第18話
冬休みの空気にも、少しずつ慣れ始めていた。
校舎の中に漂っていた緊張は薄れ、ケヤキモールや寮の周辺には、冬休みらしい緩い時間が流れている。
だが、Cクラスの中にはまだ屋上の余韻が残っていた。
龍園が敗れたこと。
綾小路という存在。
軽井沢の件。
それらは表には出ない。
誰も大声で話さない。
けれど、完全に消えたわけではなかった。
影は寮のロビーで一人、端末を眺めていた。
そこへ、石崎が慌ただしく近づいてくる。
「上代!」
「はい。石崎さん」
「明日、暇か?」
「予定はありません」
「じゃあ来いよ。ケヤキモール」
影は少し首を傾げた。
「何かあるのですか?」
「いや、冬休みだしよ。せっかくだから何人かで集まろうって話になって」
「集まり、ですか」
「そうそう。普通に遊ぶだけ」
普通に遊ぶ。
その言葉に、影は少しだけ瞬きをした。
普通に。
Cクラスで。
それは、意外と珍しい響きだった。
「ちなみに、どなたが来られるのですか?」
影が尋ねると、石崎は指を折りながら答えた。
「俺と小宮、近藤。あと金田と椎名。伊吹とアルベルトも来るっぽい」
「龍園さんは?」
「一応、声はかけた」
「来られるのですか?」
「分かんねぇ。でも、来そうな気もする」
石崎は少しだけ苦笑した。
屋上の一件以来、龍園の空気は少し変わっていた。
以前なら、こういう集まりに来る姿など想像しづらかった。
それでも今は、完全にないとは言い切れない。
敗北を知った龍園は、前より弱くなったわけではない。
ただ、少しだけ違う形になった。
影にはそう見えていた。
影は少し考えてから、石崎を見る。
「時任さんもお誘いしてよろしいでしょうか」
「時任?」
石崎は意外そうに目を丸くした。
「あいつ来るか?」
「分かりません」
「まあ、別にいいけどよ。人数多い方が楽しいし」
「ありがとうございます」
「でも、誘うなら上代から誘ってくれよ。俺が誘っても断られそうだし」
「承知いたしました」
石崎は満足そうに頷く。
「じゃあ明日な。昼前くらいにケヤキモール集合で」
「はい」
石崎が去っていく。
影はその背中を見送った。
石崎は屋上後、少し変わった。
龍園を以前より気にしている。
伊吹やアルベルトとの距離も、少しだけ違う。
敗北は、Cクラスの形を壊した。
けれど同時に、何かを繋ぎ直しているようにも見えた。
影は端末を見下ろす。
時任の名前を探した。
そして、少しだけ考えた後、通話をかけた。
⸻
数回の呼び出し音の後、少し不機嫌そうな声が聞こえた。
「……何だよ」
「こんばんは、時任さん」
「用件を言え」
「明日、Cクラスの方々でケヤキモールへ行くそうです」
「へぇ」
「時任さんも、いらっしゃいませんか」
「行かねぇ」
返事は早かった。
影は少しだけ目を瞬かせた。
「まだ集合時間もお伝えしておりません」
「メンバー聞く前から嫌な予感しかしねぇ」
「石崎さん、小宮さん、近藤さん、金田さん、椎名さん、伊吹さん、アルベルトさんが来られるそうです」
「多いな」
「龍園さんにも声をかけているそうです」
「なおさら行かねぇ」
「そうですか」
影は静かに言った。
「残念です」
電話口の向こうで、時任が小さく息を吐いた。
「……何がだよ」
「時任さんがいらっしゃれば、少し面白くなると思いましたので」
「俺を何だと思ってんだ」
「良いツッコミ役かと」
「切るぞ」
「まだ切らないでください」
「なら変なこと言うな」
影は少しだけ笑った。
「では、普通に申し上げます」
「あ?」
「時任さんにも、来ていただきたいです」
電話の向こうが、少しだけ静かになった。
「……何で俺なんだよ」
「時任さんがいると、私が少し安心しますので」
「……」
「変でしたか?」
「変だよ」
時任の声は少しだけ弱くなった。
「けど……まあ、暇だったらな」
「ありがとうございます」
「まだ行くとは言ってねぇ」
