ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

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白き影は敗者の熱を見る

 

第16話

 

屋上には、まだ冷たい空気が残っていた。

 

冬の風が、濡れた床を撫でるように吹き抜けていく。

 

龍園は倒れていた。

 

意識はない。

 

石崎は屋上の床に膝をついたまま、荒い息を吐いている。

 

伊吹は悔しそうに唇を噛み、アルベルトは無言のまま、ゆっくりと体勢を整えようとしていた。

 

軽井沢は、濡れた制服のまま震えている。

 

その近くに、綾小路清隆が立っていた。

 

勝者の顔ではなかった。

 

怒りもない。

 

歓喜もない。

 

誇りもない。

 

ただ、必要なことを終えた者の静けさだけがあった。

 

影は、その姿を見ていた。

 

龍園の戦には熱があった。

 

軽井沢の戦には痛みがあった。

 

だが、綾小路の戦には音がなかった。

 

何かを勝ち取ったのではなく、ただ終わらせた。

 

そう見えた。

 

綾小路は、倒れた龍園たちを一瞥した後、軽井沢へ視線を向ける。

 

「行くぞ」

 

軽井沢は小さく頷いた。

 

まだ震えている。

 

だが、歩く意思は残っていた。

 

影は、その姿を見て思う。

 

軽井沢恵は、最後まで名を売らなかった。

 

凍え、震え、過去を突きつけられても、彼女は折れきらなかった。

 

それは、誰かに守られただけの弱さではない。

 

弱いまま、それでも立っていた者の強さだった。

 

綾小路は軽井沢を連れて、屋上の扉へ向かう。

 

去り際、彼の視線が一瞬だけ影へ向いた。

 

何かを言うわけではない。

 

ただ、確認するような視線だった。

 

影もまた、何も言わなかった。

 

今は、言葉を交わす時ではない。

 

綾小路と軽井沢は、屋上を後にした。

 

金属の扉が閉まる音が、冷たい空気に響く。

 

残されたのは、敗れたCクラスの者たちだけだった。

 

 

しばらく、誰も口を開かなかった。

 

石崎が最初に動いた。

 

「くそ……」

 

彼は痛む身体を押さえながら、どうにか立ち上がろうとする。

 

だが、膝に力が入らず、もう一度床に手をついた。

 

「何なんだよ、あいつ……」

 

その声には、怒りよりも混乱があった。

 

伊吹は壁にもたれながら、綾小路が去った扉を睨んでいる。

 

「本当に気に入らない」

 

「……伊吹さん」

 

「何よ」

 

「悔しいのですね」

 

影が言うと、伊吹は鋭く睨んだ。

 

「当たり前でしょ」

 

その声は、いつものように尖っている。

 

だが、その奥には確かな悔しさがあった。

 

伊吹は負けた。

 

ただ負けたのではない。

 

届かなかった。

 

力も、速さも、意地も。

 

何もかもが、綾小路には届かなかった。

 

アルベルトは何も言わない。

 

ただ、倒れた龍園を静かに見ていた。

 

石崎も、それに気づく。

 

「龍園さん……」

 

龍園はまだ動かない。

 

意識を失ったまま、屋上の床に倒れている。

 

いつものような笑みもない。

 

相手を見下ろす目もない。

 

Cクラスを支配していた男が、今はただ倒れている。

 

その光景は、石崎にとって受け入れがたいものだったのだろう。

 

「龍園さん、起きてくださいよ……」

 

石崎の声は小さかった。

 

影は、倒れた龍園を見ていた。

 

龍園翔は敗れた。

 

確かに敗れた。

 

だが、ただ打ち倒されたわけではない。

 

最後まで目を逸らさなかった。

 

痛みにも、恐怖にも、綾小路清隆という存在にも。

 

彼は最後の瞬間まで、それを見ようとしていた。

 

それは歪んでいる。

 

けれど、影には分かった。

 

あれは、熱だ。

 

敗北の中でも消えなかった、人間の熱。

 

 

龍園の瞼が、わずかに動いた。

 

「……クソが」

 

掠れた声だった。

 

