第7話
昼休憩が終わり、体育祭は後半へ入った。
午前中にあった高揚感は、午後になると少しずつ形を変えていた。
疲労。
焦り。
苛立ち。
生徒たちの足取りは重くなり、声にもわずかな荒さが混じり始める。
体育祭は、ただ速く走る者だけが勝つ場所ではない。
疲れた時に、どれだけ冷静でいられるか。
思うようにいかない時に、どれだけ自分を保てるか。
そこに、その人間の本当の形が出る。
上代影は、B・C陣営の応援席の端で、静かにグラウンドを見ていた。
「午後になって、少し空気が変わりましたね」
隣にいた一之瀬が、グラウンドへ視線を向けたまま言った。
「はい」
影は頷く。
「皆さん、少しずつ余裕がなくなっています」
「上代さん、そういうところよく見てるよね」
「見ることは得意ですので」
「うん。知ってる」
一之瀬は苦笑した。
Bクラス側は、まだ大きく崩れていない。
疲れはある。
それでも、一之瀬が声をかければ、周囲はまた前を向く。
Cクラス側は、龍園の視線を受けながら、それぞれが必要な役割をこなしていた。
同じ陣営にいながら、BクラスとCクラスの温度は違う。
だが、勝つという目的だけは一致していた。
影は、その歪な一体感を面白いと思った。
⸻
午後の競技が始まると、Dクラスの揺らぎはよりはっきりと見えるようになった。
須藤は相変わらず結果を出している。
だが、その表情には明らかな苛立ちが混じっていた。
競技前、Cクラスの生徒が須藤の近くを通る。
「Dクラスは大変だな。須藤が一人で頑張らないといけないんだから」
「ほかのやつらは楽でいいよな」
一見すれば、ただの軽口。
だが、須藤の耳には十分に届く。
「何だよ」
須藤が低い声を出す。
池が慌てて止める。
「おい、やめとけって」
山内も焦ったように続ける。
「今揉めたらまずいだろ」
須藤は舌打ちした。
堀北が冷静に言う。
「相手にしないことね。挑発に乗れば、それこそ相手の思うつぼよ」
「分かってるって言ってんだろ」
「分かっているようには見えないわ」
「お前のそういう言い方がムカつくんだよ」
空気がわずかに硬くなる。
平田がすぐに間に入った。
「須藤くん、気持ちは分かるよ。勝ちたいのはみんな同じだから」
「だったら俺に任せりゃいいだろ」
「須藤くんが頼りになるのは分かってる。でも、体育祭は一人で全部勝つものじゃない。みんなで点を取らないといけないんだ」
櫛田も柔らかく続ける。
「そうだよ。須藤くんが頑張ってくれてるのは、みんな分かってるから。少し休んで、次も頑張ろう?」
須藤は不満そうに顔をしかめたが、それ以上は言い返さなかった。
その様子を、影は遠くから見ていた。
Dクラスは完全には崩れていない。
誰かが熱くなれば、誰かが止める。
誰かが空気を乱せば、誰かが戻そうとする。
だが、それも無限には続かない。
疲労は、人の余裕を奪う。
影は静かに目を細めた。
「まだ、持ちこたえていますね」
その近くで、龍園が低く笑った。
「まだな」
⸻
午後の中盤。
Dクラスにとって、体育祭の流れを大きく変える出来事が起きた。
競技中、堀北がCクラスの女子生徒と接触した。
木下だった。
一瞬の出来事。
走路が混み合い、複数の生徒が交差する。
その中で、木下の身体が堀北の進路に重なる。
堀北は体勢を崩した。
転倒はしなかった。
だが、足をかばうように動きが止まる。
Dクラス側からざわめきが起きた。
「堀北さん、大丈夫?」
櫛田がすぐに駆け寄る。
佐藤も不安そうに立ち上がった。
松下は表情を大きく変えなかったが、視線は鋭くなっている。
平田も近づこうとする。
「堀北さん、無理しない方がいいよ」
堀北は表情を崩さずに答えた。
「問題ないわ」
しかし、その声にはわずかな硬さがあった。
