ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

38 / 42
白き影は赤き記憶を語る

 

第38話

 

「晴」

 

冬の空気に、その名が落ちた。

 

渡り廊下の窓の外では、夕方の光が静かに沈みかけている。

 

遠くから、生徒たちの声が聞こえた。

 

けれど、影と一之瀬帆波の周囲だけは、少しだけ時間が遅く流れているようだった。

 

一之瀬は、すぐには何も言わなかった。

 

ただ、影の横顔を見ていた。

 

急かさず。

 

踏み込みすぎず。

 

けれど、確かにそこにいる距離で。

 

影は、もう一度その名を胸の中でなぞる。

 

晴。

 

武城晴。

 

かつて、自分を神でも化け物でもなく、人として見た者。

 

赤い記憶。

 

炎のような笑み。

 

乱暴な声。

 

戦を前にした時の、あの熱。

 

「武城晴」

 

影は静かに言った。

 

「私を、神でも化け物でもなく、人として見た方です」

 

一之瀬は小さく頷いた。

 

「晴さん、って呼んでるんだね」

 

「はい」

 

「大切な人だったんだ」

 

影は少しだけ黙った。

 

大切。

 

その言葉が、晴に当てはまるのかどうか。

 

すぐには分からなかった。

 

けれど、否定することもできなかった。

 

「はい」

 

影はゆっくり答えた。

 

「おそらく、今も」

 

一之瀬はそれ以上、深く踏み込まなかった。

 

その優しさに、影は少しだけ救われる。

 

「晴は、優しい方ではありませんでした」

 

影は窓の外を見たまま言った。

 

「言葉は乱暴で、振る舞いも荒く、戦を好むような方でした」

 

「戦を?」

 

「はい」

 

一之瀬は少しだけ戸惑ったように瞬きをする。

 

影は続けた。

 

「誰が折れるのか。誰が立つのか。誰が最後まで前を向くのか。そういうものを、いつも見ている方でした」

 

「上代さんと、少し似てるね」

 

その言葉に、影は少しだけ目を伏せた。

 

「そうかもしれません」

 

一之瀬は慌てたように言う。

 

「あ、ごめん。嫌だった?」

 

「いいえ」

 

影は首を横に振る。

 

「むしろ、私は少なからず晴に影響を受けています」

 

「そうなんだ」

 

「はい」

 

影の中で、遠い記憶が少しずつ形を持ち始める。

 

赤い夕焼け。

 

ざわめく人の声。

 

誰かが自分を恐れる目。

 

誰かが自分を崇めるような目。

 

そのどちらも、どこか遠かった。

 

近くにいるはずなのに、遠い。

 

自分を見ているはずなのに、自分ではない何かを見ている。

 

そういう視線。

 

その中で、晴だけが違った。

 

「当時の私は、周囲から少し特別に見られることがありました」

 

「特別?」

 

「はい。神のように見る方もいました。あるいは、化け物のように見る方も」

 

一之瀬の表情が、わずかに揺れる。

 

今の自分にも重なるものがあったのかもしれない。

 

優しい人。

 

正しい人。

 

間違えない人。

 

そう見られることと、どこか似ている。

 

「ですが、晴は違いました」

 

影は静かに言った。

 

「彼は、私を見て笑いました」

 

「笑った?」

 

「はい」

 

影の声に、少しだけ懐かしさが混じる。

 

「とても乱暴に」

 

一之瀬は少しだけ笑った。

 

「それ、どんな笑い方だったの?」

 

「人を試すようで、けれど嘘のない笑い方でした」

 

影は目を伏せる。

 

そして、遠い声をなぞるように口を開いた。

 

「周りには、お前を神みたいに見る奴もいる」

 

それは、低く、荒く、けれど真っ直ぐな声だった。

 

「けど、俺にはそうは見えねぇ」

 

影の胸の奥で、その声が今も響く。

 

「俺には、お前は普通の人間に見える」

 

一之瀬は、何も言わなかった。

 

ただ、その言葉を静かに受け取っていた。

 

影は続ける。

 

「その時の私は、意味が分かりませんでした」

 

「どうして?」

 

「普通と言われたことが、嬉しいのか、悔しいのか、分からなかったからです」

 

