第3話
体育祭。
その言葉が告げられた瞬間、Cクラスの教室に小さなざわめきが広がった。
無人島試験。
船上での優待者試験。
それらを経験した生徒たちは、もう理解している。
この学校における行事は、ただの行事ではない。
競い合うこと。
勝つこと。
負けること。
そのすべてが、クラスポイントに繋がる。
担任は淡々と説明を続けた。
「今回の体育祭は、クラス単独ではなく合同チームで行われる。1年生はAクラスとDクラス、BクラスとCクラスがそれぞれ同じ陣営となる」
Cクラスの空気が、わずかに変わった。
Bクラスと同じ陣営。
一之瀬を中心にまとまるBクラスと、龍園が支配するCクラス。
性質の違いすぎる二つのクラスが、同じ組として戦うことになる。
石崎が不満そうに言った。
「Bクラスと組むのかよ」
近くにいた男子生徒が肩をすくめる。
「悪くはないだろ。あっちはまとまりあるし」
「そのまとまりってのが面倒なんだよ」
石崎の言葉に、龍園は鼻で笑った。
「勘違いすんな。仲良しごっこをする必要はねぇ」
教室の視線が龍園に集まる。
「使えるものは使う。邪魔なものは切る。体育祭も同じだ」
その言葉に、教室の空気が少し重くなる。
伊吹は窓際で腕を組んだまま、呆れたように言った。
「またそういうやり方?」
「勝てばいいんだよ」
龍園は即答した。
「正々堂々なんて言葉は、負けたやつが自分を慰めるために使うもんだ」
そのやり取りを、上代影は静かに見ていた。
白銀の髪。
整った制服。
穏やかな笑み。
彼女だけは、重くなった空気の中でも変わらず楽しそうだった。
龍園が影を見る。
「影」
「はい」
「お前はどう見る」
「体育祭について、でしょうか」
「ああ」
影は少しだけ首を傾げた。
「とても分かりやすい試験ですね」
「何がだ」
「身体能力、集団統率、感情の制御、情報戦。それらが一度に表へ出ます」
影の赤い瞳が、教室をゆっくりと見渡す。
「誰が速く走れるのか。誰が仲間を支えられるのか。誰が怒りで判断を誤るのか。誰が勝つために他人を利用できるのか」
そこで一度、影は言葉を切った。
「そして、誰を崩せば集団全体が揺れるのか」
教室が静かになった。
影はにこりと笑う。
「体育祭は、とても美しい戦場です」
伊吹が小さくため息をついた。
「本当に変なやつ」
「よく言われます」
影は明るく返した。
龍園は満足そうに笑う。
「お前は分かってるな」
「光栄です」
影は丁寧に頭を下げた。
⸻
放課後。
BクラスとCクラスの合同作戦会議が開かれることになった。
特別棟の一室に、両クラスの代表者が集まる。
Cクラスからは龍園、伊吹、石崎、影。
Bクラスからは一之瀬、神崎、柴田たちが参加していた。
部屋に入った瞬間、二つのクラスの違いは明らかだった。
Bクラスは明るく、まとまりがある。
Cクラスは重く、警戒心が強い。
同じ陣営でありながら、空気はまるで違っていた。
一之瀬は影を見ると、柔らかく笑った。
「上代さん、また会ったね」
「はい。一之瀬さん。本日はよろしくお願いいたします」
「うん。こちらこそよろしくね」
一之瀬の笑顔は、相変わらず自然だった。
影はそれを見て、ほんの少し目を細める。
温かい。
眩しい。
そして、危うい。
影にはそう見えた。
神崎が資料を広げる。
「まずは競技ごとの出場者を決める必要がある。両クラスの得意不得意を共有して、無駄な失点を避けたい」
一之瀬も頷く。
「できるだけ、みんなが納得できる形にしたいね」
その言葉に、龍園が笑った。
「納得?」
一之瀬が龍園を見る。
「何か変かな?」
「変だな。勝つために必要なのは納得じゃねぇ。配置だ」
龍園は椅子にもたれ、足を組む。
「使えるやつを使える場所に置く。使えねぇやつは邪魔にならねぇ場所に置く。それだけだ」
Bクラス側の空気が、少し硬くなる。
柴田が苦笑しながら口を挟んだ。
