ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

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白き影は罪の重さを見る

 

第39話

 

「大丈夫じゃない」

 

一之瀬帆波は、確かにそう言った。

 

渡り廊下に、冬の夕方の光が差し込んでいる。

 

遠くから、生徒たちの声が聞こえる。

 

けれど、影と一之瀬の周囲だけは、静かだった。

 

影は何も言わなかった。

 

一之瀬も、すぐには言葉を続けなかった。

 

大丈夫ではない。

 

その一言を口にしただけで、彼女の中に張っていた糸が少し緩んだように見えた。

 

けれど、糸が緩んだからこそ、奥に沈めていたものが浮かび上がってくる。

 

一之瀬は窓の外を見たまま、小さく息を吸った。

 

「上代さん」

 

「はい」

 

「もう一つ、聞いてほしいことがあるの」

 

影は、一之瀬を見る。

 

その声は震えていた。

 

けれど、逃げてはいなかった。

 

「はい」

 

「たぶん、これを話したら……上代さんも、私を見る目が変わるかもしれない」

 

「そうかもしれません」

 

一之瀬は少しだけ笑った。

 

「そこは、変わらないって言ってくれないんだね」

 

「はい。聞く前から変わらないと断言するのは、誠実ではないと思います」

 

「上代さんらしいね」

 

一之瀬は小さく笑った。

 

けれど、その笑顔はすぐに消えた。

 

「でも、それでも……聞いてほしい」

 

「分かりました」

 

影は静かに頷いた。

 

一之瀬は制服の袖を握る。

 

「私ね」

 

声は、小さかった。

 

けれど、はっきりと聞こえた。

 

「昔、万引きをしたの」

 

その言葉は、渡り廊下に静かに落ちた。

 

冬の夕方の空気が、一瞬止まったように感じた。

 

一之瀬帆波。

 

多くの生徒に信頼され、慕われ、優しい人として見られている少女。

 

その口から出た言葉は、あまりにも重かった。

 

影は、すぐには返事をしなかった。

 

驚きがなかったわけではない。

 

だが、それ以上に、その言葉を軽く扱ってはいけないと思った。

 

一之瀬は続ける。

 

「家のことで、色々あって……妹へのプレゼントが欲しくて」

 

声が震える。

 

「でも、お金がなくて」

 

一之瀬は唇を噛んだ。

 

「だからって、していいことじゃないのに」

 

「はい」

 

影は静かに言った。

 

一之瀬の目が揺れる。

 

「そこは、否定してくれないんだね」

 

「否定できません」

 

影は一之瀬を見る。

 

「万引きは、してはいけないことです」

 

一之瀬の肩が、小さく震えた。

 

だが、目を逸らさなかった。

 

「うん」

 

「その事実は、消えません」

 

「うん」

 

「一之瀬さんがどれだけ優しくても、どれだけ今努力していても、その行為が正しくなるわけではありません」

 

一之瀬は、強く目を閉じた。

 

涙が一粒、頬を伝う。

 

影はその涙を見ていた。

 

それは、壊れた涙ではない。

 

罪を見つめようとする涙だった。

 

「でも」

 

影は静かに続けた。

 

一之瀬がゆっくり目を開ける。

 

「その過去だけで、一之瀬さんの全てが決まるわけでもありません」

 

一之瀬は息を止めた。

 

「……え?」

 

「間違えた人が、二度と立ってはいけないわけではありません」

 

影の声は穏やかだった。

 

「罪は消えません。ですが、罪があるからといって、その人のこれから全てが罪だけになるわけではないと思います」

 

一之瀬は何も言えなかった。

 

影は続ける。

 

「私は、万引きをした一之瀬さんを正しいとは言えません」

 

「うん」

 

「ですが、その過去を抱えながら、今ここで立とうとしている一之瀬さんを、人として見ます」

 

一之瀬の瞳が、大きく揺れた。

 

「人として」

 

「はい」

 

「私、みんなが思ってるような人じゃないんだよ」

 

「はい」

 

「優しくて、正しくて、何でも受け止められるような人じゃない」

 

「はい」

 

「そんな私でも?」

 

その声は、今にも崩れそうだった。

 

影は静かに頷く。

 

「はい」

 

「どうして……」

 

一之瀬の声が震える。

 

「どうして、そんなふうに見られるの?」

 

影は少しだけ目を伏せた。

 

赤い記憶。

 

