ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

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白き影は無音の暴力を見る

 

第15話

 

冬の屋上は、冷たかった。

 

風が強いわけではない。

 

だが、空気そのものが肌を刺すように冷えている。

 

終業式の日の放課後。

 

校舎の中には、冬休み前の浮ついた気配がまだ残っているはずだった。

 

けれど、この屋上だけは違う。

 

そこにあるのは、冷たい沈黙。

 

そして、逃げ場のない空気だった。

 

軽井沢恵は、屋上の扉の前で立ち止まっていた。

 

目の前には龍園。

 

その近くに、石崎、伊吹、アルベルト。

 

少し離れた位置に、影。

 

軽井沢の視線は、一瞬だけ影へ向いた。

 

以前の問いが、沈黙の中で蘇る。

 

――あんた、私の敵?

 

影は答えなかった。

 

軽井沢も、何も聞かなかった。

 

ただ、龍園が笑った。

 

「よう、軽井沢」

 

軽井沢は無理に顔を上げる。

 

「……何の用?」

 

声は震えていない。

 

少なくとも、表面上は。

 

龍園は楽しそうに目を細めた。

 

「分かってるだろ」

 

「分かんない」

 

「なら教えてやるよ」

 

龍園は一歩近づく。

 

軽井沢の肩が、ほんの少しだけ強張った。

 

「お前の過去だ」

 

その一言で、軽井沢の顔から温度が消えた。

 

それでも、彼女は笑おうとした。

 

「意味分かんないんだけど」

 

「まだそれで通すのか」

 

龍園は低く笑う。

 

「真鍋たちから聞いた。お前、昔いじめられてたんだってな」

 

軽井沢の瞳が揺れた。

 

ほんの一瞬。

 

だが、それは確かに表に出た。

 

石崎が気まずそうに視線を逸らす。

 

伊吹は不快そうに顔をしかめる。

 

アルベルトは無言のまま動かない。

 

影は、その場から軽井沢を見ていた。

 

強く見せる膜。

 

笑顔の奥に張られていた薄い膜。

 

それが、龍園の言葉で凍りついていく。

 

「……だから何?」

 

軽井沢は言った。

 

声は少しだけ低い。

 

「昔のこと持ち出して、何がしたいわけ?」

 

「Xを出す」

 

龍園は即答した。

 

「お前が餌だ」

 

軽井沢の表情が固まった。

 

餌。

 

その言葉はあまりにも冷たかった。

 

人ではなく、道具として見る言葉。

 

軽井沢は唇を噛んだ。

 

「私、そんなの知らない」

 

「知ってるかどうかは関係ねぇ」

 

龍園は笑う。

 

「Xがお前を守る価値があると思えば、勝手に出てくる」

 

「出てこなかったら?」

 

軽井沢の声が、かすかに震えた。

 

龍園は迷わず答えた。

 

「お前が壊れるだけだ」

 

風が吹いた。

 

冷たい風だった。

 

軽井沢の髪が揺れる。

 

その顔は、まだ強がっている。

 

けれど、その強がりはもう限界に近かった。

 

影は静かに見ていた。

 

見届ける。

 

そう決めた。

 

龍園の狩りを。

 

Xが出てくる瞬間を。

 

軽井沢が壊れるのか、耐えるのかを。

 

だが今、その言葉が少しだけ重い。

 

軽井沢はただの餌ではない。

 

真鍋たちも、ただの糸ではない。

 

それぞれが恐れ、隠し、強がりながら、ここまで引かれてきた。

 

龍園はそれを分かっていて、引いている。

 

「龍園さん」

 

影が静かに口を開いた。

 

龍園が視線だけを向ける。

 

「あ?」

 

「軽井沢さんは、もう十分に揺れています」

 

「だから?」

 

「これ以上強く引けば、本当に切れます」

 

龍園は笑った。

 

「切れる前に出てくりゃいい」

 

「出てこなければ?」

 

「何度も言わせんな」

 

龍園の目が冷える。

 

「Xの負けだ」

 

軽井沢が小さく息を呑んだ。

 

その表情を見て、影は一瞬だけ目を伏せた。

 

