第6話
体育祭当日。
朝のグラウンドには、普段の学校生活とは違う熱があった。
赤と白に分けられた陣営。
整列する生徒たち。
白線が引かれたトラック。
風に揺れる旗。
そして、開始前から漂う緊張感。
AクラスとDクラス。
BクラスとCクラス。
普段は別々の教室にいる生徒たちが、今日は同じ陣営として、あるいは敵として向かい合っている。
上代影は、Cクラスの列に立ちながら静かに周囲を見ていた。
「楽しそうだな」
隣から伊吹が声をかける。
「はい。とても」
影は素直に答えた。
「普通、緊張するとこでしょ」
「緊張もしていますよ」
「嘘っぽい」
「本当です」
影は微笑む。
「こういう場は、人の本質が出やすいので」
「やっぱり楽しんでるじゃん」
伊吹は呆れたようにため息をついた。
少し離れた場所では、龍園が腕を組みながら敵陣営を見ていた。
その視線は、Dクラスに向いている。
特に、須藤へ。
須藤は朝から明らかに気合いが入っていた。
「絶対勝つぞ!」
大きな声がグラウンドに響く。
池と山内が、それに乗るように声を出す。
「頼むぞ須藤!」
「Dクラスのエースだからな!」
篠原が少し呆れたように言う。
「男子、朝からうるさいんだけど」
佐藤が苦笑し、松下は少し離れた場所から冷静にその様子を見ていた。
平田は全体に声をかけている。
「みんな、最初から飛ばしすぎないようにしよう。午前も午後もあるから」
堀北は資料に目を落としながら、須藤に何かを言っていた。
櫛田は笑顔で女子たちに声をかけている。
Dクラスは騒がしい。
まとまりがあるようで、まだ不安定だった。
影はDクラスの応援席へ視線を流した。
須藤は熱を帯び、堀北は冷静に周囲を見ている。
櫛田は笑顔で空気を和らげ、平田は男子たちに声をかけていた。
その中で、影は一瞬だけ綾小路を見た。
彼は相変わらず目立たない場所にいた。
競技の熱から少し外れたように、静かに周囲を眺めている。
影はすぐに視線を外した。
今はまだ、それでいい。
見つめすぎれば、観察ではなく接触になる。
⸻
開会式が終わり、最初の競技が始まった。
短距離走。
単純で分かりやすい競技ほど、実力差がそのまま出る。
B・C陣営の応援席では、一之瀬が全体に声をかけていた。
「みんな、最初から声出していこう!」
Bクラスの生徒たちはすぐに反応する。
Cクラス側は最初こそやや控えめだったが、柴田や一之瀬に乗せられる形で、少しずつ声が出始めた。
石崎が面倒くさそうにしながらも叫ぶ。
「おら、走れ!」
小宮もそれに続く。
伊吹は黙って競技を見ていたが、表情は真剣だった。
影は応援席の端に立ち、走る生徒たちを観察していた。
走り方には、その人間の性格が出る。
無理に前へ出ようとする者。
周囲を見すぎて遅れる者。
最初から最後まで自分のペースを崩さない者。
焦りでフォームが乱れる者。
柴田の走りは安定していた。
明るく軽い印象とは違い、走りには無駄が少ない。
最後まで大きく崩れず、しっかりと上位に入る。
Bクラス側から歓声が上がった。
一之瀬も嬉しそうに拍手する。
「柴田くん、すごいね!」
柴田は照れたように手を振った。
影は静かに頷く。
「やはり、良い戦力ですね」
「上から目線だな」
石崎が言う。
「そう聞こえましたか?」
「聞こえた」
「では、気をつけます」
「絶対気をつけねぇやつだ」
影は小さく笑った。
⸻
次にDクラスの須藤が出場した。
その瞬間、Dクラスの応援席が一気に熱を帯びる。
須藤はスタートから力強く飛び出した。
走り方は荒い。
だが、身体能力の高さで他の生徒を引き離していく。
「須藤くん、速い!」
佐藤が声を上げる。
「いいぞ須藤!」
池が叫ぶ。
山内も続く。
篠原は呆れながらも、どこか期待した顔で見ていた。
小野寺も競技待機の位置から、その走りを静かに見ている。
結果は一位。
