第4話
体育祭に向けた準備期間が始まった。
授業後のグラウンドには、普段よりも多くの生徒が集まっていた。
短距離走の練習をする者。
リレーのバトンパスを確認する者。
団体競技の配置を相談する者。
そして、ただ周囲の様子を眺めている者。
体育祭は、すでに始まっている。
上代影にはそう見えていた。
本番当日に走ることだけが勝負ではない。
誰が誰を信頼しているか。
誰が焦っているか。
誰が不満を隠しているか。
誰が自分の弱さに気づいていないか。
そういったものは、準備期間の中で少しずつ表に出る。
だから影は、グラウンドの端に立ち、静かに全体を見ていた。
白銀の髪が夕方の光を受けて、淡く揺れる。
「また見てるだけ?」
横から声がした。
伊吹だった。
「はい。見ることも、大切ですので」
「体育祭なんだから動けば?」
「私はまだ、自分の出番を決めかねています」
「普通、出番は割り振られるものでしょ」
「そうですね」
影は微笑んだ。
「ですが、私は自分がどこで最も役に立つのかを見極めたいのです」
伊吹は鼻で笑った。
「龍園に使われる気?」
「使われるのも、使うのも嫌いではありません」
「ほんと変なやつ」
「よく言われます」
影はいつものように答えた。
伊吹はグラウンドへ視線を向ける。
そこではDクラスの須藤が、何人かに走り方を指示していた。
声が大きい。
身振りも大きい。
感情がそのまま表に出ている。
「須藤、目立つね」
伊吹が言った。
「はい。とても」
影は須藤を見つめる。
「強い身体能力を持っています。ですが、感情の扱いが不安定です」
「まあ、見たまんま短気そうだし」
「だからこそ、周囲に影響を与えやすい」
「悪い意味で?」
「良い意味でも、悪い意味でも」
須藤が叫ぶ。
「だから違ぇって! もっと本気でやれよ!」
池が言い返す。
「やってるだろ!」
山内も不満そうに声を上げる。
「そんなガチで言われてもさぁ」
その様子を見て、影は目を細めた。
「火種ですね」
「火種?」
「はい。まだ燃えてはいませんが、風を送ればすぐに広がります」
伊吹は影の横顔を見る。
「それ、龍園に言うの?」
「龍園さんは、もう気づいていると思います」
影は静かに言った。
「ただ、どの方向から風を送るかを考えているだけでしょう」
伊吹は嫌そうに顔をしかめた。
「最低」
「そうですね」
影は否定しなかった。
「ですが、とてもこの学校らしいです」
⸻
その少し後。
影は一之瀬に呼ばれ、Bクラスの練習場所へ向かった。
Bクラスは、Cクラスとは空気が違っていた。
誰かが失敗しても、責める声は少ない。
自然と励ましが飛ぶ。
一之瀬が全体に目を配り、神崎が冷静に配置を確認している。
柴田はリレーのメンバーとバトンパスを確認していた。
「上代さん、来てくれてありがとう」
一之瀬が笑顔で近づいてくる。
「いえ。こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
「そんな固くならなくていいよ。同じチームなんだし」
「では、少しだけ」
影は柔らかく笑った。
一之瀬は影と並んで、練習風景を見た。
「Cクラスはどんな感じ?」
「熱があります」
「熱?」
「はい。龍園さんを中心に、とてもよく燃えています」
一之瀬は苦笑した。
「それ、良い意味?」
「どちらとも言えます」
影は答える。
「燃えるものは強いです。ですが、燃えすぎれば自分たちも焼いてしまいます」
一之瀬は少しだけ真面目な表情になった。
「上代さんは、龍園くんのやり方をどう思ってる?」
「面白いと思います」
「面白い、か」
一之瀬の声には、少し困ったような響きがあった。
影は一之瀬を見る。
「一之瀬さんは、嫌いですか?」
「うん。正直、苦手かな」
一之瀬は隠さずに言った。
「勝つために誰かを傷つけたり、追い詰めたりするやり方は、私は好きじゃない」
「ですが、それで勝てる場合もあります」
「そうだね」
一之瀬は頷く。
「でも、それで勝っても、私は嬉しくないと思う」
影は黙って一之瀬を見た。
本当に、彼女はそう思っている。
綺麗事ではない。
一之瀬にとって、それは自分の中にある譲れない線なのだろう。
「一之瀬さん」
「なに?」
「あなたは、強いですね」
一之瀬は少し驚いたように瞬きした。
「私が?」
「はい」
影は微笑む。
