少なくとも現代日本ではないいつかのどこか。すなわち金と力を持つ強者が各所で好き勝手に権力を主張するこの世界でのこと。
この世界において勢力圏を統べる支配者の顔は、抗争の結果次第でころころと変わった。しかし支配者の首から上が何度すげ変わろうとも、その地で生きる人々の生活はそう簡単には変わらない。
生活はいつものように代り映えしないし、昨日と同じく人生は停滞したままだ。この一点においてこの世界と現代日本は大体一緒である。
現状を打開せんとする凡人が必死の努力を積み重ねたとしよう。しかし新しい運命が凡人の目の前を横切ることはなかった。否。仮に千載一遇の好機に恵まれたとしても気づくことすら叶わない。それが凡人たる所以だ。
今現在工場で働いている四十五歳の武芸者――
この男は平凡な人生を送ってきた。愚かで鈍い男として、高校中退以来の数十年間を工場で働き続けた。
武芸の才能に反比例するかのように、人としての彼の器はごく平凡だった。
だから何も変わらない。
久方ぶりに振るった武芸で人を三人殺した。そんなトピックを経ても彼の人生は何も変わらない。戌雄の人生と同じく世間も特に変化なく今日を迎えた。未成年の少女が強姦の被害に遭おうが、不良少年が数人死のうが、大した騒ぎなど起こらぬ。何といってもこの世界は現代日本ではないのだから……。
冬の早朝。
「わふ。今日も冷えそうだ」
日々の“ルーティーン”を終えた戌雄は、霜の降りた街を歩いていた。
通勤通学の時間帯を迎えていないがゆえ街中の人通りは少ない。あるいは日が完全に昇り切っても人影は少ないままかもしれなかった。今日は休日だった。材質の痛みが目立つツルツルとした安物の上着を羽織る中年犬は、誰もいない日曜日の街を一人進む。
冬の朝の光景から離れた余談となるが、安く使える物件が時と場合によって容易く手に入る場合があった。
電気ガス水道等のライフラインが通っていない倉庫が某所にある。崩れないようにメンテナンスと掃除をするという契約条件で建物は貸し出された。月五千円で戌雄はその倉庫を借りている。
心身の鍛錬には振動と騒音がどうしても伴った。壁の薄い安アパートで武芸の研鑽などできるわけがない。自由に使える場所を得た戌雄は、倉庫の暗がりで武芸のトレーニングに励んだ。
「いい汗かいたな」
呟きに押し出される形で口から膨大な熱の籠もった吐息が漏れる。男を中心に暴力的な湯気が立ち昇った。昨日と同様に今日も寒い。だが真冬の冷たい早朝の大気に晒されているというのに、中年のゴールデンレトリバーは寒さを欠片も感じなかった。
今の戌雄はトレーニングを終えたばかりなのだ。この男の朝は早い。意味不明なほどに早い。午前二時前には床を出た。
起きればすぐさま借りたボロ倉庫へと文字通りのダッシュで向かう。そして朝の支度を始めるまでの数時間を武芸の研鑽に充てた。
三十年以上も続けてきた絶対のルーティーン。仕事と同様に一度もこれを休んだことはない。アパートから歩いて行ける距離の倉庫内で、自らの血肉を極限まで苛め抜いた戌雄は、疲労感に包まれてどこまでもリラックスしている。上昇しきった体温が冬の厳しさを退け続けるのだ。心地よいひと時だった。
しゃりしゃり。薄手のトレーニングウェアの上に古びたボロ上着を羽織った中年犬の体重に潰され、住宅地に降りた霜が小気味よい音を立てる。
充実によって安らいだ思考がふと紡がれた。
「あれから、一週間くらい、か」
