ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

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白き影は罠の跡を見る

 

第7話

 

昼休憩が終わり、体育祭は後半へ入った。

 

午前中にあった高揚感は、午後になると少しずつ形を変えていた。

 

疲労。

焦り。

苛立ち。

 

生徒たちの足取りは重くなり、声にもわずかな荒さが混じり始める。

 

体育祭は、ただ速く走る者だけが勝つ場所ではない。

 

疲れた時に、どれだけ冷静でいられるか。

思うようにいかない時に、どれだけ自分を保てるか。

 

そこに、その人間の本当の形が出る。

 

上代影は、B・C陣営の応援席の端で、静かにグラウンドを見ていた。

 

「午後になって、少し空気が変わりましたね」

 

隣にいた一之瀬が、グラウンドへ視線を向けたまま言った。

 

「はい」

 

影は頷く。

 

「皆さん、少しずつ余裕がなくなっています」

 

「上代さん、そういうところよく見てるよね」

 

「見ることは得意ですので」

 

「うん。知ってる」

 

一之瀬は苦笑した。

 

Bクラス側は、まだ大きく崩れていない。

 

疲れはある。

それでも、一之瀬が声をかければ、周囲はまた前を向く。

 

Cクラス側は、龍園の視線を受けながら、それぞれが必要な役割をこなしていた。

 

同じ陣営にいながら、BクラスとCクラスの温度は違う。

 

だが、勝つという目的だけは一致していた。

 

影は、その歪な一体感を面白いと思った。

 

 

午後の競技が始まると、Dクラスの揺らぎはよりはっきりと見えるようになった。

 

須藤は相変わらず結果を出している。

 

だが、その表情には明らかな苛立ちが混じっていた。

 

競技前、Cクラスの生徒が須藤の近くを通る。

 

「Dクラスは大変だな。須藤が一人で頑張らないといけないんだから」

 

「ほかのやつらは楽でいいよな」

 

一見すれば、ただの軽口。

 

だが、須藤の耳には十分に届く。

 

「何だよ」

 

須藤が低い声を出す。

 

池が慌てて止める。

 

「おい、やめとけって」

 

山内も焦ったように続ける。

 

「今揉めたらまずいだろ」

 

須藤は舌打ちした。

 

堀北が冷静に言う。

 

「相手にしないことね。挑発に乗れば、それこそ相手の思うつぼよ」

 

「分かってるって言ってんだろ」

 

「分かっているようには見えないわ」

 

「お前のそういう言い方がムカつくんだよ」

 

空気がわずかに硬くなる。

 

平田がすぐに間に入った。

 

「須藤くん、気持ちは分かるよ。勝ちたいのはみんな同じだから」

 

「だったら俺に任せりゃいいだろ」

 

「須藤くんが頼りになるのは分かってる。でも、体育祭は一人で全部勝つものじゃない。みんなで点を取らないといけないんだ」

 

櫛田も柔らかく続ける。

 

「そうだよ。須藤くんが頑張ってくれてるのは、みんな分かってるから。少し休んで、次も頑張ろう?」

 

須藤は不満そうに顔をしかめたが、それ以上は言い返さなかった。

 

その様子を、影は遠くから見ていた。

 

Dクラスは完全には崩れていない。

 

誰かが熱くなれば、誰かが止める。

誰かが空気を乱せば、誰かが戻そうとする。

 

だが、それも無限には続かない。

 

疲労は、人の余裕を奪う。

 

影は静かに目を細めた。

 

「まだ、持ちこたえていますね」

 

その近くで、龍園が低く笑った。

 

「まだな」

 

 

午後の中盤。

 

Dクラスにとって、体育祭の流れを大きく変える出来事が起きた。

 

競技中、堀北がCクラスの女子生徒と接触した。

 

木下だった。

 

一瞬の出来事。

 

走路が混み合い、複数の生徒が交差する。

その中で、木下の身体が堀北の進路に重なる。

 

堀北は体勢を崩した。

 

転倒はしなかった。

 

だが、足をかばうように動きが止まる。

 

Dクラス側からざわめきが起きた。

 

