六十年ほど前の話だ。
小型犬の夫婦が手付かずの荒れ野を開拓した。苦労して開拓した土地はいつしか“商店街”と呼ばれるようになった。些細なことで暴力が吹き荒れ、一帯の支配者の首が容易く換わるこの世界にあって、何の後ろ盾も持たぬ小型犬の夫婦の開拓地が、紛いなりにも勢力の一つという形にまで発展できたのだ。驚嘆すべき奇跡と言えよう。
ヨークシャーテリアとパピヨンの夫婦――八木夫妻に卓抜した能力があったわけではない。
第三勢力たる“商店街”への侵攻というリスキーな軍事行動を周辺地域の支配者たちが当時避けていたこと。支配者からの干渉を逃れ平和な居住地を求め、“商店街”の発展に尽力したいと思う移住者たちが大勢いたこと。これらの要因が重なったおかげで、小型犬の夫婦の開拓地は、勢力の一つとしてかろうじて数えて良いほどにまで成長できた。
折に触れて八木は当時の思い出を振り返る。
自給自足ができれば万々歳と考えて荒れ野を開拓しようと思った。無謀な挑戦をする小型犬の噂を聞き付けて集まってきた人々が勝手に土地を発展させていった。そして紆余曲折を経てまとめ役に収まってしまった。幾つもの奇跡に恵まれて成立した商店街を見守る日々は、夢で見ることすら叶わぬ幸福な時代だった。
「いやあ社長さん。悪いね。わざわざご足労頂いて」
「気にする必要はない。事故を起こしたのはこちらなのだからな」
年明けのごたごたが一段落した後の休日のこと。商店街のメインストリートに軒を連ねるちゃんこ屋で、商店街の町内会長こと人間サイズのヨークシャーテリアの老犬こと八木は、長身の紳士とテーブルを挟んで向き合っていた。
完璧な仕立てのビジネススーツを纏った長身の男――玖忍は、礼瑠との死闘による負傷で全身包帯ぐるぐる巻きの戌雄を従えて八木に応じる。
「そういやあ、そっちの人は大丈夫かい? 大怪我してるようだが」
「交通事故だ。気にしないで貰いたい」
「あ、はい。交通事故です」
「ま…また事故ったのか。そろそろ死人が出るんじゃないのか」
「あ、大丈夫です。今回は出ませんでした」
「えっ」
「戌雄よ。少し黙っていろ」
「あ、はい。ごめんなさい」
年末年始の折にデカい装甲フェローリで茶の間に突っ込んだ賠償の相談という名目で戌雄と玖忍は八木老犬のもとを訪れた。本題に入る前の世間話で八木をフリーズさせた戌雄を窘めつつ、国亜商事の支配者は会話を続ける。
「では改めて補償の話をしようか。八木町内会長。先日は失礼した」
「あぁ、いや。構わねえよ。十分な慰謝料は貰った」
「すみませーん。お待たせしましたー」
で。その流れを断ち切るように若い女の声がした。
「お待ちどーさまでーす」
台車をがらがらと引いてきたエプロン姿の女は、お茶菓子の代わりとばかりにあつあつのちゃんこを三人の前に置いてゆく。
出されたのはただのちゃんこではなかった。このちゃんこ屋の人気ナンバーワンちゃんこ、その名も『チーズバターちゃんこ』である。そのカロリーの暴力は殺人的だった。
「おい。
「えー。今お昼時でしょー。ならがっつりちゃんこ食べなきゃー」
「……まあいい。とにかく、ちょっと難しい話するからお前は一回どっか行ってろ」
「もー。子供扱いしないでよー」
会合の場に見合わないとんでもないボリュームのちゃんこを頼まれてもいないのにお出ししてきた女は、八木老犬に不満な顔を見せながらすごすごと去ってゆく。
「社長さん悪いな。昼時だからって陽乃のやつが調子に乗ってデカいもん出して。あー、もしかして飯は食べて来た後か? なら下げさせるが」
「いや。折角のご馳走なのだから我々は頂こう。戌雄よ」
「はい。社長」
「私の分を食べていいぞ」
「あ、はい」
「あー、戌雄さんっつったか」
「はい。八木町内会長さん」
「正直ワシは最近食が細くてなぁ。良かったらワシの分も食べて構わん」
「あ、はい。頂きます」
そして戌雄は三人前のチーズバターちゃんこを食べることになった。ばくばくばく。
「うまっ。マジで美味いっ」
流石は武芸者と言うべきか。三人分のデカ盛りちゃんこを躊躇うことなく戌雄は腹に入れる。
