スモウマスターvsエイリアンハンター   作:奈田

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第十一話 勤続三十年目の出退勤簿

 武芸者としての誇りに並ぶもう一つのプライドが戌雄にはあった。仕事は絶対に休まない。どんなに疲れていても必ず出社する。

 

 無遅刻無早退無突発欠勤。四十五歳となった今日に至るまで、三十年もの間この記録を男は途切れさせなかった。

 

「はあ、はあ、はあ……。もう、朝……か」

 

 薄暗い月曜日の朝。出勤の時間を迎えた血だらけの武芸者は、わずかに立ち位置をずらしてから座り込んでしまう。もう立っていられなかった。

 

 冬の厚い雲に遮られて東の空から差し込む陽の輝きはろくに見えない。光の乏しい世界で、唯一の生存者の周囲を七つの残骸が囲む。

 

 へし折れて砕けたモーニングスターの隣に、首が二百七十度ほど捩じれて千切れかかった偉丈夫の骸が転がっていた。

 

 雪が積もった電柱にぶら下がる若い女がいる。電柱の金具は女の眼球を貫き、脳幹に到達して、頭蓋骨で彼女の体重を支えた。

 

 電柱に突き立つ若い女だった肉塊の近くに、首から上を引き千切られた首無し死体がある。その数十メートルほど遠く。電線に絡まった頭部は感電により発火し、随分黒ずんでいた。

 

 胴着を緋に染めた膝立ちの武芸者は、腹に大きな穴を開けてすっかり冷えてしまっている。

 

 街路樹にもたれ掛かるような姿勢でこと切れた男の周囲には、もぎ取られた左右の腕があり、腕の末端は異形の汁を滴らせて凍っていた。

 

 打ち上げられたクジラを思わせて俯せに倒れたバクからは、血の色が混じった湯気が立ち昇る。心臓と脳が機能を停止したばかりの彼の血肉は、まだ熱量をかろうじて残していた。

 

 座り込んだ戌雄のすぐ脇。かつて七人の武芸者を束ねていた老人は、肩から上を念入りに摺り潰され、国亜商事警備保障部門としての役目をとうに放棄している。

 

 犠牲者たちと共に座り込んだ戌雄が生臭い呼気を吐きながらふと呟いた。

 

「朝ご飯を、食べる……暇は無いな」

 

 二十三時間五十七分三十六秒かけて七人の武芸者を皆殺しにした武芸者は、会社を休みたくないので、せめてシャワーだけでも浴びようと思いふらふらと立ち上がる。

 

 無遅刻無早退無突発欠勤。数少ない戌雄の自慢である。

 

 久方ぶりに休みを貰えた日曜日だったというのに、まったく休息を取れなかった四十五歳の工場作業員は、寝不足と疲労で死にそうになりながら朝の支度を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 知らず荒い息を吐いてしまう。

 

「はぁ。ひゅぅ、はぁ。……しんどい、な」

 

 機械部品を運搬する専用器具のレバーへと肉球が触れた。呼吸を整えた後。一拍呼吸を止めてから力を込めて運搬作業を始めた。

 

 運搬工程を経て所定のフロアに移動し終えれば、それらを人力で組み立てることになる。手慣れた仕事ということもあり、大した時間もかからず製品は完成した。もちろん完成した巨大な物体は、人力で持ち上げる必要がある。

 

「……よい、しょっ」

 

 下半身の骨に重心を乗せることを意識して製品を抱え、製品を傷つけずかつ体力を使わないよう慎重にベルトコンベアの上に乗せてやった。作業工程で力む都度に全身が痛む。

 

「うぅ……ぐぅ」

 

 工場作業に従事する中年ゴールデンレトリバー――戌雄。彼の顔は、黄金の毛並みに覆われてなお分かるほどに腫れあがっていた。

 

 戌雄の職場の仕事はどれもこれも足腰に負担がかかる重労働ばかりである。運動不足の素人であれば半日も持つまい。とはいえ彼は武芸者だ。普段の彼であれば汗一つかかずに作業を消化できる。この程度の動作でへこたれる武芸者はいなかった。しかし常と大差ない工場内作業を行う今日の彼は、文字通り“死ぬほど”体調が悪い。

 

「……まだ、始まった、ばっかりだ」

 