「堀北さん、大丈夫?」

 

櫛田がすぐに駆け寄る。

 

佐藤も不安そうに立ち上がった。

 

松下は表情を大きく変えなかったが、視線は鋭くなっている。

 

平田も近づこうとする。

 

「堀北さん、無理しない方がいいよ」

 

堀北は表情を崩さずに答えた。

 

「問題ないわ」

 

しかし、その声にはわずかな硬さがあった。

 

須藤はその様子を見て、顔色を変えた。

 

「おい、今のわざとじゃねぇのか?」

 

場の空気が一気に張り詰める。

 

Cクラス側の生徒は肩をすくめた。

 

「知らねぇよ。競技中の接触だろ」

 

「ふざけんなよ」

 

須藤が前へ出ようとする。

 

池が慌てて止めた。

 

「おい、須藤!」

 

山内も焦った声を出す。

 

「ここで揉めたら終わりだって!」

 

平田が須藤の前に立つ。

 

「須藤くん、今は駄目だ」

 

「どけよ、平田」

 

「気持ちは分かる。でも、ここで手を出したら本当に終わる」

 

須藤の拳が強く握られる。

 

櫛田が必死に声をかけた。

 

「須藤くん、お願い。落ち着いて」

 

堀北も痛みを隠すように立ったまま言う。

 

「あなたが騒げば、相手の思うつぼよ」

 

「……っ」

 

須藤は歯を食いしばった。

 

その場は何とか収まった。

 

だが、Dクラスの空気は明らかに変わった。

 

怒り。

不安。

焦り。

疑念。

 

それらが混ざり、応援席全体を重くしていく。

 

影はその光景を、少し離れた場所から見ていた。

 

龍園は笑っている。

 

「見たか、影」

 

「はい」

 

「あれで十分だ」

 

龍園の声に、同情は一切なかった。

 

「堀北は削れた。須藤はさらに荒れる。Dクラスは勝手に内側からズレていく」

 

「最初から、ここまで見越していたのですね」

 

「当然だろ」

 

龍園は鼻で笑う。

 

「情報があれば、壊し方はいくらでもある」

 

影は、Dクラスの方を見る。

 

Dクラスの出場順。

堀北の動き。

須藤が苛立つタイミング。

 

龍園はそれを、知っていた。

 

どこからか。

 

誰からか。

 

それをここで問う意味はない。

 

龍園は使えるものを使う。

そういう人間だ。

 

「龍園さんらしいですね」

 

「褒めてんのか?」

 

「はい」

 

影は微笑む。

 

「とても合理的です。美しいとは思いませんが」

 

龍園は一瞬だけ影を見て、喉の奥で笑った。

 

「お前に美しさなんか語られたくねぇな」

 

「よく言われます」

 

影は静かに返した。

 

 

堀北の負傷をきっかけに、Dクラスはさらに噛み合わなくなった。

 

須藤は怒りを抱えたまま競技へ出る。

 

結果を出す場面もあった。

 

だが、周囲との温度差は大きくなっていく。

 

「もっと本気でやれよ!」

 

「やってるって!」

 

池が言い返す。

 

篠原が疲れた声で言う。

 

「須藤ばっかり怒鳴らないでよ」

 

「俺は勝つために言ってんだよ!」

 

「言い方ってもんがあるでしょ!」

 

小さな衝突が、何度も起こる。

 

軽井沢は女子たちの不満を聞きながら、面倒そうに眉をひそめている。

 

佐藤は櫛田に相談するように話しかける。

 

松下は少し離れた位置から全体を見ていた。

 

「このままだと、後半は厳しいかもね」

 

その言葉に、篠原が反応する。

 

「やっぱりそう思う?」

 

「須藤くんだけの問題じゃないけど、みんな疲れてるから」

 

「こういう時にまとまれないの、Dクラスっぽいよね」

 

篠原は苦笑した。

 

影は、その光景を遠目に見ていた。

 

言葉までは聞こえない。

 

けれど、表情と距離感で分かる。

 

Dクラスは、内側から揺れている。

 

それでも、完全には離れない。

 