Dクラス側から大きな歓声が上がった。
須藤は得意げに拳を上げる。
「見たか!」
池と山内が大騒ぎする。
「やっぱ須藤すげぇ!」
「このまま全部勝てるんじゃね?」
「調子に乗りすぎ」
篠原がすぐに突っ込む。
松下は少し冷静に言った。
「でも、須藤くんが点を取れるのは大きいね」
軽井沢は日差しを気にしながらも、Dクラス側の盛り上がりを見ていた。
「まあ、勝ってくれるなら助かるけど」
平田は笑顔で須藤に声をかける。
「須藤くん、ナイス。でも午後もあるから、体力は残しておこう」
「分かってるって!」
須藤はそう答えたが、明らかに気分が高揚していた。
堀北は冷静に言う。
「あなた一人が勝っても、クラス全体が負ければ意味がないわ。次の競技も考えて動くべきよ」
「分かってるって言ってんだろ」
須藤の声が少し強くなる。
櫛田がすぐに間に入った。
「まあまあ、今は勝てたんだから良かったよ。須藤くん、すごかったし」
須藤は櫛田に言われ、少しだけ表情を緩めた。
その様子を、影は遠くから見ていた。
「強いですね」
隣に来ていた龍園が低く笑う。
「だろうな」
「ですが、少し危うい」
「ああ。勝つほど調子に乗る。調子に乗れば、隙ができる」
龍園の視線は冷たかった。
「単純なやつは、扱いやすい」
影は須藤を見る。
彼はDクラスの武器だ。
だが、武器は扱い方を間違えれば、持ち主を傷つける。
「須藤さんは、Dクラスの熱ですね」
「熱?」
「はい。周囲を動かす力があります」
影は静かに続ける。
「ただし、制御できなければ燃え広がります」
龍園は面白そうに笑った。
「なら、少し風を送ってやるだけだ」
⸻
午前の競技は進んでいった。
B・C陣営は、Bクラスの安定感とCクラスの個人能力で得点を重ねていく。
A・D陣営も簡単には崩れない。
Aクラスは全体的に無駄が少なく、配置も堅実だった。
葛城が実務的にまとめているのが遠目にも分かる。
Dクラスは不安定ではあるが、須藤だけではなかった。
小野寺が女子競技で良い結果を出し、Dクラス側から再び歓声が上がる。
「小野寺さん、速っ」
佐藤が驚いたように言う。
松下も頷く。
「運動できるとは思ってたけど、かなり上位だったね」
軽井沢は少し感心したように言った。
「須藤だけじゃないんだ」
篠原が池たちの方を見て言う。
「ほら、男子ももっとしっかりしなよ」
「俺らも頑張ってるだろ!」
池が言い返す。
山内も慌てて続く。
「そうそう、まだ本気出してないだけだし」
「そういうのいいから」
篠原が冷たく返す。
そのやり取りに、周囲が少し笑う。
Dクラスは騒がしい。
だが、完全に崩れているわけではない。
支える者もいる。
流される者もいる。
冷静に見る者もいる。
空気を変えようとする者もいる。
影はその様子を見ながら、小さく頷いた。
「欠けてはいますが、空洞ではありませんね」
伊吹が横から聞く。
「何それ」
「Dクラスのことです」
「あそこ、そんなに面白い?」
「はい。とても」
伊吹は面倒くさそうに視線を向ける。
「騒がしいだけに見えるけど」
「騒がしさの中にも、役割があります」
影はそこまで言って、視線をグラウンドへ戻した。
今は観察で十分だった。
⸻
昼前に差しかかる頃、Dクラスへの揺さぶりは少しずつ形を見せ始めていた。
Cクラスの男子が、競技の合間に須藤の近くを通る。
「さすがDクラスのエースだな」
一見すると褒め言葉だった。
だが、声にはわずかな棘がある。
別の男子が笑う。
「一人だけ頑張ってて大変そうだよな」
須藤の眉が動く。
「何だよ」
「別に。褒めてるだけだろ」
石崎がわざとらしく肩をすくめる。
池が須藤の腕を引く。
「おい、やめとけって」
山内も小声で言う。
「今揉めたらまずいって」
「分かってるよ」
須藤は低く答えた。
だが、明らかに苛立っていた。
堀北が近づく。
「相手にしないことね。あなたが乗れば、相手の思うつぼよ」