合理的だ。

 

だが、美しくはない。

 

そう思った。

 

 

龍園は石崎へ視線を送った。

 

石崎は一瞬だけためらった。

 

だが、龍園の目を見て、黙って屋上の端へ向かう。

 

そこには、用意されていたバケツがあった。

 

軽井沢の顔色が変わる。

 

「……何、それ」

 

声が小さくなった。

 

龍園は笑う。

 

「思い出しやすくしてやるよ」

 

石崎がバケツを持つ手に力を込める。

 

「龍園さん……」

 

「やれ」

 

短い命令。

 

石崎は唇を噛んだ。

 

それでも、逆らえなかった。

 

次の瞬間。

 

冷水が、軽井沢の頭上から落ちた。

 

「っ――!」

 

冬の屋上で浴びる水は、痛みに近かった。

 

髪が濡れる。

 

制服が肌に張りつく。

 

冷たさが一瞬で体温を奪っていく。

 

軽井沢の呼吸が乱れた。

 

肩が震える。

 

膝が崩れかける。

 

けれど、彼女は必死に立っていた。

 

「はっ……はぁ……」

 

呼吸が浅い。

 

目の焦点が揺れる。

 

ただの水ではない。

 

それは、冷たさで身体を奪うもの。

 

恐怖で呼吸を乱すもの。

 

そして、彼女が必死に閉じ込めていた過去を、無理やり引きずり出すものだった。

 

龍園はしゃがみ込むようにして、軽井沢の顔を覗き込んだ。

 

「言えよ」

 

声は冷たい。

 

「お前を守ってるやつの名前を」

 

軽井沢は唇を震わせた。

 

寒さで。

 

恐怖で。

 

過去を引きずり出される痛みで。

 

それでも、彼女は声を絞り出す。

 

「……知らない」

 

龍園の目が細くなる。

 

「まだ言うか」

 

軽井沢は俯いたまま、かすかに笑った。

 

笑えているのかどうかも分からない。

 

ただ、壊れかけた声で言う。

 

「知らないって……言ってるでしょ」

 

影はその姿を見ていた。

 

これはもう、糸を引いているのではない。

 

凍らせて、砕こうとしている。

 

軽井沢は餌ではない。

 

壊れかけながら、それでも何かを守っている一人の少女だった。

 

龍園が立ち上がる。

 

「石崎」

 

石崎が目を伏せる。

 

もう一度。

 

そう言われることを、分かっていた。

 

影はその瞬間、ほんの少しだけ息を吸った。

 

止めるのか。

 

見届けるのか。

 

その問いが、また胸の奥で揺れた。

 

だが、影が言葉を発する前に、龍園は軽井沢へ言った。

 

「次で終わるかもな」

 

軽井沢は震えたまま、顔を上げられない。

 

それでも、名前は出さない。

 

龍園が笑う。

 

「いいぜ。なら、もっと思い出させてやる」

 

その時だった。

 

屋上の扉が、ゆっくりと開いた。

 

金属の軋む音が、冷たい空気の中に響く。

 

誰もが振り返る。

 

冬の光を背にして、一人の男子生徒が立っていた。

 

息を切らしていない。

 

慌ててもいない。

 

怒りを浮かべてもいない。

 

ただ、そこにいる。

 

綾小路清隆。

 

軽井沢の瞳が、わずかに揺れた。

 

龍園の口元が、ゆっくりと歪む。

 

「ようやく来たか」

 

綾小路は、濡れて震える軽井沢を一度だけ見た。

 

そして、龍園へ視線を戻す。

 

「それくらいにしておけ」

 

声は静かだった。

 

けれど、その一言で屋上の空気が変わった。

 

現れた瞬間に、空気の重心が変わった。

 

影はそう感じた。

 

派手な登場ではない。

 

怒鳴ったわけでもない。

 

走ってきたわけでもない。

 

だが、綾小路がそこに立っただけで、この場の意味が変わった。

 

軽井沢を壊すための屋上から。

 

龍園とXが向かい合う場所へ。

 

「お前がXか」

 

龍園が言った。

 

綾小路は表情を変えない。

 

