世界最強。
「スモウマスターだ」
問われた給料男は即答した。血中にたっぷりアルコールが回って呂律も怪しくなっていたはずの男が、まるで素面のような明瞭さで“スモウマスター”の名を告げる。
「スモウマスターだぁ? あいつはもう引退してんだろ」
「あぁ、強かったなぁほんと。スモウマスターは」
「異議なし。全盛期は文句なしに最強だった」
「そうかぁ? 確かにアホみたく強かったが……“今”の最強じゃねぇだろ。現役ならもっとつえーのが他にいる」
べろんべろんに酔った男たちが給料男の言葉に反応する。周囲の酔っ払いたちも酒臭い口を開いた。
「エビル千手観音とスモウマスターの大一番は……ありゃあ凄かった。おえ。凄すぎてよくわかんなかったが。うぃっく」
「世紀の一戦だろ。俺も見たぜ。テレビで。あれは痺れたな」
「バーカ。あの試合はプロレスだよ。嫁とガキを亡くしたばかりのスモウマスターに、エビル千手観音が花を持たせてやったのさ」
「待て待て。そもそもの話だ。世界最強ってのは何でもありの世界最強だろ? なら最強はオットセイだ。オットセイは強いぞぉ」
少なくとも現代日本ではないいつかのどこか。
老朽化した高架下に軒を連ねる小汚い居酒屋で、酔っ払いたちが最強談義に花を咲かせていた。
時刻は午後十時を少し過ぎたあたり。薄っぺらい給料袋で日夜搾取される給料男たちの会話は、相応に内容も薄っぺらい。しかしそれゆえに、子供同士の口喧嘩を彷彿とさせて、ひどく楽しげだった。
誰それが強い。俺はもっと強い奴を知っている。そいつよりも俺の方が強い。
暴力と武芸に纏わるくだらない話のタネがあれば、頭の悪い男たちはいつだってどこだって一晩中酒を呷れる。粗悪で安価だが腹いっぱい呑み食いできる酒と肴は、この場にあっては高級ワインと天然キャビアよりも美味かった。
豚肉の串焼き。ぬるい液体の入ったコップ。枝豆の小山。テーブルに拭き残した脂。
そうした居酒屋の雰囲気を、
「……世界最強、か」
てらてらと光るテーブル上の景色を眺める
「グゴゴゴーッ。ずびッ」
ひどい鼾が聞こえた。人間サイズのビクトリアコアラが頭にネクタイを括り付けた状態で泥酔している。酔いと疲労のダブルパンチでノックアウトされてしまったのだろう。
この世界は現代日本ではなかった。
人間サイズのビクトリアコアラが酒場で酔い潰れている。工場作業員風の人間サイズの犬が作業服姿でその隣に座る。それらの事情に不可思議な点など何もない。
「ぐごっごおッ。ぐピッ」
「……」
酔い潰れたコアラの鼾を聞き流し、少々ぬるくなった烏龍茶をちびりと呷る。戌雄は酒が呑めない。居酒屋の席に座った彼が注文したのは、酒ではなく酒の色をしたお茶だ。
犬だから呑めないわけではない。単純に味が苦手だった。いつまで経っても酒の味に舌が慣れてくれないせいで、酒もビールもろくに呑めない。そのくせ酒のツマミを夕食代わりに食べるルーティーンは、二十数年以上も続けてきた。
近所の高校を中退して工場に就職した戌雄は、社会のあれこれに備えるべく、仕事より先に居酒屋での注文の仕方をまず覚えた。
いつか同僚から飲み会に誘われることがあるかもしれない。そう思って覚えた飲み食いの仕方は……ついぞ役に立たなかった。同僚や上司から一度も飲み会に誘われることなく、今日を迎えてしまったからだ。
先月まで彼が勤めていた工場は、給料は良いが仕事内容がハードだった。気力と体力が持たずに辞める者も多い。従業員の出入りは激しく、人間関係は薄かった。気楽なほどに。
職場で蔑ろにされるわけでもなく、かといって仲の良い同僚を作ることもできずに、“犬”の工場作業員として入社以来の三十年間を、何の物語もなく戌雄は生きてきた。
停滞していた中年の人生を他所に、酔っ払いたちの笑い声は止まない。金のない給料男たちの憩いの場は、一人きりのゴールデンレトリバーを否定せず、排斥もせず、ただ受け入れてくれる。この気楽さが少し寂しかった。
「もう、こんな時間か」