住処のアパートに戻ろうとするトレーニング終わりの武芸者の脳内で意味のない迷想が始まる。七日ほど前の出来事だ。少女を弄ぶ不良少年たちという武芸の試しにお誂え向きな獲物を殺した。あの晩の出来事は、何十年も続いてきた平凡な日常から大きく逸脱したイベントと言える。この事柄を押し流すかの如く、いつも通りに時は流れた。
たかが一週間。されど一週間。それだけの日数を経て、一月中旬から一月下旬となった早朝の大気はより一層冷たさを増した。今朝は冷え込みがひとき際厳しい。不良少年たちを皆殺しにした記憶は寒さと日々の忙しさで徐々に薄れゆく。
「……早く戻ろう。体が冷める前に」
トレーニングの熱が消え去る前に家に戻りたいと思った。現実的な思考に思い至ったことで迷想はあっさりと掻き消える。武芸の鍛錬を終えた後の気化熱で体が冷えて体調を崩すような無様は、武芸者として絶対に許されなかった。
俺は武芸者だ。武芸者らしいことを何もしていない工場作業員であるが、武芸鍛錬の一貫たる体調管理を疎かにはできない。自虐交じりの危機感と使命感に基づいて戌雄は足を速めた。
急いだ甲斐もあり、さして時間をかけることなく安いアパートを囲うコンクリートブロック塀へと到着する。
自宅周辺に到着してすぐ。
「あぁ、おはようございます」
アパートの大家と遭遇したのでとっさにお辞儀をした。ブロック塀の影に老いたタヌキの顔が見えたのだ。金をかけて整えられた毛並みとシルエット。戌雄が暮らすアパートの大家は人間サイズの老ホンドタヌキである。
珍しいな。大家の顔を見た戌雄は思った。
彼が暮らすアパートの大家は金にとてもがめつい。それでいて要領の良い怠け者だ。遅寝遅起きの夜行性で知られる。朝の時間帯にこうして鉢合わせたことは今まで一回もなかった。
出社前の戌雄と珍しく顔を合わせたホンドタヌキの老女は――
「…………」
「な!?」
――ぐるんと白目を剥いて倒れた。
倒れた際に飛び散った鮮血と脳漿が真冬の外気に一瞬で凍てつき、安アパート前に広がる白い霜へと朱い染みを無数に作る。真冬の空の下。武芸者は大家に駆け寄った。
「だ、大丈夫で、」
大家を抱え起こす。人間サイズの初老のホンドタヌキの女の後頭部には、明らかな致死傷とわかる殴打の痕。
救急車を呼ぶか。あるいは確実に死んでいるのだから警察を呼ぶべきか。
大家の状態を見た戌雄は判断を迷った。この状況で凡人は判断を迷った。今すぐ殺されても文句を言えないこの場で戌雄は判断を迷ってしまった。
致命的な判断ミスを犯したごく平凡な彼の、武芸者としての非凡な才能と積み重ねた鍛錬は、頼りない主を無視して手っ取り早くこの場に対応してみせる。
ばきぃいッ。
「――ッ!」
一体何が起こったのか。老ホンドタヌキの骸を抱き起した戌雄の身に何が降りかかったのか。具体的に説明すると、コンクリートブロック塀を貫通してきた何者かの長く太い腕と拳が顔面を目がけて飛来してきた。
完全に無意識の行動がゴールデンレトリバーの体を勝手に動かす。まず戌雄はホンドタヌキの大家の骸を脇に放り捨てた。放り捨てながら自分でも驚くほどの対応力で顎を引いて腰を下ろした。脇も締めた。十全と言っても良い構えで、ブロック塀越しの奇襲をガードする。反応速度・重心ともに完璧と言って良い構えでこれを迎え撃った。すべてが完璧だった。
「ぐぁあッ」
完璧だったはずのガードごと吹き飛ばされる。攻撃を防いだ両腕がみしりと軋んだ。凄まじい衝撃だ。靴が霜を削り取る。尻餅をつくような無様をかろうじて免れたのは、武芸者としての意地か。
アパートを囲うコンクリートブロック塀がガラガラと音を立てて崩落し、ブロック塀が隠していた大きなシルエットがやがて現れる。