石崎が勢いよく反応する。

 

「龍園さん!」

 

伊吹も視線を向ける。

 

アルベルトは黙ったまま、わずかに姿勢を正した。

 

龍園はゆっくりと目を開けた。

 

焦点はまだ合っていない。

 

だが、意識は戻っていた。

 

「……負けたか」

 

誰もすぐには答えられなかった。

 

石崎は拳を握る。

 

伊吹は顔を背ける。

 

アルベルトは無言のまま、龍園を見ている。

 

影だけが、静かに頷いた。

 

「はい。負けました」

 

「上代……!」

 

石崎が咎めるように声を上げる。

 

だが、龍園はかすかに笑った。

 

「はっ……はっきり言うじゃねぇか」

 

「事実ですので」

 

「慰める気はねぇのか」

 

「必要ですか?」

 

龍園は一瞬黙った。

 

喉の奥で笑おうとしたが、痛みで顔を歪める。

 

「……いらねぇよ」

 

冷たい風が、屋上を抜けていく。

 

龍園は倒れたまま、空を見上げた。

 

冬の空は薄く、どこまでも遠い。

 

「終わりだな」

 

その言葉に、石崎が顔を上げる。

 

「龍園さん……?」

 

「俺は負けた」

 

龍園の声は低かった。

 

「Xを引きずり出して、正体を見て、その上で叩き潰された。これ以上、何をやるってんだ」

 

伊吹が眉をひそめる。

 

「それ、本気で言ってるの?」

 

龍園は答えない。

 

ただ、空を見ている。

 

支配者の顔ではなかった。

 

狩人の顔でもない。

 

初めて敗北を知った少年の顔だった。

 

石崎が言葉を失う。

 

伊吹も何も言えない。

 

その沈黙の中で、影だけが龍園を見下ろしていた。

 

敗北。

 

それは確かに、ひとつの終わりだ。

 

勝ち続けてきた者ほど、初めての敗北は重い。

 

だが、その言葉を聞いた時、影の胸の奥で、遠い記憶が揺れた。

 

赤い色。

 

獣のように笑う誰か。

 

血と土埃の匂い。

 

勝つことに飢え、敗れることすら楽しむような声。

 

――負けたくらいで終わるなら、最初から戦場に立つなよ。

 

影は、その言葉を思い出していた。

 

乱暴で、騒がしくて、決して上品ではない。

 

だが、不思議と真っ直ぐな言葉だった。

 

あの時の影は、その意味をよく分かっていなかった。

 

勝つことこそが戦であり、敗北はただの失敗だと思っていた。

 

けれど今、倒れた龍園を前にして、少しだけ分かる気がした。

 

敗北は、終わりではない。

 

終わりにする者にとってだけ、終わりになる。

 

影は一歩、龍園へ近づいた。

 

「龍園さん」

 

「あ?」

 

「そんな所で終わってもよろしいのですか?」

 

龍園の目が、わずかに動いた。

 

「……何?」

 

影は龍園を見下ろす。

 

その声は静かだった。

 

だが、いつもの曖昧な観察ではない。

 

どこか、刃のように澄んでいた。

 

「敗れた。倒された。恐怖を知った」

 

影はゆっくりと言う。

 

「それだけで、龍園翔という人は終わるのですか?」

 

石崎が息を呑む。

 

伊吹も影を見る。

 

龍園は、ゆっくりと影へ視線を向けた。

 

「煽ってんのか」

 

「いいえ」

 

影は穏やかに首を横に振った。

 

「問うています」

 

「何をだよ」

 

「あなたが、敗北をどう扱うのかを」

 

屋上に、冷たい風が吹いた。

 

影は続ける。

 

「勝ち続ける者が強いとは限りません。敗れてなお、何を持って立つのか。そこにこそ、その人の形が出ます」

 

龍園は黙っている。

 

「今日のあなたは負けました」

 

影ははっきりと言った。

 

「ですが、最後まで目を逸らしませんでした。痛みにも、恐怖にも、綾小路さんにも」

 

龍園の目が細くなる。

 

「だから何だ」

 

「良い敗北でした」

 