「いちいち言われなくても分かってる」
「分かっているようには見えないわ」
「お前さ……」
須藤の声が強くなる。
そこへ平田がすぐに入った。
「須藤くん、気持ちは分かるよ。勝ちたいのはみんな同じだから」
須藤は不満そうに顔をしかめる。
「だったら俺に任せりゃいいだろ」
「うん。須藤くんが頼りになるのは分かってる。でも、体育祭は一人で全部勝つものじゃない。みんなで点を取らないといけないんだ」
平田は堀北の方にも視線を向けた。
「堀北さんも、須藤くんを止めたいわけじゃないと思う。勝つために考えてくれてるんだよ」
「……分かってるよ」
須藤は舌打ちしながらも、それ以上は言い返さなかった。
櫛田も柔らかく笑って続ける。
「そうだよ。須藤くんが頑張ってくれてるのは、みんな分かってるから。少し休んで、次も頑張ろう?」
その言葉で、その場は何とか収まった。
影は、その一連の流れを離れた場所から見ていた。
龍園の視線は、須藤だけを見ていない。
Dクラスの出場順。
堀北の動き。
櫛田の位置。
須藤が苛立つタイミング。
そのすべてを、すでに知っているかのように眺めている。
影は静かに理解する。
情報は、すでに流れている。
どこからか。
誰からか。
それを問いただす必要はなかった。
龍園は使えるものを使う。
それだけのことだ。
「影」
龍園が短く呼ぶ。
「はい」
「Dクラス、どう見る」
「崩れかけています」
影は答える。
「ですが、まだ踏みとどまっています」
「何が支えてる」
「一人ではありません」
影はDクラスへ視線を流す。
「複数の役割が、どうにか噛み合っています」
「なら、そこをまとめて揺らせばいい」
龍園は笑った。
「正論も、優しさも、仲間意識も。疲れれば全部鈍る」
影は否定しなかった。
疲労は人を変える。
焦りは本音を引き出す。
体育祭の後半になればなるほど、隠していたものは剥がれやすくなる。
「午後が、本番ですね」
影は静かに言った。
⸻
B・C陣営の合同競技が始まった。
複数人で走順を繋ぐ競技であり、個人の速さだけでなく、受け渡しと連携が重要になる。
前日の合同練習の成果が試される場だった。
一之瀬が全員に声をかける。
「練習通りいこう。焦らなくて大丈夫!」
神崎は走順を最終確認する。
柴田は軽く肩を回しながら、石崎に声をかけた。
「石崎、頼むぞ」
「分かってるよ」
「昨日より良くなってたし、大丈夫だって」
「……おう」
石崎は少しだけ表情を緩めた。
影は自分の立ち位置を確認する。
彼女は走者として目立つ場所ではなく、受け渡しの判断が必要な区間に入っていた。
速さよりも、状況判断を求められる位置。
一之瀬の提案だった。
龍園は「好きにしろ」とだけ言った。
競技が始まる。
Bクラスの走者は安定している。
Cクラスの走者はやや荒いが、勢いがある。
柴田から石崎へ。
昨日よりもスムーズだった。
石崎は少し遅れながらも、必死に走る。
次の小宮へ。
大きなミスはない。
そして、影の番が近づく。
前走者が近づく。
影は一歩、二歩と走り出す。
周囲の声が遠くなる。
砂を蹴る音。
呼吸。
近づく足音。
バトンを持つ手の角度。
影は振り返らず、右手だけを後ろへ伸ばした。
「はい!」
声と同時に、バトンが手に触れる。
受け取った。
影はそのまま加速する。
走りは派手ではない。
須藤のような爆発力も、柴田のような軽さもない。
だが、無駄が少なかった。
白銀の髪が風に流れる。
影は前だけを見て走る。
次の走者は白波だった。
昨日、位置取りを確認した場所。
白波は少し緊張した表情で待っていた。
影は速度を落としすぎず、声を出す。
「白波さん、今です」
白波が走り出す。
タイミングは合っている。
影は手を伸ばし、バトンを渡した。
受け渡しは成功した。
白波はそのまま走り抜ける。
Bクラス側から声が上がる。