自らのトレーニングシューズが削り取った霜の轍を隔てて、大家を殺した下手人と思われる何者かと武芸者は相対した。早朝の霜ごと空間が歪む。
「法的根拠も無しに個人情報の保護を嘯くか」
崩落したブロック塀の土埃を裂いて現れた男は不機嫌そうに独り言ちた。
「あなた、は……?」
「愚かな。これだから低学歴は」
大きい。巨漢だ。二メートル以上の上背がある。体重は百六十キロ前後ほど。わかりやすい暴力の気配を纏う男がゴツゴツとした右手に握るは――大家のホンドタヌキの血と脳漿で汚れた“六法全書”。
分厚い本を携える分厚い肉体の男は、体と重心の軸を一切ブレさせずに目線だけで戌雄を見遣った。
「私は国亜商事警備保障部門担当者の録助。貴様。戌雄という輩を知らないか」
生来の真面目さ。もしくは武芸者としての感覚が全力の警鐘を掻き鳴らしていたがゆえ、思考を割かない無為な応答。
「戌雄は俺ですが」
そうしたものに基づき、素性の知れぬ大男へと自分の素性を正直に喋った。その言葉への答弁として六法全書の分厚い一撃が返ってくる。
「判決。貴様を死刑とする」
「ぬおぉっ!」
首を刈るような軌道で飛来してきた六法全書をかろうじて躱す。
黄金の毛先がちりちりと舞った。巧みな重心移動で追撃の二の矢に備えた回避は、才能と努力の相乗を用いた奇跡に依らぬ必然の体捌きだ。意味不明な膂力で振り回された六法全書の威力に武芸者は遅れて戦慄する。恐るべきは明らかに持ち辛そうな六法全書を片手で苦も無く操る脅威の握力。
「まさか」
武芸者。そう呼ばれる者たちがいる。
この世界は少なくとも現代日本ではない。国による法治もなければ、人外の動物たちが特に意味もなく街中を闊歩しているし、何の意味もなく抗争や荒事で人が死んだ。そんなこの世界において“武芸者"と呼ばれる者たちは間違いなく存在した。
戦闘に利用可能な技術体系を修めて習熟した上で研鑽する。人生と正気を捧げた過酷な日々の末に常人の十倍、百人力、一騎当千、万夫不当の戦闘力を獲得した者たち。
彼ら彼女ら。あるいは“それ”らは、ありったけの畏怖と敬意を込め、余人から武芸者と呼ばれるのだ。
「武芸者か!」
初撃でわかる。今、目の前に聳える相手は極限まで肉体を苛め抜いて力を得た本物の武芸者だ。
気づけば互いに向き合っていた。工場勤務の中年犬武芸者戌雄と国亜商事警備保障担当者を名乗る武芸者録助は、安アパートを囲うブロック塀の崩落跡を背に、真冬の早朝にて対峙する。
ぶぉおおおん。背筋を凍てつかせる素振り。六法全書の風切り音が鳴った。
「法律は平等である。平等に全員殺せば訴えられることはない。鏖殺。それすなわち合法」
六法全書という意味不明な得物にこびり付いた被害者の血を録助が払った。あまりにも意味のわからない言葉に戌雄は思わず質問してしまう。
「何を、言って……?」
「社長からの命令だ。合法的暴力で戌雄なる輩――貴様を皆殺しにする」
はち切れんばかりの筋肉をフォーマルなビジネススーツで覆った録助の口から発せられるのは、その片手に握る六法全書と同じくらい意味不明な論理。
得物も言葉も意味がわからなかった。
なぜ六法全書などという奇妙な物体を武器として使うのか。なぜ自分が命を狙われるのか。こんな武芸者の恨みを一体どこで買ったのか。
前者はさておき。後者の疑問に関する心当たりとしてはファック&スレイチームを名乗る不良少年たちを一週間前に皆殺しにしたくらいだ。だがあの少年たちとこの武芸者が上手く繋がらない。格が違いすぎる。録助。この男は強い!
