巨大生物の口から湿った袋を引き攣らせたような音が漏れる。
「……ぐ、ぐぴっ」
礼瑠が放ったアンチマテリアルチャカによる狙撃が直撃したオヤブーンは白目を剥いて失神した。
流石は世界最強の戦闘種族――その統率個体というべきか。超大口径チャカの破壊力を受けてなお即死はしていない。まだ生きていた。逆を言えば生きているだけだった。衝撃で首の骨は粉砕骨折し、重篤な脳挫傷も発生しているし、あとは頭蓋骨が盛大に陥没している。文字通りの虫の息だ。
「おうおうおうお!?」
「おうおうおう!?」
「おうおうおうおうお!?」
首尾よく“商談”が纏まろうとしていた矢先。親分がいきなりノックアウトされたことにオットセイたちは混乱する。されど彼らとて戦場とビジネスの場を生き延びて来た百戦錬磨のオットセイ。
「おうおうおう! てめえらよくも親分を!」
怯えて逃げ惑うような無様は晒さなかった。恐怖するのではなく逆切れする。ヤクザのメンタルだ。親分がやられたことを受け、武闘派で知られる若頭級オットセイが瞬間的にぶち切れながら商店街の住民たちに迫る。無辜の民を鏖殺せんと迫り来る恐ろしい若頭級個体――
「……させないッ」
――の懐に、影が滑ってきたかと誤認するほど巧みな重心移動でゴールデンレトリバーが潜り込んで来た事実にオットセイは気づけなかった。商店街勢力とセイオーマートの間に発生した武力衝突に介入してきた人間サイズのゴールデンレトリバー。この者は一体何者なのか。
「わふぁあああッ!」
「ごぱッ!?」
気合の入った呼気と共に佐崎式剛撃術の一撃を放った武芸者の名は戌雄といった。体重にして数トン差というバカバカしい階級の違いを覆す凄まじい剛撃が若頭級オットセイの胸郭に叩き込まれる。若頭級オットセイは背骨をへし折られて即死した。
「おうおうおうおう! てめえこら調子乗ってんじゃねえぞ!」
若頭級個体のうち一体が目の前で殺されたというのに、オットセイたちの気勢はまったく衰えない。世界最強の戦闘種族の名は伊達ではなかった。そしてこの場は集団戦である。未だ状況を把握できておらずとも、とりあえずの判断で暴力を振るうことにしたオットセイらのうちの一人が戌雄に迫る。躊躇いのない行動だった。
「おう。てめえもな。調子に乗んなデブ」
「おごぁあ!?」
戌雄を狙う個体の胴体に朱線。素晴らしい脚力で駆けてきた灰色パーカーの男がラップの芯で胴を薙いだ。オットセイは真っ二つになって死ぬ。
「いい弾力だ。オットセイは斬り応えがあって愉しい獲物だな」
ラップの芯に付着した脂と血を
「おうおうおう! 舐めてんじゃねえぞこらぁああッ!」
「おうおうおう! ぶち殺してやらぁあああッ!」
「おうおうおう! 人肉加工工場送りにすっぞおらあッ!」
戌雄と慈葉蔵。この一流の武芸者二人と相対するオットセイたちはそれでも臆することなく暴力性を発露させた。我らこそ世界最強の戦闘種族オットセイ。矮小な人間如きに後れを取るはずがない。自らの肉体が宿す暴力に絶対の信を置く彼らは、今しがた仲間たちを秒殺した二人に次から次へと襲い掛かった。流石は傭兵上がり。即席のフォーメーションを構築した暴力生物が、肉の城砦を構築して武芸者を囲む。数十匹単位のオットセイの迫力は凄まじかった。幾ら何でも多勢に無勢。戌雄と慈葉蔵の技量を以てしてもこの戦況の突破は不可能だ。
「おがっ!?」
「おうおうお――ぎゃがッ」
「おうおうおがッ!?」
銃声が轟く。
武芸者を取り囲んでいたオットセイたちは急所を“消滅”させて矢継ぎ早に倒れていった。遠方から飛び込んできた超大口径のチャカ弾頭が次々に直撃する。どれもこれも即死だった。
「お、おうおう!? な、何が起きたってんだ!」
白兵戦でやられたわけでもないのに倒れていく同胞たちにオットセイらはいよいよ混乱する。全く以て間の抜けたことに、オヤブーンを倒した一撃も、仲間たちが倒された一撃も、それが狙撃に由来するものだと彼らは理解していなかった。この誤認は戦闘経験不足に由来するものではない。逆だ。実戦経験豊富であるがゆえ、逆に警戒心が欠けてしまっている。
