第25話
食堂準備が終わると、生徒たちは再び大広間へ集められた。
合宿初日の午後。
本格的な試験は、まだ始まったばかりだった。
だが、施設内の空気はすでに冬休みの名残を消していた。
私語を抑える声。
整列を促す教師の指示。
大グループごとに並ぶ生徒たち。
時間通りに動くこと。
周囲と歩調を合わせること。
勝手に離れないこと。
それらが、当たり前のように求められていく。
影は列の中で、静かに前を見ていた。
横には真鍋がいる。
少し前には白波。
その隣には網倉、佐藤、森。
少し離れて神室と山村。
そして上級生側には、柊美咲と水瀬朋花の姿があった。
柊は相変わらず笑顔を崩さない。
水瀬は静かに全体を見ている。
同じ上級生でも、立ち方が違う。
柊は前に出る。
水瀬は後ろから支える。
どちらも場を動かしているが、向きが違う。
「これから各大グループで、施設内の移動確認と点呼、集団行動の確認を行う」
教師の声が響く。
「合宿中は、個人行動ではなくグループ単位での行動が基本となる。遅れ、乱れ、連絡不足は評価に影響する可能性がある。各グループは責任者を中心に、規律を守って行動するように」
規律。
その言葉を聞いて、影は少しだけ目を細めた。
人を同じ形に並べるもの。
だが、同じ形に並べられた時ほど、人の違いは浮かび上がる。
従う者。
乱れる者。
合わせようとして苦しむ者。
合わせるふりをして場を動かす者。
これもまた、戦場の形だった。
「上代」
隣で真鍋が小声で言う。
「何か楽しそうな顔してる」
「そう見えますか」
「見える」
「困りました」
「絶対困ってない」
影は小さく微笑んだ。
「真鍋さんも、少し見えるようになってきましたね」
「何が」
「私の顔です」
「見たくて見てるわけじゃない」
「そうですか」
「そう」
そう言いながらも、真鍋は以前ほど影から距離を取らなかった。
その距離の変化も、影には少し面白かった。
⸻
最初の活動は、施設内の移動確認だった。
大グループごとに列を作り、食堂、講義室、浴場前、宿泊棟、集合場所を順番に確認していく。
ただ歩くだけ。
そう言ってしまえば簡単だ。
だが、三学年が混ざった大人数で動くとなると、思っている以上に列は乱れる。
前の人との間隔。
歩く速度。
曲がり角での詰まり。
後方の遅れ。
ほんの少しの乱れが、全体の遅れになる。
白波は前方で、必死に後ろを気にしていた。
「えっと、少し間隔を空けすぎないように……」
声はまだ少し弱い。
だが、代表として何とか役割を果たそうとしている。
網倉が横から補う。
「後ろ、もう少し詰めていいかも!」
佐藤も振り返って言った。
「森さん、そっち大丈夫?」
「うん、大丈夫」
森は小さく頷く。
山村は無言で列の乱れを見て、少しだけ位置を調整していた。
神室は面倒そうに歩いているが、列を乱すほどではない。
真鍋と藪はその後ろで、少し硬い表情をしながらも歩調を合わせていた。
柊が笑顔で振り返る。
「一年生の子たち、少し列が広がってるかな。もう少し周りを見て動いてね」
柔らかい声。
だが、やはり棘がある。
白波が慌てて頭を下げる。
「すみません」
「謝らなくていいよ。まだ慣れてないだろうし」
柊は笑う。
「でも、こういう小さい乱れが評価に響くこともあるから、気をつけようね」
白波の表情が固くなる。
網倉が少しだけ眉を寄せた。
神室が小さく舌打ちするように息を吐く。
その時、水瀬が横から言った。
「列が広がるのは、前の速度が少し早いのもあるかもしれないね」
柊が少しだけ目を向ける。
水瀬は穏やかに続けた。
「前方は少し速度を落として、後ろは角を曲がる時だけ詰める。白波さん、後ろだけじゃなくて前にも声をかけるといいよ」
白波が顔を上げる。
「あ、はい。ありがとうございます」
「大丈夫。列を整えるのは後ろだけの責任じゃないから」
その一言で、白波の肩の力が少し抜けた。
影はそれを見ていた。