混乱する戌雄の心が唐突に凪いだ。
「俺は、武芸者だ」
録助を名乗るこの武芸者と戦わねばならない理由が何も思い浮かばない。だが理由がわからぬまま体が勝手に動き、心は覚悟を決めていた。
戌雄は凡人だ。ただの工場作業員だ。凡人で、工場作業員で、そして武芸者だった。
武芸者として、命のやり取りをする覚悟はできている。何らかの因業が今になって巡ってきたのか。それとも武芸的な狂気に呑まれたこの武芸者が何の意味もなく自分を狙ったのだろうか。わけがわからない。何もわからないのに胸の奥が勝手に高鳴る。
「佐崎式剛撃術門下――戌雄です」
「悪くない遺言だ。法に則った遺品処理は任せろ」
凍てついたブロック塀の残骸を冷たい冬の風が撫で、午前六時十四分の低温の大気に包まれる武芸者たちは、殺し合いの業火へとその身を躊躇うことなく投じる。
ことの脈絡を把握し切れぬまま始まった殺し合い――“死合”の機先を制したのは身体性能と経験の差をフル活用した録助だった。
「六法全書アタック!」
二メートル超。百六十キロ前後。恵まれた体躯を生かした瞬発力で間合いを詰めた巨漢は分厚い武器を勢いよく振り下ろした。得物たる六法全書を。
武芸者としての勘が告げる。あの六法全書は危険だ。センスに委ねた半ば無意識の動きでクロスさせた両腕を戌雄が上げる。
「しぃいいッ!」
ガードを高くしたゴールデンレトリバーは噛み締めた牙から呼気を漏らした。裂帛の気合を込めた受けの構え。
「その安直なディフェンス! 異議あり!」
しかし上げたガードは容易く貫かれてしまう。
「ぐぁあッ」
六法全書の一撃を防いだはずの戌雄が苦悶の声を発した。内臓を抉られた中年犬は悶絶する。わかりやすい六法全書は囮だった。上段から六法全書が振り下ろされる所作の渦中、攻撃中の不安定な姿勢から内側へと捻じ曲がった軌道の三日月蹴りに似た異形の蹴りが同時に繰り出されていたのだ。
「うぅ、ぐっ」
六法全書ではなく“蹴り”で肝臓を穿たれた戌雄が後退する。強引なフォームと角度だったにもかかわらず凄まじい威力の中足蹴りだ。
素晴らしい柔軟性とバランス感覚によるペテンに騙された戌雄は胃液を戻しつつ体勢を戻そうと――
「足りぬ! 控訴だ!」
「ぬぐっ。がッ」
――録助の攻めは止まらない。
異形の三日月蹴りから繋がるコンビネーションと思しき六法全書の打撃が迫る。肘の使い方が上手かった。ジャブにも似た六法全書の打撃が異様に伸びる。
「距離、を、一旦ッ」
されど戌雄も武芸者だ。人外の反応速度を発揮したスウェーバック。かろうじて本の一撃を躱す。
「抽象的過失だよ。それは」
そんな敵の回避を見た録助が嗤った。
「しまっ」
異様に伸びた六法全書のジャブ。これより重心が後ろに下がってしまった直後に戌雄は自らの失策を悟る。間髪入れずに録助が高速のタックルを繰り出してきた。
「控訴権を諦めろ犬っころ!」
「……ッ!」
戌雄は身長百七十四センチ体重八十一キロ。対する録助は身長二百八センチ体重百六十七キロ。体格差を余すことなく用いた録助は戌雄を押し倒そうとする。凄まじい圧力を浴びせられた戌雄はそれでも倒れなかった。録助は敵を押し倒すことができない。
「ほう。再審理成立か」
「がるるるぁああああッ」
偉丈夫のタックルを凌いだゴールデンレトリバーが吠えた。録助が戌雄を押し倒すことができなかった理由は何か。戌雄が修めた武芸の名は佐崎式剛撃術。この武芸の真骨頂は重心移動にこそある。佐崎式剛撃術の会得者は足が木の根と化すほどの体幹を得るのだ。
「わふぁぁあああああああッ!」
「!?」
不用意な回避のせいで崩れた重心を即座に復元してのけた戌雄は圧し潰すように録助のタックルを切る。
好機! タックルをかろうじて潰した戌雄は相手を殺すつもりで反撃を放つ。繰り出す一手に迷いはなかった。これは死合。スポーツの試合ではない。この三十五年間。師である佐崎剛蔵から引き離された後の人生で戌雄は何度も唱え続けた。心中で。誰もいないボロボロのトレーニングルームで。残業に追われる工場で。敵を殺す。覚悟は出来ていた。日々の生活に倦み、仕事に削り取られる時間のなかでそれだけが戌雄の拠り所だった。ひとたび鉄火場に赴けば、俺はきっと敵を殺せるぞ。要領の悪い人生を送る四十五歳の工場作業員は得体の知れぬ殺意を人知れず砥ぎ上げてきた。ならばこそタックルを潰された録助に向けて放つのは後頭部への容赦なき打撃“ラビットパンチ”!