「はい。お待ちしております」
「聞けよ」
通話が切れる。
影は端末を見下ろし、小さく微笑んだ。
来るとは限らない。
だが、おそらく来る。
そんな気がした。
⸻
翌日。
ケヤキモールは、冬休みらしい賑わいを見せていた。
買い物袋を持つ生徒。
フードコートへ向かう生徒。
ゲームセンターの方から聞こえる電子音。
温かい飲み物の匂い。
そこには、屋上の冷たさとは違う冬があった。
影が集合場所に着くと、すでに石崎、小宮、近藤がいた。
「お、来たな上代!」
石崎が手を上げる。
小宮が笑う。
「珍しい組み合わせになりそうだな」
近藤も頷いた。
「というか、本当に龍園さん来るのか?」
「来るだろ、多分」
石崎が言う。
「多分って怖いな」
近藤が苦笑する。
そこへ金田が現れた。
手には何かの参考書を持っている。
「お待たせしました」
小宮がすぐに突っ込む。
「何で遊びに来るのに参考書持ってんだよ」
金田は真顔で眼鏡を直す。
「冬休みの課題を計画的に進めるためです」
近藤が小さく笑う。
「集合回で一番浮く発言だな」
「浮くとは失礼ですね。計画性は大切です」
影は軽く頷いた。
「金田さんらしい戦支度ですね」
「戦支度ではありません。学習計画です」
石崎が笑う。
「上代と金田が話すと、なんか変な方向行くんだよな」
少し遅れて、椎名が本を抱えてやって来た。
「皆さん、おはようございます」
「椎名も本かよ」
小宮が言うと、椎名は穏やかに微笑んだ。
「待ち時間に読もうと思いまして」
「金田より自然に見えるの何でだろうな」
近藤が呟く。
「日頃の雰囲気じゃね?」
石崎が答える。
さらに伊吹とアルベルトが到着した。
伊吹は明らかに面倒そうな顔をしている。
「何で私まで来なきゃいけないわけ」
石崎が少し慌てる。
「いや、来てくれたんだからいいだろ」
「暇だっただけ」
「みんなそれ言うな」
アルベルトは無言で軽く頷いた。
その存在感だけで、周囲の生徒が少しだけ道を空ける。
「アルベルトさんも、ありがとうございます」
影が言うと、アルベルトは静かに頷いた。
そして、少し離れた位置から時任が歩いてきた。
不機嫌そうな顔で。
「……来たぞ」
影は少しだけ目を細める。
「ありがとうございます」
「暇だっただけだ」
「はい。そういうことにしておきます」
「そういうことにって何だよ」
石崎が驚いた顔で時任を見る。
「時任、本当に来たんだな」
「悪いかよ」
「いや、意外だっただけ」
小宮がにやりと笑う。
「上代に誘われたから来たんだろ?」
「違ぇ」
近藤も乗る。
「暇だっただけって言うやつ、大体誘われたの気にしてるよな」
「うるせぇな」
影が横から言う。
「時任さんは、誘われると断りきれない方なのですね」
「違う」
「優しいのですね」
「違うって言ってんだろ」
椎名が小さく笑う。
「賑やかですね」
金田が真面目に頷く。
「集合してまだ数分ですが、すでに収拾がつかなくなっています」
「お前が言うと会議みたいになるな」
近藤が言った。
その時、少し遅れて龍園が姿を見せた。
全員の空気が一瞬だけ変わる。
石崎がすぐに声を上げた。
「龍園さん!」
龍園は面倒そうに周囲を見る。
「騒ぐな」
「いや、来てくれたんすね」
「暇だっただけだ」
時任が小さく呟く。
「また暇だっただけかよ」
龍園の視線が時任へ向く。
「あ?」
「何でもねぇ」
伊吹が龍園を見る。
「来るんだ」
「来ちゃ悪いか」
「別に」
「なら黙ってろ」
伊吹は顔を背けた。
だが、本気で嫌がっているようには見えなかった。
影は、その輪を見た。
石崎。
小宮。
近藤。
金田。
椎名。
伊吹。
アルベルト。
時任。
龍園。
そして自分。
綺麗な輪ではない。
まとまりがあるとも言いにくい。
恐怖も、反発も、忠誠も、興味も、気まずさも混ざっている。
だが、それでも今ここに集まっている。
それは、少し不思議だった。