 死にかけの工場作業員は気合と根性で仕事を乗り切ろうとする。国亜商事警備保障部門担当者を名乗る武芸者たち。あの恐るべき使い手らとの死闘から実に三時間(・・・)ほどが経過した。

 

 三日ではない。三週間でもない。三時間だ。

 

 凄絶な死闘が行われたのは昨日や一昨日ではなく今朝の話である。現在時刻は午前十時前だった。録助を含めた八人との死合で重傷を負った戌雄は、あろうことかそのまま出社している。如何なる狂気に起因する行動か。病院には行かなかった。仕事を休もうとしなかった。この男は狂っていた。

 

「はぁ。はあ。……あぁ。全身が、痛い」

 

 重工業用パーツを製造する工場ということもあり、周囲には絶え間ない物音がけたたましく鳴り響く。幸か不幸か。音がうるさすぎて戌雄の苦悶の呻きはまるで目立たない。

 

「…………」

「うぃす」

「はー。しんど」

「眠てぇ……」

「……」

 

 しんどそうに作業をこなす戌雄に、同じくひどくしんどそうに働く職場の同僚たちは何も触れなかった。この工場での人間関係はいつものように薄い。唯一、現場監督だけが確認として体調を尋ねてきた。

 

「あー。戌雄。ちょっといいか?」

「……あぁ。はい。何ですか?」

「大丈夫か? 体調とか。具合とか」

「あぁ、はい」

「なんか体調悪そうだが」

「いえ。すみません。昨日酔った拍子に転んでしまったみたいで」

「おぉ。そうか」

「はい」

「あー。酒には気をつけろよ。若い頃みたいな感じで呑んでるとあんまり良くないからな」

「はい。気を付けます」

 

 現場監督と戌雄はそのような会話をする。責任感も感情もない会話だった。

 

「邪魔して悪かったな」

「いえ」

「労災……ではない感じか?」

「はい。大丈夫です」

「そうか」

 

 休めとも帰れとも言われなかったので戌雄は仕事を再開する。

 

 上司の現場監督も同様に自分の仕事に戻っていった。中肉中背で眼鏡をかけた現場監督は日々の仕事で今日も疲労が色濃い。余計な仕事をして体力は消耗したくないようだった。

 

 この職場の給料は相応に良い。だが仕事内容がハードだ。三か月も働けばゆとりは消え、他人の体調を気遣う余裕はなくなる。疲労由来の無関心を伴った日頃の積み重ねにより戌雄の完璧な出退勤簿はかろうじて保たれた。

 

「あー。きみ」

「はぁ。なんすか。えーと。戌雄……さん? ですよね」

「うん。えーとね。それなんだけど。それちょっと違うよ」

「あ。はい」

「一応マニュアルだと三段までってことになっててさ」

「あぁ。さーせん」

「いや。いいんだけどね。別に。マニュアル守ってる人あんまりいないし……」

「はぁ。うぃす」

 

 黙々と作業をこなし新人の尻拭いをする。臨機応変な構えで仕事を処理しつつ、歯を食い縛って負傷の痛みに耐えた。三十年間この工場に勤務してきたが、ここまでつらい仕事は初めてかもしれない。飽きるほど繰り返した単純な重労働作業を経て、武芸者同士の死闘を想起させる疲労感が積み重なった。

 

「あぁ。お昼、か」

 

 死合の渦中に見てしまった幻と同じ濃さの死の影が視界の端でチラつき始めた頃。やがてチャイムが鳴る。待望の昼休みだ。

 

「はぁ、はぁ、はぁ。あと、半日か。……がんばろう」

 

 痛む頭を肉球で押さえる。立っていることが難しかった。

 

 チャイムの音で気が抜けたのかもしれない。安全上褒められたことではないが、運搬用パレットに腰を下ろしてしまった。座り込んだ姿勢で俯いて息を整える。

 

「……ごはんは、たべ……れない、な」

 

 昼休みはご飯を食べずに、休憩室で横になって過ごそう。そう思った。少しでも睡眠を取ればいくらかは楽になるはずだ。パレットに座りながらぼんやりと考える。楽観的な思考で戌雄は自分を励ました。

 

「やすんで……またがんばろう」

 

 突発の残業さえなければ定時まであと半日なのだから気合を入れよう。そう思った矢先に現場監督がこちらに近づいてくる。

 