「まあ、勝つために効率を考えるのは大事だけどさ。雰囲気が悪くなると、団体競技とかにも響くんじゃない?」
「雰囲気で勝てるなら苦労しねぇよ」
龍園は冷たく返す。
神崎は表情を崩さずに言った。
「龍園の考えも分かる。だが、こちらとしては全体の士気も重視したい」
「士気ねぇ」
龍園はつまらなさそうに笑った。
「勝てば勝手についてくる」
一之瀬は困ったように笑う。
「でも、誰かを切り捨てるようなやり方はしたくないかな」
「甘ぇな」
「そうかもね」
一之瀬は素直に認めた。
「でも、その甘さで今までやってきたから」
龍園と一之瀬。
まったく違う二人のリーダー。
その間にある空気を、影は静かに見ていた。
やがて、彼女は小さく手を上げる。
「ひとつ、よろしいでしょうか」
全員の視線が影へ向いた。
一之瀬が頷く。
「うん。上代さん、どうぞ」
影は立ち上がる。
「BクラスとCクラスでは、勝ち方への考え方が異なります」
「そうだね」
「Bクラスは全体で前に進むことを重視している。Cクラスは勝つために個を使い分けることを重視している」
影の声は穏やかだった。
「どちらも間違いではありません」
神崎が影を見る。
「では、どうするべきだと?」
「役割を分ければよいかと」
「役割?」
「はい」
影は静かに続ける。
「Bクラスは全体の安定と士気の維持を担う。Cクラスは相手の弱点を探し、勝敗に直結する部分を崩す」
一之瀬の表情が少しだけ変わる。
「崩す、か」
「もちろん、規則の範囲内で、です」
影はにこりと笑う。
龍園が喉の奥で笑った。
「本当に規則の範囲内で済ませる気か?」
「表向きは」
影はさらりと答えた。
室内が一瞬静まる。
石崎が小さく呟く。
「やっぱ怖ぇよ、この人……」
伊吹は腕を組んだまま、影を見ていた。
上代影は龍園のように相手を威圧するわけではない。
一之瀬のように人を包み込むわけでもない。
ただ、笑いながら一番冷たい場所を見ている。
一之瀬は影をまっすぐ見た。
「上代さんは、勝つためなら何でもするタイプ?」
影は一之瀬を見返す。
そこに敵意はない。
ただ、純粋な興味だけがあった。
「何でも、というわけではありません」
「じゃあ、どこまで?」
影は少しだけ考えた。
「勝つために必要なところまでです」
その答えに、一之瀬はすぐには返せなかった。
危うい考え方だ。
けれど、完全に否定できるほど単純でもない。
神崎が資料に視線を落としながら言う。
「少なくとも、作戦の共有は必要だ。Cクラスが独断で動けば、Bクラスにも影響が出る」
「当然ですね」
影は頷いた。
「味方を壊してしまっては、戦場がつまらなくなりますので」
「言い方……」
柴田が苦笑する。
影は申し訳なさそうに頭を下げた。
「失礼いたしました」
その様子を見て、一之瀬は小さく笑った。
「やっぱり上代さんって、少し変わってるね」
「よく言われます」
影はいつものように答えた。
⸻
会議はその後も続いた。
競技ごとの出場者。
得点の取り方。
団体競技での組み合わせ。
Bクラスは全体のバランスを重視し、Cクラスは勝てる人間を勝てる場所に置くことを優先した。
意見は何度もぶつかった。
それでも、会議が完全に壊れなかったのは、一之瀬と神崎が調整役に回り、龍園が最低限の譲歩を見せたからだった。
いや、龍園が譲歩したというより、利用価値を見出したと言うべきかもしれない。
「Bクラスの連中は正面から点を取れ」
龍園は資料を机に置く。
「こっちはこっちで動く」
神崎が眉をひそめる。
「勝手な行動は困る」
「勝手じゃねぇ。必要な行動だ」
「具体的には?」
龍園は笑うだけで答えなかった。
その代わりに、影が口を開く。
「敵陣営の中心を見極めることです」
「中心?」
一之瀬が聞き返す。
「はい。AクラスとDクラスは同じ陣営ですが、安定しているAクラスと、不安定なDクラスでは性質が違います」