世界最強の戦闘種族オットセイたちは、強靭な外皮と分厚い脂肪のおかげでチャカも刃物もほとんど効かなかった。ロケットランチャカが直撃しても生存に支障がない。頑丈すぎるせいで狙撃への対応が疎かになりがちなのだ。遠方からの狙撃で殺されるなどという事態は彼らの戦闘教義の外である。
がこん。空鍋の蓋が投げ落とされるような音が春先のどこかで響いた。
「ごめんねオットセイさんたち」
遥か二キロ近くの遠方でバカバカしいサイズの薬莢が排出される。オットセイを屠ってゆく礼瑠が小さな声で謝った。
彼女は猫が嫌いだった。嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで仕方なかった。しかし社会に対する恨みを抱えているとか。罪無き人々を撃ち殺すことに快感を覚えるだとか。あるいはトリガーハッピーであるとか。そういう趣向はまったくない。もちろんオットセイにだって恨みなどなかった。でもご主人様の玖忍からお願いされると彼女は絶対に逆らえない。主の支配に望んで縛られる武芸者は大好きな玖忍の命令に従ってひたすら狙撃を継続した。
恐るべきは超絶狙撃精度。強靭な外皮のわずかな隙間を狙い、さらには内側の分厚い脂肪と筋肉の隙間も狙うという連続の奇跡を為さねば、飛び道具でオットセイを屠ることはできない。最新世代の戦車砲でも持ってくるならまだしも、個人が携帯できる火器でオットセイを仕留めることは、ゾウの爪を切る専用器具で蟻の爪の手入れをするのと同義の曲芸だ。
彼女はそれが当たり前にできた。
「おうおうおう――」
ざしゅ。
「――お?」
遠方からの攻撃に萎えかけた暴力性をオットセイは奮い立たせる。奮起するも即座に首を刎ね飛ばされた。ラップの芯で。
「良いラップの芯だろ? 負ける気がしねえぜ」
オットセイの返り血と帰り脂に塗れた慈葉蔵はひどく楽しげだ。礼瑠の支援を受けて自由自在の絶好調に動き回るラップの芯使いの姿は、春の雑草が仰ぐ芝刈り機の全能感を宿している。
「おうおうおう! 人間風情がオットセイに……ごばッ!?」
斬撃によらず打撃によってオットセイが即死した。
「ここは戦場です。恨まないでください」
犬の手によるものとは思えぬ衝撃と轟音。慈葉蔵と連携して戌雄もオットセイを仕留めてゆく。かつて工場作業員だった中年犬の動きには淀みも迷いもない。
真冬のパチンコ屋の駐車場。武芸的狂気に捕らわれた超一流の武芸者との凄絶な殺し合いから早三か月が過ぎた。世界は春の盛りにある。
この三か月間。
対オットセイに特化した連携訓練を戌雄と礼瑠と慈葉蔵の三人は絶えず行ってきた。流した汗を敵が流す血に変換させる武芸者たちは、仕える主の狂気に当てられて次々にオットセイを仕留める。
商店街とセイオーマートの戦いは、桜の花弁の舞と共にしばらく続いた。
春のぽかぽかとした光がよく晴れた空から注ぐ。冬を抜けた先の春の日差しが商店街をじんわりと温める。温められた血と臓物が悍ましい臭気を発した。
血。
血だ。糞便と脂と血と肉の混ざった臭い。よく嗅ぎなれた死臭がした。
「――――お、おががッ」
戦闘種族と傭兵の本能に基づいて、血の臭気を嗅ぎ取った親分級オットセイが何とか目を覚ます。春の陽気に揺られて意識を失っていた彼はすぐさま情報を把握した。
「お、おごッ、おうッ、おごご!」
周囲を見遣る。何としたことか。群れが壊滅状態にあった。もはや一刻の猶予もないだろう。群れの統率者として判断を迫られていた。しかし激痛と鈍痛と強烈な痺れがオヤブーンを押さえつける。
「ぐごごッ、おごごッ!」
痛みなど知るか。彼こそは当代におけるセイオーマートの支配者。プロ根性で死にかけの体を強引に動かして叫んだ。
「おうおうおうおうおうおうおうおう!」
礼瑠の狙撃によって顎が砕けている。人語は喋れなかった。なのでオットセイ諸語でオヤブーンは必死に命令を発した。
撤退の命を。
「おうおうおうおうおう!」
「おうおうおうおうおう!」
「おうおうおうおうおう!」
為す術なく一方的に殺され続けていたオットセイたちは親分から下された命令にすぐさま呼応する。
撤退。撤退するのだ。
オットセイは世界最強の戦闘種族である。分厚い脂肪と強烈な暴力性を有する彼らはいつだって頂点捕食者として戦場に君臨した。しかしオットセイの真骨頂は戦闘能力ではなく組織力にこそある。
「親分。大丈夫ですか?」