不満を言いながらも競技に出る。

苛立ちながらも誰かを止める。

疲れながらも声を出す。

 

欠けている。

 

未熟で、不安定で、感情に流されやすい。

 

それでも、まだ終わってはいない。

 

影は小さく息を吐いた。

 

「崩れそうで、崩れきらない」

 

隣にいた伊吹が聞き返す。

 

「Dクラス?」

 

「はい」

 

「普通に崩れてるように見えるけど」

 

「完全には、です」

 

影は静かに言った。

 

「壊れる寸前で残るものがあります」

 

伊吹はDクラスを見た。

 

「そういうの、好きなの?」

 

影は少しだけ考えた。

 

「嫌いではありません」

 

「やっぱり趣味悪い」

 

「よく言われます」

 

影は微笑んだ。

 

 

終盤のリレーが近づく頃には、グラウンド全体の熱が最高潮に達していた。

 

B・C陣営では、柴田や伊吹たちが準備に入っている。

 

一之瀬は応援席から声をかけていた。

 

「みんな、最後まで頑張ろう!」

 

Bクラスの生徒たちが応える。

 

Cクラス側も、石崎や小宮たちが声を上げた。

 

伊吹は無言のまま、集中した様子で立っている。

 

影は出場しない。

 

その代わり、応援席の端から全体を見ていた。

 

リレーが始まる。

 

歓声が一気に大きくなった。

 

各陣営の走者が次々とトラックを駆け抜ける。

 

砂埃が舞い、バトンが繋がれていく。

 

B・C陣営は悪くない位置につけていた。

 

柴田の走りは安定している。

 

伊吹は無駄の少ない鋭い走りで順位を押し上げた。

 

Cクラス側から歓声が上がる。

 

「伊吹、いけ!」

 

石崎が声を張る。

 

Bクラス側も一緒になって応援している。

 

一之瀬の声が響いた。

 

「そのまま!」

 

影はその光景を見ていた。

 

BクラスとCクラス。

 

信頼と恐怖。

温かさと熱。

優しさと支配。

 

本来なら混ざりにくいものが、今だけは同じ方向を向いている。

 

それは不安定で。

 

だからこそ、少しだけ美しかった。

 

一方、Dクラス側も必死だった。

 

須藤は怒りを力に変えるように走っている。

 

その走りは荒い。

 

だが、速い。

 

Dクラスの応援席が沸く。

 

「須藤くん、いけ!」

 

佐藤が叫ぶ。

 

池と山内も声を張り上げる。

 

篠原も思わず立ち上がっている。

 

堀北は足をかばいながら、それでも競技を見ていた。

 

平田は周囲に声をかけ、少しでも空気を戻そうとしている。

 

櫛田も笑顔を崩さず、応援を続けていた。

 

影は、Dクラスの中で一瞬だけ綾小路を見た。

 

彼は目立たない場所にいる。

 

騒がない。

焦らない。

必要以上に動かない。

 

ただ、見ている。

 

影はすぐに視線を外した。

 

今はまだ、それだけでいい。

 

 

終盤の競技が終わる頃には、体育祭全体の勝敗はほぼ見えていた。

 

Dクラスは点を取る場面もあった。

 

須藤も、小野寺も、いくつかの競技で結果を出した。

 

だが、全体としては噛み合わなかった。

 

堀北の負傷。

須藤の苛立ち。

クラス内の温度差。

そして、外からの揺さぶり。

 

小さな亀裂が積み重なり、最後まで響いた。

 

放送で結果が告げられる。

 

歓声と落胆が同時にグラウンドへ広がった。

 

B・C陣営は勝利に沸いた。

 

一之瀬は周囲と喜び合い、柴田が笑顔で拳を上げる。

 

Cクラス側でも石崎たちが騒ぎ、勝利の熱が広がっていた。

 

龍園は満足そうに笑っている。

 

「まあ、こんなもんだな」

 

影はその横で静かにグラウンドを見ていた。

 

「嬉しくねぇのか?」

 

龍園が聞く。

 

「嬉しいですよ」

 

「そうは見えねぇな」

 

「勝利は好きです」

 