「戌雄。ちょっといいか」

「あ、はい」

「何か工場長が話あるらしい」

「……あぁ。そうですか」

「昼休みのうちに事務所に行ってくれるか?」

「……事務所ですか」

「ああ。四階の」

 

 来客用のものと搬入用のものを除いてこの職場にエレベーターなどない。結構な数の階段を昇る必要のある場所への呼び出しを喰らった戌雄は、流石に気が滅入るのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戌雄が勤める工場の責任者。彼はラッコである。名を川島という。

 

 人間サイズのラッコたる工場長の川島と戌雄は面識がほとんどなかった。顔は知っている。稀にすれ違った折、目線を合わせない程度の雑な挨拶を交わしたことも何度かあった。それだけだった。好悪云々の前にそもそもの関わりが薄い。工場での人間関係などそんなものだ。

 

 そんなラッコの工場長こと川島が――

 

「いやあ。すみません。わざわざお越し頂くなんて」

 

 ――応接机を隔てて対峙する相手に必死の阿りを見せていた。

 

「本来ならわたくしどもが直接出向くべきところをわざわざお越し頂くなんてほんとうに申し訳ございませんねぇ。はい。あ。このお茶請けと言いますかお菓子と言いますかは、地元の大変評判の良いものでありまして。もちろんもちろん賞味期限の問題は問題ございませんよ。はい。つい先日、はい。ついつい先日買ったばかりの品でございますので。あぁもちろんもちろん。こんな小汚い場所のものをお食べになられたくないというのでございますれば、それはご遠慮なさらずに。一応付け加えさせて頂きますと衛生面に関してはもちろん完璧に対応させていただいておりますのでその点に関してはご安心ください。はい。しかしご不要でしたらこちらで処分させていただきますので。はい。ほんとうにほんとうにこの度は申し訳ありませんでした。はい」

 

 ラッコの口先がぺらぺらと回る。

 

 人間サイズのラッコの工場長・川島の媚び諂い。頭の毛が薄い初老のラッコのそんな有様を、貴重な昼休みを潰してここまで来た戌雄は、先ほどから延々と見せつけられている。

 

 来客用のソファに座る長身の男と共に。

 

「……」

 

 川島に持て成される背の高い紳士は無言だった。

 

「……ぁあ。はぁ」

 

 溜め息のような音でラッコの長台詞に戌雄は随時相槌を入れる。

 

 場違いだ。呼び出された事務所へと赴くなり、地位がありそうな男の正面に、戌雄は何故か座ることになった。腰を下ろしたソファの不気味な柔らかさに困惑する中年犬はひたすら委縮することしかできない。負傷とは違う意味で頭が痛かった。

 

 ちらりと正面の方に目線を向ける。川島から持て成される来客。この瀟洒な紳士が何を考えているのか。まるで読めなかった。

 

 嫌味にならず安っぽさもない見事な均衡を保ったデザインの腕時計。解れの欠片もない完璧な仕立てのビジネススーツ。きちんと整えられた髪と剃られた髭。

 

 これらを見ればすぐにそうとわかる上流階級の男は、お茶にも菓子にも手を付けず、ただ値踏みするかのように戌雄を睥睨する。

 

 ラッコの工場長こと川島から横目でちらちらと見られた。そして長身のジェントルマンからは見下される。そんな二つの目線に挟まれた戌雄は、この場に自分が何故呼び出されたのかわからず、ただひたすらに縮こまった。

 

「ああ。そうです。そうでした。ご挨拶が遅れました。大変大変に申し訳ございません。はい。ほら。戌雄くん。ご挨拶差し上げて。このお方に」

 

 どれだけラッコの長口上が続いたのだろう。

 

「あ、あの……戌雄です。はい」

 

 逃がしに逃がし続けたタイミングを経て、見知らぬ長身の紳士に戌雄はようやく挨拶した。

 

「……」

 

 戌雄の声を聞いてなお男の表情は変わらない。中年犬の挨拶を聞き逃したのではない。聞いた上で表情を変えなかったのだ。

 

 神経質そうな目つきのなかにどこか暴力性を孕ませ、なおかつ宿した凶暴さを完璧に制御している。

 

 ……なるほど。相当な傑物だ。

 

 目の前の紳士の精神性が武芸者としての勘でわかった。この人物の器は相当なものだ。

 