柊は乱れを一年生の責任に寄せる。
水瀬は乱れを全体の調整として扱う。
同じ問題を見ている。
だが、向ける場所が違う。
「また刺さって、また抜かれた」
真鍋が小さく言った。
影は少しだけ真鍋を見る。
「よく見ていますね」
「上代が言うから、ちょっと分かるようになっただけ」
「それは嬉しいです」
「嬉しがるところ?」
「はい」
真鍋は少しだけ顔を逸らした。
「変なの」
その声には、以前ほどの拒絶はなかった。
⸻
次に、点呼の練習が行われた。
大グループの人数は多い。
そのため、各小グループ代表が人数を確認し、上級生の責任者候補へ報告する形になる。
白波は一年生の人数を確認し、少し緊張しながら柊へ報告した。
「一年女子小グループ、全員います」
柊はにこりと笑う。
「ありがとう。声、もう少し大きいと助かるかな」
「す、すみません」
「ううん、責めてるわけじゃないよ。ただ、報告ははっきりしないと伝わらないからね」
正しい。
言っていること自体は正しい。
だが、影には分かる。
柊は正しいことを、少しだけ相手が縮む形で渡している。
白波は真面目だから、その棘を受けやすい。
佐藤が小声で言う。
「白波さん、頑張ってるのにね」
森も小さく頷く。
「うん」
神室は短く言った。
「言い方が嫌」
山村は黙っていたが、目だけで柊と白波を見ている。
水瀬が白波へ近づいた。
「白波さん、報告の内容は合ってるよ。次から少しだけ前を向いて言えば大丈夫」
「あ、はい」
「今のままで全部悪いわけじゃないから、そこは間違えないでね」
白波は少しだけ表情を緩めた。
「ありがとうございます」
柊は笑顔のまま、その様子を見ている。
少しだけ、目の奥が冷たい。
影はそれを見逃さなかった。
柊は水瀬を邪魔だと思っている。
おそらく。
だが、それを表に出さない。
笑顔で包み、場を壊さない。
その分、棘は見えにくい。
「柊先輩」
影はふと声をかけた。
柊がこちらを見る。
「何かな、上代さん」
「報告は、声量だけでなく、受け取る側の位置取りも影響しますか」
柊の笑顔が少しだけ止まる。
「どういう意味?」
「受け取る側が近づけば、小さな声でも届きます。伝達の失敗は、報告者だけではなく受け手の配置にも関係するのではないかと」
真鍋が隣で小さく言う。
「また言い方……」
神室は口元を少し上げた。
柊は微笑む。
「確かに、そういう考え方もあるね」
「はい」
「でも、試験では相手がいつも気を遣ってくれるとは限らないから、自分の声を届ける努力も大事だと思うよ」
「承知しました」
影は軽く頭を下げる。
「では、届ける努力と受け取る努力の両方が必要ということですね」
「……そうね」
柊の笑顔は保たれている。
だが、少しだけ硬かった。
水瀬が静かに影を見た。
その目には、少しだけ注意するような色がある。
刺し返しすぎるな。
第24話でそう言われたばかりだった。
影は軽く目を伏せる。
「申し訳ありません。確認でした」
柊は笑う。
「うん。確認は大事だよ」
真鍋が小声で言った。
「絶対怒ってるよ、あの人」
「そうでしょうか」
「そうでしょ」
「真鍋さんは、柊さんの笑顔の硬さが見えるのですね」
「見えるようになりたくなかった」
「良い変化です」
「よくない」
真鍋はそう言いながらも、少しだけ笑った。
⸻
移動確認を終えた大グループは、一度廊下で待機することになった。
他の大グループとすれ違うため、教師が順番を調整しているらしい。
廊下の向こうから、男子グループの声が聞こえてきた。
「お、上代!」
石崎の声だった。
教師に注意される前に、彼は慌てて声を落とす。
「……そっち、大丈夫か?」
影は軽く会釈した。
「はい。棘の多い良い場所です」
石崎は首を傾げた。
「え、何?」
その後ろで小宮と近藤が笑いをこらえている。
さらに奥に、龍園の姿があった。
龍園は影を見て、口元を歪める。
「楽しそうじゃねぇか、影」