「では、参りましょうか」
影が言う。
石崎が頷く。
「よし、まず何する?」
近藤が言う。
「飯には早いし、ゲーセンか?」
小宮が乗る。
「それか、ぶらぶら店見るとか」
石崎は少し考えた後、急に手を叩いた。
「いや、今日はカラオケ行きましょう!」
「カラオケ?」
時任が眉をひそめる。
「何でいきなりカラオケなんだよ」
「大人数で来たらカラオケっしょ」
近藤が笑う。
「まあ、人数多いしちょうどいいかもな」
小宮も頷く。
「個室なら周りも気にしなくていいし」
金田は少し真面目な顔で言う。
「カラオケは、音程やリズム感の訓練にもなります」
「いや、遊びだぞ」
近藤が突っ込む。
椎名は穏やかに微笑んだ。
「皆さんで歌うのも楽しそうですね」
伊吹は即答する。
「私は歌わない」
石崎が笑う。
「まあまあ、聞いてるだけでもいいからさ」
アルベルトは無言。
龍園は退屈そうに言った。
「くだらねぇ」
「とか言いながら、来ますよね?」
石崎がうっかり言った瞬間、空気が止まった。
龍園がゆっくり石崎を見る。
「おい」
「すんません」
影が静かに言う。
「声を競う戦場、ということでしょうか」
時任がすぐに返す。
「違う。ただの娯楽だ」
龍園が鼻で笑う。
「歌で勝敗でも決めんのか?」
石崎がぱっと顔を上げる。
「点数出ますよ!」
伊吹が顔をしかめる。
「余計なこと言わないで」
龍園の口元がわずかに歪む。
「なら、最下位は罰ゲームだな」
「そういう流れにしちゃいます!?」
石崎が言うと、伊吹が冷たい目で見た。
「本当に余計なこと言う」
時任はため息をつく。
「帰りたくなってきた」
影が横から言う。
「まだ始まっていません」
「だから不安なんだよ」
⸻
カラオケ店に入ると、人数の多さから広めの部屋に通された。
長いソファ。
中央のテーブル。
大きな画面。
複数のマイク。
部屋に入った瞬間、石崎と小宮、近藤は明らかにテンションが上がった。
「おお、広い!」
「これなら全員座れるな」
「よし、最初誰いく?」
金田は端末を手に取り、曲の検索画面を見ていた。
「選曲数がかなり多いですね」
「分析始めんな」
近藤が笑う。
椎名は端の席に座り、本を膝の上に置いた。
伊吹はソファの隅に座り、腕を組む。
「私は歌わないから」
「まだ何も言ってないだろ」
小宮が言う。
アルベルトは無言で一番端に座る。
龍園は奥のソファに腰を下ろし、足を組んだ。
「勝手にやれ」
その一言で、石崎が嬉しそうに端末を操作する。
「じゃあ最初、俺いきます!」
「石崎からかよ」
時任が呟く。
「まあ、空気作るにはいいんじゃね?」
近藤が笑う。
音楽が流れ始めた。
石崎は勢いよく立ち上がり、マイクを握る。
曲は明るく、勢いのあるものだった。
上手いかどうかは別として、声は大きい。
小宮と近藤が合いの手を入れる。
「いいぞ石崎!」
「声だけは出てる!」
「だけって何だよ!」
歌いながら石崎が突っ込む。
部屋に笑いが起きる。
影はそれを静かに見ていた。
声を出す。
人前で。
上手さだけではない。
その場の空気を作るために。
石崎は、そういうことが自然にできる。
それは、戦場ではない場所での強さなのかもしれない。
「上代、何見てんだよ」
隣の時任が言う。
「石崎さんの声です」
「声を見るな。聞け」
「そうでした」
「ほんと変だな」
石崎が歌い終わると、点数が表示された。
そこそこ高い。
「おお!」
石崎が喜ぶ。
「どうっすか龍園さん!」
龍園は退屈そうに言う。
「うるせぇ」
「評価それだけっすか!?」
近藤が笑う。
「でも石崎らしくてよかったぞ」
小宮も頷く。
「勢いはあった」
「勢いは、って言うな」
次は小宮と近藤が二人で歌った。
ふざけ半分の選曲で、途中から石崎も勝手に合いの手を入る。
部屋の空気は一気に軽くなった。
伊吹は呆れた顔をしている。
だが、完全に嫌そうではない。
