震える指で、扉に手をかけた。

 

その瞬間。

 

彼女のスマホが、ポケットの中で小さく震えた。

 

返事か。

 

それとも、別の通知か。

 

軽井沢は一瞬だけ目を閉じた。

 

だが、画面は見なかった。

 

今は見るべきではない。

 

そう思った。

 

彼女は扉を開けた。

 

冬の冷たい風が、全身を刺すように吹きつける。

 

屋上。

 

そこには、龍園たちが待っていた。

 

白き影もまた、その場に立っていた。

 

軽井沢の目が、一瞬だけ影を捉える。

 

以前の問いが、沈黙の中で蘇る。

 

――あんた、私の敵?

 

影は答えない。

 

軽井沢も聞かない。

 

ただ、龍園が笑った。

 

「よう、軽井沢」

 

冷たい風の中、凍った糸が強く張られる。

 

切れるのか。

 

それとも。

 

その答えは、まだ誰も知らない。

 

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