「はい」
影は静かに答える。
「共同生活にも、十分な戦があります」
龍園は喉の奥で笑った。
「ククッ。相変わらずだな」
その隣には、時任もいた。
彼は影を見て、呆れたように言う。
「お前、こっちにいても似たようなこと言ってるんだな」
「時任さんも、お元気そうですね」
「元気ではねぇよ。面倒なだけだ」
「それは何よりです」
「何がだよ」
石崎が小声で割り込む。
「こっちはこっちで上級生がやべぇっす」
近藤が頷く。
「男子もなかなか面倒だぞ」
龍園は退屈そうに言う。
「雑魚が騒いでるだけだ」
時任が小さく呟く。
「その雑魚に絡みに行くのやめてほしいんだけどな」
影はその様子を見ていた。
男子側にも、すでに歪みがある。
龍園はやはり、どこへ行っても場に火を入れる。
それが頼もしいのか厄介なのかは、立場によるだろう。
その少し後ろに、別の男子グループが見えた。
綾小路清隆。
彼は目立たない位置に立っていた。
周囲に溶け込み、声も出さず、ただ流れの中にいる。
だが、影はもう知っている。
静かな場所に、静かすぎる者がいる。
一瞬だけ、綾小路と目が合った。
綾小路の表情は変わらない。
影も、軽く目礼するだけに留めた。
軽井沢に手を出すな。
あの時の言葉が、ふと脳裏をよぎる。
綾小路は何も言わない。
だが、そこにいるだけで線を思い出させる。
不思議な男だと、影は思った。
音を立てずに、場の中に境界を残す。
廊下のさらに奥では、二年生の集団が動いていた。
その中心に南雲雅の姿がある。
南雲は笑っていた。
周囲の生徒へ軽く声をかけ、自然に視線を集めている。
誰かが指示を待つ前に、彼を見る。
誰かが迷う前に、彼の反応を確認する。
その流れが自然すぎて、一見すると支配には見えない。
だが、確かに人の流れは南雲へ向かっていた。
影はその姿をじっと見た。
一之瀬のような安心とは違う。
龍園のような恐怖とも違う。
柊のような棘とも違う。
南雲雅という人は、笑顔で人の流れそのものを自分へ向ける。
まるで、流れる水の行き先を少しだけ変えるように。
「上代」
真鍋が隣で言った。
「また変な目してる」
「南雲さんを見ていました」
「生徒会長?」
「はい」
真鍋も遠くを見る。
「なんか、すごいね。周りが自然に見てる」
「はい」
「柊先輩とは違う感じ」
「かなり違います」
「どう違うの」
影は少し考えた。
「柊さんは、人の足元に棘を置きます」
「うん」
「南雲さんは、人の向きを変えます」
「向き?」
「はい。本人が命令する前に、周囲がそちらを向いている」
真鍋はしばらく南雲を見ていた。
そして、小さく言った。
「……怖いね」
「はい」
影は静かに頷く。
「とても興味深いです」
「だからそこは怖いって言うところでしょ」
「怖いです」
「ついでみたいに言わないで」
その時、教師の指示が入り、廊下の待機が終わった。
男子グループは別方向へ移動し、女子グループも次の集合場所へ向かう。
龍園は去り際に、影へ一瞬だけ視線を向けた。
何かを言うわけではない。
だが、その目には火があった。
この合宿をどう利用するか。
彼はもう考え始めている。
綾小路は静かに流れの中へ消えた。
南雲は笑顔のまま、周囲を連れて別の廊下へ向かう。
それぞれの戦い方。
それぞれの中心。
影はそのすべてを見送り、前へ向き直った。
⸻
次の活動は、集団行動の確認だった。
決められた時間内に、指定された場所へ移動し、点呼、報告、整列を行う。
単純だが、人数が多いほど難しい。
柊は前で笑顔を浮かべ、白波に言った。
「白波さん、一年生側の確認お願いね。今度はさっきより大きい声で」
「はい」
白波は緊張しながらも、しっかり前を向く。
「一年生、人数確認します」
先ほどより声が出ていた。
網倉がすぐに返事をする。
佐藤、森、真鍋、藪、神室、山村、影。
順に確認が進む。
山村の声は小さかったが、白波は聞き逃さなかった。
