ようこそ軍神至上主義の教室へ   作:あおいなり

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白き影は見えない糸を見る

 

第8話

 

ペーパーシャッフル。

 

その特別試験が告げられた直後、Cクラスの教室はざわついていた。

 

筆記試験。

ペア制。

問題作成。

退学の可能性。

 

体育祭とは違う種類の重さが、教室全体に広がっている。

 

「ペアって、外れ引いたら終わりじゃねぇか」

 

石崎が机に肘をつき、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「筆記って時点で終わってんのに、ペアまであるとか聞いてねぇよ」

 

小宮が呆れたように言う。

 

「いや、今聞いただろ」

 

「そういう意味じゃねぇよ」

 

近くの生徒たちが小さく笑う。

 

だが、そのざわめきは長く続かなかった。

 

「このクラスに、Dクラスへ情報を流してるやつがいる」

 

龍園の一言で、教室の空気が止まった。

 

石崎が顔を強ばらせる。

 

「それって……うちに裏切り者がいるってことっすか?」

 

「ああ」

 

龍園は笑っていた。

 

怒っているようには見えない。

 

むしろ、楽しんでいる。

 

「ふざけやがって……って言うと思ったか?」

 

龍園は机に肘をつき、教室を見渡した。

 

「裏切り者がいるなら好都合だ。そいつを辿れば、Dクラスの奥にいるやつに届く」

 

「奥にいるやつ?」

 

石崎が聞き返す。

 

龍園は低く笑った。

 

「Xだ」

 

その短い言葉に、教室の空気がさらに沈む。

 

X。

 

名前のない存在。

 

顔も分からない。

 

だが、龍園は確かにそこに何かがいると見ている。

 

影は、龍園の横顔を静かに見ていた。

 

龍園は裏切り者を探している。

 

だが、本当に見たいのは裏切り者ではない。

 

その先にいる、顔の見えない誰か。

 

「面白いですね」

 

影が小さく呟く。

 

龍園は口元を歪めた。

 

「だろ? 紙の試験の前に、まずは人間の中身をめくる」

 

石崎はまだ納得できていない様子で周囲を見た。

 

「いや、待ってくださいよ。Dクラスに情報流してるって、誰がそんなこと……」

 

「知りたきゃ探せ」

 

龍園は簡単に言った。

 

「ただし、勝手に騒ぐな。裏切り者を追い詰めるのは、逃げ道を塞いでからだ」

 

教室の端で、わずかに空気が揺れた。

 

真鍋志保。

藪菜々美。

山下沙希。

 

三人は、大きく動いたわけではない。

 

声を出したわけでもない。

 

ただ、龍園が「裏切り者」と言った瞬間、真鍋の指先が止まった。

藪は一瞬だけ視線を落とし、山下は隣の二人の様子をうかがうように目を動かした。

 

それは、龍園に反発する者の反応ではなかった。

 

怒りではない。

 

焦り。

 

そして、見つかることへの怯え。

 

影は静かに目を細める。

 

おそらく、この三人だ。

 

だが、今それを龍園に言う必要はない。

 

龍園なら、見つけた瞬間に潰す。

問い詰め、追い込み、吐かせる。

そして使えなくなった駒は、容赦なく切り捨てる。

 

それでは、糸の先が見えなくなる。

 

重要なのは、裏切り者そのものではない。

 

裏切らせている者。

 

龍園がXと呼んだ、顔の見えない誰か。

 

影は、真鍋たちから静かに視線を外した。

 

まだ早い。

 

今は、泳がせるべきだ。

 

西野が腕を組みながら、面倒そうに息を吐く。

 

「裏切り者探しとか、また面倒なことになってきたね」

 

時任も不満げに言った。

 

「龍園のやり方に納得してるやつばっかじゃねぇってことだろ」

 

石崎が時任を見る。

 

「おい、時任」

 

時任は肩をすくめる。

 

「事実だろ」

 

龍園は楽しそうに笑った。

 

「いいじゃねぇか。不満があるなら好きに抱えとけ。表に出した時点で、俺に使われるだけだ」

 

その言葉で、教室の温度がさらに下がった。

 