椎名は小さく笑いながら見ている。
金田はリズムを取りながら、妙に真剣な表情で画面を見ていた。
「金田さん」
影が声をかける。
「何でしょう」
「分析されているのですか?」
「歌詞とメロディの関係について考えていました」
「金田、カラオケでも勉強するのかよ」
時任が言う。
金田は眼鏡を直す。
「物事には必ず学べる点があります」
「遊べ」
⸻
しばらくして、金田にも順番が回ってきた。
「では、私も一曲」
選んだ曲は、意外にも落ち着いたバラードだった。
石崎が小声で言う。
「金田、こういうの歌うんだな」
小宮が頷く。
「もっと校歌みたいなの選ぶかと思った」
「校歌を何だと思っているのですか」
金田が真顔で返す。
音楽が流れ始める。
金田の歌は派手ではない。
だが、音程は安定していた。
歌い終わると、点数もなかなか高い。
「おお、普通に上手い」
近藤が言う。
「普通に、とは何ですか」
「褒めてる褒めてる」
金田は少しだけ満足そうに眼鏡を直した。
次に椎名が促される。
「椎名も歌う?」
石崎が聞くと、椎名は少し考えてから頷いた。
「では、一曲だけ」
彼女が選んだのは、静かな曲だった。
本のページをめくるような、柔らかい旋律。
部屋の空気が少し落ち着く。
椎名の声は大きくない。
けれど、穏やかで、聴く者を自然に静かにさせる声だった。
影はその歌を聴きながら思う。
椎名の声は、戦ではない。
物語だ。
誰かを打ち負かすためではなく、ただそこに頁を開くような声。
歌い終わると、石崎が小さく拍手した。
「なんか、すげぇ落ち着いた」
近藤も頷く。
「癒やされたな」
伊吹がそっぽを向きながら言う。
「悪くなかった」
椎名は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
影が言う。
「椎名さんらしい、静かな頁でした」
時任がすぐに顔をしかめる。
「何だよ、静かな頁って」
椎名は少し笑う。
「上代さんらしい感想ですね」
「通じてるのかよ」
⸻
次に、石崎が伊吹を指名した。
「伊吹もいこうぜ」
「嫌」
「一曲だけ」
「嫌」
小宮が笑う。
「そんなに拒否ると逆に聞きたくなるな」
近藤も乗る。
「実は上手いパターンだろ」
「うるさい」
伊吹は本気で嫌そうな顔をしていた。
だが、石崎がしつこく言い、近藤と小宮が乗り、最終的に龍園が低く言った。
「歌えよ」
伊吹の目が鋭くなる。
「命令?」
「嫌ならやめとけ」
「……別に、歌えないわけじゃない」
時任が小さく言う。
「完全に乗せられてるな」
伊吹は端末を乱暴に操作し、曲を入れた。
選んだのは、テンポの速い曲だった。
始まった瞬間、部屋の空気が変わる。
伊吹の声は鋭い。
音程もリズムも崩れない。
動きも自然に曲へ合っている。
歌い終わる頃には、全員が少し黙っていた。
点数もかなり高い。
石崎が呆然とする。
「伊吹、めちゃくちゃ上手いじゃん」
「うるさい」
「いや、普通にすごいっす」
「うるさいって言ってるでしょ」
伊吹は顔を背けた。
だが、耳が少し赤いように見えた。
影はそれを見て、静かに言う。
「良い一撃でした」
「歌にその感想おかしくない?」
「伊吹さんの声には、刃のような勢いがありましたので」
「……褒めてるの?」
「はい」
伊吹は少しだけ黙り、顔を背けた。
「変な褒め方」
「よく言われます」
⸻
その後、なぜかアルベルトにも順番が回ってきた。
石崎が恐る恐る聞く。
「アルベルトも……歌う?」
アルベルトは少しだけ考えた。
そして、無言で頷いた。
「歌うんすか!?」
石崎が驚く。
小宮と近藤も目を丸くする。
アルベルトは端末を操作し、洋楽らしい曲を入れた。
低いイントロが流れる。
アルベルトはマイクを持った。
そして、低い声で歌い始めた。
部屋の空気が一瞬で変わった。
声量がある。
だが、荒くない。