須藤はその様子を見て、顔色を変えた。
「おい、今のわざとじゃねぇのか?」
場の空気が一気に張り詰める。
Cクラス側の生徒は肩をすくめた。
「知らねぇよ。競技中の接触だろ」
「ふざけんなよ」
須藤が前へ出ようとする。
池が慌てて止めた。
「おい、須藤!」
山内も焦った声を出す。
「ここで揉めたら終わりだって!」
平田が須藤の前に立つ。
「須藤くん、今は駄目だ」
「どけよ、平田」
「気持ちは分かる。でも、ここで手を出したら本当に終わる」
須藤の拳が強く握られる。
櫛田が必死に声をかけた。
「須藤くん、お願い。落ち着いて」
堀北も痛みを隠すように立ったまま言う。
「あなたが騒げば、相手の思うつぼよ」
「……っ」
須藤は歯を食いしばった。
その場は何とか収まった。
だが、Dクラスの空気は明らかに変わった。
怒り。
不安。
焦り。
疑念。
それらが混ざり、応援席全体を重くしていく。
影はその光景を、少し離れた場所から見ていた。
龍園は笑っている。
「見たか、影」
「はい」
「あれで十分だ」
龍園の声に、同情は一切なかった。
「堀北は削れた。須藤はさらに荒れる。Dクラスは勝手に内側からズレていく」
「最初から、ここまで見越していたのですね」
「当然だろ」
龍園は鼻で笑う。
「情報があれば、壊し方はいくらでもある」
影は、Dクラスの方を見る。
Dクラスの出場順。
堀北の動き。
須藤が苛立つタイミング。
龍園はそれを、知っていた。
どこからか。
誰からか。
それをここで問う意味はない。
龍園は使えるものを使う。
そういう人間だ。
「龍園さんらしいですね」
「褒めてんのか?」
「はい」
影は微笑む。
「とても合理的です。美しいとは思いませんが」
龍園は一瞬だけ影を見て、喉の奥で笑った。
「お前に美しさなんか語られたくねぇな」
「よく言われます」
影は静かに返した。
⸻
堀北の負傷をきっかけに、Dクラスはさらに噛み合わなくなった。
須藤は怒りを抱えたまま競技へ出る。
結果を出す場面もあった。
だが、周囲との温度差は大きくなっていく。
「もっと本気でやれよ!」
「やってるって!」
池が言い返す。
篠原が疲れた声で言う。
「須藤ばっかり怒鳴らないでよ」
「俺は勝つために言ってんだよ!」
「言い方ってもんがあるでしょ!」
小さな衝突が、何度も起こる。
軽井沢は女子たちの不満を聞きながら、面倒そうに眉をひそめている。
佐藤は櫛田に相談するように話しかける。
松下は少し離れた位置から全体を見ていた。
「このままだと、後半は厳しいかもね」
その言葉に、篠原が反応する。
「やっぱりそう思う?」
「須藤くんだけの問題じゃないけど、みんな疲れてるから」
「こういう時にまとまれないの、Dクラスっぽいよね」
篠原は苦笑した。
影は、その光景を遠目に見ていた。
言葉までは聞こえない。
けれど、表情と距離感で分かる。
Dクラスは、内側から揺れている。
それでも、完全には離れない。
不満を言いながらも競技に出る。
苛立ちながらも誰かを止める。
疲れながらも声を出す。
欠けている。
未熟で、不安定で、感情に流されやすい。
それでも、まだ終わってはいない。
影は小さく息を吐いた。
「崩れそうで、崩れきらない」
隣にいた伊吹が聞き返す。
「Dクラス?」
「はい」
「普通に崩れてるように見えるけど」
「完全には、です」
影は静かに言った。
「壊れる寸前で残るものがあります」
伊吹はDクラスを見た。
「そういうの、好きなの?」
影は少しだけ考えた。
「嫌いではありません」
「やっぱり趣味悪い」
「よく言われます」
影は微笑んだ。
⸻
終盤のリレーが近づく頃には、グラウンド全体の熱が最高潮に達していた。