「白波さん、いける!」
一之瀬も声を出す。
「そのまま!」
最後まで大きなミスはなく、B・C陣営は上位に入った。
合同練習の成果としては十分だった。
白波が戻ってきて、影に駆け寄る。
「上代さん、さっきありがとう。声かけてもらえたから、出るタイミング分かった」
「いえ。白波さんが練習通りに動いたからです」
「でも助かったよ」
白波は笑った。
影は少しだけ目を細める。
自分はただ、必要なことをしただけ。
それでも、相手は助かったと言う。
その感覚には、まだ慣れない。
一之瀬は嬉しそうに二人を見ていた。
伊吹は少し離れた場所で、何とも言えない顔をしている。
「何ですか、伊吹さん」
影が尋ねる。
「別に」
「何か言いたそうですが」
「今日のあんた、普通に体育祭してるなって思っただけ」
「私はいつも普通ですよ」
「それはない」
即答だった。
影は少しだけ笑った。
⸻
午前最後の競技が近づく頃、Dクラス側に小さな乱れが起きていた。
須藤が次の配置について、堀北に強く言い返している。
「だから俺が前に出た方がいいって言ってんだろ!」
「あなた一人で勝てる競技ではないわ。全体の配置を考えるべきよ」
「いちいち理屈っぽいんだよ!」
池たちは困ったように見ている。
山内は小声で言う。
「また始まったよ……」
篠原が呆れたように睨む。
「男子、ちゃんと止めなさいよ」
佐藤は不安そうに櫛田を見る。
軽井沢は面倒そうな顔をしながらも、周囲の空気が悪くなっていることには気づいていた。
松下は静かに言う。
「このままだと、須藤くんが勝っても全体では崩れるかもね」
平田がすぐに近づく。
「須藤くん、落ち着こう。勝ちたい気持ちは分かるけど、ここで揉めても得はないよ」
「俺は揉めたいわけじゃねぇよ」
「うん。分かってる。だから、次でちゃんと結果を出そう」
櫛田も柔らかく続ける。
「そうだよ。みんな須藤くんに期待してるんだから、少し休んで切り替えよう?」
その言葉で、その場は何とか収まった。
だが、火は消えていない。
影は遠くから見ていた。
龍園は笑っている。
まだ大きく手を出してはいない。
それでも、Dクラスは少しずつ削られている。
直接壊すのではない。
疲労と焦りと苛立ちを利用し、本人たちの中にある亀裂を広げている。
「随分と丁寧に燃やすのですね」
影が言う。
龍園は喉の奥で笑った。
「燃えやすいようにしてやってるだけだ」
「やはり、性格が悪いですね」
「お前に言われたくねぇな」
「よく言われます」
影は微笑んだ。
その視線は、Dクラス全体を見ていた。
まとまりきらないまま、それでも勝とうとしているクラス。
騒がしく、未熟で、感情に流されやすい。
それでも完全には崩れない。
誰かが前に出れば、誰かが止めようとする。
誰かが乱れれば、誰かが空気を戻そうとする。
だからこそ、脆く。
だからこそ、変わる余地がある。
影は小さく息を吐いた。
「午後、ですね」
昼休憩を告げる放送がグラウンドに響いた。
歓声が一度、緩む。
生徒たちはそれぞれの応援席へ戻っていく。
B・C陣営では、一之瀬が周囲に飲み物を配りながら声をかけていた。
Dクラスでは、須藤が不機嫌そうに座っている。
堀北は資料を見ている。
櫛田は周囲の生徒に笑顔で話しかけている。
平田は男子たちをなだめている。
女子たちは小さな声で不安を口にしている。
昼休憩の穏やかな空気の中でも、Dクラスには火種が残っていた。
影はそれを見て、静かに目を細める。
体育祭は、まだ半分。
午後になれば、疲労が出る。
苛立ちが増す。
焦りが判断を鈍らせる。
誰かが崩れるとすれば、ここからだ。
白銀の髪が風に揺れる。
「さて」
上代影は、祈るように微笑んだ。
「午後は、どなたが本当の形を見せてくださるのでしょうか」
その声は柔らかく。
そして、どこまでも楽しそうだった。
体育祭は、まだ終わらない。