 無責任に相手を値踏みする戌雄の心中を知ってか知らずか。川島による必死のゴマ擦りを先ほどから無視し続ける男はようやく口を開いた。

 

「私の息子が殺された」

 

 どこか聞き覚えのある声が貧相な事務所内に余韻を伴って満ちる。

 

「ひああ」

 

 目の前のジェントルマンがこの工場に来た理由。これを知らなかったらしいラッコの工場長は、男が告げた言葉を聞くと同時に素っ頓狂な声を発した。どうやら大変な事態に巻き込まれてしまったらしい。現状を察した初老のラッコは大いに取り乱す。

 

 錯乱し始めた川島をやはり無視したまま長身の男は話を続けた。

 

「私の息子を殺したのは戌雄という男だ」

「は、はぃいい! 今すぐ! 今すぐ戌雄なる輩を懲戒解雇致しますぅう! あなた様のご子息をご殺めた極悪人につきましては今すぐ! 今すぐ懲戒解雇致しますのでなにとぞ! 何卒この工場につきましては! 戌雄なる輩と完全な無関係にございますこの工場の処遇につきましては何卒ご容赦のほどをよしなにぃいいい!」

 

 こんなちっぽけな工場など簡単に踏み潰せる権力と財力を持つであろう男は、決死の懇願を見せるラッコの工場長など一切意に介さない。

 

 ただじっと――戌雄という武芸者を見ていた。

 

 こちらを見据える男の鋭く冷徹な眼に見覚えはない。暴力と金銭が飛び交う恐ろしい世界でひとかどの力を手に入れた一流のビジネスマンは、恐ろしいほどに冷静沈着な眼差しで、戌雄なる男と相対した際に生じるコストパフォーマンスを値踏みしていた。

 

「……あぁ」

 

 そして戌雄は悟る。

 

「そう、ですか」

 

 本物の武芸者たちとの死合を経て否応なしに極限まで研ぎ澄まされた直観で戌雄はすべてを理解した。

 

 つい一週間前のこと。

 

 ファック&スレイチーム『ケルベロス』を名乗る不良少年たちを皆殺しにした。

 

 あの不良グループのリーダー格と思しき背の高い少年の顔をかろうじて思い出す。あの少年を思い出してから目の前の紳士をよく見れば顔立ちが似ていた。血の繋がった親子なのかもしれない。

 

 何もかも理解した。録助という武芸者を差し向けてきたのはこの紳士に違いない。録助を殺した後に七人の武芸者を寄越したのも、この瀟洒な男と考えて問題ないだろう。

 

 ファック&スレイなどという反社会的で無駄な遊戯にのめり込んだ出来損ないの息子が殺された。その正当な復讐として子飼いのヒットマンを男は差し向ける。しかし送り出した武芸者たちは悉く返り討ちに遭い、標的の男は戦闘力を残したまま仕事を平然とこなしていた。これらの情報を精査した男は、ビジネスマンとしてサンクコストの切り捨てを行い次の策を即座に行使する。

 

 刺客を用いた暴力による報復は失敗した。ならば別の手段で報復するのみ。警備保障部門を壊滅させた在野の武芸者を相手に、もう一度刺客を差し向けるのはコストがかかりすぎる。ならば妥協しよう。仕事を奪うことで手打ちにすべきだ。

 

 甘やかした結果ろくでなしになってしまったバカ息子を無名の猛者に殺された報復として、過不足のない取引と言える。過度に追い詰めるのではなく、事実に対する適量の責任を淡々と追及する。長身の紳士が行ったのはスマートな大人の復讐だ。

 

「この案件に関する質疑は必要か?」

「いえ。お見それ致しました」

 

 一流のビジネスマンに向け、敬意を込めて一礼する。

 

 戌雄の胸中に理不尽への憤りはない。あるのはこの人物と敵対してしまったことに対する後悔。あとは心からの納得だけだ。

 

 こちらは命を拾い、相手は一応の報復を済ませる。感情論を排した完璧な取引だった。

 

 取引を終えた戌雄に対し、頭頂部の毛髪機能の衰え著しいラッコの工場長が感情的に喚く。

 

「戌雄くん! きみはクビだ! さっさと出ていきたまえ! 懲戒解雇だから退職金は出ないからね!」

 