「……は?」

 

龍園の声に、わずかな苛立ちが混じった。

 

影は微笑む。

 

「馬鹿にしているわけではありません」

 

「なら何だ」

 

「敬意です」

 

石崎が困惑したように影を見る。

 

伊吹は呆れたように息を吐いた。

 

「相変わらず変な褒め方するわね」

 

影は気にせず続ける。

 

「龍園さん。敗北は終わりではありません」

 

影の脳裏に、また赤い記憶がよぎる。

 

――負けたくらいで終わるなら、最初から戦場に立つなよ。

 

「そこで膝をついたままなら終わりです。ですが、敗北を持ったまま立つなら、それは次の戦になります」

 

龍園は、しばらく何も言わなかった。

 

痛みで呼吸は荒い。

 

口元には血が滲んでいる。

 

それでも、その目に少しずつ熱が戻っていく。

 

「……お前」

 

龍園は掠れた声で言う。

 

「今の言葉、お前の言葉か?」

 

影は少しだけ黙った。

 

そして、静かに笑った。

 

「半分は」

 

「残り半分は?」

 

「昔、少し騒がしい方に聞かされた言葉です」

 

龍園の口元が、わずかに歪む。

 

「そいつも、気持ち悪ぃやつだったのか?」

 

「いいえ」

 

影は少しだけ考える。

 

「とても乱暴で、とても真っ直ぐな方でした」

 

龍園は喉の奥で笑おうとした。

 

痛みで少し顔を歪める。

 

「ククッ……お前の知り合いらしいな」

 

「そうでしょうか」

 

「少なくとも普通じゃねぇ」

 

「それは否定できません」

 

影は穏やかに答えた。

 

龍園はしばらく空を見上げていた。

 

そして、低く呟く。

 

「負けたくらいで終わるなら、最初から戦場に立つな、か」

 

影は目を細める。

 

「聞こえていましたか」

 

「顔に書いてあった」

 

「それは困りました」

 

「相変わらず、分かりづれぇくせに変なところで分かりやすいな」

 

龍園は小さく笑った。

 

その笑みは、いつもの支配者の笑みではない。

 

痛みと敗北を知った者の、かすれた笑みだった。

 

だが、そこには熱が戻っていた。

 

 

龍園はゆっくりと身体を起こそうとした。

 

石崎が慌てて近づく。

 

「龍園さん!」

 

「触んな」

 

龍園は短く言った。

 

声にはまだ力がない。

 

それでも、命令の形は残っていた。

 

石崎は足を止める。

 

龍園は肘をつき、痛みに顔を歪めながら身体を起こした。

 

「くそ……身体中いてぇな」

 

伊吹が冷たく言う。

 

「当然でしょ。あれだけやられたんだから」

 

「うるせぇよ」

 

龍園は荒く息を吐く。

 

それでも、さっきまでの空虚な表情は消えていた。

 

瞳に、わずかだが熱が戻っている。

 

石崎はその変化に気づいたのか、少しだけ安心したように表情を緩めた。

 

「龍園さん……」

 

「何泣きそうな顔してんだ、石崎」

 

「泣いてないっす」

 

「なら、その顔やめろ」

 

「すんません」

 

いつものやり取り。

 

だが、そこにいつもの支配の重さは少し薄れていた。

 

敗北の後だからこそ、残ったものが見える。

 

石崎は龍園を恐れている。

 

従っている。

 

それでも、彼が終わることを望んではいない。

 

伊吹も同じだった。

 

彼女は龍園を嫌っている。

 

そのやり方を認めていない。

 

それでも、敗北した龍園を見捨てるほど冷たくはなかった。

 

アルベルトは無言のまま、龍園のそばに立っている。

 

影はその光景を見ていた。

 

龍園翔という人間は、確かに敗れた。

 

けれど、敗北の中で残るものもある。

 

恐怖。

 

痛み。

 

悔しさ。

 

そして、消えない熱。

 

「影」

 

龍園が呼ぶ。

 

「はい」

 

「俺は負けた」

 

「はい」

 

「だが、終わりじゃねぇ」

 