「俺は武芸者だッ!」
あらゆる格闘技で禁忌となる一手を武芸者は繰り出す。これほどの武芸者。手加減などでき。
「ぎゃあッ」
思わず絶叫した。勝利を半ば確信しつつあった経験不足の武芸者は咄嗟に飛びのく。
「刑法第三十六条二項。調子に乗るなよ犬っころ」
目前となった決着を取り逃した戌雄へと録助は憤怒の表情を向ける。
読者諸君よ! この刹那の攻防をご覧になられたか!?
それは恐るべき鬩ぎ合いだった。タックルを切られた録助は、全身に蓄えられた莫大な筋力を跳ね上げて強引に前転したのだ。前転のさなか。エビのように体勢を反り返らせた録助はサソリ蹴りに似た奇形極まる足技を放っていた。こんな蹴りが見えるわけなかろう。
「あが、ごがが」
飛びのきが間に合わず前歯がへし折られた。鼻血をぼたぼたと垂らして混乱する戌雄を、文字通りの尻目に立ち上がった録助は、距離を取った敵に六法全書を投擲する。
「六法全書ブーメラン!」
六法全書ブーメラン! 分厚い鈍器の飛来だ!
「くッ」
こんなものをまともに喰らうわけにはいかない。瞬発的にガードした。もちろん咄嗟に構えた戌雄のそれは悪手だった。飛来する六法全書のページが一月末の寒風に煽られて極めて不規則にはためく。まるで歪んだフリスビーだ。冷たい大気に翻弄された六法全書は人智を逸した軌道を描いた。飛来した六法全書の着弾点は戌雄のガードの斜め下。
「がはッ」
何たる妙技。先ほどの三日月蹴りとまったく同じ位置に六法全書はヒットした。損傷を受けた肝臓がディフェンスを躱し切った六法全書によって再び穿たれる。
「うぐぅう」
たまらず膝を突いた。こうした分かりやすい隙を逃がす武芸者がいるわけもない。
「履行勧告!」
「ぬガッ」
下半身の筋力に物を言わせたダッシュで距離を詰めた録助は、ゴールデンレトリバーの黄金の頭毛を、六法全書を苦も無く握る驚くべき握力で掴んだ。剛力で無理やり下方を向かせた戌雄の顔面にすかさず膝を入れる。
「死刑死刑死刑死刑死刑ッ」
「ゴッ、ごっごごお」
膝蹴り。膝膝膝。無呼吸での連打だ。
「死刑執行死刑執行死刑執行死刑執行‼」
「グ。ぐッ」
戌雄が膝を突いた瞬間。これを絶対の好機と録助は見た。負傷によって身動きが叶わぬ戌雄の顔に有効打が延々と入れられる。鼻が折れた。眼窩底が複雑骨折する。牙が吹き飛ぶ。
「執行執行執行執行! 死刑死刑死刑死刑‼」
「ぐブ。ぐぴッ」
戌雄の口から変な音が勝手に漏れた。のろまな武芸者はやっと理解する。
どうやら今、自分は死にかけているらしい。頭部を固定された状態での膝蹴りの連打。この殺傷力の波濤から逃れる術はない。このままだと遠からず死ぬだろう。
筋力量と骨格を生かした絶え間なき猛攻により死に瀕する戌雄は、録助が着ているフォーマルなビジネススーツの裾を縋りつくように握った。無意識の行動だった。
暴力に晒されて消えゆく意識のなかで過去の記憶が瞬く。赤い走馬灯となって甦った映像にて、戌雄の師が語り始めた。
『捉えたならば敵の体も自分の体も同一。一つの塊として敵と自分を認識しろ』
幾度目かもわからぬ膝が顔に入る。脳に深刻なダメージ。今ここにいるのは小学生の頃の自分か工場作業員の自分か。揺れた脳内で過去と今の垣根が消える。消えてしまった。
「俺、は……ぼく、は」
敵の連打が荒れ狂った一瞬で意識が混濁した果てに……戌雄であって戌雄ではない何者かが現れる。
何たることか。今この場にいるのは残業にくたびれた工場作業員ではなく、超一流の武芸者による薫陶を受けた才気あふれる幼き日の神童だった。
「ぶげいしゃ、だ」
捉えたならば相手の体は自分のもの。神の依り代が如き卓抜した重心移動。佐崎式剛撃術の絶技を土壇場で発現させた戌雄は、死に近づき解け行く世界で、自分の体重と敵の体重を一点に集中させる。