B・C陣営では、柴田や伊吹たちが準備に入っている。
一之瀬は応援席から声をかけていた。
「みんな、最後まで頑張ろう!」
Bクラスの生徒たちが応える。
Cクラス側も、石崎や小宮たちが声を上げた。
伊吹は無言のまま、集中した様子で立っている。
影は出場しない。
その代わり、応援席の端から全体を見ていた。
リレーが始まる。
歓声が一気に大きくなった。
各陣営の走者が次々とトラックを駆け抜ける。
砂埃が舞い、バトンが繋がれていく。
B・C陣営は悪くない位置につけていた。
柴田の走りは安定している。
伊吹は無駄の少ない鋭い走りで順位を押し上げた。
Cクラス側から歓声が上がる。
「伊吹、いけ!」
石崎が声を張る。
Bクラス側も一緒になって応援している。
一之瀬の声が響いた。
「そのまま!」
影はその光景を見ていた。
BクラスとCクラス。
信頼と恐怖。
温かさと熱。
優しさと支配。
本来なら混ざりにくいものが、今だけは同じ方向を向いている。
それは不安定で。
だからこそ、少しだけ美しかった。
一方、Dクラス側も必死だった。
須藤は怒りを力に変えるように走っている。
その走りは荒い。
だが、速い。
Dクラスの応援席が沸く。
「須藤くん、いけ!」
佐藤が叫ぶ。
池と山内も声を張り上げる。
篠原も思わず立ち上がっている。
堀北は足をかばいながら、それでも競技を見ていた。
平田は周囲に声をかけ、少しでも空気を戻そうとしている。
櫛田も笑顔を崩さず、応援を続けていた。
影は、Dクラスの中で一瞬だけ綾小路を見た。
彼は目立たない場所にいる。
騒がない。
焦らない。
必要以上に動かない。
ただ、見ている。
影はすぐに視線を外した。
今はまだ、それだけでいい。
⸻
終盤の競技が終わる頃には、体育祭全体の勝敗はほぼ見えていた。
Dクラスは点を取る場面もあった。
須藤も、小野寺も、いくつかの競技で結果を出した。
だが、全体としては噛み合わなかった。
堀北の負傷。
須藤の苛立ち。
クラス内の温度差。
そして、外からの揺さぶり。
小さな亀裂が積み重なり、最後まで響いた。
放送で結果が告げられる。
歓声と落胆が同時にグラウンドへ広がった。
B・C陣営は勝利に沸いた。
一之瀬は周囲と喜び合い、柴田が笑顔で拳を上げる。
Cクラス側でも石崎たちが騒ぎ、勝利の熱が広がっていた。
龍園は満足そうに笑っている。
「まあ、こんなもんだな」
影はその横で静かにグラウンドを見ていた。
「嬉しくねぇのか?」
龍園が聞く。
「嬉しいですよ」
「そうは見えねぇな」
「勝利は好きです」
影は微笑む。
「ですが、今日は勝利以外にも多くのものが見えましたので」
「はっ。相変わらず気色悪いこと言うな」
「よく言われます」
龍園はDクラスの方を見る。
堀北は足をかばいながらも、表情を崩していない。
須藤は明らかに苛立ちを残している。
平田と櫛田が周囲に声をかけていたが、Dクラス全体の空気は重かった。
「しばらく引きずるだろうな」
「そうですね」
影は静かに答える。
「ですが、完全には壊れませんでした」
龍園の目がわずかに細くなる。
「それが気になるのか?」
「はい」
影はDクラスを見たまま言う。
「負けて、乱れて、傷ついて。それでもまだ、終わっていないように見えます」
「くだらねぇ。負けは負けだ」
「それも事実です」
龍園はそれ以上何も言わず、石崎たちの方へ歩いていった。
影は一人、Dクラスの方を見ていた。
敗者の空気。
怒り、疲労、不満、後悔。
けれど、その中にまだ何かが残っている。
壊れかけても、壊れきらないもの。
それを、影はうまく言葉にできなかった。
⸻
閉会後。
グラウンドには、体育祭の熱がまだ残っていた。
Bクラスの生徒たちは、一之瀬を中心に勝利を喜んでいる。