気づけば時が流れていた。肉と枝豆で適度に腹を満たした四十五歳の冴えない中年犬は、翌日に備えて席を立つ。
「だからよぉ。オラぁ武芸経験者だからよぉ。本気だしゃあ素手で人喰いカラスくらいは行けっからなマジで」
「あの店はやめとけ。変な病気うつされるぞ。三か月前に死んだ俺の知り合いも死ぬタイプの病気貰ってひと月前に死んだらしい」
「あのクソ部長のクソ野郎ゆるさねえ。ぜってぇ引き出しに死んだクソのクソ部長か何かをクソの鮨詰めにしてやる。覚えてやがれおろろろろろ」
笑い声。怒声。上司を呪う怨嗟。社会やら会社やらへの不平不満。風俗店に関する有益な情報。給料男たちの賑やかな囀りに見送られて、工場作業員と思しき中卒の男は居酒屋を後にしようとする。
「……」
冴えない中年犬はいつものように一日を終えようとしていた……はずだった。
だが、ここで事件は起こる。冴えない給料男たちの間に発生するわけもない重大なイベントが、発生してしまう。
しかしそれに誰も気づけなかった。
居酒屋の酒臭い喧騒の渦中。
「……んー? おっ?」
とある給料男が後頭部の違和感を覚えて変な声をこぼす。大方日頃の肩凝りが鎌首をもたげたのだろうと、本人も周囲も軽く流せる違和感だった。
わずかな違和感を覚えた男の近くを戌雄が通り過ぎる。店を出ようとしていた。
そう。既に事は終わっていた。
酒をよく呑んだビール腹の給料男の背後を戌雄が通り抜けた刹那、カウンター席の男の後頭部へと飛来した神速の肉球を、読者諸君の目は果たして捉えることができただろうか。
「……」
戌雄は何も言わず、そちらに目を向けることすらなく、もたもたとした手付きで財布を探った。
「お勘定お願いします」
「はーい。パイペイはお持ちですか」
「いえ。現金でお願いします」
会計を済ませたゴールデンレトリバーは暖簾を内側から潜って外に出る。自動ドアではない引き戸を開ければ、冬の冷たい外気が流れ込んできた。
戌雄が急ぐ素振りすら見せずに冬の高架下の歩道に出た頃――
――カウンター席の男は事切れていた。
苦しむことはなかったはずである。戌雄がそんなミスを犯すわけもない。背後を通り過ぎる瞬間に放った超高速の打撃は、男の脳幹を致命的に破壊した。破壊した上で、アルコールと煙草と寝不足から来る症状に巧妙に見せかけている。
まさしく“武芸者”の超絶技巧だった。
武芸を修め、極めんとする者――武芸者。そう呼ばれる者たちがいる。
この世界において“武芸者”と呼ばれる超人たちは、間違いなく存在した。
戦闘に利用可能な技術体系を修めて習熟し、さらに研鑽を積む。人生と正気を捧げた過酷な日々の末に、才能と努力を際限なく積み上げて、文字通りの百人力を獲得した者たち。
彼ら彼女ら。あるいは“それ”ら。
ありったけの畏怖と敬意を込めて、そうした者たちは余人から武芸者と呼ばれた。
工場作業員として糧を得て
佐崎式剛撃術。
鍛え上げた筋力と重心移動の相乗によって、威力と速度を兼ね備えた打撃を繰り出す戦闘技術体系だ。
戌雄を指導した師は類まれな人格者だった。正真正銘の殺人武芸である佐崎式剛撃術の血塗られた側面は弟子に伝えず、あくまで心身を鍛え上げる術として武芸を教えた。
武芸者となるか。あくまで武芸を嗜む一般人として生涯を終えるか。成長した戌雄に、師である佐崎剛蔵は選択を委ねようとした。
しかし弟子を思う師の願いは、現実によって踏み躙られる。
戌雄が小学五年生になった頃の話だ。親の都合で引っ越すことになった。幼犬の肉球を優しく引いて正しい道へと進ませようとしていた師と、師の薫陶を受けていた武芸者の卵は、あっさりと引き離された。
師から放り出された武芸者が大成することは稀だ。独学でどうにかなるほど、武芸の道は甘くない。そうした武芸者の卵は往々にして、才能を腐らせてゆく。
常であれば物語はここで終わった。幼き日に武芸を学んでいた戌雄は、日々の生活に押し流され、そのまま何の物語もなく生涯を終えるはずだった。
それでも戌雄は、師から引き離されてなお、独学でひたすらに鍛え続けた。