神のように見られる。

 

化け物のように見られる。

 

それは、どちらも遠い。

 

だが、普通の人間と言われることは、ひどく近かった。

 

近すぎて、少し怖かった。

 

「でも、今は少し分かる気がします」

 

「今は?」

 

「はい」

 

影は一之瀬を見る。

 

「神として見られると、間違えることが許されません。化け物として見られると、痛むことが許されません」

 

一之瀬の瞳が、わずかに揺れた。

 

「ですが、人なら間違えます。迷います。傷つきます」

 

影の声は静かだった。

 

「そして、それでも立とうとします」

 

一之瀬は、目を伏せた。

 

その表情は、今にも笑おうとして、けれど上手く笑えない人のものだった。

 

「晴は、もう一つ言いました」

 

影の中で、さらに別の記憶が浮かぶ。

 

戦場の匂い。

 

鋭い空気。

 

晴の赤い目。

 

笑っているのに、どこか真剣な顔。

 

「戦場で神を気取るな」

 

一之瀬が、静かに息を呑んだ。

 

影は続けた。

 

「神は傷つかねぇ。迷わねぇ。負けもしねぇ」

 

その声は、今も鮮明だった。

 

「だが、お前は違うだろ」

 

影は自分の手を見る。

 

柊に掴まれた跡は、もう残っていない。

 

けれど、その時の痛みは、まだ薄く覚えている。

 

「迷って、傷ついて、それでも立つ」

 

影は静かに言った。

 

「なら、お前は人だ」

 

渡り廊下に、しばらく沈黙が落ちた。

 

一之瀬は何も言わない。

 

だが、その沈黙は拒絶ではなかった。

 

受け止めている沈黙だった。

 

影は続ける。

 

「私は、その言葉を完全に理解しているわけではありません」

 

「そうなの?」

 

「はい」

 

影は小さく頷く。

 

「私は今でも、人が壊れる瞬間に目を奪われます」

 

一之瀬の表情が少しだけ揺れる。

 

だが、影は誤魔化さなかった。

 

「混合合宿でも、そうでした。柊先輩の笑顔が壊れた時、私は美しいと思ってしまいました」

 

「……うん」

 

「それは、危ういことです」

 

影は静かに言った。

 

「ですが、今は壊れる瞬間だけでなく、立つ瞬間にも目を奪われます」

 

一之瀬はゆっくり顔を上げる。

 

「立つ瞬間」

 

「はい」

 

「それって、私のこと?」

 

影は少しだけ考えた。

 

「今は、そうです」

 

一之瀬は困ったように笑った。

 

けれど、その笑顔は先ほどより弱く、そして少しだけ本物に近かった。

 

「私、立ててるかな」

 

「分かりません」

 

「そこは、立ててるよって言ってくれないんだ」

 

「はい」

 

影は正直に答えた。

 

「まだ、一之瀬さんが本当に立っているのか、立っているように見せているのか、私には分かりません」

 

一之瀬は少しだけ目を伏せた。

 

その言葉は優しくない。

 

しかし、嘘でもない。

 

「でも」

 

影は続ける。

 

「立とうとしているようには見えます」

 

一之瀬の唇が、小さく震えた。

 

「そっか」

 

声が少しだけ掠れる。

 

「私、そんな立派な人じゃないよ」

 

その言葉は、ぽつりと落ちた。

 

今までの大丈夫とは違う。

 

周囲を安心させる言葉でもない。

 

自分を守るための笑顔でもない。

 

もっと奥から出てきた、弱い声。

 

「みんなが思ってるような、優しくて、正しくて、何でも受け止められる人じゃない」

 

一之瀬は笑おうとした。

 

けれど、その笑顔は途中で崩れた。

 

「私、普通に怖いし、逃げたいし、見られたくないこともある」

 

「はい」

 

影は静かに頷いた。

 

一之瀬は少しだけ涙をこらえるように瞬きする。

 

「そこは否定してくれないんだね」

 

「否定する必要がありません」

 

「上代さんらしいね」

 

「よく言われます」

 

一之瀬は小さく笑った。

 

今度の笑いは、少しだけ震えていた。

 

影は言う。

 