晴の声。

 

戦場で神を気取るな。

 

神は傷つかねぇ。

 

迷わねぇ。

 

負けもしねぇ。

 

だが、お前は違うだろ。

 

影は、その言葉を思い出す。

 

「昔、晴が私をそう見たからです」

 

「晴さんが?」

 

「はい」

 

影は窓の外を見る。

 

「私は、晴のようにはできません。ですが、少しだけ真似ることはできます」

 

「真似る?」

 

「神としても、化け物としても見ないこと」

 

影は一之瀬を見る。

 

「ただ、人として見ること」

 

一之瀬は、堪えていた涙をもう一粒落とした。

 

今度は、無理に笑おうとしなかった。

 

「私、怖い」

 

「はい」

 

「みんなに知られるのが怖い」

 

「はい」

 

「Bクラスのみんなに、嫌われたらどうしようって思う」

 

「はい」

 

「私が作ってきたものが、全部壊れたらどうしようって」

 

「はい」

 

「本当は、大丈夫なんかじゃない」

 

一之瀬はそう言った。

 

先ほどよりも、はっきりと。

 

「大丈夫じゃない」

 

その言葉は、弱かった。

 

けれど、少しだけ強かった。

 

自分の罪を口にした後で、それでも言えた言葉だからだ。

 

影は、静かに頷いた。

 

「はい」

 

一之瀬は涙を拭う。

 

「上代さん、私……どうすればいいのかな」

 

影はすぐには答えなかった。

 

その問いに、簡単な答えはない。

 

謝ればいい。

 

耐えればいい。

 

忘れればいい。

 

そんな言葉で済むものではない。

 

「私には、正しい答えは分かりません」

 

影は言った。

 

一之瀬は静かに影を見る。

 

「ですが、少なくとも」

 

影は続けた。

 

「一之瀬さんが自分の過去をなかったことにせず、今ここで向き合おうとしていることは、逃げではないと思います」

 

「逃げじゃない……」

 

「はい」

 

「でも、私一人じゃ怖い」

 

「はい」

 

「それも、人です」

 

一之瀬は泣きながら、少しだけ笑った。

 

「上代さん、やっぱり変わってる」

 

「よく言われます」

 

「でも、ありがとう」

 

そのありがとうは、昨日よりも重かった。

 

影は首を横に振る。

 

「私は、何も解決していません」

 

「うん」

 

一之瀬は頷く。

 

「分かってる」

 

彼女は涙を拭い、ゆっくり窓の外を見た。

 

「でも、少しだけ話せた」

 

「はい」

 

「それだけでも、少し違う」

 

「そう思います」

 

一之瀬は、しばらく黙っていた。

 

やがて、小さく言った。

 

「上代さんの言葉は、少し楽になる」

 

影は答えない。

 

一之瀬は続ける。

 

「でも、全部を軽くしてくれるわけじゃない」

 

「はい」

 

「罪悪感は、消えない」

 

「はい」

 

「だから……まだ、苦しい」

 

「はい」

 

影は頷いた。

 

「それも、当然だと思います」

 

一之瀬は、影を見た。

 

「当然?」

 

「はい。罪悪感がすぐに消えるなら、それは向き合っているとは言えないのかもしれません」

 

一之瀬は少しだけ目を伏せる。

 

「そっか」

 

その声は、少しだけ落ち着いていた。

 

影は思う。

 

自分の言葉で、一之瀬を救い切ることはできない。

 

救い切ってはいけないのかもしれない。

 

一之瀬帆波が誰の言葉で前を向くのか。

 

誰の手を取るのか。

 

それは、影が決めることではない。

 

影にできるのは、ただ見ること。

 

そして、今ここで一之瀬を神でも罪人でもなく、人として見ること。

 

「上代さん」

 

「はい」

 

「私、もう少しだけ頑張ってみる」

 

「はい」

 

「でも、もしまた大丈夫じゃなくなったら」

 

一之瀬は少しだけ迷ってから言った。

 

「また、聞いてくれる?」

 

影は静かに頷いた。

 

「もちろんです」

 

一之瀬は小さく笑った。

 

今度の笑顔は、涙の跡が残っていた。

 

綺麗ではない。

 

整ってもいない。

 

聖女の笑顔ではなかった。

 

けれど、人の笑顔だった。

 

迷い、傷つき、それでも立とうとする人の笑顔だった。

 