「優しさを捨てないことは、弱さではありません。捨てないと決めているなら、それは強さです」
一之瀬は少し照れたように笑った。
「ありがとう。上代さんにそう言われると、不思議な感じ」
「そうですか?」
「うん。だって、上代さんは私とは違う考え方をしてるように見えるから」
「違いますね」
影はあっさり認めた。
「私は勝利が好きです。人が追い詰められた時に見せる本性も好きです」
一之瀬は苦笑する。
「やっぱり怖いなぁ」
「よく言われます」
二人は静かに笑った。
その時、少し離れた場所で柴田が声を上げた。
「一之瀬、ちょっとこっち見てくれない?」
「うん、今行く!」
一之瀬は影に向き直る。
「上代さんも、よかったら見てて。何か気づいたことがあったら教えてほしいな」
「分かりました」
影は軽く頭を下げた。
一之瀬が走っていく。
その背中を見ながら、影は小さく呟いた。
「眩しい方ですね」
その声は、ほんの少しだけ羨望を含んでいた。
⸻
一方その頃。
龍園はCクラスの数人を集めていた。
場所は校舎裏。
石崎、小宮、近藤。
そして少し離れて、伊吹も立っている。
龍園は壁にもたれながら、低く言った。
「Dクラスの須藤を見張れ」
石崎が頷く。
「やっぱ須藤っすか」
「あいつは単純だ。挑発すれば乗る。勝手に崩れる」
近藤が不安そうに聞く。
「でも、下手にやりすぎたら問題になりません?」
龍園は笑った。
「問題に見えねぇようにやるんだよ」
小宮が少し顔を引きつらせる。
「どうやって?」
「接触の多い競技、練習中の小競り合い、言葉での挑発。やり方はいくらでもある」
龍園の声は冷たい。
「大事なのは、あいつ自身に爆発させることだ。こっちから壊したように見せるな」
伊吹が不快そうに言う。
「ほんと性格悪い」
「勝つためだ」
「そればっか」
「それ以外に何がいる?」
伊吹は答えなかった。
龍園は続ける。
「Dクラスは須藤に頼る。須藤が崩れれば、堀北も焦る。堀北が焦れば、Dクラス全体が揺れる」
石崎が口を開く。
「あの綾小路ってやつはどうします?」
その名前が出た瞬間、龍園の目がわずかに細くなった。
「綾小路?」
「影が気にしてたやつっす」
龍園は少し考えた。
そして、笑う。
「あいつは今はいい。目立たねぇやつに時間をかけるより、分かりやすい弱点から崩す」
伊吹が小さく言う。
「でも、影は気にしてた」
「だから何だ」
龍園は伊吹を見る。
「あいつが何を見てるかは、あいつに見させておけばいい」
龍園は楽しそうに口元を歪めた。
「影は勝手に何かを拾ってくる。そういう駒だ」
⸻
その日の練習後。
影はBクラスの練習場所から戻る途中、Dクラスの生徒たちとすれ違った。
須藤が汗を拭きながら、不機嫌そうに歩いている。
その後ろに、池と山内。
少し離れて、堀北と櫛田がいた。
影は足を止めなかった。
ただ、すれ違いざまに須藤を見た。
須藤も影に気づく。
「……なんだよ」
少しぶっきらぼうな声だった。
影はにこりと笑う。
「いえ。とても良い走りをされますね」
「は?」
須藤は怪訝そうに眉をひそめた。
「馬鹿にしてんのか?」
「いいえ。本心です」
影は丁寧に言った。
「あなたの身体能力は、この体育祭で大きな武器になると思います」
その言葉に、須藤は少しだけ得意げな顔をした。
「分かってんじゃねぇか」
堀北がすぐに冷静な声をかける。
「調子に乗らないことね」
「乗ってねぇよ!」
二人のやり取りを見て、影は静かに微笑んだ。
櫛田が影に声をかける。
「上代さん、だよね? Cクラスの」
「はい。上代影です」
「私は櫛田。よろしくね」
「よろしくお願いいたします」
櫛田の笑顔は柔らかい。
だが、影はその笑顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
明るく、親しみやすい。
周囲を安心させる表情。
けれど、どこか整いすぎている。
影はそれを口には出さなかった。
「体育祭、お互い頑張ろうね」
櫛田が言う。
「はい。ですが、私たちは敵同士ですね」
「そうだね。でも、怪我なく終われたらいいなって」
「お優しいのですね」
影がそう言うと、櫛田はにこりと笑った。
「そんなことないよ」
その一言に、影は少しだけ興味を持った。
そんなことない。
否定の仕方が、ほんの少しだけ速かった。
「上代さん?」