「あの女性は八木町内会長のご息女か?」
「いや。孫だ。あの子の親……ワシらの娘の婿養子は元力士でな。角界を引退した後この店を出したんだ。今はあの子がこの店を切り盛りしてる」
「婿養子殿は今どちらに?」
「それがなぁ。二年くらい行方不明なんだ。あの野郎は力士だったが、当時に武芸者でな。おおかたどこぞで武者修行でもしてんだろう。まったく。こんな“大変な時期”に無責任な野郎だ」
完食したが最後、血糖値スパイクでまともな会話が不可能になる代物を戌雄に押し付けた二人の支配者はビジネスの話を始めた。
「大変な時期とは、何かあったのか?」
「ああ。実はな。……この商店街は“オットセイ”の連中に狙われてるんだ」
多少目端の利く者であれば、とっくにわかり切った事実を八木は口にする。玖忍は初耳という顔で八木の話を促した。
「オットセイか。それは大変なことだ」
「何でもこのあたりはビジネス的に大事な立地にあるらしい。前までは他の勢力の連中がお互いに牽制しあってたおかげでこの商店街は放置されてたんだが、オットセイの連中は周りの勢力を全滅させやがった」
「酷い話だ」
「おかげでワシらはこの商店街を出ていくことになりそうだ」
ばくばく。がつがつ。
「はふはふ。うまっ」
思ったよりボリュームがあったチーズバターちゃんこを喰らう戌雄は、滝のような汗を流しながら上司らの話を何とか把握しようとする。
「オットセイたちは“セイオーマート”の新規店舗を建てようとしてるんだとよ。そのお店に続くハイウェイ建設のために商店街を潰そうとしている。ありがちでクソみてえな話だよまったく」
「ふむ。そうか。ならば我が社――国亜商事がこの町内会を守ろうではないか」
大量のカロリーを取り込む武芸者の隣に座る玖忍が、この町内会への干渉を明言したのは、戌雄が二杯目のちゃんこを完食した頃だった。その言葉を耳にした八木は困惑する。
「なっ。冗談でもバカなこと言っちゃいけねえよ社長さん」
「バカなこと? 私は真剣に言っているのだが」
「確かに社長さんの気持ちはわかる。オットセイの言い分は理不尽極まりねぇ。ワシだってあいつらの理不尽な恐喝に納得なんてできん」
「それならば……」
「それでもオットセイ相手に抵抗するなんてことしちゃいけねえんだよ。奴らは極悪で狂暴で情け容赦のない最悪な連中だ。最低の種族だよ。だがな。金の話なら通じる。自称とはいえビジネスマンを名乗ってるからな。歯向かえば皆殺しだが、交渉のテーブルに付けば生き残れるし、何より多少なりとも金が貰える。金を受け取って大人しくここから出て行って、貰った金で新天地の生活を何とかするのが賢い生き方だろうよ」
「何を言っているのだ。八木町内会長」
困惑する八木に玖忍は少しずつ毒を流し込んでいった。
「それは賢い生き方ではない。単に自堕落な方へと流されているだけだ。金が必要なのか。よろしい。金なら私が出そう。先日の事故の慰謝料だ。そしてオットセイに対抗する戦力がないというのであれば、追加の慰謝料として我々、国亜商事がセイオーマートに抵抗できるだけの戦力も出そうではないか」
「だ、だからそんなことは冗談でも言っちゃいけねえよ!」
「何故だ?」
「だって、そりゃあ」
「言葉を濁すな。はっきりと口にしろ。八木町内会長」
「……“人間”はオットセイに絶対太刀打ちできねえんだ。ワシらみたいな普通の人間がオットセイに勝てるわけないだろ!」
「勝てる」
「えっ」
玖忍は断言する。オットセイを皆殺しにして彼らの経済力と軍事力を根こそぎ奪い取ろうとする勢力の主は、確固たる口調でオットセイへの勝利を宣言した。
「ふぅー。流石にお腹いっぱいです」
同時。チーズバターちゃんこ計三杯を平らげた戌雄が満足げな吐息を漏らす。
「八木町内会長」
「な、なんだ?」
「そもそもあなたは何故この会合に応じたのだ?」
「そ、そりゃあ、この前の件に関する慰謝料の話し合いがしたいっていうから……」
「私の力があればオットセイに対抗できるかもしれないと考えたのではないのか?」