影は資料に目を落とす。
「Aクラスは崩しにくい。Dクラスは崩しやすい。ですが、Dクラスには勢いがあります」
龍園が笑う。
「須藤だな」
「はい。Dクラスの身体的な主力になるでしょう」
「だったら、そこを潰せばいい」
龍園の声は冷たい。
一之瀬が少し厳しい表情になる。
「怪我をさせるようなことは駄目だよ」
「誰がそんなこと言った?」
龍園は笑う。
「勝手に自滅するように仕向けりゃいいだけだ」
一之瀬は何も言わなかった。
影はその表情を見て、静かに微笑む。
一之瀬は優しい。
だが、この学校では優しさだけで勝ち続けることは難しい。
それでも彼女は、自分のやり方を捨てようとしない。
その姿が、影には少し美しく見えた。
⸻
会議が終わり、BクラスとCクラスの生徒たちは部屋を出た。
廊下に出たところで、一之瀬が影に声をかける。
「上代さん」
「はい」
「体育祭、よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
一之瀬は少し迷ってから言った。
「私、上代さんのことはまだよく分からないけど」
「はい」
「でも、味方として一緒に頑張れるなら嬉しい」
その言葉には裏がなかった。
本当にそう思っている。
影はしばらく一之瀬を見つめた。
「一之瀬さんは、お優しいですね」
「そうかな?」
「はい。とても」
影は微笑む。
「ですが、優しさは時に人を弱くします」
一之瀬は少しだけ目を細めた。
「そうかもしれないね」
彼女は静かに返す。
「でも、優しさで強くなれることもあると思う」
影はその答えを聞いて、嬉しそうに笑った。
「素敵です」
「え?」
「その考えが、どこまで戦場で通じるのか。とても興味があります」
一之瀬は苦笑した。
「やっぱり、上代さんって少し怖いね」
「よく言われます」
二人は笑い合った。
ただし、その笑顔の意味は同じではなかった。
⸻
その日の夕方。
影は伊吹と石崎と共に、グラウンド近くを歩いていた。
体育祭に向け、すでに自主練習を始めている生徒たちがいる。
AクラスとDクラス。
敵陣営となる生徒たちの姿もあった。
Dクラスでは、須藤がひときわ目立っていた。
「もっと本気で走れよ!」
大きな声がグラウンドに響く。
池や山内がそれに反応し、篠原が呆れたように何かを言っている。
少し離れた場所では、堀北が冷静に全体を見ていた。
櫛田は周囲の生徒に声をかけ、雰囲気を和らげようとしている。
影はその様子を静かに眺めた。
「Dクラスは、随分と賑やかですね」
伊吹が横から言う。
「弱そうってこと?」
「弱そうには見えます」
影は素直に答えた。
「ですが、弱いだけではありません」
「どういう意味?」
「不安定ですが、熱があります。まとまりはありませんが、動く力はある」
影の視線が須藤へ向く。
「特に須藤さんは分かりやすいですね」
「単純そうだしね」
「はい。単純で、強い。だからこそ、崩しやすい」
伊吹は眉をひそめた。
「本当、言い方が怖い」
「申し訳ありません」
影は楽しそうに笑う。
その時、堀北が須藤に何かを指摘した。
須藤は不満そうに言い返す。
遠目でも分かるほど、二人の間には噛み合わなさがあった。
影は目を細める。
「堀北さんは優秀です。ですが、周囲を動かすには少し鋭すぎますね」
「それ、本人が聞いたら怒りそう」
「怒るでしょうね」
「分かってて言ってるでしょ」
「はい」
伊吹は呆れたように息を吐いた。
その時、影の視線がふと別の場所へ向いた。
グラウンドの端。
目立たない男子生徒が、静かに周囲を見ていた。
綾小路清隆。
彼は熱心に練習しているわけでもない。
誰かを強く引っ張っているわけでもない。
ただ、そこにいるだけだった。
影は足を止める。
「またあいつ?」
伊吹が言った。
影は答えない。
綾小路は何もしていない。
それなのに、影の視線は自然とそこへ向いていた。