「そう呼んでいるのは、お前だろ」

 

「ククッ……やっぱりお前だったか」

 

龍園の笑みが深くなる。

 

石崎が目を見開く。

 

伊吹も綾小路を見る。

 

アルベルトは黙ったまま、立ち位置を変えた。

 

影は、綾小路から目を離さなかった。

 

驚きではない。

 

答え合わせに近かった。

 

「やはり、あなたでしたか」

 

影が静かに言った。

 

綾小路の視線が、影へ向く。

 

ほんの短い沈黙。

 

「……気づいていたのか」

 

「確信ではありません」

 

影は微笑む。

 

「ただ、候補の中で一番静かでしたので」

 

「静か?」

 

「はい。動いていないように見える方ほど、盤面に触れていることがあります」

 

綾小路の表情は変わらない。

 

だが、その視線がほんのわずかに影へ留まった。

 

龍園の側にいる生徒。

 

しかし、龍園と同じ熱では動いていない。

 

それでいて、こちらの存在に薄く触れていた。

 

綾小路は、影をただの傍観者として片づけなかった。

 

「なぜ龍園に言わなかった」

 

綾小路が問う。

 

声は変わらず静かだった。

 

影は少しだけ目を細める。

 

「見たかったからです」

 

「何を」

 

「あなたが、どのように現れるのかを」

 

影は軽く首を傾げる。

 

「姿を隠す方が、どのような顔で盤面に上がるのか。少し、興味がありました」

 

綾小路は短く沈黙する。

 

「悪趣味だな」

 

「よく言われます」

 

龍園が喉の奥で笑った。

 

「ククッ……お前ら、随分余裕じゃねぇか」

 

影は一歩下がる。

 

ここから先は、自分の場ではない。

 

龍園と綾小路。

 

狩る者と、隠れていた者。

 

熱を持つ者と、熱を見せない者。

 

その二人が向かい合う場所だった。

 

 

龍園は軽井沢へ一度視線を向けた。

 

「よく耐えたじゃねぇか、軽井沢」

 

軽井沢は何も言わない。

 

濡れた髪が頬に張りつき、肩は震えている。

 

それでも、彼女は綾小路の名前を言わなかった。

 

龍園は笑う。

 

「おかげで、獲物が釣れた」

 

綾小路は静かに言った。

 

「軽井沢は関係ない」

 

「関係あるから来たんだろ?」

 

龍園は楽しそうに返す。

 

綾小路は答えない。

 

その沈黙が、肯定にも否定にも見えなかった。

 

龍園は腕を広げるようにして笑う。

 

「いいぜ。なら見せてもらう」

 

その瞬間、石崎が動いた。

 

迷いはあった。

 

だが、龍園の指示に従う身体は動いていた。

 

「うおっ!」

 

石崎が綾小路へ迫る。

 

大振りだが、力はある。

 

普通なら、受けるだけでも厄介な一撃。

 

しかし、綾小路はほとんど表情を変えなかった。

 

一歩。

 

半身。

 

手首。

 

肘。

 

膝。

 

石崎の動きの流れが、途中で切れる。

 

次の瞬間、石崎の身体が崩れた。

 

何が起きたのか、影にはすぐには分からなかった。

 

派手な音はない。

 

大きな動きもない。

 

綾小路は、石崎の攻撃を避け、必要な場所に必要な力を入れただけに見えた。

 

石崎は屋上の床に膝をつく。

 

「っ……!」

 

呻き声が漏れる。

 

綾小路の表情は変わらない。

 

怒りもない。

 

優越感もない。

 

石崎を倒したという感情すら見えない。

 

ただ、一つ処理した。

 

それだけのようだった。

 

伊吹が舌打ちして前へ出る。

 

「気に入らないわね」

 

鋭い動きだった。

 

石崎より速い。

 

無駄も少ない。

 

蹴りの軌道が綾小路の顔面へ走る。

 

だが、綾小路はそれも静かに外した。

 

伊吹の攻撃は届かない。

 

距離を詰めたと思えば外され、角度を変えたと思えば潰される。

 

「なんで……!」

 