武芸の要訣、下半身を支える足首へと。
ベキッ。
異音が響く。重心移動によって二人分の重さが加わったことで録助の左足首が唐突に粉砕骨折した。
「があああッ! 強制執行強制執行強制執行ッ!」
録助が軸足を替える。流石は武芸者だ。足首が破壊されたにもかかわらず激痛を完全に無視して敵の頭部に膝を入れ続ける。
勝負所は絶対に逃すな。武芸と裁判に共通する鉄則だ。今ここで勝訴できるならこの程度の痛みは必要経費として処理できようぞ。ならば無視するのみ。負傷してなおも録助は膝蹴りの連打を止めなかった。とは言え痛みは無視できても負傷によって歪になった体幹の脆さは無視できない。
「あ、ああ、あああ。せんせぇえ」
戌雄は録助の足に縋り付いた。顔面をボコボコに変形させながらも屈強な武芸者を無理やり押し倒す。巨重が倒れ伏す余波が朝の街に鳴った。
「うお。なんだ。交通事故か?」
「違うよ。多分これは腐った街路樹が倒れた音」
「そっか。事故じゃないなら良かった」
「いや。良くないでしょ。街路樹の係の人に連絡しないと」
道路に生じた轟音と衝撃に近隣に住まう素人たちはてんで見当違いのことを宣う。
「このッ、回復見込みのない強度の精神病患者めぇええ!」
周囲の喧騒を知ってか知らずか勝てる判決を逃したことを悟った録助の額に青筋が浮かぶ。即座に反撃へと移ろうとした。だが動けない。
「う、うぅうううう。ぼ、ぼく、は、あ、あぁああ、ぶげいしゃぁああ」
倒れた録助の上をずりずりと戌雄が這った。
情けなく縋り付いてくるという動作の印象に反する素早い動きで戌雄が録助の上体を尽くロックする。不覚。重心の要所を押さえられた。
「舐めるなよッ。中卒野郎がぁ!」
冷たいアスファルトに背中と腰を完全に押し付けられた録助は、反撃として下から打撃を打つ。しかし手応えはほとんどない。当然だ。素人ならいざ知らず、腰の入っていない手打ちの一撃で効果的なダメージの入る武芸者はいない。
「ふっ、ふぐぶ、ぶぶぶ」
満身創痍のゴールデンレトリバーの顔面の血でフォーマルスーツが汚れた。ダメージがない録助は攻めあぐねる。
「法律……、六法全書があればぁッ」
六法全書があれば、この不利な体勢からでも十二分に殺せた。
体重の入っていない手打ちだったとしても、六法全書で殴りつければ、背中側から背骨と内臓をぐちゃぐちゃにできる。六法全書こそは録助という武芸者が適合した最強の得物なのだ。
彼が大学で法を学んでいた頃。構内にテロリストが侵入した。大口径の軍用チャカを乱射するテロリストを携えていた六法全書で撲殺したところから録助の武芸者としてのキャリアはスタートした。
六法全書は内なる殺意を掻き立ててくれる。六法全書の打撃は通常の攻撃と比にならない威力を出せる。意味不明な論理。理解不能な思考だ。こうした余人の理解を拒む非合理極まる手法で、実際に技の冴えや威力を向上させる武芸者はこの世界において珍しくもない。武芸とは狂気によって強度を増すのだ。
誇張なき事実として、彼の右手に六法全書が握られていれば、この状況からでも戌雄を十分に殺せただろう。
戌雄から圧し潰された録助は六法全書を求めて周囲を見遣る。
「あっ。あそこに怪我人が」
「老朽化した街路樹の巻き添えになったのか。可哀そうに」
「街路樹って何のこと? 交通事故じゃないの?」
「え? 交通事故で街路樹が倒れたの?」
騒ぎを聞きつけたのだろう。近所の住民たちがこちらを遠巻きに見ていた。死ぬほどどうでもいい。それよりも法を。
録助は発見する。自らの得物。絶対の得意手。六法全書を。
「はッ、はぁッ、はあはあッ」
