第40話
一之瀬帆波の噂は、校内に広がり切ろうとしていた。
誰もがはっきりと口にするわけではない。
だが、誰もが知っているような顔をしていた。
廊下を歩けば、視線が動く。
教室の端で、誰かが声を潜める。
食堂では、一之瀬の名前が出るたびに一瞬だけ空気が変わる。
優しい人。
正しい人。
皆に慕われる人。
そう見られていた少女は、今、別の言葉で語られ始めていた。
昔、万引きをしたらしい。
その言葉は、一之瀬帆波という人物の全てを塗り替えようとしていた。
罪。
過去。
嘘。
隠し事。
人は、一度見方を変えると、同じ笑顔すら違うものとして見る。
昨日まで皆を安心させていた笑顔は、今日には何かを隠している笑顔になる。
昨日まで優しさと呼ばれていた行動は、今日には罪悪感の裏返しのように語られる。
噂とは、事実だけを運ぶものではない。
人の見方を変えるものだ。
影は、その変化を静かに見ていた。
Dクラスの教室でも、その話題は避けられなくなっていた。
石崎が机に肘をつきながら言う。
「もうほとんど全員知ってんじゃねぇの」
小宮が声を落とす。
「Bクラス、大丈夫なのか?」
近藤も眉を寄せた。
「一之瀬がいなくなったら、あそこかなりヤバそうだよな」
時任は頬杖をつきながら、淡々と言った。
「いなくなるって決まったわけじゃねぇだろ」
「いや、そうだけどよ」
石崎は少し苛立ったように頭を掻く。
「何か、気分悪ぃな。噂でここまで広がんの」
時任は横目で石崎を見る。
「お前、そういうの嫌いだったのか」
「好きなやついるのかよ」
「面白がってるやつは山ほどいるだろ」
その言葉に、石崎は黙った。
影は、その会話を聞いていた。
面白がる者。
心配する者。
信じたい者。
疑う者。
そのすべての視線が、一之瀬へ向かっている。
一之瀬は、昨日自分の口で過去を語った。
万引きをした。
その事実は消えない。
正しくなることもない。
だが、その過去だけで彼女の全てが決まるわけではない。
影はそう思っている。
しかし、それは影が思っているだけだ。
周囲の全員が、同じように見るわけではない。
「上代」
横から真鍋が声をかけてきた。
「はい」
「また一之瀬のこと考えてる?」
「はい」
「だと思った」
真鍋は少しだけ息を吐いた。
「昨日、時任と帰ってたでしょ」
「はい」
「何話したの」
「全部背負うな、と言われました」
真鍋は一瞬、意外そうな顔をした。
「あいつ、そんなこと言ったんだ」
「はい」
「意外とまともなこと言うんだね」
「真鍋さんもそう思いますか」
「うん。意外」
少し離れた席で時任が顔をしかめた。
「聞こえてんぞ」
真鍋は振り向かずに言った。
「聞こえるように言った」
「性格悪いな」
「時任に言われたくない」
石崎が少し笑う。
教室に、短い笑いが生まれる。
だが、その笑いもすぐに静まった。
噂の重さは、まだ教室の外へ出ていかない。
真鍋は声を落とした。
「上代」
「はい」
「一之瀬、立てそう?」
影は少しだけ黙った。
真鍋は、もう「壊れるところを見たいのか」とは聞かなかった。
今の問いは、以前より少し違う。
一之瀬がどうなるのか。
影がそれをどう見るのか。
その両方を、真鍋は気にしているようだった。
「分かりません」
影は答える。
「ですが、立とうとはしています」
「そっか」
真鍋は小さく頷いた。
「なら、まだ終わりじゃないね」
その言葉に、影は少しだけ目を伏せる。
まだ終わりではない。
壊れた後にも、人は立つ。
混合合宿で、真鍋が見せた小さな変化。
影は、それらを思い出す。
「はい」
影は静かに言った。
「まだ、終わりではありません」
⸻
昼休み。
校内の空気は、さらに張りつめていた。
Bクラスの生徒たちは、明らかに落ち着きを失っている。
一之瀬を信じる声は多い。
だが、信じるという言葉の裏には不安がある。