伊吹が歯を食いしばる。

 

次の瞬間、伊吹の身体が揺れた。

 

綾小路の動きは小さい。

 

だが、的確だった。

 

伊吹の重心が崩され、床へ叩きつけられる。

 

「くっ……」

 

伊吹は起き上がろうとした。

 

だが、すぐには動けない。

 

アルベルトが前に出た。

 

大きな身体。

 

圧力。

 

普通なら、それだけで相手は怯む。

 

だが、綾小路は怯まなかった。

 

見上げるような体格差を前にしても、表情は変わらない。

 

アルベルトが動く。

 

重い一撃。

 

それを綾小路は正面から受けない。

 

流し、ずらし、崩す。

 

アルベルトの力を利用するように、必要な場所へ身体を入れる。

 

一瞬。

 

巨体が揺れた。

 

次の瞬間、アルベルトも膝をついた。

 

石崎も、伊吹も、アルベルトも。

 

Cクラスの戦力が、次々に倒れていく。

 

だが、綾小路には熱がない。

 

勝っているのに、熱がない。

 

それが何より異様だった。

 

影は、息をするのも忘れるほどに見ていた。

 

暴力のはずだった。

 

けれど、そこに怒りはない。

 

快楽もない。

 

相手を支配する喜びもない。

 

誇りもない。

 

ただ、必要だから倒している。

 

それは暴力というより、作業に近かった。

 

無音の暴力。

 

影は、そう感じた。

 

 

龍園は笑っていた。

 

仲間が倒されても、恐怖より先に笑みが浮かんでいる。

 

「ククッ……いいじゃねぇか」

 

綾小路は何も言わない。

 

龍園はゆっくりと前へ出る。

 

「お前みたいなやつを探してたんだよ」

 

その声には熱があった。

 

龍園にとって、これは敗北の始まりではない。

 

ようやく獲物を見つけた瞬間だった。

 

「なあ、綾小路」

 

龍園は笑う。

 

「お前は何なんだ?」

 

綾小路は答えない。

 

龍園はさらに踏み込む。

 

「何を考えてる? 何が目的だ? 何で隠れてた?」

 

綾小路は静かに龍園を見る。

 

「話す必要はない」

 

その声に、龍園の笑みが深くなる。

 

「そうかよ」

 

龍園が動いた。

 

迷いはない。

 

恐怖もない。

 

綾小路へ向かっていく。

 

だが、結果は同じだった。

 

龍園の攻撃は届かない。

 

届きそうで、届かない。

 

綾小路は必要な分だけ動く。

 

必要な分だけ避ける。

 

必要な分だけ打つ。

 

龍園の身体が揺れる。

 

拳が入る。

 

膝が崩れかける。

 

それでも、龍園は笑っていた。

 

「いいな……」

 

龍園は低く呟く。

 

「お前、やっぱり普通じゃねぇ」

 

綾小路は無言で龍園を見る。

 

龍園はまた立つ。

 

殴られても。

 

倒れかけても。

 

痛みを受けても。

 

笑っていた。

 

影は、その姿にも目を奪われた。

 

龍園は負けている。

 

だが、折れてはいない。

 

むしろ、敗北の中で何かを探している。

 

痛みの中で、綾小路という存在の形を確かめようとしている。

 

「ククッ……」

 

龍園の口元から血が滲む。

 

それでも、目の熱は消えていない。

 

「なあ、綾小路」

 

龍園はゆっくりと立ち上がろうとした。

 

「これが恐怖ってやつか?」

 

その声は震えていない。

 

痛みの中に、奇妙な好奇心が混じっていた。

 

影はその言葉に目を細めた。

 

龍園は、恐れていない。

 

少なくとも、まだ。

 

負けているのに、折れていない。

 

殴られ、倒され、追い詰められながら、それでも目の前の男を測ろうとしている。

 

綾小路は静かに答えた。

 

「知りたいなら、教えてやる」

 

その声に熱はなかった。

 

怒りもない。

 

ただ、必要な処理を続ける者の声だった。

 

次の一撃が入る。

 

龍園の身体が床へ叩きつけられる。

 