Cクラスは龍園の支配下にある。

 

だが、完全に一枚岩ではない。

 

恐怖で従う者。

利害で動く者。

不満を隠す者。

何かを握られている者。

 

影は、何も言わずにその空気を眺めていた。

 

Dクラスの穴。

Cクラスの亀裂。

そして、その間にいるX。

 

紙の上の試験が始まる前から、すでに見えない駒は動いている。

 

 

「で、龍園さん」

 

石崎が恐る恐る口を開いた。

 

「裏切り者もXも大事なのは分かったんすけど……俺らの勉強はどうなるんすか」

 

龍園は冷めた目で石崎を見る。

 

「お前はまずそこだろうな」

 

「はい。正直、かなりやばいっす」

 

「自覚があるだけマシだ」

 

「褒められた気がしないっすね」

 

金田が眼鏡を押し上げた。

 

「今回の試験は、ペアの合計点が重要です。学力の低い生徒をそのまま放置すれば、こちらにも退学リスクが発生します」

 

「つまり、俺が足引っ張るってことか?」

 

石崎が真顔で聞く。

 

「可能性はあります」

 

金田は淡々と答えた。

 

石崎は机に突っ伏した。

 

「言い方が冷静すぎて逆に刺さる……」

 

小宮が笑いをこらえる。

 

龍園は面倒くさそうに言った。

 

「勉強会をやる」

 

その一言に、教室が少しざわつく。

 

石崎が顔を上げた。

 

「龍園さんが教えるんすか?」

 

「俺がそんな面倒なことするわけねぇだろ」

 

「ですよね。逆に安心しました」

 

「安心してる暇があるなら、手を動かせ」

 

龍園は金田を見る。

 

「金田。お前が全体を見ろ」

 

「分かりました」

 

次に、椎名の方を見る。

 

「椎名。国語や暗記系はお前が見ろ」

 

椎名ひよりは、静かに頷いた。

 

「できる範囲でなら」

 

龍園の視線が最後に影へ向く。

 

「影。お前は英語と、分かってねぇやつの穴埋めだ」

 

「承知いたしました」

 

石崎が顔を上げる。

 

「え、上代も教える側なのかよ」

 

「ご不満ですか?」

 

「いや、教えてくれるなら助かるけど……なんか怖い」

 

「優しくします」

 

「その言い方が怖い」

 

教室の空気が少しだけ緩んだ。

 

しかし、影は別の場所を見ていた。

 

椎名。

 

龍園に指名されても、彼女は大きく表情を変えなかった。

 

Cクラスの中で、彼女だけは空気が違う。

 

龍園の支配にも、石崎たちの騒がしさにも、時任の不満にも、深く飲み込まれていない。

 

まるで、教室の中で一人だけ静かな本を読んでいるようだった。

 

 

放課後。

 

Cクラスの教室には、いつもより多くの生徒が残っていた。

 

龍園の一言で始まった勉強会。

 

目的は、クラス全体の穴を塞ぐこと。

 

そして同時に、ペーパーシャッフルでDクラスを狩るための準備でもあった。

 

黒板の前には金田が立っている。

 

「まず、基礎問題を確実に取ることが重要です。難問を解くより、落としてはいけない問題を落とさない方が現実的です」

 

石崎が真顔で手を上げた。

 

「先生、基礎が分かりません」

 

教室が一瞬静まる。

 

金田は少しだけ困ったように眉を下げた。

 

「……では、基礎の前から始めましょう」

 

小宮が小さく笑う。

 

「前ってなんだよ」

 

「笑うなよ。俺は真剣なんだよ」

 

石崎は本気だった。

 

その様子を見ていた椎名が、柔らかく微笑んだ。

 

「分からないところが分かっているなら、そこから始められますね」

 

石崎は椎名を見る。

 

「椎名、今の慰めか?」

 

「はい。半分くらいは」

 

「半分かよ」

 

教室の空気が少しだけ和らぐ。

 

影は少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。

 

椎名ひより。

 

穏やかで、静かで、焦らない。

 

それでいて、人の弱さを笑わない。

 

Cクラスでは、やはり珍しい存在だった。

 