「帆波ちゃんはそんな人じゃない」
白波が、震える声でそう言った。
「でも、本当だったら?」
誰かが小さく呟く。
その声に、網倉が少し強めに返した。
「本当だったとしても、今の帆波が全部嘘になるわけじゃないでしょ」
「でも、どうして話してくれなかったんだろう」
小橋が、不安そうに視線を落とす。
その横で、柴田が明るく振る舞おうとするように言った。
「今は責めるとかじゃなくてさ。まず一之瀬の話、ちゃんと聞くべきじゃないか?」
「そうだな」
浜口が静かに頷いた。
「噂だけで判断するのは違う。俺たちが先に揺れたら、一之瀬も余計に苦しくなる」
その言葉に、何人かが黙った。
神崎は、少し離れた場所で腕を組んでいた。
表情は硬い。
だが、その目は周囲を冷静に見ている。
「一之瀬が何かを抱えているのは事実かもしれない」
神崎は静かに言った。
「だが、それを他クラスの噂で知ったような顔をするのは違う。俺たちが見るべきなのは、噂ではなく一之瀬本人だ」
白波が小さく頷く。
「うん……」
網倉も、少しだけ唇を結んだ。
「帆波が話してくれるなら聞く。話せないなら、待つ。それでいいんじゃない?」
小橋が不安そうに顔を上げる。
「待つだけで、いいのかな」
柴田は少し困ったように笑った。
「分かんない。でも、少なくとも勝手に疑うよりはマシだろ」
Bクラスの輪は、揺れていた。
信じたい。
けれど怖い。
支えたい。
けれど何を聞けばいいのか分からない。
その揺れは、Bクラス全体に広がっていた。
影は廊下から、その様子を見た。
一之瀬は、一人で立っていたわけではない。
不安を抱えながらも、彼女の方を向こうとする者たちがいる。
信じたい気持ちと、怖さ。
支えたい気持ちと、戸惑い。
そのすべてを抱えたまま、Bクラスの輪は崩れずにそこにあった。
人は、一人では立たない。
誰かが立とうとする時、その周囲にもまた、震えながら支えようとする者がいる。
それは、坂柳の盤面にはどう映るのだろうか。
影は、そう思った。
「上代さん」
背後から柔らかな声がした。
坂柳有栖だった。
杖の音が、廊下に静かに響く。
「坂柳さん」
影は振り返る。
坂柳はいつものように微笑んでいた。
美しく、整っていて、そして冷たい笑顔。
「一之瀬さんの周囲も、随分と騒がしくなりましたね」
「はい」
「彼女は、よく耐えていると思います」
「そうですね」
影は短く答えた。
坂柳は少し楽しそうに目を細める。
「あなたは、怒っているのですか?」
「分かりません」
「私に?」
「それは、はい」
影は即答した。
坂柳は小さく笑う。
「相変わらず正直ですね」
「嘘をつく必要がありませんので」
「私はあなたのそういうところが好きですよ」
「私は、坂柳さんのそういうところが嫌いです」
「ふふ。実に分かりやすい」
坂柳はBクラスの方へ視線を向ける。
「一之瀬さんは、この状況でどう立つのでしょうね」
影の中に、静かな嫌悪が広がる。
その問いは、純粋な関心のようでいて、やはり冷たい。
人が傷つくこと。
迷うこと。
怖がること。
そのすべてを、坂柳は盤面の動きとして見る。
「坂柳さん」
「はい」
「私は、あなたのその目が嫌いです」
坂柳は影を見る。
「その目?」
「人が立つかどうかを、盤上の結果として見る目です」
「では、あなたは違うのですか?」
坂柳の問いは鋭かった。
「あなたも見ているのでしょう。一之瀬さんがどう立つのかを」
「はい」
「なら、同じでは?」
影は少しだけ黙った。
坂柳の言葉は、完全に外れているわけではない。
影もまた、見ている。
一之瀬がどう揺れ、どう立つのかを。
かつての自分なら、それを同じように見ていたかもしれない。
冷たく。
温度なく。
壊れるか、立つかという結果だけを。
だからこそ、坂柳を嫌う。
坂柳の中に、昔の自分を見るから。