それでも龍園は笑おうとした。

 

「ククッ……」

 

だが、笑みは少しずつ歪んでいく。

 

痛みが蓄積する。

 

呼吸が乱れる。

 

視界が揺れる。

 

それでも、龍園はまだ綾小路を見ていた。

 

恐怖を見ようとしていた。

 

「どうした……もっと来いよ」

 

龍園は言う。

 

綾小路は答えない。

 

ただ、近づく。

 

その歩き方は静かだった。

 

勝者の歩き方ではない。

 

処理を終わらせる者の歩き方。

 

影は思った。

 

龍園は歪んでいる。

 

だが、人間の熱がある。

 

痛みの中でも笑う。

 

敗北の中でも探す。

 

恐怖すら知ろうとする。

 

対して、綾小路は整っている。

 

あまりにも整っている。

 

だが、人間の熱が見えない。

 

その対比が、屋上の冷たい空気の中で際立っていた。

 

龍園はまだ笑おうとしていた。

 

口元は歪んでいる。

 

だが、目の焦点は少しずつ合わなくなっていた。

 

「ククッ……これが、恐怖ってやつかよ……」

 

その声は、もう先ほどまでの強さを失っていた。

 

綾小路は何も答えない。

 

ただ、静かに拳を下ろした。

 

次の瞬間、龍園の身体から力が抜ける。

 

膝が崩れ、屋上の床へ倒れ込んだ。

 

今度は、起き上がらない。

 

龍園翔は、そこで意識を失った。

 

 

屋上から、音が消えたように感じた。

 

石崎は倒れ、伊吹も動けず、アルベルトも膝をついている。

 

龍園は意識を失っている。

 

軽井沢は濡れたまま、震えながらその場に立っていた。

 

そして影は。

 

影は、綾小路を見ていた。

 

綾小路は倒れた龍園を見下ろしていた。

 

その姿には、勝者の高揚がない。

 

何かを成し遂げた達成感もない。

 

ただ、終わった。

 

それだけ。

 

影は、自分の中に生まれた感情の名前を探した。

 

恐怖ではない。

 

怒りでもない。

 

嫌悪でもない。

 

美しい。

 

そう言えるのかも分からない。

 

無駄のない動き。

 

静かな判断。

 

必要なことだけを行う姿。

 

それは確かに整っていた。

 

だが、そこに人の熱がなさすぎた。

 

「これは……」

 

影は小さく呟いた。

 

美しいのか。

 

それとも、空っぽなのか。

 

分からなかった。

 

分からないから、目が離せなかった。

 

綾小路は軽井沢へ視線を向けた。

 

軽井沢は何も言えない。

 

強がりの膜は、もうほとんど壊れている。

 

それでも、完全には折れていない。

 

綾小路は静かに言った。

 

「もう大丈夫だ」

 

その言葉にも、過剰な優しさはなかった。

 

ただ、事実を告げるような声。

 

軽井沢は震えながら、それを聞いていた。

 

影はその二人を見た。

 

綾小路は軽井沢を守った。

 

だが、守り方に熱がない。

 

軽井沢は救われた。

 

だが、救われた瞬間にも恐怖が残っている。

 

それでも、この場で一つだけ確かなことがある。

 

Xは姿を見せた。

 

龍園は敗れた。

 

そして影は、綾小路清隆という存在を初めて正面から見た。

 

表に出ない理由。

 

感情を見せない理由。

 

無音のまま暴力を振るう理由。

 

そのどれも、まだ分からない。

 

だが。

 

白き影は、静かに目を細めた。

 

「綾小路清隆……」

 

その名を、声にならないほど小さくなぞる。

 

龍園の狩りは終わった。

 

だが、影にとっては、別の何かが始まった気がした。

 

屋上の冷たい風の中。

 

倒れた龍園。

 

震える軽井沢。

 

静かに立つ綾小路。

 

その光景を、影は忘れないと思った。

 

無音の暴力。

 

空っぽのようで、あまりにも整った力。

 

それが美しいのか、歪なのか。

 

今はまだ分からない。

 

だからこそ。

 

見たいと思った。

 

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