影は微笑む。

 

「ですが、今日は勝利以外にも多くのものが見えましたので」

 

「はっ。相変わらず気色悪いこと言うな」

 

「よく言われます」

 

龍園はDクラスの方を見る。

 

堀北は足をかばいながらも、表情を崩していない。

須藤は明らかに苛立ちを残している。

平田と櫛田が周囲に声をかけていたが、Dクラス全体の空気は重かった。

 

「しばらく引きずるだろうな」

 

「そうですね」

 

影は静かに答える。

 

「ですが、完全には壊れませんでした」

 

龍園の目がわずかに細くなる。

 

「それが気になるのか?」

 

「はい」

 

影はDクラスを見たまま言う。

 

「負けて、乱れて、傷ついて。それでもまだ、終わっていないように見えます」

 

「くだらねぇ。負けは負けだ」

 

「それも事実です」

 

龍園はそれ以上何も言わず、石崎たちの方へ歩いていった。

 

影は一人、Dクラスの方を見ていた。

 

敗者の空気。

 

怒り、疲労、不満、後悔。

 

けれど、その中にまだ何かが残っている。

 

壊れかけても、壊れきらないもの。

 

それを、影はうまく言葉にできなかった。

 

 

閉会後。

 

グラウンドには、体育祭の熱がまだ残っていた。

 

Bクラスの生徒たちは、一之瀬を中心に勝利を喜んでいる。

 

Cクラス側も騒がしい。

 

一方で、Dクラスの空気は重かった。

 

須藤は悔しさを隠せず、堀北は足をかばいながらも平然を装っている。

平田と櫛田が周囲をなだめ、池と山内は疲れた顔で話していた。

女子たちも小さな声で不満や不安をこぼしている。

 

影はそれを遠くから見ていた。

 

そこへ、一之瀬が近づいてきた。

 

「上代さん」

 

「一之瀬さん」

 

「お疲れさま」

 

「お疲れさまでした」

 

一之瀬は影の隣に立ち、同じようにDクラスの方を見た。

 

しばらく、二人は何も言わなかった。

 

勝った側には笑い声がある。

負けた側には重い沈黙がある。

 

その差が、夕方のグラウンドにくっきりと分かれていた。

 

やがて、一之瀬が小さく口を開いた。

 

「ねえ、上代さん」

 

「はい」

 

「今日のDクラスのことなんだけど」

 

一之瀬の声は、いつもより少し低かった。

 

「龍園くんは、最初からああなることを狙ってたのかな」

 

影はすぐには答えなかった。

 

一之瀬は続ける。

 

「須藤くんへの挑発も、堀北さんと木下さんの接触も、偶然だけじゃない気がした」

 

「……そう見えましたか」

 

「うん」

 

一之瀬は影を見た。

 

「上代さんは、知ってた?」

 

問い方は責めるものではなかった。

 

けれど、軽くもなかった。

 

影はその視線を受け止める。

 

「すべてを知っていたわけではありません」

 

「すべてを?」

 

「はい」

 

影はDクラスの方へ視線を戻す。

 

「ですが、龍園さんがDクラスを揺さぶるつもりだったことは、分かっていました」

 

一之瀬の表情がわずかに曇る。

 

「止めようとは思わなかった?」

 

「思いませんでした」

 

影は静かに答えた。

 

「私はCクラスの生徒です。そして、今日はBクラスとCクラスが同じ陣営でした。龍園さんの策が勝利に繋がるなら、それを止める理由はありません」

 

一之瀬は黙った。

 

風が吹き、グラウンドの砂がわずかに舞う。

 

「でも」

 

一之瀬はゆっくり言った。

 

「勝つためなら、相手が傷ついてもいいのかな」

 

影は目を細めた。

 

それは一之瀬らしい問いだった。

 

ただの正義感ではない。

 

勝った側として、勝利の形に納得できていない者の問い。

 

「良いか悪いかで言えば、良くはないと思います」

 

影は言った。

 

「ですが、この学校では有効な手段です」

 

「有効なら、使っていい?」

 

「使う人はいるでしょう」

 