Cクラス側も騒がしい。
一方で、Dクラスの空気は重かった。
須藤は悔しさを隠せず、堀北は足をかばいながらも平然を装っている。
平田と櫛田が周囲をなだめ、池と山内は疲れた顔で話していた。
女子たちも小さな声で不満や不安をこぼしている。
影はそれを遠くから見ていた。
そこへ、一之瀬が近づいてきた。
「上代さん」
「一之瀬さん」
「お疲れさま」
「お疲れさまでした」
一之瀬は影の隣に立ち、同じようにDクラスの方を見た。
しばらく、二人は何も言わなかった。
勝った側には笑い声がある。
負けた側には重い沈黙がある。
その差が、夕方のグラウンドにくっきりと分かれていた。
やがて、一之瀬が小さく口を開いた。
「ねえ、上代さん」
「はい」
「今日のDクラスのことなんだけど」
一之瀬の声は、いつもより少し低かった。
「龍園くんは、最初からああなることを狙ってたのかな」
影はすぐには答えなかった。
一之瀬は続ける。
「須藤くんへの挑発も、堀北さんと木下さんの接触も、偶然だけじゃない気がした」
「……そう見えましたか」
「うん」
一之瀬は影を見た。
「上代さんは、知ってた?」
問い方は責めるものではなかった。
けれど、軽くもなかった。
影はその視線を受け止める。
「すべてを知っていたわけではありません」
「すべてを?」
「はい」
影はDクラスの方へ視線を戻す。
「ですが、龍園さんがDクラスを揺さぶるつもりだったことは、分かっていました」
一之瀬の表情がわずかに曇る。
「止めようとは思わなかった?」
「思いませんでした」
影は静かに答えた。
「私はCクラスの生徒です。そして、今日はBクラスとCクラスが同じ陣営でした。龍園さんの策が勝利に繋がるなら、それを止める理由はありません」
一之瀬は黙った。
風が吹き、グラウンドの砂がわずかに舞う。
「でも」
一之瀬はゆっくり言った。
「勝つためなら、相手が傷ついてもいいのかな」
影は目を細めた。
それは一之瀬らしい問いだった。
ただの正義感ではない。
勝った側として、勝利の形に納得できていない者の問い。
「良いか悪いかで言えば、良くはないと思います」
影は言った。
「ですが、この学校では有効な手段です」
「有効なら、使っていい?」
「使う人はいるでしょう」
「上代さんは?」
影は少しだけ沈黙した。
一之瀬はその沈黙を待った。
急かさず、責めず、ただ答えを待つ。
「私は」
影は静かに口を開く。
「龍園さんのやり方を、美しいとは思いません」
一之瀬は少し驚いたように影を見る。
「ですが、否定もしません。あれはあれで、勝つための形です。相手の弱点を見つけ、揺さぶり、崩す。とても合理的です」
「じゃあ、上代さんはどう思ったの?」
影はDクラスを見る。
須藤はまだ苛立ちを残している。
堀北は痛みを隠すように立っている。
櫛田が笑顔で声をかけ、平田が空気を戻そうとしている。
「罠にかかったのは、Dクラスの弱さです」
影は言った。
「ですが、罠にかかっても完全には壊れませんでした。それは、少し興味深いと思いました」
「興味深い、か」
一之瀬は小さく呟く。
「上代さんらしいね」
「よく言われます」
影は微笑む。
一之瀬は少しだけ困ったように笑った。
けれど、すぐに真面目な表情に戻る。
「私は、龍園くんのやり方は好きじゃない」
「はい」
「でも、私たちは同じ陣営で勝った。だから、私も無関係じゃないんだよね」
その言葉に、影はわずかに目を開いた。
一之瀬は勝利を自分のものとして受け止めている。
同時に、その勝利の影も見ている。
「一之瀬さんは、不思議な方ですね」
「え?」
「勝ったのに、勝ち方の責任まで背負おうとしている」
一之瀬は少し考えてから、静かに笑った。