「同じ部分はあるのかもしれません」
影は静かに言った。
坂柳の笑みが深くなる。
「認めるのですね」
「はい」
影は坂柳を見る。
「ですが、同じではありません」
「どこが違うのですか?」
「私は、痛みをなかったことにしたくありません」
坂柳は黙る。
「一之瀬さんが立つとしても、その前に傷ついたことは消えません。迷ったことも、怖がったことも、罪悪感を抱えたことも」
影の声は静かだった。
「それを見ずに、ただ結果だけを見るなら、それは戦ではなく遊戯です」
坂柳は、しばらく影を見ていた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「やはり、あなたは面白い」
「私は、面白がられたくありません」
「それでも、私はあなたに興味があります」
「私は、できれば避けたいです」
「そう言われると、余計にお話ししたくなりますね」
坂柳は楽しそうに笑った。
影は、その笑顔を見て思う。
美しい。
冷たい。
そして、やはり嫌いだ。
坂柳は少しだけ首を傾げる。
「彼女は、あなたの言葉で立つのでしょうか」
「分かりません」
「随分と淡白ですね」
「一之瀬さんが誰の言葉で立つかは、一之瀬さんのものです」
坂柳の目が、わずかに細くなる。
「なるほど」
「私は、それを決めません」
「では、あなたは何をするのですか?」
影はBクラスの方を見る。
揺れながらも、一之瀬の方を向こうとしている輪が、まだそこにある。
「見ます」
影は答えた。
「一之瀬さんを、神でも罪人でもなく、人として」
坂柳は満足そうに微笑んだ。
「良い答えです」
「評価されたくありません」
「ふふ。ええ、覚えています」
坂柳は杖を鳴らし、ゆっくりと歩き去った。
その背中は小さい。
だが、影の中に残る冷たさは大きい。
坂柳有栖。
彼女は一之瀬を揺らした。
そして今も、盤面を見ている。
影は、その冷たさを嫌いだと思った。
⸻
放課後。
影は校舎の廊下を歩いていた。
噂の温度は、まだ下がっていない。
だが、どこか空気が変わり始めているようにも感じた。
Bクラスの生徒たちが、一之瀬の周囲に集まり始めている。
不安そうな顔。
心配そうな顔。
泣きそうな顔。
それでも、離れようとしない顔。
その中心に、一之瀬帆波がいた。
彼女は泣いていたわけではない。
だが、いつものように完璧に笑ってもいなかった。
少し疲れた顔。
少し赤くなった目。
それでも、前を向こうとしている顔。
白波が何かを言った。
網倉が頷く。
神崎は少し離れて全体を見ている。
柴田は場を重くしすぎないように、わざと明るく声をかけている。
小橋は不安そうに一之瀬の近くに立ち、浜口は静かに周囲を見ていた。
一之瀬は、その一つ一つを受け取っているように見えた。
影は遠くからそれを見ていた。
そこへ、綾小路清隆が現れた。
彼はいつものように目立たない。
誰かを押しのけるわけでもない。
大きな声を出すわけでもない。
ただ、そこにいる。
一之瀬は綾小路に気づいた。
その瞬間、彼女の表情がわずかに変わった。
Bクラスの仲間へ向けるものとは違う。
影に向けるものとも違う。
戸惑い。
安心。
痛み。
そして、目を逸らせないような意識。
それらが、ほんの一瞬だけ一之瀬の顔に浮かんだ。
影はそれを見た。
綾小路が何を言ったのかは、聞こえない。
距離があった。
周囲の声もある。
だが、言葉の内容は必要なかった。
一之瀬が、綾小路の言葉を受け取っている。
それだけは分かった。
綾小路の声は、おそらく影のように人として見ることを語るものではない。
晴のように激しく戦場を語るものでもない。
坂柳のように冷たく配置するものでもない。
淡々と、逃げ場のない現実を置くような言葉。
けれど、その言葉が一之瀬の奥へ届いている。
影には、そう見えた。