「上代さんは?」

 

影は少しだけ沈黙した。

 

一之瀬はその沈黙を待った。

 

急かさず、責めず、ただ答えを待つ。

 

「私は」

 

影は静かに口を開く。

 

「龍園さんのやり方を、美しいとは思いません」

 

一之瀬は少し驚いたように影を見る。

 

「ですが、否定もしません。あれはあれで、勝つための形です。相手の弱点を見つけ、揺さぶり、崩す。とても合理的です」

 

「じゃあ、上代さんはどう思ったの?」

 

影はDクラスを見る。

 

須藤はまだ苛立ちを残している。

堀北は痛みを隠すように立っている。

櫛田が笑顔で声をかけ、平田が空気を戻そうとしている。

 

「罠にかかったのは、Dクラスの弱さです」

 

影は言った。

 

「ですが、罠にかかっても完全には壊れませんでした。それは、少し興味深いと思いました」

 

「興味深い、か」

 

一之瀬は小さく呟く。

 

「上代さんらしいね」

 

「よく言われます」

 

影は微笑む。

 

一之瀬は少しだけ困ったように笑った。

 

けれど、すぐに真面目な表情に戻る。

 

「私は、龍園くんのやり方は好きじゃない」

 

「はい」

 

「でも、私たちは同じ陣営で勝った。だから、私も無関係じゃないんだよね」

 

その言葉に、影はわずかに目を開いた。

 

一之瀬は勝利を自分のものとして受け止めている。

 

同時に、その勝利の影も見ている。

 

「一之瀬さんは、不思議な方ですね」

 

「え?」

 

「勝ったのに、勝ち方の責任まで背負おうとしている」

 

一之瀬は少し考えてから、静かに笑った。

 

「責任ってほど、大きなことじゃないよ。ただ、見なかったことにはしたくないだけ」

 

影はその言葉を聞いて、しばらく黙った。

 

見なかったことにはしたくない。

 

それは、影の観察とは少し違う。

 

影は見たいから見る。

人の本質に興味があるから見る。

 

だが一之瀬は、向き合うために見ている。

 

その違いが、影には少し眩しかった。

 

「……昔」

 

影は小さく口を開いた。

 

一之瀬が静かに影を見る。

 

「昔、そういう方がいました」

 

「そういう方?」

 

「はい。勝つことを望みながら、勝ち方から目を逸らさない方です」

 

影の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

 

「その方は、とても強く、真っ直ぐで、よく笑う人でした。勝てば豪快に笑い、負ければ悔しそうに笑う。怒る時は正面から怒り、認める時は誰よりも素直に認める」

 

一之瀬は何も言わずに聞いていた。

 

影は夕日に染まるグラウンドを見る。

 

「私は、その方に勝ちたかった。初めて、本気で負けたくないと思いました」

 

「大切な人だったんだね」

 

影はすぐには答えなかった。

 

風が吹く。

 

白銀の髪が、静かに揺れる。

 

「どうでしょう」

 

影は小さく笑った。

 

「当時の私は、その感情に名前をつけられませんでした。好敵手、という言葉が近いのかもしれません」

 

「今は?」

 

一之瀬の問いに、影は少しだけ目を伏せた。

 

「今も、分かりません」

 

そして、静かに続ける。

 

「ただ、その方だけは、壊れてほしくないと思いました」

 

一之瀬の表情が少し変わった。

 

影は勝利が好きだと言った。

人が追い詰められ、本当の形を見せる瞬間が好きだと言った。

 

その影が、壊れてほしくないと思った相手。

 

一之瀬は、その言葉の重さを感じ取った。

 

「その人は、上代さんにとって特別だったんだね」

 

「そうなのかもしれません」

 

影は微笑む。

 

「その方はよく、私に言いました」

 

少し間を置いて、影はその言葉を口にする。

 

「お前は神様なんかじゃない。ただの負けず嫌いな人間だろ、と」

 

一之瀬は驚いたように目を瞬かせた。

 

それから、小さく笑う。

 

「なんだか、すごくまっすぐな人だね」

 

「はい。失礼な方でした」

 