低く、深く、落ち着いている。
誰も茶化せなかった。
石崎は口を開けたまま固まっている。
伊吹ですら少し驚いたように見ていた。
歌い終わると、しばらく沈黙があった。
最初に声を出したのは近藤だった。
「……かっこよ」
小宮が頷く。
「何だ今の」
石崎がアルベルトを見る。
「アルベルト、すげぇな!」
アルベルトは静かに頷くだけだった。
椎名は微笑む。
「とても素敵でした」
アルベルトは少しだけ視線を落とした。
影は思う。
無言の人間にも、声はある。
普段表に出ないものが、歌という形で少しだけ現れる。
それは、なかなか興味深い。
⸻
「次、時任な」
石崎が言う。
時任は即答した。
「嫌だ」
「またそれかよ」
近藤が笑う。
「流れ的に逃げられないだろ」
「逃げる」
時任は立ち上がろうとした。
影が静かに声をかける。
「時任さん」
「何だよ」
「聴いてみたいです」
時任の動きが止まる。
「……何で」
「時任さんの声は、普段はツッコミに使われることが多いので」
「帰るぞ」
「まだ帰らないでください」
小宮が笑う。
「上代が聴きたいって言ってるんだから歌ってやれよ」
「何でそうなる」
近藤も乗る。
「ここで断ると逆に意識してるみたいだぞ」
「うるせぇ」
時任はしばらく抵抗した。
だが、結局マイクを持った。
「一曲だけだからな」
「ありがとうございます」
影が言うと、時任は顔を逸らした。
「お前のためじゃねぇ」
「はい。そういうことにしておきます」
「だからそれやめろ」
時任が選んだ曲は、意外にも落ち着いたロック調の曲だった。
歌い始めると、声は普通に良かった。
派手さはない。
だが、素直で聴きやすい。
歌詞に対して変に力を入れすぎず、自然に歌っている。
石崎が小声で言う。
「時任、普通に上手いな」
小宮が頷く。
「何かムカつくな」
「何でだよ」
歌い終わると、点数も悪くなかった。
時任はさっさとマイクを置く。
「終わり」
影は軽く拍手した。
「良い声でした」
「普通でいいんだよ」
「はい。普通に良い声でした」
「普通を足すな」
伊吹が少し笑った。
「上代と時任、ほんと会話が面倒ね」
「俺のせいじゃねぇ」
「半分は時任さんです」
影が言う。
「お前も乗るな」
⸻
残るは、龍園と影だった。
石崎は少し迷った後、勢いで言った。
「龍園さんも、一曲どうっすか!」
部屋の空気が凍りかけた。
小宮と近藤が同時に石崎を見る。
「お前……」
「命知らずかよ……」
石崎は自分でも言ってから後悔したようだった。
「いや、無理にとは……」
龍園はソファに深く座ったまま、石崎を見る。
「俺に歌えってか」
「えっと……はい」
「石崎」
「はい!」
「お前、調子に乗ってるな」
「すんません!」
石崎が即座に頭を下げる。
だが、龍園はそこで低く笑った。
「いいぜ」
「え?」
「入れろ」
「本当に歌うんすか!?」
「二度言わせんな」
石崎は慌てて端末を渡す。
龍園は適当に曲を選んだ。
流れ始めたのは、低く重い曲だった。
部屋の空気が一瞬で変わる。
龍園は立ち上がらない。
ソファに座ったまま、マイクを持つ。
それでも、声が出た瞬間、全員の視線が向いた。
低い。
強い。
上手さというより、圧がある。
歌っているというより、場を支配している。
石崎は完全に黙っている。
小宮と近藤も茶化せない。
伊吹は顔をしかめながらも、視線を逸らさない。
時任は小さく呟く。
「カラオケでも支配すんのかよ」
影は龍園を見ていた。
龍園さんは、歌わなくても中心にいる。
だが、声を出せばさらに場を掴む。
支配とは、声を出す前から始まっている。
そして声を出した後、その形を強める。
歌い終わると、点数が表示された。
高い。
石崎が声を上げる。
「龍園さん、普通に高いっす!」
龍園は退屈そうにマイクを置いた。
「当然だ」
伊吹が小さく言う。
「腹立つ」
「褒め言葉か?」
「違う」