すると、椎名が影の視線に気づいたように顔を上げた。

 

目が合う。

 

影は軽く頭を下げた。

 

椎名も、同じように小さく会釈を返す。

 

それが、二人の最初の接触だった。

 

 

勉強会が始まると、金田は黒板で全体に説明し、椎名は机を回って国語や暗記問題を見ていた。

 

影は英語のプリントを中心に、分からない生徒へ声をかけている。

 

石崎は英語の並び替え問題を前に、すでに苦しそうだった。

 

「無理だろこれ。単語がバラバラに置かれてる時点で悪意あるだろ」

 

影が横から覗き込む。

 

「並び替え問題ですので、バラバラなのは当然です」

 

「当然みたいに言うなよ」

 

「まず主語と動詞を探してください」

 

「そこからか」

 

「はい。そこからです」

 

石崎は真剣な顔でプリントを見る。

 

「主語って何だっけ」

 

影は少しだけ沈黙した。

 

「……本当に、そこからですね」

 

「だから言っただろ」

 

近くにいた西野が呆れたように笑う。

 

「石崎、ほんと大丈夫?」

 

「大丈夫じゃねぇから勉強してんだよ」

 

「正論だね」

 

椎名がそっと石崎の机に近づいた。

 

「国語もあとで見ましょうか」

 

「椎名、神か?」

 

「人です」

 

「知ってる」

 

そのやり取りを聞いて、影は少しだけ笑った。

 

椎名は、相手の弱さを責めない。

 

できない部分を見ても、そこに棘を刺さない。

 

影がそう見ていると、椎名がこちらを向いた。

 

「上代さん」

 

「はい」

 

「英語、お得意なんですか?」

 

「簡単な説明程度でしたら」

 

「それでも、助かる人は多そうですね」

 

「必要であれば、お手伝いいたします」

 

椎名はくすりと笑った。

 

「上代さんは、教える時も相手をよく見ていますね」

 

影は少しだけ目を細めた。

 

「そうでしょうか」

 

「はい。石崎くんに説明する時、最初から難しいことを言わずに、ちゃんと戻ってあげていました」

 

「必要だったからです」

 

「それでも、です」

 

椎名の声は穏やかだった。

 

影は少しだけ椎名を見る。

 

「椎名さんは、人の良いところを見つけるのがお上手ですね」

 

「本を読むのが好きなので」

 

「本と人は、同じですか?」

 

「少し似ているかもしれません」

 

椎名は手に持っていた参考書をそっと閉じる。

 

「読もうとしないと、何も分かりません。でも、無理に開くと破れてしまうこともあります」

 

影はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ黙った。

 

柔らかい声。

 

だが、その中に不思議な鋭さがある。

 

「上代さんは、人を読むのが好きなんですね」

 

「はい」

 

影は隠さなかった。

 

「人は、とても面白いので」

 

「怖い言い方ですね」

 

「よく言われます」

 

椎名は微笑む。

 

「でも、少し分かる気もします」

 

影は意外そうに目を開いた。

 

「椎名さんが、ですか?」

 

「はい」

 

椎名は教室を見渡す。

 

石崎が金田に質問し、小宮が横から茶々を入れ、西野が呆れながらもプリントを進めている。

 

少し離れて、アルベルトが無言で問題と向き合っている。

 

「同じ問題を解いていても、人によって考え方が違います。焦る人、諦める人、怒る人、黙って続ける人」

 

椎名は静かに言う。

 

「そういう違いを見るのは、少し面白いです」

 

影は椎名を見つめた。

 

椎名は、影とは違う。

 

人の壊れ方を見たいわけではない。

相手を試したいわけでもない。

 

ただ、静かにページをめくるように人を見ている。

 

その柔らかさは、一之瀬とも違う。

 

Cクラスの中で、彼女だけが別の色を持っているように見えた。

 

「椎名さん」

 

「はい」

 

「あなたは、Cクラスでは珍しい方ですね」

 

椎名は少しだけ首を傾げる。

 

「そうでしょうか」

 

「はい」

 

影は微笑む。

 

「とても静かで、少し危ういです」

 

