ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

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白き影は折れなかった少女を見る

 

第19話

 

冬休みのケヤキモールは、今日も賑わっていた。

 

買い物袋を持つ生徒。

 

フードコートで笑う生徒。

 

ゲームセンターの音。

 

カフェから漂う甘い匂い。

 

少し前まで、屋上で冷たい風を浴びていたことが嘘のように、そこには穏やかな日常が流れていた。

 

影は一人で、中央通路を歩いていた。

 

特に目的はない。

 

ただ、人の流れを見ていた。

 

冬休みに入り、戦の気配は少し薄れた。

 

だが、完全に消えたわけではない。

 

龍園は敗北を抱えたまま立ち、Cクラスは歪な輪を少しだけ作り直した。

 

綾小路は姿を見せたが、また静かな場所へ戻った。

 

軽井沢は――。

 

そこまで考えた時だった。

 

影の視線の先に、見覚えのある姿があった。

 

軽井沢恵。

 

彼女は一人で、店の前に立っていた。

 

手には小さな紙袋。

 

誰かを待っているようにも見えるし、ただ休んでいるようにも見える。

 

表情はいつもの軽さを取り戻していた。

 

けれど、完全に元通りではない。

 

ふとした瞬間に、周囲を確認する。

 

誰かの視線を気にするように。

 

それでも、彼女はそこに立っていた。

 

折れてはいない。

 

影は静かに歩み寄った。

 

「軽井沢さん」

 

軽井沢が振り向く。

 

その瞬間、表情がわずかに硬くなった。

 

「……あんた」

 

警戒。

 

嫌悪。

 

そして、少しだけ戸惑い。

 

そのすべてが、軽井沢の目に浮かんだ。

 

影は軽く頭を下げる。

 

「こんにちは」

 

「何? Cクラスの集まり?」

 

「いいえ。今日は一人です」

 

「ふーん」

 

軽井沢は視線を逸らした。

 

「偶然?」

 

「はい」

 

「嘘っぽい」

 

「よく言われます」

 

「知ってる」

 

軽井沢の声は冷たかった。

 

以前よりも距離がある。

 

当然だ。

 

屋上で、影はそこにいた。

 

見ていた。

 

止めなかった。

 

その事実は、消えない。

 

しばらく沈黙が落ちる。

 

周囲には人の声がある。

 

けれど、二人の間だけは少し冷たかった。

 

先に口を開いたのは、軽井沢だった。

 

「あんた、あの場にいたよね」

 

「はい」

 

「止めなかったよね」

 

「はい」

 

軽井沢の眉が動く。

 

「……最低」

 

「はい。そう思います」

 

影は否定しなかった。

 

軽井沢は少し苛立ったように息を吐く。

 

「何それ。言い訳もしないわけ?」

 

「言い訳は、あまり美しくありませんので」

 

「そういうの、ほんとムカつく」

 

「申し訳ありません」

 

「ほら、それもムカつく」

 

軽井沢は顔を背けた。

 

その声には怒りがあった。

 

だが、怒れるだけの力が戻っている。

 

それを見て、影は少しだけ安心した。

 

安心。

 

その言葉が自分の中に浮かんだことに、影自身が少し驚いた。

 

「で、何?」

 

軽井沢が言う。

 

「謝りに来たの?」

 

「偶然お会いしました」

 

「やっぱ嘘っぽい」

 

「本当です」

 

「まあ、どっちでもいいけど」

 

軽井沢は腕を組む。

 

「謝罪とかいらないから。されても困るし」

 

「そうですか」

 

「ていうか、謝られて許すとか、そういう話でもないし」

 

「はい」

 

「……何でもはいって言うのやめてくれる?」

 

「承知しました」

 

「それも同じようなものだけど」

 

軽井沢は疲れたように息を吐いた。

 

けれど、以前のように強がって笑うだけではなかった。

 

怒る。

 

拒む。

 

苛立つ。

 

それは、まだ立っている証拠だった。

 

影は軽井沢を静かに見た。

 

「軽井沢さん」

 

「何」

 

「あなたは、折れませんでした」

 

軽井沢の表情が止まった。

 

「……は?」

 

「寒さにも、恐怖にも、過去にも。最後まで、名を売らなかった」

 

軽井沢の目が揺れる。

 

ほんの少し。

 

だが、確かに。

 

「別に、そんな大したことじゃないし」

 

「大したことです」

 

影は静かに言った。

 

「恐れてなお黙ることは、簡単ではありません」

 

軽井沢は何も言わなかった。

 

その沈黙は、拒絶ではなかった。

 

けれど、受け入れでもない。

 

ただ、影の言葉が少しだけ届いたように見えた。

 

「……私、ただ怖かっただけだし」

 