「責任ってほど、大きなことじゃないよ。ただ、見なかったことにはしたくないだけ」
影はその言葉を聞いて、しばらく黙った。
見なかったことにはしたくない。
それは、影の観察とは少し違う。
影は見たいから見る。
人の本質に興味があるから見る。
だが一之瀬は、向き合うために見ている。
その違いが、影には少し眩しかった。
「……昔」
影は小さく口を開いた。
一之瀬が静かに影を見る。
「昔、そういう方がいました」
「そういう方?」
「はい。勝つことを望みながら、勝ち方から目を逸らさない方です」
影の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「その方は、とても強く、真っ直ぐで、よく笑う人でした。勝てば豪快に笑い、負ければ悔しそうに笑う。怒る時は正面から怒り、認める時は誰よりも素直に認める」
一之瀬は何も言わずに聞いていた。
影は夕日に染まるグラウンドを見る。
「私は、その方に勝ちたかった。初めて、本気で負けたくないと思いました」
「大切な人だったんだね」
影はすぐには答えなかった。
風が吹く。
白銀の髪が、静かに揺れる。
「どうでしょう」
影は小さく笑った。
「当時の私は、その感情に名前をつけられませんでした。好敵手、という言葉が近いのかもしれません」
「今は?」
一之瀬の問いに、影は少しだけ目を伏せた。
「今も、分かりません」
そして、静かに続ける。
「ただ、その方だけは、壊れてほしくないと思いました」
一之瀬の表情が少し変わった。
影は勝利が好きだと言った。
人が追い詰められ、本当の形を見せる瞬間が好きだと言った。
その影が、壊れてほしくないと思った相手。
一之瀬は、その言葉の重さを感じ取った。
「その人は、上代さんにとって特別だったんだね」
「そうなのかもしれません」
影は微笑む。
「その方はよく、私に言いました」
少し間を置いて、影はその言葉を口にする。
「お前は神様なんかじゃない。ただの負けず嫌いな人間だろ、と」
一之瀬は驚いたように目を瞬かせた。
それから、小さく笑う。
「なんだか、すごくまっすぐな人だね」
「はい。失礼な方でした」
影はそう言ったが、その声には怒りがなかった。
むしろ、懐かしむような柔らかさがあった。
「今日の一之瀬さんを見て、少しだけ思い出しました」
「私が?」
「はい。あなたとその方は、似ていません。性格も、戦い方も、きっとまったく違います」
影は一之瀬を見る。
「ですが、勝利の後に目を逸らさないところは、少しだけ似ています」
一之瀬は返答に迷ったように、少しだけ俯いた。
「……そっか」
そして、ゆっくり顔を上げる。
「じゃあ、その人に怒られないような勝ち方をしたいね」
影は一瞬、言葉を失った。
それから、小さく笑った。
「一之瀬さんは、時々とても不思議なことを言いますね」
「そうかな?」
「はい」
影は夕日を見る。
赤い光が、砂の上に長く影を伸ばしている。
「ですが、悪くありません」
一之瀬は柔らかく笑った。
グラウンドでは、片付けが進んでいた。
白線は踏まれ、旗は下ろされ、歓声は少しずつ遠ざかっていく。
体育祭は終わった。
だが、この学校の戦いは終わらない。
一之瀬は、あの人とは似ていない。
声も、笑い方も、立ち方も、まるで違う。
それなのに影は、彼女の言葉の奥に、かつて自分を真正面から否定した炎の気配を見た気がした。
似ていない。
けれど、思い出してしまう。
それが少しだけ、厄介だった。
「上代さん」
一之瀬が、ふと名前を呼ぶ。
「はい」
「その人のこと、また聞いてもいい?」
影は少しだけ目を伏せた。
あの人。
炎のように笑い、真正面からぶつかってきた人。
勝ちたいと思った人。
負けたくないと思った人。