ナイフ。火器。複数人からの不意打ち。師から教えられた子供向けの断片から武芸の骨子を推測した。自らが修めんとする武芸の要訣を暴き、真摯に従う。あらゆる事態を想定し、一日たりとも休まずに心身を苛め抜いた。
懸命の努力を続ける戌雄を嘲笑うかのように、彼の親は鍛錬の邪魔をした。戌雄の親は端的に言えばろくでなしだった。ギャンブルに手を出してかなりの額の借金をこさえ、そのせいで高校を中退して働かなければならなかった。
それでも戌雄は、自らを武芸者だと信じた。自分は武芸者だと唱えながら、休むことなく鍛錬を続けた。
金。親の面倒。親の葬式代。武芸を追求するよりもまず、金が必要だった。
高校を卒業できなかった戌雄は、要領の悪い肉体労働を延々と繰り返した。それしかできる仕事がなかった。
休日を返上して働き、残業を繰り返す。忙しい日々のなかで武芸に捧げる時間は湯水のように溶けていった。それでも働いた。歯を食い縛ってトレーニングもした。
親が積み上げた借金を戌雄はようやく清算し終えた。
そして気づけば……幼き武芸者は、四十五歳になっていた。
淡い雪が舞う真冬の街を人間サイズのゴールデンレトリバーが歩く。深夜の薄暗い路地で、視界の端のダクトに汚れた雪が積もっていた。
「……冷たいな」
寒風に煽られたせいだろう。知らず戌雄の肉球が鼻に触れる。凍てつく大気に晒された鼻はひどく冷えた。作業服姿の中年犬の格好はかなり寒々しい。
だが禿げる気配のない黄金の長毛が内部体温の低下を防いでいた。一流の武芸者が風邪を引くような無様を晒すことはない。
錆びた街灯だけが頼りの薄暗い冬の町を歩く工場作業員風の男は、やがて冴えない手つきでスマートフォンを取り出す。歩きながら操作しかけて、歩きスマホはマナー違反だと思い至り、汚れた路地の壁際に立ち止まった。
呼び出し待機の電子音が鳴る。
「……」
『私だ』
スマホのスピーカーが、冬の暗がりを思わせる凍てついた声を届ける。相手に見られているわけでもないのに、ゴールデンレトリバーはその場で一礼した。
「お疲れ様です。お世話になっております。
『要件を聞こう』
「機材の搬入が完了しました」
隠語が通話口の相手に伝えられる。機材とはターゲットのことを指す。搬入の完了とは、ターゲットの始末に成功したということ。
人殺しの報告はここに完了した。
戌雄は知らない。先ほど殺した男の名も。殺す必要があった理由も。
始末した方がより利益を出せる。戌雄が所属する会社の支配者がそう判断した。だから殺した。実行者が何も知らないまま。
力さえあればそんな無法が罷り通るのがこの世界だ。
『ご苦労だった』
「はい」
要件を簡潔に伝えた武芸者を、彼の主が労った。その言葉に不満はない。自分の手が血で汚れたことも気にしていなかった。自らが鍛えた武芸が振るわれた理由を知らされないことについても、納得している。
不満があるとすればただ一つ。
「社長」
『何だ。他に報告はあるか?』
「次はもっと歯応えのある仕事をください。こんなホワイトな業務ばかりでは、前いた工場を辞めてこの職場に転職した意味がない」
戌雄の口から呼気が漏れた。凶暴な犬歯を剥いて。凄まじい暴力性を冴えない工場作業員という温和なガワに押し込めた武芸者は、自らの主に新たな戦場を求める。
『頼もしい限りだ』
現在の職場の社長は、あくまでも冷徹な声色を保ったまま戌雄を賞賛した。通話はそのまま途切れる。
スマートフォンを相変わらずの手際の悪さでしまった戌雄は、鼻を擦りながら真冬の夜道を歩き出した。身の内に熱と殺意を秘めて武芸者は進む。
「俺は武芸者だ」
まるで飢えた若者を思わせて。
齢四十五を過ぎてやりがいのある仕事がようやく出来るようになった中年犬は、決まり切った破滅へと向けてすでに駆け出していた。
登場人物紹介
■
国亜商事(株)傘下の武芸者。
本作における主人公……ではない。
アン・エイリーによって殺害される。
■アン・エイリー
悪名高き暗黒巨大企業セイオーマート傘下の武芸者。
■スモウマスター
世界最強の武芸者。