櫛田が首を傾げる。
影はいつもの笑みを戻した。
「いえ。素敵な笑顔だと思いまして」
「え、ありがとう」
櫛田は自然に笑った。
その後ろで、堀北が影を警戒するように見ていた。
「あなた、何か用があるの?」
「いいえ。たまたま通りかかっただけです」
「そう」
堀北の声は冷たい。
影は堀北に向かって丁寧に頭を下げた。
「堀北さんも、体育祭ではよろしくお願いいたします」
「敵によろしくと言われても困るわね」
「ふふ。たしかに」
影は楽しそうに笑った。
須藤が不満げに言う。
「何笑ってんだよ」
「申し訳ありません。皆さん、とても賑やかでしたので」
「それ褒めてねぇだろ」
「褒めていますよ」
影の声は穏やかだった。
その時、少し離れた場所にいた綾小路が、こちらに視線を向けた。
ほんの一瞬。
影もそれに気づいた。
だが、声はかけない。
近づきもしない。
ただ、微かに笑うだけだった。
綾小路はすぐに視線を外した。
影もそれ以上追わなかった。
まだ早い。
そう判断した。
⸻
夜。
Cクラスの寮の共有スペースで、影は自販機の前に立っていた。
飲み物を選んでいると、後ろから声がかかる。
「こんな時間に何してんの」
伊吹だった。
「少し喉が渇きまして」
「ふーん」
伊吹は隣に立ち、適当に飲み物を買う。
しばらく沈黙が続いた。
先に口を開いたのは伊吹だった。
「今日、須藤と話してたでしょ」
「はい」
「挑発?」
「いいえ。褒めただけです」
「それが挑発になる場合もあるでしょ」
影は少しだけ笑った。
「伊吹さんは鋭いですね」
「やっぱりそうなんじゃん」
「半分だけです」
影は缶を手に取る。
「須藤さんは、褒められると前に出る方です。前に出れば、周囲との摩擦も増える」
伊吹は眉をひそめる。
「龍園と同じこと考えてるの?」
「いいえ」
影は静かに答えた。
「私は壊したいわけではありません。壊れるかどうかを見たいだけです」
「もっと悪い気がする」
「そうかもしれません」
影は否定しなかった。
伊吹は影を見た。
「何でそんなに人が壊れるところを見たがるの?」
影は少しだけ黙った。
珍しく、すぐには答えなかった。
自販機の低い音だけが、共有スペースに響く。
やがて、影はゆっくりと言った。
「壊れる瞬間に、その人の本当の形が見えるからです」
「本当の形?」
「はい」
影は缶の表面を指でなぞる。
「普段、人は色々なものを被っています。優しさ、強さ、正しさ、弱さ。ですが、追い詰められた時、それらは剥がれ落ちる」
影は微笑んだ。
「その時に残るものが、私は見たいのです」
伊吹は何も言わなかった。
理解できない。
けれど、ただの悪趣味とも言い切れない。
影の言葉には、妙な真剣さがあった。
「……やっぱり変」
「よく言われます」
影はいつものように返す。
伊吹はため息をついた。
「でも、あんたが龍園とまったく同じじゃないのは分かった」
影は少し驚いたように伊吹を見る。
「そうですか?」
「龍園は壊して勝とうとする。あんたは壊れるところを見たがってる」
「似ていませんか?」
「似てるけど違う」
伊吹は缶を開ける。
「どっちも最悪だけど」
影は嬉しそうに笑った。
「伊吹さんにそう言っていただけると、光栄です」
「褒めてない」
「分かっています」
「絶対分かってない」
二人の間に、少しだけ穏やかな沈黙が流れた。
⸻
翌日。
グラウンドでは、AクラスとDクラス、BクラスとCクラスがそれぞれ練習を進めていた。
体育祭本番が近づくにつれ、空気は少しずつ熱を帯びていく。
須藤はさらに気合いを入れていた。
堀北は資料を見ながら何かを考え込んでいる。
一之瀬はBクラスとCクラスの間を回り、何とか空気を繋ごうとしていた。
龍園は遠くからDクラスを見ている。
伊吹は面倒くさそうにしながらも、練習には真面目に参加している。
そして影は、グラウンドの端に立っていた。
全員が、少しずつ自分の役割へ向かって動いている。
誰かは勝つために。
誰かは認められるために。
誰かは仲間のために。
誰かは自分を隠すために。
それぞれの理由が、体育祭という戦場へ集まっていく。
影は小さく笑った。
「火種は、揃いましたね」
風が吹く。
砂埃が舞う。
白銀の髪が揺れる。
まだ、炎は上がっていない。
だが、確かに火はそこにある。
あとは誰かが、火をつけるだけだった。