影はその笑顔を、静かに見た。

 

壊れたものを見ているのではない。

 

罪を抱えながら、それでも立とうとする姿を見ている。

 

渡り廊下の外で、夕方の光が沈んでいく。

 

噂の温度は、まだ下がっていない。

 

明日も、一之瀬帆波の名前は語られるだろう。

 

信じる者もいる。

 

疑う者もいる。

 

面白がる者もいる。

 

傷つく者もいる。

 

それでも、一之瀬は今日、自分の口で過去を語った。

 

大丈夫ではないと認めた。

 

それは小さな一歩だった。

 

影は、静かに思う。

 

一之瀬帆波を立たせるのは、きっと自分ではない。

 

それでも、彼女が人として立つところを見届けることはできる。

 

白き影は、罪の重さを見た。

 

そしてその重さに押し潰されながらも、まだ立とうとする少女の姿を見ていた。

 

 

校舎を出る頃には、外はすっかり冷えていた。

 

影は一人で寮へ向かう道を歩いていた。

 

一之瀬の言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 

昔、万引きをしたの。

 

その告白の重さ。

 

それを口にした時の、一之瀬の震え。

 

涙の跡が残った笑顔。

 

影は、それを軽く扱うことができなかった。

 

「お前、また面倒な顔してんな」

 

不意に声をかけられた。

 

顔を上げると、少し先に時任が立っていた。

 

「時任さん」

 

「帰るとこか」

 

「はい」

 

「なら歩けよ。そんなとこで止まってると邪魔だろ」

 

「邪魔になる場所ではないと思いますが」

 

「そういう意味じゃねぇよ」

 

時任は呆れたようにため息をつく。

 

そして、影の顔を見た。

 

「一之瀬と話したのか」

 

「はい」

 

「何を聞いたかは聞かねぇよ」

 

影は少しだけ目を上げる。

 

「聞かないのですか」

 

「聞いてほしいのか?」

 

「分かりません」

 

「じゃあ聞かねぇ」

 

時任はあっさりと言った。

 

「人の話を勝手に持ち出すほど暇じゃねぇし」

 

その言い方は乱暴だった。

 

けれど、線を越えないための言葉でもあった。

 

影は静かに頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

「礼言うことじゃねぇだろ」

 

時任は面倒そうに頭を掻いた。

 

「ただ、お前さ」

 

「はい」

 

「あんま変に背負うなよ」

 

影は少しだけ黙る。

 

「背負う、ですか」

 

「一之瀬のことも、噂のことも、何でもかんでも見たからってお前の荷物になるわけじゃねぇだろ」

 

その言葉は、静かに影へ届いた。

 

時任は、さらに続ける。

 

「見てるだけなら見てるだけ。聞いたなら聞いた。それ以上を勝手に自分の役割にすんな」

 

影は目を伏せる。

 

「ですが、聞いた以上、残ります」

 

「残るのは勝手だろ」

 

時任は淡々と言った。

 

「でも、全部持って帰ろうとすんな。重いに決まってんだろ」

 

影は返事をしなかった。

 

時任の言葉は、優しいわけではない。

 

慰めでもない。

 

けれど、妙に現実的だった。

 

人として見る。

 

それは、相手の重さを全部背負うことではない。

 

影は、少しだけそう思った。

 

「時任さん」

 

「何だよ」

 

「時任さんは、意外と優しいのですね」

 

「やめろ。気持ち悪い」

 

「申し訳ありません」

 

「謝んな。余計気持ち悪い」

 

時任は顔をしかめて歩き出した。

 

「帰るなら来いよ」

 

「一緒にですか」

 

「たまたま方向が同じなだけだ」

 

「そうですか」

 

「真鍋みたいな返しすんな」

 

影は少しだけ瞬きをした。

 

「似ていましたか」

 

「似てた。面倒なところが」

 

時任はそう言って、少しだけ笑った。

 

影はその隣を歩く。

 

一之瀬の罪は消えない。

 

噂の温度も、まだ下がらない。

 

この先、彼女が誰の言葉で立つのかも、影には分からない。

 

けれど、聞いたものすべてを背負うことが、人として見ることではない。

 

時任の乱暴な言葉は、影の中にそう残った。

 

白き影は、冬の道を歩いていく。

 

罪の重さを胸に残したまま。

 

それでも、その全てを自分の荷物にしてはいけないのだと、少しだけ思いながら。

 

 

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