「危うい?」

 

「はい。静かな方ほど、深いところまで読んでいることがありますので」

 

椎名は一瞬だけ驚いたようにした後、楽しそうに笑った。

 

「それは、上代さんのことではありませんか?」

 

影は少しだけ目を開く。

 

それから、静かに笑った。

 

「……面白い返しをされますね」

 

「よく言われます」

 

椎名は影の口癖を真似るように、柔らかく言った。

 

影はほんの少しだけ、表情を崩した。

 

それは、Cクラスの誰にもまだ見せていない種類の笑みだった。

 

 

勉強会の途中、金田が休憩を告げると、教室の空気が少し緩んだ。

 

石崎は机に突っ伏し、小宮は呆れたようにその様子を見ている。

西野は友人と小さく話し、椎名は静かに参考書を閉じた。

アルベルトは黙ったまま、プリントを見つめている。

 

その中で、真鍋、藪、山下の三人は教室の隅に集まっていた。

 

声は小さい。

 

だが、ただ雑談しているだけには見えなかった。

 

影は、手元のプリントを整えるふりをして、その方へ視線を流す。

 

龍園が「裏切り者」と口にした時。

 

三人は、ほんのわずかに反応していた。

 

真鍋の指先が止まり、藪は視線を落とし、山下は二人の顔色をうかがっていた。

 

あれは怒りではない。

 

焦りだ。

 

見つかったことへの焦り。

龍園に知られることへの恐れ。

そして、もう一人。

 

自分たちを動かしている誰かへの怯え。

 

影は静かに立ち上がった。

 

「真鍋さん」

 

声をかけると、三人の会話が止まった。

 

真鍋が少し警戒したように影を見る。

 

「……何?」

 

藪と山下も、黙って影を見る。

 

影はいつものように穏やかに微笑んだ。

 

「少し、お話してもよろしいでしょうか」

 

「勉強のことなら金田に聞けば?」

 

「いえ。勉強のことではありません」

 

その一言で、真鍋の表情がわずかに硬くなった。

 

影は続ける。

 

「先ほど、龍園さんが裏切り者の話をされた時、少し表情が変わりましたね」

 

藪の肩が、わずかに跳ねた。

 

山下は反射的に真鍋を見る。

 

真鍋だけが、すぐに表情を作った。

 

「何それ。あんた、私たちを疑ってるの?」

 

「疑っている、というより」

 

影は少しだけ首を傾げた。

 

「見ていました」

 

「それが気持ち悪いんだけど」

 

「よく言われます」

 

影は変わらず微笑んでいる。

 

その笑みが、逆に真鍋たちを落ち着かなくさせた。

 

藪は指先を握りしめ、山下は視線を机へ落とす。

 

真鍋は強気な声を出した。

 

「私たち、何もしてないから」

 

「そうですか」

 

影は頷く。

 

「では、そういうことにしておきます」

 

「……何、その言い方」

 

真鍋の声が少しだけ尖る。

 

けれど、それは怒りというより、焦りを隠すための強さに見えた。

 

影は三人を順に見る。

 

「もし誰かに何かを握られているのなら、動き方にはお気をつけください」

 

その一言で、藪の顔色が変わった。

 

山下が小さく息を呑む。

 

真鍋も、ほんの一瞬だけ言葉を失った。

 

「……意味分かんない」

 

ようやく出た声は、さっきより少し低かった。

 

「分からないのであれば、それで構いません」

 

影は丁寧に頭を下げた。

 

「休憩中に失礼いたしました」

 

そう言って、影は三人から離れた。

 

問い詰める必要はない。

 

今ここで龍園に告げる必要もない。

 

真鍋たちは、ただ龍園に反発しているわけではない。

自分たちの意思だけで動いているようにも見えない。

 

何かを握られ、誰かに動かされている。

 

だとすれば、重要なのは真鍋たちではない。

 

その糸の先にいる者。

 

龍園がXと呼んだ、顔の見えない誰か。

 

影は自分の席に戻りながら、静かに目を細めた。

 

火を近づけすぎれば、糸は焼き切れる。

 

ならば今は、触れずに見る。

 