「はい」

 

「何もできなかった」

 

「いいえ」

 

影は首を横に振る。

 

「何も言わなかった。それは、何かを守ったということです」

 

軽井沢は唇を噛む。

 

「守ったとか、そういうのじゃない」

 

「そうですか」

 

「そう」

 

「では、そういうことにしておきます」

 

「何それ」

 

軽井沢は少しだけ顔をしかめた。

 

それでも、さっきより声の棘は薄かった。

 

影は続ける。

 

「軽井沢さんは、弱くないとは言いません」

 

「……は?」

 

「恐れていました。震えていました。過去に縛られていました」

 

「普通、本人に言う?」

 

「申し訳ありません」

 

「またそれ」

 

影は軽く頭を下げる。

 

「ですが、弱さを抱えたまま立っていました」

 

軽井沢は黙る。

 

影の声は穏やかだった。

 

「それは、強いふりとは少し違うように見えました」

 

軽井沢の目が、ほんの少しだけ伏せられる。

 

「……ほんと、変な人」

 

「よく言われます」

 

「知ってる」

 

その返しは、前より少しだけ柔らかかった。

 

 

「軽井沢」

 

静かな声がした。

 

軽井沢が振り返る。

 

そこには、綾小路清隆が立っていた。

 

表情は変わらない。

 

いつものように、静かで、何を考えているのか読みにくい。

 

だが、その視線は一瞬だけ影へ向いた。

 

「綾小路くん……」

 

軽井沢は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。

 

影は軽く頭を下げる。

 

「こんにちは、綾小路さん」

 

「上代か」

 

声は平坦だった。

 

だが、完全に無関心ではない。

 

屋上で一度、互いに存在を認識している。

 

それだけで、二人の間には目に見えない線があった。

 

綾小路は影を見る。

 

「軽井沢に何の用だ」

 

軽井沢が少し慌てたように口を挟む。

 

「別に、何でもないし」

 

影は静かに答えた。

 

「確認です」

 

「確認?」

 

「軽井沢さんが、まだ立っているかを」

 

軽井沢が顔をしかめる。

 

「何それ。私は普通に立ってるんだけど」

 

「はい。見れば分かります」

 

「じゃあ確認いらないでしょ」

 

「いえ。見たかったので」

 

「ほんとムカつく言い方するね」

 

軽井沢は小さく息を吐いた。

 

綾小路は影を見たまま、静かに言う。

 

「余計なことはするな」

 

その声は強くない。

 

だが、線を引くような響きがあった。

 

影は軽く首を傾げる。

 

「余計なこと、ですか」

 

「そうだ」

 

綾小路は淡々と続ける。

 

「お前が何を見ようとしているのかは知らない。だが、軽井沢をまた巻き込むなら、次は許さない」

 

軽井沢が、わずかに綾小路を見る。

 

その顔に浮かんだのは、驚きだったのか、戸惑いだったのか。

 

それとも、別の感情だったのか。

 

影にはまだ分からない。

 

綾小路の声に熱はない。

 

怒りも、威圧も、ほとんどない。

 

けれど、線だけがあった。

 

これ以上は踏み込むな。

 

そう告げる、冷たい境界線。

 

影は綾小路の目を見た。

 

屋上で見た無音の暴力。

 

あの冷たさが、今は言葉の形をしている。

 

影の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。

 

「……面白いですね」

 

軽井沢が顔をしかめる。

 

「何が?」

 

影は綾小路から目を逸らさない。

 

「綾小路さんにも、線があるのですね」

 

綾小路は答えない。

 

影は続ける。

 

「怒りではない。情でもない。ですが、確かにそこから先へ踏み込ませない場所がある」

 

少しだけ、楽しそうな声だった。

 

「なるほど。あなたの戦は静かですが、無ではない」

 

綾小路の目が、わずかに細くなる。

 

「試すな」

 

「はい」

 

影は丁寧に頭を下げた。

 

「今は、そのつもりはありません」

 

「今は、か」

 

「はい」

 

軽井沢が小さく息を吐く。

 

「二人とも、会話が怖いんだけど」

 

影は軽井沢を見る。

 

「申し訳ありません」

 

「謝るなら普通にして」

 

「努力します」

 

「努力するところからなんだ」

 

綾小路は影を見たまま、再び静かに言った。

 

「軽井沢に手を出すな」

 

「承知いたしました」

 

影は微笑む。

 

「少なくとも、壊すつもりはありません」

 

「それ以外もだ」

 

「……厳しいですね」

 

「当然だ」

 

その短い返答に、影は少しだけ目を細めた。

 

「はい。覚えておきます」

 

影の声は穏やかだった。

 

けれど、その表情にはまだ、わずかな笑みが残っていた。

 