「おがッ、おごごごッ」
眼鏡をかけた若頭級オットセイがオヤブーンを支えた。苦し気なオヤブーンがのそのそと歩き出す。瀕死だ。瀕死だが凶悪な眼はまだ生きている。
「おうおうおうおう! 撤退戦だぁ!」
「おうおうおう! 親分を守りやがれぇええ!」
「おうおうおう! 肉と脂肪の盾になるぜ!」
下っ端オットセイたちは文字通りの肉の壁となってオヤブーンらの撤退を支援した。プライドに任せた玉砕を選ぶのではなく、多大な代償を払いながらもかろうじて次に繋がる撤退をセイオーマートは選ぶ。オットセイは極大の暴力に総身を浸すヤクザじみた集団だ。そして巨大企業に従事するビジネスマンでもある。
流石は親分級オットセイか。状況に応じて逃走も選べるクレバーさ。これこそがセイオーマートがここまで力を付けた一因と言えよう。
「おうおうおう! 撤退ぃいいいッ!」
「おうおうおう! ズラかるぞぉおおお!」
「おうおうおう! 久しぶりの負け戦だぜ!」
そこから先は早かった。
生き残ったオットセイらはヤクザ高級車へと逃げ込む。逃げることを恥とするのではなく親分の命令を果たせないことを彼らは恥とした。一目散に逃げていくオットセイたちを慈葉蔵は背後から数人殺傷する。幾度か首級をあげたところで追撃は中断させられた。死んだオットセイの巨体が邪魔で追いつくのが難しかったからだ。
「ちっ。せっかく愉しくなってきたところだってのによ」
「深追いは禁物です。俺たちの仕事はこの商店街を守ることですから」
「わーってるよ戌雄のおっさん」
すっかり血に酔った慈葉蔵を戌雄は宥める。武芸者たちの息は乱れていなかった。十分な余力が残っている。まだ戦えた。武芸者は生きたまま春風の音を聞く。
「……勝った、のか?」
世界最強の戦闘種族オットセイ。彼らの強さを戌雄は絶対に過小評価していなかった。
実戦経験は相手の方が絶対に多い。頭数も相手が上。敗れる可能性も殺される可能性も十二分にあった。この場で死ぬ覚悟を決めて今日の戌雄はここにいる。
自らの主の狂気に当てられ、武芸者は死地に身を躍らせた。それなのにほとんど無傷でオットセイたちを退けてしまった。
「俺はこの間まで……工場で……」
これは本当に現実の光景なのか。元工場作業員の武芸者は信じられない。
「戌雄。慈葉蔵。あとは礼瑠。……よくやってくれた」
逃げてゆくオットセイを双眼鏡で見て勝利を確信したのだろう。戌雄たちからたっぷりと聞かされた説得の通り、セーフハウスに隠れていた玖忍がこちらに向かってくる。
「社長。危険です。出てくるのはもう少し時間を見てから……」
「何やってんだ社長。運動不足解消のウォーキングかぁ? 俺らの戦ぶりに高ぶって暴れたくなった気持ちはわかるが、流石にオットセイは舐めてかかると死ぬぜ? あとデスクワークやるときは定期的に鍛えねーと早死にするってこないだテレビで見たぜ」
「お前たちのおかげでわが社はさらに飛躍できる。これからも警備保障担当者として励んでくれ」
戌雄は少し驚いた。常に冷静沈着な玖忍がそれとわかる笑みを見せるのは本当に珍しい。
春風に乗って桜の花弁が遠くに運ばれていった。気づけば随分遠くまで来てしまった。たった三か月だ。工場作業員として一生を終えるはずだった自分が、あの日の邂逅からたった三か月そこらでこんな場所まで来てしまった。素晴らしい技量を持った武芸者たちと共同で戦闘にあたり、世界最強の戦闘種族の群れを退けてしまった。これは夢ではないのか。工場勤務の疲労で草臥れた中年が、寝転んだ休憩室で見る幻ではないのか。
血と臓物と脂が醸し出す臭気と麗らかな春の日差し。目の前のすべてに現実感がひどく薄かった。
「社長……玖忍さん、俺は――」
「ああ。お前を雇うことができて良かった」
生まれながらのエリートとして完璧な人生を歩んできた長身の紳士が、中卒のゴールデンレトリバーに利き手を差し出す。
男たちの手は汚れていた。オットセイの返り血で。野望という狂気に焼べられた犠牲者たちの血で。完膚なきまでに汚れ切っていた。
「――はい。そうですね」
昼下がりの商店街で、血染めの手を握り合う。
主の手で冥府魔道の門を抉じ開けられた四十五歳の武芸者は、春の光に似て冒涜的に美しい輝きを放つ黄金の刻をようやく迎えた。