「一之瀬さんは、皆さんが作った聖女ではありません」

 

一之瀬は目を伏せる。

 

「うん」

 

「噂が作る罪人でもありません」

 

一之瀬の肩が、小さく揺れた。

 

「……うん」

 

「私の前にいる一之瀬さんは、迷って、傷ついて、それでも立とうとしている人です」

 

その言葉を聞いた瞬間、一之瀬は唇を強く結んだ。

 

涙は落ちなかった。

 

けれど、目は確かに揺れていた。

 

「上代さん」

 

「はい」

 

「私、大丈夫じゃないって言ってもいいのかな」

 

影は静かに頷いた。

 

「はい」

 

「みんなの前では、まだ言えないかもしれない」

 

「はい」

 

「でも、今だけ」

 

一之瀬は、少しだけ息を吸った。

 

そして、小さな声で言った。

 

「大丈夫じゃない」

 

その言葉は、とても弱かった。

 

けれど、影には確かに届いた。

 

大丈夫ではない。

 

それは、壊れた言葉ではなかった。

 

むしろ、初めて一之瀬が自分の足元を見た言葉のように思えた。

 

影はゆっくり頷く。

 

「はい」

 

「返事、それだけ?」

 

「何か他に必要でしたか」

 

一之瀬は涙をこらえながら、少しだけ笑った。

 

「ううん。それでいい」

 

その笑顔は、誰かを安心させるためだけのものではなかった。

 

少しだけ崩れていて。

 

少しだけ弱くて。

 

だからこそ、人間らしかった。

 

影は、その笑顔を美しいと思った。

 

壊れる美しさではない。

 

立とうとする美しさ。

 

晴の言葉が、胸の奥で静かに響く。

 

――迷って、傷ついて、それでも立つ。

 

――なら、お前は人だ。

 

「一之瀬さん」

 

「うん?」

 

「晴の言葉を、一之瀬さんにそのまま渡すことはできません」

 

「どうして?」

 

「それは、晴が私に向けた言葉だからです」

 

一之瀬は静かに聞いている。

 

「ですが、少しだけ似たことは言えます」

 

影は一之瀬を見る。

 

「一之瀬さんは、神ではありません」

 

「うん」

 

「間違えない人でもありません」

 

「うん」

 

「皆を救い続けるためだけに立っている人でもありません」

 

一之瀬の目が、また揺れる。

 

影は、ゆっくりと言った。

 

「だから、大丈夫ではないと口にしても、人として終わるわけではありません」

 

一之瀬は何も言えなかった。

 

ただ、静かに頷いた。

 

渡り廊下の外で、夕方の光がさらに薄くなる。

 

噂の温度は、今も上がり続けている。

 

きっと明日も、一之瀬の名前はどこかで語られる。

 

誰かが信じる。

 

誰かが疑う。

 

誰かが心配する。

 

誰かが面白がる。

 

そのすべてが、一之瀬帆波へ向かっていく。

 

影はそれを止められない。

 

そして、おそらく影の言葉だけで一之瀬を救うこともできない。

 

影は、それでいいと思った。

 

一之瀬が誰の言葉で立つのか。

 

それは、影が決めることではない。

 

影にできるのは、ただ見ること。

 

神でも、罪人でもなく。

 

一人の人として。

 

「上代さん」

 

一之瀬が小さく言った。

 

「はい」

 

「話してくれて、ありがとう」

 

「こちらこそ、聞いてくださりありがとうございます」

 

「私、少しだけ……楽になった気がする」

 

「それはよかったです」

 

「でも、全部はまだ無理」

 

「はい」

 

「怖いのも、消えない」

 

「はい」

 

「でも」

 

一之瀬は、窓の外を見た。

 

「大丈夫じゃないって、言えた」

 

「はい」

 

「それだけでも、少し違うのかもしれないね」

 

影は頷く。

 

「そう思います」

 

一之瀬は小さく笑った。

 

今度の笑顔は、薄くも、遠くもなかった。

 

弱くて、揺れていて、それでも確かにそこにある笑顔だった。

 

白き影は、その笑顔を見た。

 

壊れるところではなく。

 

立とうとするところを。

 

そして、赤き記憶の声が、静かに胸の奥で燃えていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。