影は静かに拍手した。
「良い支配でした」
龍園が影を見る。
「何だその感想」
「龍園さんらしい声でした」
「気持ち悪ぃ」
「よく言われます」
⸻
最後に、視線が影へ集まった。
石崎が言う。
「上代、まだ歌ってないよな」
「はい」
「歌おうぜ」
「私ですか?」
「そうそう」
小宮も頷く。
「ここまで来たら全員だろ」
近藤が笑う。
「どんな曲歌うのか気になるわ」
時任が影を見る。
「無理しなくてもいいぞ」
影は少しだけ首を傾げた。
「なぜですか?」
「いや、嫌ならって話」
「嫌ではありません」
「じゃあ歌うのか?」
「はい」
時任は少し驚いたようだった。
椎名が柔らかく言う。
「楽しみにしています」
影は端末を受け取り、しばらく曲を探した。
知らない曲も多い。
だが、ひとつだけ目に留まった曲があった。
静かなイントロ。
けれど、奥に強さのある曲。
影はそれを選んだ。
部屋の照明が画面の光を受けて揺れる。
音楽が流れる。
影はマイクを持った。
声を出す。
最初は静かに。
水面に落ちる雪のように。
だが、曲が進むにつれて、その声にはどこか鋭さが混じった。
大きくはない。
激しくもない。
けれど、まっすぐだった。
祈りのようで、刃のようでもある。
静かなのに、どこか戦場の気配がある。
誰も茶化さなかった。
石崎も、小宮も、近藤も黙っている。
金田は真剣に聴き、椎名は穏やかな目で影を見ていた。
伊吹は少しだけ目を細める。
アルベルトは無言。
時任は、何か言いたそうにしながらも黙っている。
龍園もまた、口元だけで薄く笑っていた。
影は歌いながら、不思議に思った。
声とは、己を晒すものなのかもしれない。
言葉よりも、動きよりも、時に隠しにくい。
戦の声。
祈りの声。
遊びの声。
それらは違うようで、どこかで繋がっている。
歌い終わった。
部屋に短い沈黙が落ちる。
最初に拍手したのは椎名だった。
それに続いて、石崎たちも拍手する。
「上代……なんかすげぇな」
石崎が言う。
小宮も頷く。
「思ってたより普通に上手いというか……」
近藤が言う。
「普通じゃなくて、何か雰囲気あったな」
伊吹が短く言う。
「変な歌い方」
時任がすぐに言う。
「それ、褒めてるのか?」
伊吹は顔を逸らした。
「半分は」
影が微笑む。
「ありがとうございます」
「何であんたが答えるのよ」
龍園は低く笑った。
「お前、本当に気持ち悪ぃ声してんな」
石崎が慌てる。
「龍園さん、それ褒めてます?」
「さあな」
影は軽く頭を下げた。
「龍園さんらしい褒め言葉として受け取ります」
「勝手にしろ」
時任が小さく言った。
「……まあ、良かったんじゃねぇの」
影は時任を見る。
「ありがとうございます」
「こっち見るな」
「はい」
点数が表示された。
かなり高かった。
石崎が叫ぶ。
「上代、点数高っ!」
金田が眼鏡を直す。
「音程が安定していましたからね」
近藤が笑う。
「最下位、誰だ?」
全員の視線が自然と石崎へ向いた。
「え、俺!?」
小宮が肩を叩く。
「空気作ったからセーフだ」
伊吹が冷たく言う。
「罰ゲームは?」
石崎が青ざめる。
「え、本当にやるの!?」
龍園が笑う。
「言い出したのはお前だ」
「俺じゃないっす! 龍園さんっす!」
「俺に責任押し付けるのか?」
「すんません!」
部屋に笑いが起きる。
結局、石崎の罰ゲームは「全員分のドリンクを取りに行く」になった。
「それ普通に雑用じゃねぇか!」
「罰としてちょうどいいだろ」
近藤が笑う。
アルベルトが静かに立ち上がり、石崎についていく。
石崎が感動したように言う。
「アルベルト……!」
アルベルトは無言で頷いた。
小宮が呟く。
「やっぱ一番優しいな」
⸻
その後も、カラオケは続いた。
石崎は二曲目でまた勢いよく歌い、小宮と近藤はふざけた曲を入れた。
金田はなぜか歌詞の比喩表現について語ろうとして、時任に止められた。