 無理もなかった。彼とて生活がある。家族がいるのだ。

 

「……」

「な、なんだね?」

 

 三十年以上お世話になったラッコの工場長・川島に戌雄は目を向ける。彼に対しても怒りは湧いてこなかった。

 

「今までお世話になりました」

 

 社会人の礼儀として頭を下げる。最後まで人との関わりが薄い職場だった。

 

 そして職を失ったばかりの平凡な男の前に、新たな運命が訪れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は金なり。一流のビジネスマンは機を逃すことなく行動した。

 

「では本題に入ろう。鎌瀬(かませ)戌雄(いぬお)。きみとビジネスの話がしたい」

 

 長身の紳士が不意に口を開く。紳士の手駒を皆殺しにした武芸者はボコボコの顔をきょとんとさせた。もう既に要件は終わり、この紳士と自分の関わりは断たれたのだと思っていた。

 

「あ、はい。何ですか?」

「今しがたきみは職を失ったようだ」

「はい。不満はありません。正当な取引でした」

「好都合だ。きみを我が国亜商事の警備保障部門にスカウトしたい」

 

 長身の紳士――国亜玖忍(くにん)の言葉に武芸者は目を見開く。

 

「え、は、……なぜ?」

「我が社は警備保障部門の人材を失った。早急に補填する必要がある。職を失ったばかりの一流の武芸者がいるなら声をかけるのは当然だろう。これ以上の説明が必要か?」

「あ、いや。でも」

「疑問は言葉にするように。我が社でステップアップを目指したいなら曖昧な報告は極力避けるようにしろ」

「あ、はい。すみません。えーと。えーと。その」

 

 長きにわたりまともに交渉事を行うことのなかった中卒の中年はもたもたと会話のような何かを始めた。頭の巡りの遅い低学歴の工場作業員の言葉を本物のビジネスマンは急かすことなく汲み取ってゆく。

 

「あの、俺は……あなたの息子さんを殺して」

「その件に関するすべての交渉は完了した。遺恨は何もない」

「あ、あとあなたの会社の……武芸者の人たちを」

「あの八人を皆殺しにするとは見事だ。賞賛に値する。まさかこれほどの武芸者が在野に埋もれていたとはな。これも縁だろう。我が社としては是非きみが欲しい」

 

 玖忍は一貫して感情を排して戌雄をスカウトしようとした。ゴールデンレトリバーは信じることができない。これほどの人物が自分を評価してくれるなど。これまでの人生で軽んじられ続けてきた要領の悪い武芸者はこの現実を認めることができない。

 

「俺を……恨んでないんですか?」

「恨むとすれば、不用意にきみと敵対した私自身の判断だけだ」

「いえ、違います。悪いのは全部……俺で……」

「きみほどの人材とは、もう少し穏便な出会い方をしたかった」

「……俺も、です」

 

 長身の紳士の背に付き従う自分の姿が、一瞬だけ脳裏を過った。

 

 この紳士はどこぞの土地を牛耳る有力な支配者なのだろう。これほどの人物に従うのは、武芸者として至上の名誉に違いなかった。

 

 なのに従うどころか敵対してしまった。そして生き延びた。

 

 武芸者として従いたいと思える本物のビジネスマン。一度は敵対したそんな人物が自分の実力を認め、多大なコストを払い、自らの足で直接出向き、真っ向からスカウトしてくれる。

 

「これもまた、武運か」

 

 人生を覆す千載一遇の運命は、今まさに目の前にあった。

 

 長身の紳士は立ち上がる。戌雄が自らに従うことを疑いもせずに。

 

「行くぞ。戌雄よ。業務の引継ぎをせねばならん。しばらく忙しくなるぞ」

「あ、はい。えーと……」

「玖忍だ。抵抗があれば社長と呼べ」

「……はい! 社長!」

 

 戌雄は椅子から立ち上がり、工場から去り行く玖忍に付き従う。あまりにも自然な在り様だった。

 

「き、きみは一体……な、何なんだ?」

 

 そんな二人の様子をラッコの工場長こと川島が呆然と見送る。戌雄は振り返った。工場作業員としての最後の言葉を発する。

 

「武芸者です。俺は武芸者だ」

 

 勤続三十年目の一月末。

 

 戌雄の無遅刻無早退無突発欠勤記録はここで途切れた。

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