分厚い手を分厚い本に伸ばした。届かない。先ほど投擲し戌雄のレバーを穿った六法全書まであと少しというところで動けなくなった。
凄まじい重さだ。自分に覆い被さる敵があまりにも重い。重すぎた。録助に覆い被さる戌雄の体重は八十一キロ。彼の身長を鑑みれば一般人からすれば少々重い。とはいえ二メートル超の体躯と百六十キロ超の肉体を持つ録助から見れば子犬のような軽さだ。自分の体重より軽い物体を鍛え抜かれた武芸者が何故か動かせない。
これこそは佐崎式剛撃術の真骨頂。完璧な重心移動による体重操作の奥義。今の録助に圧し掛かるのは百キロ足らずの給料男ではない。数千倍の重さを誇る武芸の塊だ。
「……ッ。………!」
とんでもない絶技で押さえ込まれていることを録助は理解する。だがロックされているだけだ。負けたわけではない。少しずつでも移動して六法全書を手に取れば逆転は可能だ。国亜商事の警備保障担当を務める武芸者は楽観的な答弁で自らを鼓舞する。
息苦しかった。思考が鈍くなっている。だからそんな甘い考えが鎌首をもたげてくる。
「…………い、良い、死合、でし、た」
顔面を腫れ上がらせ、鼻血を止めどなく垂れ流す戌雄が告げた。
録助の、死刑を。
六法全書に手を伸ばすことに夢中になっていた録助は敵が抱いた必勝の確信に気づけなかった。
今の戌雄が仕掛ける武芸は、スポーツで用いられる非殺傷の制圧技ではない。録助は体をロックされているだけではなかった。彼が仕掛けられた技は殺し合いの場で用いられる掛け値なしの殺人武芸に他ならぬ。その程度で終わるわけがなかった。
その名も“
重心移動で人体の血管を的確に塞ぐ。これにより極めて短時間で血流の滞りを多数形成させ、最終的に重篤な静脈血栓塞栓症により即死させる。まさしく殺人にしか用いることのできない本物の殺人武芸。
「法の……、法の裁きを……ッ」
光の乏しい真冬の盛りに雲が割れる。今の時期に珍しい日が差した。道を踏み外して武芸の冥府魔道に足を踏み入れた男が最期に見たのは、学生時代に教室から仰いだいつぞやの青空。
しばしの蠕動の後。自分が死に瀕している事由にすら気づかず録助は死んだ。
救急車を呼ぶ前に何かを食べることにした。
録助を名乗る武芸者と演じた死闘。このダメージは深刻である。常識的に考えれば、部屋で身動きを取らずに、やってきた救急隊員の指示を仰ぐべき状況だった。だというのに戦いを終えた戌雄は腹にカロリーを入れることを優先する。じっとしていると死ぬ。そんな気がした。
体。才能。あるいは魂。そうしたものが戌雄に囁きかけてくる。食え、と。何でもいいから血肉として取り入れろ、と。
身の内に宿った武芸の導きに従い、戌雄はひたすら食べた。白米。砂糖。さつまいも。いつぞや食べたおはぎの残り。タンパク質や食物繊維ではなく、糖分を主体に食べ続けた。
ひとしきり食べ終えた後に、気分が悪くなるかもしれないと身構えていたが、不調どころか満腹感すらほとんどなかった。食った直後に食べたものが燃料として燃え尽き、エネルギーの塊と化して蓄えられる感覚があった。
決着の場面から一時間ほど過ぎただろうか。
「……暑いな。今日は」
顔面をボコボコに腫らした戌雄は部屋の戸を開け、真冬の朝の下に出た。アパートの階段を降りて、駐車場と呼ぶには少々狭い場所に立つ。
随分と暴れた気がするし、録助の死体も放置したままだった。なのに何故か人の喧騒の気配がまるでない。
どこかぼんやりとした思考のまま外で棒立ちになる戌雄は、自分に話しかけてくる何者かの存在にようやく気づいた。
「録助を仕留めたか。少々驚いたよ」
巨大なモーニングスターを肩に担ぐ偉丈夫が呟く。安アパートの駐車場というこの場に不釣り合いな凶器を手にする男は戌雄と正面から向き合った。