一之瀬は少しだけ俯き、それから顔を上げた。
その目はまだ揺れている。
だが、逃げてはいない。
綾小路を見る目には、昨日までとは違う何かがあった。
一之瀬帆波は、綾小路清隆を意識している。
影は、静かにそう思った。
それは恋かどうか、影には分からない。
だが、少なくとも彼女の中で、綾小路という存在が特別な場所に置かれ始めていることは分かった。
不思議と、そこに寂しさはなかった。
影は一之瀬を救うためにここにいるわけではない。
一之瀬を自分の言葉で立たせるためにいるわけでもない。
一之瀬帆波が誰の言葉で前を向くのか。
それは、影が決めることではない。
影はただ、彼女を聖女でも罪人でもなく、人として見ただけだった。
その人がどこで、誰の言葉で立つのかは、その人自身のものだ。
「なるほど」
影は小さく呟いた。
「あの人には、あの人を立たせる言葉があるのですね」
それは、少しだけ感心に近い感情だった。
綾小路清隆。
静かで、輪郭が遠く、音もなく人の奥へ届く人。
影にはまだ、彼の全ては見えない。
見えないままでいい。
今見るべきものは、そこではない。
一之瀬帆波が、少しずつ前を向こうとしている。
それだけで十分だった。
⸻
その後、影は校舎の外へ出ようとした。
冬の風が、玄関の扉の隙間から入り込んでいる。
空はもう暗くなり始めていた。
「上代さん」
声がした。
振り返ると、一之瀬帆波が立っていた。
一人だった。
少し疲れた顔をしている。
けれど、昨日よりも落ち着いているように見えた。
「一之瀬さん」
影は軽く頭を下げる。
一之瀬は小さく笑った。
「少しだけ、いい?」
「はい」
二人は玄関近くの端へ移動した。
人の流れから少し外れた場所。
一之瀬は、しばらく靴箱の方を見ていた。
それから、ゆっくり口を開く。
「上代さん」
「はい」
「昨日、聞いてくれてありがとう」
「いえ」
「私、まだ全然大丈夫じゃない」
「はい」
「怖いし、苦しいし、みんなにどう見られるかも気になる」
「はい」
「でも、少しだけ……ちゃんと前を向かなきゃって思えた」
影は一之瀬を見る。
一之瀬の目は、まだ赤い。
だが、逃げていない。
「それは、よかったです」
影が言うと、一之瀬は少しだけ笑う。
「上代さんの言葉、残ってるよ」
「私の言葉ですか」
「うん」
一之瀬はゆっくり頷いた。
「私を、聖女じゃなくて、人として見てくれたこと」
影は黙っていた。
一之瀬は続ける。
「それ、少し怖かった」
「怖かったのですか」
「うん。綺麗じゃない私も、そのまま見られる気がしたから」
一之瀬は少しだけ視線を落とす。
「でも、嬉しかった」
「嬉しい」
「うん」
一之瀬は小さく笑う。
「救われたって言うと、少し違うかもしれない」
「はい」
「上代さんは、私を救ったわけじゃないと思う」
「はい。私もそう思います」
「そこ、はっきり言うんだね」
「はい」
一之瀬は少しだけ笑った。
今度の笑顔は、以前のような完璧なものではない。
少し疲れていて、少し弱くて、それでも柔らかい。
「でも、見てもらえたって思った」
影は、一之瀬の言葉を静かに受け取る。
見てもらえた。
その言葉は、思っていたよりも重かった。
神のように見られる。
罪人のように見られる。
そのどちらでもなく。
人として見られる。
それは、晴がかつて影にしたことだった。
そして影は、ほんの少しだけ、それを真似ることができたのかもしれない。
「一之瀬さん」
「うん?」
「私は、晴のようにはできません」
一之瀬は静かに聞いている。
「ですが、一之瀬さんを人として見たいと思いました」
「うん」
「それが、少しでも届いたのなら、よかったです」
一之瀬は小さく頷いた。
「届いたよ」
その声は、静かだった。
けれど、確かだった。
しばらく二人の間に沈黙が落ちる。
玄関の外では、冬の風が吹いている。