影はそう言ったが、その声には怒りがなかった。

 

むしろ、懐かしむような柔らかさがあった。

 

「今日の一之瀬さんを見て、少しだけ思い出しました」

 

「私が?」

 

「はい。あなたとその方は、似ていません。性格も、戦い方も、きっとまったく違います」

 

影は一之瀬を見る。

 

「ですが、勝利の後に目を逸らさないところは、少しだけ似ています」

 

一之瀬は返答に迷ったように、少しだけ俯いた。

 

「……そっか」

 

そして、ゆっくり顔を上げる。

 

「じゃあ、その人に怒られないような勝ち方をしたいね」

 

影は一瞬、言葉を失った。

 

それから、小さく笑った。

 

「一之瀬さんは、時々とても不思議なことを言いますね」

 

「そうかな?」

 

「はい」

 

影は夕日を見る。

 

赤い光が、砂の上に長く影を伸ばしている。

 

「ですが、悪くありません」

 

一之瀬は柔らかく笑った。

 

グラウンドでは、片付けが進んでいた。

 

白線は踏まれ、旗は下ろされ、歓声は少しずつ遠ざかっていく。

 

体育祭は終わった。

 

だが、この学校の戦いは終わらない。

 

一之瀬は、あの人とは似ていない。

 

声も、笑い方も、立ち方も、まるで違う。

 

それなのに影は、彼女の言葉の奥に、かつて自分を真正面から否定した炎の気配を見た気がした。

 

似ていない。

 

けれど、思い出してしまう。

 

それが少しだけ、厄介だった。

 

「上代さん」

 

一之瀬が、ふと名前を呼ぶ。

 

「はい」

 

「その人のこと、また聞いてもいい?」

 

影は少しだけ目を伏せた。

 

あの人。

 

炎のように笑い、真正面からぶつかってきた人。

 

勝ちたいと思った人。

負けたくないと思った人。

そして、壊れてほしくないと思った人。

 

その記憶は、影の奥にまだ残っている。

 

消えたわけではない。

 

ただ、呼ばないようにしていただけだった。

 

「……気が向いたら、ですね」

 

影はそう答えた。

 

一之瀬は少し笑う。

 

「そっか。じゃあ、いつか聞かせて」

 

「約束はできません」

 

「うん。それでもいいよ」

 

一之瀬は無理に踏み込まなかった。

 

その距離感が、影には少し不思議だった。

 

聞きたいと言いながら、無理に聞き出そうとはしない。

近づきながら、踏み荒らそうとはしない。

 

その在り方は、あの人とはまったく違う。

 

あの人なら、きっと笑いながら踏み込んできただろう。

 

「隠すな、影。お前はそういう顔をしてる時が一番分かりやすい」

 

そう言って、真正面から影を見ただろう。

 

一之瀬は違う。

 

けれど、違うはずなのに。

 

影はまた、思い出してしまう。

 

「一之瀬さん」

 

「なに?」

 

「あなたは、少し厄介な方ですね」

 

一之瀬はきょとんとした後、苦笑した。

 

「それ、褒めてる?」

 

「はい」

 

影は微笑む。

 

「とても」

 

一之瀬は困ったように笑いながらも、どこか嬉しそうだった。

 

「上代さんの褒め方って、やっぱり分かりにくいね」

 

「よく言われます」

 

「でも、少しだけ分かってきたかも」

 

「それは困りましたね」

 

「どうして?」

 

「私のことを簡単に分かられてしまうのは、少し悔しいので」

 

影がそう言うと、一之瀬は小さく笑った。

 

「じゃあ、まだ全部は分かってないことにする」

 

「ありがとうございます」

 

「お礼言うところかな?」

 

「はい。たぶん」

 

二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。

 

体育祭の片付けは、少しずつ終わりに近づいている。

 

白線は踏まれ、旗は下ろされ、歓声は遠ざかっていく。

 

グラウンドには、勝者と敗者の跡だけが残っていた。

 

Dクラスは、重い空気の中で移動を始めている。

Bクラスは、一之瀬を中心にまとまりを保っている。

Cクラスは、龍園の勝利を当然のように受け入れている。

Aクラスは、静かに結果を整理している。

 