「どうせ不意打ちだろう。……なんて油断はせんよ。面構えでわかる。良い武芸者じゃないか」
凍てついた電柱に鋼鉄と化した足指を食い込ませ、真横になって立つ胴着姿の男が、偉丈夫の言葉に反応する。
「あはは。面構えでわかるってそいつの顔ボコボコじゃん。ウケる」
ブロック塀に腰を下ろす若い女は、戌雄を見下ろすわけでもなく、スマホのタッチパネルをスワイプしながらけらけらと笑った。
「手早く終わらせるぞ。寒いし眠い。臨時出勤なんだから特別手当貰わねえと」
眠たげな眼で在らぬ方向を見据える中肉中背の男は手をハエのように擦り合わせる。男の手は黒々と変色し、異形の湯気を発していた。
「ていうか録助さんをタイマンで殺したって普通に凄いな。スカウトした方がいいんじゃね? いや命令だから殺すけどさ」
スマホを弄る女の隣。欠けたブロックにブーツをフィットさせてしゃがみ込む少年と言っていい見た目の眼鏡をかけた男装の少女は、巻き心地があまり良くないのか、首の周りのマフラーをしきりに気にしている。
「…………」
ぼこりと地面が盛り上がった。駐車場のアスファルトを割って異形のシルエットが現れる。地中から這い出てきたのは筋骨隆々のバクだ。人間サイズの二足歩行のバクは、無言のままターゲットの一挙手一投足を観察する。
最後に――
「ああ。すまん。すまんね。遅刻してしまった」
――背中の丸まった老人が小走りで戌雄のところにやってきた。
「あなたがたは……」
「ああ。そうだ。
「国亜……さっきの武芸者の……」
「如何にも。ワシは録助の上司で、この部署の長をやっとる
「……全部で七人、ですか」
「ああ、そうだ。その通りだ。
黒鉄を名乗った小柄な老人は、あっけらかんと戌雄の殺害を宣告する。
「録助の仇だ。我のモーニングスターの錆としてくれよう」
「こんな素晴らしい武芸者を袋叩きってのは勿体ないな。まあそれなりに楽しませてくれよ」
「あはは。死にかけのおっさんがんばれー」
「友理奈ちゃん。油断しちゃダメっしょ。武芸者はいつだって死にかけが一番怖い」
「寒いな。ほんと寒い。手の感覚がもう無い。最初から。ずっと無い」
「……」
「と、いうわけでだね。戌雄くん」
偉丈夫はモーニングスターを構えた。胴着の武芸者は電柱から落下し、凍てついたアスファルトに亀裂を作る。スマホを弄り続ける若い女は相変わらず画面から目を離さぬまま靴を脱いだ。男装の少女は絶対に“首”を晒さないように左手でマフラーを押さえながらブロック塀から飛び降りる。手を擦り合わせ続けていた男は戌雄に向けて貫き手を構え、両手からぽたぽたと汁を垂らした。筋骨隆々のバクはじりじりと戌雄へとにじり寄り、隙を突いて敵を組み伏せようとする。
「何か遺言はあるかね?」
冬の朝。国亜商事の警備保障部門の総責任者は、一切の隙が見当たらない自然体で戌雄に問うた。問われた戌雄は答える。
「最高の人生だ」
「素晴らしい。良い死合にしよう」
答えると同時に戌雄は吠えた。これが吼えずにいられるか。
三十年間を無為に過ごしてきた。才能と武芸を工場勤務で長らく浪費してきた。
残業中の工場の暗がりで、粗末なプレハブ小屋で、朝飯に消費期限の過ぎた納豆を食いながら、戌雄はずっと唱え続けてきた。
俺は武芸者だ。そう叫び続けてきた。
涙と喉が枯れ果てた日々を経てようやく今日この時が訪れた。
七人の武芸者が。本物の武芸者たちが。
一斉に自らへと武芸を差し向ける。自分を。この俺を武芸者だと認めて殺しに来てくれた。そして死合が再開した。録助の死から数えて一時間と十二分ほど後。準備を整えた戌雄は再び死地を迎える。
冬の日曜日の朝。
「俺は武芸者だッ!!」
凍てつく曇天の下に発生した七対一の殺し合いは、とても永いものとなった。