影は静かに微笑んだ。

 

「その方が、あなたらしいと思います」

 

龍園は低く笑う。

 

「覚えとけ。次は、俺が選ぶ」

 

「何をですか?」

 

「負け方だ」

 

その言葉に、影は少しだけ目を細めた。

 

敗北を認めた者の言葉。

 

だが、終わりを受け入れた者の言葉ではない。

 

龍園翔は敗れた。

 

狩りは終わった。

 

けれど、炎は消えていない。

 

その炎は、以前より少しだけ形を変えたように見えた。

 

 

しばらくして、龍園はどうにか立ち上がった。

 

足元は不安定だった。

 

石崎がまた支えようとしたが、龍園は手で制する。

 

「いらねぇ」

 

「でも……」

 

「二度言わせんな」

 

石崎は渋々手を引っ込めた。

 

龍園は屋上の扉を見る。

 

綾小路と軽井沢が去っていった扉。

 

そこに向けられる視線には、敗北の屈辱があった。

 

だが、それだけではない。

 

興味。

 

悔しさ。

 

そして、何かを認めたような沈黙。

 

「綾小路清隆」

 

龍園はその名を低く呟いた。

 

「ほんと、化け物だな」

 

伊吹が顔をしかめる。

 

「今さら?」

 

「実際にやられたから言ってんだよ」

 

龍園は少しだけ笑う。

 

「だが、正体は見た」

 

影はその横顔を見る。

 

「満足ですか?」

 

「するわけねぇだろ」

 

龍園は即答した。

 

「負けて満足するほど、俺はできた人間じゃねぇ」

 

「それは安心しました」

 

「何がだ」

 

「もし満足していたら、龍園さんらしくありませんので」

 

龍園は鼻で笑った。

 

「お前に俺らしさを語られるとはな」

 

「失礼でしたか?」

 

「気色悪い」

 

「よく言われます」

 

伊吹が小さく呟く。

 

「ほんと、似た者同士じゃないの」

 

「誰と誰がだ」

 

「知らない」

 

伊吹はそう言って顔を背けた。

 

石崎はまだ何か言いたそうだったが、言葉にできないようだった。

 

影は、屋上の空を見上げる。

 

冬の空は冷たく、淡い。

 

この場所で一つの狩りが終わった。

 

龍園のX狩りは敗北に終わった。

 

軽井沢は壊れなかった。

 

綾小路は姿を見せた。

 

そして、龍園は敗れてもなお、終わらなかった。

 

「これもまた、戦の続きなのですね」

 

影は小さく呟いた。

 

龍園が聞き咎める。

 

「何か言ったか」

 

「いいえ」

 

「嘘くせぇな」

 

「よく言われます」

 

龍園は呆れたように笑った。

 

その笑みは弱い。

 

だが、確かに戻っていた。

 

 

屋上を降りる時、影は一度だけ振り返った。

 

冷たい床。

 

倒れていた場所。

 

水に濡れた跡。

 

そこには、先ほどまでの戦いの残滓が残っている。

 

軽井沢の震え。

 

龍園の笑み。

 

綾小路の無音の暴力。

 

それらすべてが、この屋上に焼きついているようだった。

 

影は目を閉じる。

 

赤い記憶が、また一瞬だけよぎる。

 

騒がしく笑う誰か。

 

負けたくらいで終わるなと、当たり前のように言った声。

 

その名は、まだ口にしない。

 

けれど、その言葉は確かに影の中に残っている。

 

そして今日、その言葉は龍園を少しだけ立たせた。

 

影は静かに歩き出す。

 

龍園の狩りは終わった。

 

だが、すべてが終わったわけではない。

 

敗北を持った龍園。

 

傷を抱えた軽井沢。

 

音のない綾小路。

 

それぞれが、別の場所へ歩き始める。

 

白き影は、その背中を見ていた。

 

美しい勝利とは何か。

 

良い敗北とは何か。

 

壊れずに立つことは、どれほど難しいのか。

 

答えはまだ出ない。

 

けれど、見たいものは増えた。

 

だから、影は歩く。

 

次の戦を見るために。

 

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