「山村さん、確認しました」
山村は少しだけ安心したように頷く。
白波は最後に全員を確認し、柊と水瀬の方を見る。
「一年生、全員確認できました」
声はまだ完璧ではない。
だが、届いた。
水瀬が頷く。
「うん。分かりやすかったよ」
白波の表情が少し明るくなる。
柊は笑顔で言う。
「さっきよりよかったね」
その言葉には、やはり少しだけ上からの響きがある。
だが、白波はもう最初ほど縮まらなかった。
「ありがとうございます」
そう言って、軽く頭を下げる。
影はその変化を見た。
白波は、少しずつ代表の形を探している。
自分が一之瀬ではないことを分かっている。
それでも、自分の声で伝えようとしている。
それは小さな成長だった。
「白波さん、少し変わりましたね」
影が言うと、真鍋が頷いた。
「うん。さっきよりはマシ」
「真鍋さんも、素直に褒めればよいのでは」
「私が?」
「はい」
「……後でね」
その返事に、影は少しだけ微笑んだ。
「それは良いと思います」
「何で上からなの」
「申し訳ありません」
集団行動の確認は、何度か繰り返された。
移動。
整列。
点呼。
報告。
最初はぎこちなかった大グループも、少しずつ形になっていく。
だが、その中で序列もまた作られていった。
柊は前へ出ようとする。
水瀬は後ろから整える。
白波は一年生の代表として声を出す。
神室は反発しながらも動く。
山村は静かに足りない部分を見つける。
真鍋は棘に敏感になりながら、時々白波や藪の位置を気にする。
影は、それを見ている。
同じ列に並べば、同じ人間になるわけではない。
むしろ、同じ列だからこそ違いが見える。
影はそう思った。
⸻
活動が一段落した頃、全体集合のために再び大広間へ戻ることになった。
大広間には、男女別の大グループが次々と集まってくる。
教師たちが前方に並ぶ。
その少し横に、生徒会関係者の姿もあった。
南雲雅。
そして、少し離れた位置に堀北学の姿も見えた。
二人の間には、直接の会話はない。
だが、空気が違った。
南雲は笑顔で周囲を引き寄せる。
堀北学は、静かに立つだけで場を締める。
どちらも中心にいる。
だが、中心の作り方が違う。
影はその二人を見た。
遠い。
今の影が直接触れるには、まだ遠い位置にいる者たち。
だが、この合宿の空気を作っているのは、教師だけではない。
南雲。
堀北学。
そして、それぞれの学年で場を動かす者たち。
「この合宿の本当の中心は、教師だけではないのですね」
影が呟く。
真鍋が隣で言う。
「また何か見えてる?」
「はい」
「今度は何?」
「大きな流れです」
「分かりにくい」
「南雲さんを中心に、人が動いています。ですが、堀北学さんの周囲だけは、その流れが少し止まっています」
真鍋は二人を見る。
「……言われたら、そんな気もする」
「はい」
「これ、私も変になってきてない?」
「良い傾向です」
「よくない」
真鍋は小さく息を吐いた。
全体説明が始まる。
教師の声が響く。
明日以降の予定。
評価の注意点。
生活規律。
各グループの責任。
退学を含む重いペナルティの可能性。
その言葉に、生徒たちの空気が一瞬引き締まる。
先ほどまでの小さな棘とは違う。
これは学校が持つ大きな刃だ。
規律。
評価。
退学。
この学校は、いつも日常の形をした刃を隠している。
影は静かに目を伏せた。
規律は、人を同じ形に並べる。
だが、同じ形に並べられた時ほど、人の違いは浮かび上がる。
従う者。
抗う者。
笑って従わせる者。
黙って見ている者。
棘を刺す者。
棘を抜く者。
人の向きを変える者。
そして、そのすべてを見ようとする者。
白き影は、大広間の中で静かに思った。
この合宿は、まだ表面しか見せていない。
柊の棘も。
水瀬の静けさも。
南雲の笑顔も。
綾小路の沈黙も。
龍園の火も。
すべてはまだ、序章にすぎない。
混ざる戦場は、ゆっくりと熱を帯び始めていた。