真鍋。

藪。

山下。

 

三人の小さな揺らぎを、影は記憶の中にしまい込んだ。

 

「上代さん」

 

席に戻る途中、椎名が小さく声をかけた。

 

「はい」

 

「今の方たちと、何かありましたか?」

 

椎名の声は柔らかい。

 

けれど、その目は静かにこちらを見ていた。

 

影は少しだけ笑う。

 

「少し、栞の挟まったページを見つけただけです」

 

椎名は一瞬きょとんとした後、静かに微笑んだ。

 

「その本は、まだ読み終えない方がよさそうですね」

 

影は目を細める。

 

「椎名さんは、本当に面白い方ですね」

 

「上代さんほどではありません」

 

二人はそれ以上何も言わなかった。

 

休憩時間が終わり、金田が再び黒板の前に立つ。

 

教室には、また勉強会の空気が戻っていった。

 

だが影の中では、別の問題が静かに残っていた。

 

Dクラスの穴。

 

Cクラスの亀裂。

 

そして、その二つを繋ぐ見えない糸。

 

 

その後、影はアルベルトの席へ向かった。

 

アルベルトは英語の問題を前に、黙って鉛筆を止めていた。

 

石崎が隣から覗き込む。

 

「アルベルト、お前も止まってんのか。安心したわ」

 

アルベルトは無言で石崎を見る。

 

石崎は勝手に頷いた。

 

「分かる。難しいよな」

 

影が横から、アルベルトのプリントに視線を落とした。

 

「May I help you with this?」

 

アルベルトの視線が影へ向く。

 

「……You speak English?」

 

石崎が顔を上げる。

 

「え、今なんて?」

 

影はアルベルトに向けて、穏やかに答えた。

 

「A little. Enough to explain this question, I think.」

 

アルベルトは少しだけ目を細め、短く頷いた。

 

「Then, please.」

 

影はプリントの英文を指さしながら、ゆっくり説明する。

 

「This sentence needs a subject first. Then a verb. After that, you look for the object.」

 

それから、日本語でも補った。

 

「まず主語、次に動詞、その後に目的語を探す形です」

 

石崎が目を丸くする。

 

「待て待て。上代、お前普通に会話してなかったか?」

 

「簡単な説明です」

 

「いや、今アルベルトと会話してたよな?」

 

アルベルトは静かに頷いた。

 

「Yes. She explained well.」

 

石崎はアルベルトを見る。

 

「今のは分かったぞ。たぶん褒めてた」

 

影は小さく笑う。

 

「ありがとうございます」

 

金田が少し驚いたように眼鏡を押し上げた。

 

「上代さん、英語の発音もかなり自然ですね」

 

「以前、少し使う機会がありましたので」

 

「少しってレベルか?」

 

石崎がぼやく。

 

「俺、英語の授業受けてても今みたいに話せねぇぞ」

 

「石崎さんは、まず主語からですね」

 

「戻された……」

 

アルベルトはプリントに視線を戻し、短く言った。

 

「Thank you, Ei.」

 

影は軽く頷く。

 

「You’re welcome.」

 

石崎が首をひねる。

 

「今、名前呼んだか?」

 

「はい」

 

「アルベルトが名前呼ぶの、なんか珍しくね?」

 

アルベルトは何も答えない。

 

ただ、少しだけ影の方を見てから、再び問題に向き直った。

 

その沈黙が、ほんの少しだけ柔らかく見えた。

 

 

勉強会が終わりに近づいた頃、龍園が教室へ戻ってきた。

 

彼は机に紙を置く。

 

「Dクラスのペアが見えてきた」

 

教室の空気が変わった。

 

石崎が顔を上げる。

 

金田が資料へ視線を落とす。

 

椎名も静かにその紙を見る。

 

影もまた、龍園の置いた紙へ視線を向けた。

 

そこには、Dクラスのペア候補が並んでいた。

 

堀北らしい組み方だった。

 

学力の低い者を、学力の高い者で支える。

危険な組み合わせを避け、退学リスクを減らす。

 

合理的だ。

 

だが、組み合わせが分かるということは、狙う場所も分かるということだ。

 