椎名は二曲目を断り、本を読みながら皆の声を聞いていた。
伊吹は二度目は歌わないと言い張った。
アルベルトは一曲だけで十分らしく、静かに飲み物を飲んでいた。
龍園は再び歌うことはなかったが、部屋の端で退屈そうにしながらも帰ろうとはしなかった。
時任は何度か石崎に巻き込まれ、文句を言いながらも結局マイクを持った。
影はそのすべてを見ていた。
声。
笑い。
文句。
沈黙。
拍手。
それぞれが違う。
それぞれが歪んでいる。
だが、それらが同じ部屋の中で重なっている。
綺麗な合唱ではない。
統率された軍歌でもない。
誰かが外し、誰かが笑い、誰かが黙り、誰かが歌う。
それでも、確かにひとつの輪だった。
時任が隣に座る。
「また観察してるな」
「はい」
「楽しめって言っただろ」
「楽しんでいます」
「本当かよ」
影は少し考える。
「はい。おそらく」
「おそらくって何だよ」
「まだ、こういう時間に慣れていませんので」
時任はしばらく影を見た。
それから、小さく息を吐く。
「まあ、楽しんでるならいいんじゃねぇの」
「時任さんも楽しんでいますか?」
「別に」
「そうですか」
「……悪くはない」
影は小さく微笑んだ。
「はい。悪くありません」
時任は顔を逸らした。
「真似すんな」
⸻
カラオケを出る頃には、外は夕方になっていた。
ケヤキモールの照明が少しずつ明るく感じられる時間帯。
石崎はまだ元気だった。
「いやー、楽しかったっすね!」
小宮が笑う。
「お前、最後まで声でかかったな」
近藤も頷く。
「明日喉痛くなってそう」
金田は真面目に言う。
「発声後は喉のケアが必要です」
「カラオケ後にそれ言うやつ初めて見たわ」
小宮が返す。
椎名は微笑みながら言う。
「皆さんの意外な一面が見られました」
伊吹は腕を組む。
「私は疲れた」
石崎が笑う。
「でも伊吹、めっちゃ上手かったぞ」
「しつこい」
アルベルトは無言で立っている。
石崎がその隣で言う。
「アルベルトの歌、また聞きてぇな」
アルベルトは少しだけ考え、静かに頷いた。
龍園は出口近くで立ち止まる。
「くだらねぇ時間だったな」
石崎が少し不安そうに聞く。
「つまんなかったっすか?」
龍園は石崎を一瞥した。
「そこまでは言ってねぇ」
石崎の顔が明るくなる。
「じゃあ、また行きましょう!」
「調子に乗るな」
「すんません!」
だが、完全な拒絶ではなかった。
少なくとも、影にはそう見えた。
時任が影の横に立つ。
「帰るぞ」
「はい」
「今日は、まあ……前回より変だったな」
「前回とは、Bクラスの皆さんと遊んだ日でしょうか」
「そう」
「確かに、今回はよりCクラスらしい歪さがありました」
「それ褒めてんのか?」
「はい」
「ならいいか……いや、いいのか?」
影はカラオケ店を振り返る。
あの部屋には、もう誰もいない。
だが、そこには確かに声が残っているような気がした。
石崎の大きな声。
伊吹の鋭い声。
アルベルトの低い声。
椎名の静かな声。
龍園の支配する声。
時任の素直な声。
そして、自分の声。
声を重ねることで、歪な輪は少しだけ形を変えた。
戦ではない場所で、人はこうして自分を出すのだと、影は少しだけ知った。
「悪くありませんでした」
影が呟く。
時任が聞く。
「何が?」
「皆さんの声です」
「また変なこと言ってる」
「褒めています」
「誰をだよ」
影は少し考えた。
そして、穏やかに答える。
「皆さんを、でしょうか」
時任は少しだけ黙った。
それから、顔を背ける。
「……そうかよ」
冬のケヤキモールを、Cクラスの生徒たちが歩いていく。
それは美しい行軍ではない。
乱れていて、騒がしくて、時々ぶつかる。
けれど、誰も完全には離れていない。
白き影は、その後ろ姿を見ながら思った。
戦のない日。
勝敗のない時間。
歪な声。
それもまた、人を形作るものなのだと。