やがて、一之瀬が少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「上代さん」
「はい」
「また、大丈夫じゃなくなったら……話してもいい?」
影は静かに頷く。
「もちろんです」
「ありがとう」
一之瀬はそう言って、少しだけ目を細めた。
「上代さんの前だと、少しだけ大丈夫じゃないって言える気がする」
その言葉に、影は少しだけ目を伏せる。
それは、救いではない。
答えでもない。
けれど、一之瀬が人として弱音を吐ける場所になれたのなら。
それは、意味のあることなのかもしれない。
「それは、よいことなのでしょうか」
影が尋ねると、一之瀬は小さく笑った。
「うん。たぶん、私には必要だった」
影は静かに頷いた。
「そうですか」
「うん」
一之瀬は少しだけ顔を上げる。
その視線が、一瞬だけ校舎の奥へ向いた。
綾小路がいた方角。
影はそれに気づいた。
だが、何も言わなかった。
一之瀬の中に、綾小路の言葉も残っている。
影の言葉も残っている。
そのどちらかを選ぶ必要はない。
人は、誰か一人の言葉だけで立つわけではない。
いくつもの言葉。
いくつもの視線。
いくつもの痛み。
それらを抱えて、それでも自分の足で立つ。
「一之瀬さん」
「うん?」
「立てそうですか」
一之瀬は少しだけ考えた。
そして、正直に答えた。
「まだ、分からない」
「はい」
「でも、立ちたいとは思う」
影は頷く。
「それで十分だと思います」
一之瀬は小さく笑った。
「上代さんらしいね」
「よく言われます」
「うん。知ってる」
その笑顔は、聖女の笑顔ではなかった。
罪人として俯く顔でもなかった。
迷い、傷つき、それでも立とうとする人の笑顔だった。
影は、その笑顔を美しいと思った。
壊れる美しさではない。
立とうとする美しさ。
晴の声が、胸の奥で静かに燃える。
――迷って、傷ついて、それでも立つ。
――なら、お前は人だ。
一之瀬帆波は、神ではない。
罪だけでできた人でもない。
間違え、迷い、傷つき、それでも前を向こうとする一人の人間だった。
影は、それを見た。
白波たちBクラスの生徒が、遠くから一之瀬を呼ぶ声が聞こえた。
「帆波ちゃん」
白波が不安そうに手を振っている。
その隣で網倉が、いつもの明るさを少しだけ取り戻したように声を張った。
「帆波、行こ」
小橋も心配そうに一之瀬を見ている。
柴田は少し離れた場所で、場を重くしすぎないように笑っていた。
浜口は静かに周囲を見ている。
神崎は腕を組んだまま、一之瀬が戻るのを待っていた。
その輪は、完璧ではない。
不安もある。
疑問もある。
何を言えばいいか分からない者もいる。
けれど、誰も一之瀬から完全に目を逸らしてはいなかった。
一之瀬はそちらを見て、少しだけ表情を柔らかくする。
「行かなきゃ」
「はい」
「上代さん」
「はい」
「またね」
「はい。また」
一之瀬は小さく手を振り、Bクラスの仲間たちの方へ歩いていった。
その背中は、まだ少し重い。
噂の傷は、すぐには消えない。
罪の重さも、消えない。
だが、その背中は昨日よりも少しだけ前を向いていた。
影は、その背中を見送る。
一之瀬帆波を立たせたのは、影ではない。
影はただ、彼女を聖女でも罪人でもなく、人として見ただけだった。
その人が誰の言葉で前を向くのかは、影が決めることではない。
けれど、一之瀬の中に影の言葉も残った。
大丈夫ではないと言える場所。
綺麗ではない自分を見ても、離れなかった相手。
それが、少しでも彼女の足元になったのなら。
影は、それで十分だと思った。
冬の校舎に、夕暮れの影が伸びていく。
噂の戦場は、少しずつ終わりへ向かっていた。
そして、一之瀬帆波は神でも罪人でもなく、一人の人として歩き出した。
白き影は、静かにその背中を見届けた。