そして、壊れてほしくないと思った人。
その記憶は、影の奥にまだ残っている。
消えたわけではない。
ただ、呼ばないようにしていただけだった。
「……気が向いたら、ですね」
影はそう答えた。
一之瀬は少し笑う。
「そっか。じゃあ、いつか聞かせて」
「約束はできません」
「うん。それでもいいよ」
一之瀬は無理に踏み込まなかった。
その距離感が、影には少し不思議だった。
聞きたいと言いながら、無理に聞き出そうとはしない。
近づきながら、踏み荒らそうとはしない。
その在り方は、あの人とはまったく違う。
あの人なら、きっと笑いながら踏み込んできただろう。
「隠すな、影。お前はそういう顔をしてる時が一番分かりやすい」
そう言って、真正面から影を見ただろう。
一之瀬は違う。
けれど、違うはずなのに。
影はまた、思い出してしまう。
「一之瀬さん」
「なに?」
「あなたは、少し厄介な方ですね」
一之瀬はきょとんとした後、苦笑した。
「それ、褒めてる?」
「はい」
影は微笑む。
「とても」
一之瀬は困ったように笑いながらも、どこか嬉しそうだった。
「上代さんの褒め方って、やっぱり分かりにくいね」
「よく言われます」
「でも、少しだけ分かってきたかも」
「それは困りましたね」
「どうして?」
「私のことを簡単に分かられてしまうのは、少し悔しいので」
影がそう言うと、一之瀬は小さく笑った。
「じゃあ、まだ全部は分かってないことにする」
「ありがとうございます」
「お礼言うところかな?」
「はい。たぶん」
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。
体育祭の片付けは、少しずつ終わりに近づいている。
白線は踏まれ、旗は下ろされ、歓声は遠ざかっていく。
グラウンドには、勝者と敗者の跡だけが残っていた。
Dクラスは、重い空気の中で移動を始めている。
Bクラスは、一之瀬を中心にまとまりを保っている。
Cクラスは、龍園の勝利を当然のように受け入れている。
Aクラスは、静かに結果を整理している。
それぞれのクラスが、それぞれの形で体育祭を終えようとしていた。
影は静かに思う。
体育祭は終わった。
だが、何かが終わったわけではない。
Dクラスの亀裂。
龍園の罠。
一之瀬の問い。
そして、影の奥で揺れた赤い記憶。
それらは、まだ消えていない。
むしろ、ここから何かが始まるような気がした。
「上代さん、戻ろうか」
一之瀬が言った。
影は少しだけ夕日を見つめた後、頷く。
「はい」
歩き出す一之瀬の背中を、影は静かに見た。
柔らかく、温かく、人を包むような背中。
あの人とは似ていない。
炎のように笑い、真正面からぶつかってきたあの人とは、何もかも違う。
それなのに。
影は、その背中から目を離すのに、ほんの少しだけ時間がかかった。
「……本当に、厄介ですね」
小さく呟いた声は、夕方の風に溶けた。
一之瀬が振り返る。
「何か言った?」
「いいえ」
影はいつものように微笑む。
「何も」
その笑みは、いつものように美しかった。
けれど、ほんの少しだけ違っていた。
ただ観察する者の笑みではない。
勝利を見て、敗北を見て、罠を見て、それでも壊れきらなかったものを見た少女の笑み。
そして、遠い記憶と今を、ほんのわずかに重ねてしまった者の笑みだった。
夕日が沈んでいく。
白き影は、勝利の余韻の中を歩き出す。
その隣に、勝った後も目を逸らさない少女を伴って。
体育祭は終わった。
だが、この学校の戦いは終わらない。
そして上代影の中でもまた、静かに何かが動き始めていた。
※余談ですがこれ、書くのすっごい難しいですね^ ^
これを書いてると小説家ってすごいんだなーって再認識させられます^ ^