龍園は楽しそうに笑った。

 

「狩りやすくなったな」

 

金田が資料を見ながら言う。

 

「この組み合わせなら、下位層を直接狙うより、支える側を削る問題の方が効果的かもしれません」

 

「そういうことだ」

 

龍園は満足そうに頷く。

 

石崎が小さく呟いた。

 

「マジで潰しに行くんすね」

 

「当たり前だ」

 

龍園は石崎を見る。

 

「情けをかける意味があるか?」

 

「ないっす」

 

石崎はすぐに答えた。

 

「勝つためっすもんね」

 

「分かってんじゃねぇか」

 

影はそのやり取りを見ていた。

 

石崎は龍園に従う。

 

金田は役割を果たす。

 

椎名は静かに紙を見つめる。

 

真鍋たちは、普段通りを装っている。

 

だが、影には分かる。

 

もう一枚、見えない紙がある。

 

この教室には、Dクラスのペア表だけでなく、Cクラスの亀裂も広げられている。

 

龍園はペア表の一部を指で叩いた。

 

「だが、これだけじゃ足りねぇ」

 

「まだ何かあるんすか?」

 

石崎が聞く。

 

龍園は笑った。

 

「Cクラスの情報をDクラスに流してるやつがいる。それを使ってるXがいる。なら、こっちもそいつらを使えばいい」

 

真鍋の方で、わずかに空気が揺れた。

 

影はそれを視界の端で拾う。

 

龍園は見ていないようで、見ている。

 

「裏切り者は邪魔だが、使える間は道具になる」

 

時任が小さく舌打ちする。

 

「ほんと悪趣味だな」

 

龍園は笑うだけだった。

 

「悪趣味で結構。勝てばいい」

 

影は、ペア表を見る。

 

Dクラスの穴。

 

Cクラスの亀裂。

 

そして、その間にいるX。

 

紙の上の試験に見えて、実際には人間同士の見えない糸が絡み合っている。

 

「上代さん」

 

隣で椎名が小さく声をかけた。

 

「はい」

 

「こういう時、上代さんは何を見ているんですか?」

 

影は少しだけ考えた。

 

「人の配置です」

 

「配置」

 

「はい。誰が誰を支え、誰が誰に支えられているのか。そして、どこを崩せば全体が揺れるのか」

 

椎名は少しだけ目を伏せる。

 

「少し、怖い見方ですね」

 

「そうですね」

 

影は否定しなかった。

 

「ですが、椎名さんも見ているのでは?」

 

「私は……」

 

椎名はDクラスのペア表を見た。

 

「崩れないでほしい場所を、見ているのかもしれません」

 

影は椎名を見る。

 

椎名は穏やかな表情をしている。

 

だが、その言葉は意外と強かった。

 

崩れないでほしい場所。

 

影とは逆の見方。

 

それが、少し面白かった。

 

「やはり、椎名さんは珍しい方です」

 

「上代さんほどではありません」

 

「そうでしょうか」

 

「はい」

 

二人は静かに笑った。

 

その横で、龍園が低く言う。

 

「おい、読書会してんじゃねぇぞ」

 

椎名は少し困ったように笑う。

 

影は丁寧に頭を下げた。

 

「失礼いたしました」

 

龍園は鼻で笑った。

 

「影。お前も見るんだろ」

 

「はい」

 

影はペア表へ視線を戻す。

 

「紙の上でも、人はよく繋がっていますね」

 

「そして、よく切れる」

 

龍園が続ける。

 

影は静かに微笑んだ。

 

「ええ。だからこそ、見逃せません」

 

ペーパーシャッフル。

 

紙の上の戦場。

 

そこには、走る音も歓声もない。

 

あるのは、問題用紙と点数。

 

そして、誰が誰を支えるのかという、静かな繋がり。

 

その裏では、見えない糸が動いている。

 

真鍋グループ。

 

そして、X。

 

影はその名を、心の中で静かになぞった。

 

龍園には、まだ言わない。

 

糸を切るには早すぎる。

 

白き影は、教室の中で小さく微笑んだ。

 

次の戦いは、もう始まっている。

 

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