それぞれのクラスが、それぞれの形で体育祭を終えようとしていた。

 

影は静かに思う。

 

体育祭は終わった。

 

だが、何かが終わったわけではない。

 

Dクラスの亀裂。

龍園の罠。

一之瀬の問い。

そして、影の奥で揺れた赤い記憶。

 

それらは、まだ消えていない。

 

むしろ、ここから何かが始まるような気がした。

 

「上代さん、戻ろうか」

 

一之瀬が言った。

 

影は少しだけ夕日を見つめた後、頷く。

 

「はい」

 

歩き出す一之瀬の背中を、影は静かに見た。

 

柔らかく、温かく、人を包むような背中。

 

あの人とは似ていない。

 

炎のように笑い、真正面からぶつかってきたあの人とは、何もかも違う。

 

それなのに。

 

影は、その背中から目を離すのに、ほんの少しだけ時間がかかった。

 

「……本当に、厄介ですね」

 

小さく呟いた声は、夕方の風に溶けた。

 

一之瀬が振り返る。

 

「何か言った?」

 

「いいえ」

 

影はいつものように微笑む。

 

「何も」

 

その笑みは、いつものように美しかった。

 

けれど、ほんの少しだけ違っていた。

 

ただ観察する者の笑みではない。

 

勝利を見て、敗北を見て、罠を見て、それでも壊れきらなかったものを見た少女の笑み。

 

そして、遠い記憶と今を、ほんのわずかに重ねてしまった者の笑みだった。

 

夕日が沈んでいく。

 

白き影は、勝利の余韻の中を歩き出す。

 

その隣に、勝った後も目を逸らさない少女を伴って。

 

体育祭は終わった。

 

だが、この学校の戦いは終わらない。

 

そして上代影の中でもまた、静かに何かが動き始めていた。

 




※余談ですがこれ、書くのすっごい難しいですね^ ^
これを書いてると小説家ってすごいんだなーって再認識させられます^ ^
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よう実×都市伝説解体センター(作者:Shu@cosmos)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

廻屋渉が高度育成高等学校に入学するようです。▼*『都市伝説解体センター』は物語の構成上ネタバレに非常に弱いため、致命的なネタバレ情報を1話の後書きに掲載します。未プレイの方は了解のほどよろしくお願いします。


総合評価:425/評価:8.07/連載:10話/更新日時:2026年05月28日(木) 00:10 小説情報

無機質の弟、実力至上の学校にようこそ(作者:おこげの)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

綾小路と血の繋がった兄弟である碧 灼(みどり あらたか)は兄の監視、その他諸々の命令により高育へ入学する。▼ちなみに白部屋出身ではありません。▼碧 灼▼【挿絵表示】▼


総合評価:52/評価:-.--/連載:2話/更新日時:2026年04月16日(木) 21:38 小説情報

ようこそ死んだはずの俺が行く教室へ(作者:ホムンクルス至上主義者)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

振り返れば75点くらいの人生を送っていた男▼忘年会帰り酒に酔い頭を打つという死に方で人生の幕を閉めた▼と思ったらようこそ実力至上主義の教室への世界の松雄栄一郎に転生していた▼原作知識ほぼなし、知力体力そこそこ、松雄バフ大ありの一般中年男性が行くようこそ実力至上主義の教室へ


総合評価:1433/評価:8.21/連載:6話/更新日時:2026年05月31日(日) 18:37 小説情報

青春を求めて実力主義の教室へ(作者:リリリリら)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

裏社会にその名を轟かせる暗殺者「呉(くれ)一族」。▼その一千三百年に及ぶ品種改良の歴史において、潜在能力を100%解放する秘伝【外し】を完全に扱うことができる最高傑作の少年――呉 刃叉羅(くれ ばさら)。▼血みどろの世界に嫌気がさした彼は、外界から完全に隔離された「高度育成高等学校」に入学することに決める。▼


総合評価:3249/評価:7.74/連載:69話/更新日時:2026年05月30日(土) 16:00 小説情報


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