軽井沢を守る綾小路清隆。

 

音のない暴力を持つ者が、今は一人の少女の前に線を引いている。

 

それは、影にとって少し意外で。

 

そして、とても興味深いものだった。

 

 

軽井沢は、少し居心地悪そうに二人を見比べた。

 

「ていうか、私のこと勝手に話の中心にしないでくれる?」

 

「悪い」

 

綾小路が短く言う。

 

その謝り方は、軽い。

 

けれど、軽井沢はそれに少しだけ表情を緩めた。

 

「別にいいけど」

 

影はそのやり取りを見た。

 

軽井沢は綾小路の前では、少し違う。

 

強がりは残っている。

 

警戒もある。

 

けれど、屋上で見せていた凍ったような表情ではない。

 

完全に安心しているわけではない。

 

それでも、綾小路の存在が彼女の足元に何かを作っているように見えた。

 

支え。

 

あるいは、逃げ場。

 

それが何なのか、影にはまだ分からない。

 

「軽井沢さん」

 

「まだ何かあるの?」

 

「ひとつだけ」

 

「何」

 

影は静かに言った。

 

「先ほどの言葉は、取り消しません」

 

「先ほど?」

 

「あなたは、折れませんでした」

 

軽井沢は少しだけ黙った。

 

綾小路は何も言わない。

 

「……そういうの、言われても困るんだけど」

 

「はい」

 

「でも」

 

軽井沢は視線を逸らしたまま、小さく言った。

 

「……聞かなかったことには、しない」

 

影は少しだけ目を細める。

 

「ありがとうございます」

 

「何でお礼言うの」

 

「受け取っていただけたように見えましたので」

 

「受け取ったわけじゃないし」

 

「では、そういうことにしておきます」

 

「その言い方、ほんと嫌い」

 

だが、軽井沢の声には、最初ほどの棘はなかった。

 

綾小路が軽く言う。

 

「行くぞ」

 

「分かってる」

 

軽井沢は紙袋を持ち直し、綾小路の隣へ並ぶ。

 

少し離れた位置。

 

近すぎず、遠すぎず。

 

二人は歩き出した。

 

影はその背中を見送る。

 

軽井沢はまだ完全には癒えていない。

 

過去も、恐怖も、あの冷たい屋上も、消えたわけではない。

 

けれど、歩いている。

 

笑えるほどには戻っていないかもしれない。

 

それでも、立っている。

 

それは弱さを消したからではない。

 

弱さを抱えたまま、立っているからだ。

 

そして、その隣には綾小路がいる。

 

何もないような顔で。

 

けれど、確かに線を引いた男が。

 

「手を出すな、ですか」

 

影は小さく呟いた。

 

その声には、少しだけ楽しげな響きがあった。

 

龍園の熱。

 

綾小路の静けさ。

 

軽井沢の痛み。

 

それぞれの形が、少しずつ見えてくる。

 

戦は屋上で終わった。

 

だが、人の形は、その後にも残る。

 

折れなかった少女。

 

守る線を持つ少年。

 

そして、それを見てしまった自分。

 

まだ、見たいものは尽きそうになかった。

 

 

冬休みは、思っていたより静かではなかった。

 

屋上の冷たさ。

 

ケヤキモールの喧騒。

 

時任と歩いた時間。

 

Bクラスの穏やかな輪。

 

Cクラスのカラオケで重なった歪な声。

 

軽井沢の震えた目。

 

綾小路の冷たい線。

 

それらを抱えたまま、冬休みは少しずつ終わりへ向かっていった。

 

戦のない日々。

 

勝敗のない時間。

 

けれど、その中にも人の形はあった。

 

影は、そのことを少しだけ知った。

 

そして、ふと赤い記憶がよぎる。

 

獣のように笑う誰か。

 

敗北すら楽しむような、乱暴で真っ直ぐな声。

 

――負けたくらいで終わるなら、最初から戦場に立つなよ。

 

龍園に向けたあの言葉。

 

それは、確かに影の中に残っているものだった。

 

あの人なら、この学校をどう見るのだろう。

 

龍園の熱を、綾小路の静けさを、軽井沢の痛みを、どう笑うのだろう。

 

影は窓の外の冬空を見上げた。

 

「……あなたは今、何をしているのでしょうか」

 

その問いに答える者はいない。

 

ただ、冬の終わりの風が、静かに通り過ぎていくだけだった。

 

やがて冬休みは終わり、生徒たちは再び教室へ戻っていく。

 

新しい空気。

 

新しい火種。

 

新しい戦の気配。

 

白き影は、その訪れを静かに感じていた。

 

そして、三学期が幕を開けた。

 




次回から3学期が始まります^ ^
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