不思議だった。
目立たない。
普通。
特別な動きはない。
だが、周囲の騒がしさから一歩だけ外れた場所にいる。
影には、それが妙に気になった。
その時、綾小路がほんの一瞬だけこちらを見た。
視線が交わる。
会話はない。
歩み寄ることもない。
ただ、お互いの存在を確認しただけだった。
綾小路はすぐに視線を外した。
影も、それ以上追わなかった。
「今はまだ、ですね」
影が小さく呟く。
伊吹が顔をしかめる。
「何が?」
「何でもありません」
「絶対何かあるでしょ」
影は微笑むだけだった。
⸻
一方で、Aクラスの生徒たちも練習を進めていた。
葛城が資料を持ち、出場者の確認をしている。
橋本は軽い調子で周囲と話しながら、全体を観察していた。
そして少し離れた場所に、坂柳がいた。
直接競技に関わる様子はない。
だが、彼女はグラウンド全体を静かに見ている。
影と坂柳の視線が合った。
坂柳は薄く微笑む。
影もまた、丁寧に頭を下げた。
距離はある。
言葉もない。
それでも、互いに理解していた。
相手はただ見ているだけではない。
盤面を読んでいる。
石崎が影の隣で小さく言った。
「何か、あのAクラスのやつも怖ぇな」
「坂柳さんですか?」
「名前は知らねぇけど、あの杖のやつ」
「とても静かな方ですね」
影は微笑む。
「静かな刃のようです」
「……お前の例え、いちいち怖ぇんだよ」
「申し訳ありません」
影は軽く頭を下げた。
⸻
その後、龍園もグラウンドへ姿を見せた。
彼はDクラスの方を見て、口元を歪める。
「やっぱり須藤が中心か」
「体育祭では、大きな戦力になるでしょうね」
影が答える。
「だから潰す」
龍園は即答した。
「単純なやつは感情を揺らせば勝手に崩れる」
伊吹が不快そうに顔をしかめる。
「相変わらず最低」
「勝つためだ」
「だからって」
「甘いこと言ってると負けるぞ」
伊吹は黙った。
影は須藤たちを見ながら、静かに言う。
「須藤さんを崩せば、Dクラスは確かに揺れるでしょう」
「だろ?」
「ですが」
龍園が影を見る。
「何だ」
「崩れた後に、何が出てくるのかは分かりません」
龍園の目が細くなる。
「何が言いたい」
「Dクラスは不安定です。不安定なものは、崩れることもありますが、形を変えることもあります」
影はゆっくりと視線を動かす。
堀北。
櫛田。
須藤。
そして、少し離れた場所にいる綾小路。
「壊したことで、逆に見えるものもあるかもしれません」
龍園は低く笑った。
「面白ぇじゃねぇか」
「はい」
影は微笑む。
「とても楽しみです」
龍園は影を見る。
「お前、本当に性格悪いな」
「よく言われます」
影はいつものように答えた。
⸻
夜。
学生寮の自室で、影はノートを開いた。
体育祭に向けて、今日見たことを短く整理していく。
体育祭:A+D 対 B+C。
Bクラス:一之瀬を中心に士気が高い。神崎は現実的。柴田は身体能力と明るさあり。
Cクラス:龍園が主導。勝利優先。伊吹は反発心あり。
Dクラス:須藤が身体的主力。堀北は分析力あり。櫛田は調整役。全体として不安定。
Aクラス:葛城が実務を担当。坂柳は観察側。要注意。
そこまで書いて、影はペンを止めた。
少しだけ考える。
そして最後に、一行だけ書き足した。
綾小路:保留。
影はその文字を見つめる。
体育祭では、多くの者が走る。
叫ぶ。
怒る。
焦る。
勝敗に感情を揺らす。
その中で、あの少年はどう動くのか。
動くのか。
それとも、最後まで動かないのか。
まだ分からない。
だからこそ、面白い。
影はノートを閉じ、窓の外を見た。
夜の校舎は静かだった。
だが彼女の目には、すでに別の景色が見えている。
歓声。
砂埃。
焦燥。
怒号。
勝利。
敗北。
そして、誰かが美しく壊れる瞬間。
「楽しみですね」
上代影は、祈るように微笑んだ。
赤と白に分かれた戦場。
体育祭は、もうすぐ始まる。