「そんなことは……」
「慰謝料の名目でオットセイとの交渉を優位に進める金を毟り取る。あわよくば我が国亜商事を悪名高き暗黒巨大企業セイオーマートにぶつける。そう思っていたのではないのか?」
「そんなことは思っちゃ」
「答えよう。八木町内会長。この勢力“商店街”の長よ」
玖忍はちゃんこ屋のテーブルに据え付けられた椅子から立ち上がった。二メートルはあろう長身で小柄なヨークシャーテリアを睥睨する。
「オットセイとの交戦。この件に関して返答はできない」
「……は?」
「今はまだ、な」
「それってどういう」
「行くぞ。戌雄よ」
「あ、はい」
「八木町内会長。これは手付金として渡しておこう。好きに使うといい」
チーズバターちゃんこのせいで体重が五キログラム前後増量した戌雄は、腹の重さに苦労しながら、ちゃんこ屋を出ていこうとする玖忍を追った。去り際。腹芸なんてできないしする気もない中卒の中年犬が老いた小型犬に顔を向ける。
「あの。町内会長さん」
「なんだ。あんた」
「もうしばらく待っててください。こちらも準備がありますから」
「戌雄。余計なことを喋るな」
「あ、はい。すみません」
そんな戌雄と玖忍に、オットセイに脅されるヨークシャーテリアは茫然と呟いた。
「まさか、あんたら最初から」
商店街の長たる八木の眼に映るのは、希望か、絶望か、欲望か。玖忍たちを見送る老ヨークシャーテリアは、これからどうすればいいのか見当もつかぬまま、まるで口止め料とばかりに置かれた追加の十億円の小切手を手に取った。
優美にしてイカついシルエットの車体を完璧に舗装された高級アスファルトがエスコートする。上流階級に属する者しか入れないセレブハイウェイを装甲フェローリが疾走していた。その重装甲の車体はロケットランチャカが直撃したところでびくともしないであろう。仮にそれを上回る兵器によりアーマーを貫かれたところで、後部座席に座す者を害することはできないはずだ。
一流の武芸者が運転する装甲付き改造車。この世界で最も安全なそんな場所に君臨する長身の紳士が、最も信頼する手駒に話しかける。
「正直に答えろ」
「はい」
「オットセイ勢力――セイオーマートの打倒に、あとどれだけの戦力が必要だ?」
「はい。俺と礼瑠ちゃんと……あともう一人、俺と同程度の実力の武芸者がいれば第一波の正面戦力は何とか殲滅できます」
「そうか」
武芸者の動体視力と反応速度を生かした完璧な運転を行う戌雄は、答えた後に少し思案した。
「皆殺しに必要な戦力はわかりません。ゲリラ戦を展開するオットセイを叩き続けるのは、武芸ではなくビジネスの領分の話になりますから」
「それは私が何とかする。お前は直接的な戦闘に関してだけ考えろ」
「はい。……あの」
「なんだ?」
「俺の意見よりも、国亜商事の専門家の方の考察を参考にした方がいいと思います。俺は武芸の心得はありますが長年工場勤務をしていた素人で」
「それはない」
強い断言で玖忍は戌雄の言葉を遮る。
「暴力の分野において私は、お前の提言を最優先すべき事柄として扱う」
「それは流石に……」
「弁えろ」
「は、はい?」
「お前の価値を評価するのはお前ではなく私だ」
「……はい!」
会話に一区切りを付けるように玖忍が煙草を取り出した。だが火を付けることなく指先で弄ぶ。ちなみに戌雄は酒も煙草も呑まなかった。
「そろそろ礼瑠が退院するな」
「あ、そうですね。軽い脳震盪で済んだみたいで……よかったよかった」
「頃合だ。次の仕事の話をするぞ。わが社の支配地域で問題になっている武芸者がいる」
「またですか。よくいますね。問題になる武芸者」
「わが社の金融部門に作った借金を踏み倒して好き勝手しているクズだ」
「……力のある武芸者はろくでなしも多いですから、まあ、その……はい」
「見込みがあるなら礼瑠と同じくスカウトしろ。不要なら殺せ」
「はい。社長」
取り出した煙草を咥えることなく握り潰した支配者は、自身が所有する最強の牙に命じた。国亜商事の新たな警備保障担当者候補――借金塗れのろくでなし武芸者の捕縛もしくは殺害を。