生きとし生ける者の命は重い。ならば必然として、かつて命の器だった物体もやはり相当に重かった。商店街を襲撃してきたオットセイたちの死体。単純に物質として重く大きいこれらの処理には大変な労力が必要となる。諸々の後始末が終わり、各々が休憩を取ってから再度集まる頃には、戦闘があった日の翌日の正午をとうに過ぎていた。
四月の末の昼下がりのこと。昨日に引き続き空には一面の青が広がっている。よく晴れていた。とはいえ初夏に差しかかる前のことであるし、陽当たりや雲の様子次第では、肌寒い風が吹くときも時折あるだろう。しかし今日この瞬間だけは、ぽかぽかと暖かくとても過ごしやすかった。
戌雄と玖忍が出会ったあの日から季節は巡る。中卒の工場作業員が国亜商事にスカウトされてから三か月と幾許かの時が流れた。八木宅の茶の間に装甲フェローリが突っ込んでからもうそれだけの時間が過ぎていたし、あるいはそれしか経っていない。冬から春にかけての期間で暗黒巨大企業セイオーマートを正面から退けるだけの戦力を国亜商事は獲得した。
そして今日に至る。
「はい。玖忍さん。あーん」
「いらん。口をつけたものを人に食わせようとするな。衛生面のリスクを考えろ」
商店街北側にある多目的ホールの宴会室の窓の外で桜の花びらが舞っている。あと数日もすれば散ってしまうであろう花霞が見える一室で、
「もー。玖忍さんたら照れ屋なんだからぁ」
渾身の「あーん」を拒否された礼瑠は次の行動に移った。情緒の赴くままに長身の紳士を女は押し倒そうとする。
「やめろ。馬鹿者。コンプライアンスを弁えろ。慎め」
礼瑠の顔面に身長相応に大きな手を押し付けた玖忍は、情熱的な女の求めを全力で拒否した。やんぬるかな。純粋な後衛とはいえ春物の薄手ニット帽を被った若い女――束華礼瑠は、紛れもなく一流の武芸者だ。二メートルを超える長身の紳士とはいえ、素人風情が彼女の求めに抗うことなど物理的に不可能である。
「やばっ。玖忍さんの手おっきい。めろい。大好き」
「……これ以上不適切な行いを繰り返すなら貴様への待遇を考える必要があるな」
「えー。こんな周りに人がいるとこでえっちなことなんてしないって。じゃあちゅーだけ。ちゅーだけしようよ玖忍さん」
「誰かいないか。こいつを引き剥がせ。業務妨害だ」
窓の外を見遣れば麗らかな春風に揺られて桜の花びらが優雅に舞っていた。今しか見れない美しい光景を眺めることができる宴会室にて、玖忍は礼瑠からそれはもうだるだるに甘やかされる。
すべては自己責任だった。真冬の空から天使の梯子が差した折。初対面の印象で絶大にして莫大な好感を稼いでしまっていた玖忍は、入院中の病院での逢瀬を経て、効率的なタイムアタックでもするようなスピード感で礼瑠を手に入れた。恋愛的ならび性的な意味で。
「今日は良いお日和ですなあ」
傍若無人にイチャつく二人の傍らに商店街の町内会長――ヨークシャーテリアの八木が現れたのは、二人の体勢にコンプライアンス的な問題が生じつつあった矢先だった。この場は商店街某所の多目的ホール宴会室である。しかも時間帯は真っ昼間だ。
「テーブルこの位置でいいか?」
「適当でいいよ適当で。それより座布団ってどこ? 何か茣蓙しかないんだけど」
「茣蓙でもいいだろ別に。それより机とかコップの位置どうする?」
「は? 良くないでしょ。宴会で茣蓙敷くってなに? 普通座布団じゃん」
「気になるなら座布団欲しい人が各々持ってくればいいだろ。そんなことよりテーブルと料理の確認とか事前に考えようぜ」
「テーブルとかコップの位置は後からでも直せるでしょ。でも座布団は仕舞ってる場所がわかんないと宴会中に面倒臭いことなるじゃん。私の言ってることわかる?」
「わかんねえよお前の言ってることはいつだって」
がたごと。がしゃん。ぱしーん!
オットセイ撃退成功を祝う打ち上げの準備が周囲では行われている。余人の出入りはそれなりにあった。人目を憚ることなくイチャつく二人の前へと誰かが現れることに何の不思議もない。
「八木町内会長か。久しいな」
現れた老小型犬のヨークシャーテリアの八木にこれ幸いと玖忍は挨拶した。公衆の眼前での不適切な行いは国亜商事の代表取締役の所作として相応しくない。唐突に現れた老ヨークシャーテリアとの世間話にかこつけて、玖忍は体勢を立て直した。
「いやはや昨日は流石でございました。オットセイを成敗できましたのは、ひとえに玖忍殿のおかげであると言えましょう。いくら感謝してもし切れませんぞ」
「町内会の皆が協力してくれたおかげだ。全員の意志がオットセイを退けたのだ。私だけの手柄ではないだろう」
ビジネススーツの襟を正す玖忍は、町内会長八木の裏表のない好意と感謝を受け取る。長身の紳士に相対するヨークシャーテリアの顔には公々然たる敬意が表れていた。これは一体どうしたことであろうか。
玖忍。この男は異常である。思考や行動が異常なのではなかった。思わず従ってしまう。気づけば便宜を図っていた。いつの間にか配下になってしまう。いわゆるカリスマ性――他者の支配に関する才能が玖忍にはあった。意識せずとも人を勝手に従属させてしまう存在。生まれながらの支配者とでも言うべき者は希少ながらも確実にいる。
オットセイと戦うために三か月以上も玖忍と接し、その毒性をたっぷりと注がれた八木は心からの敬いを込めて口を開いた。
「いいや。ワシらは何もやっておりません。全てはただただ玖忍殿のおかげです。この商店街は玖忍殿の手で救われたのです。あなたは凄い。すべてがお凄い!」
年下の玖忍のカリスマ性に中てられ、商店街の町内会長はいつしか骨抜き状態と化している。玖忍の影響で狂いつつある八木に、礼瑠は謎のどや顔を向けた。
「ふふん。玖忍さんの凄さがようやく分かったようね」
玖忍との時間を邪魔されたにもかかわらず、敵意や殺意等々の負の感情は特にない。恋人との逢瀬に割って入られたことで多少イラっときたのは事実だ。とはいえ大好きな恋人を褒め称えられたのだ。一瞬だけ不機嫌になった礼瑠の機嫌はもう直っている。
束華礼瑠というこの女は、猫が死ぬほど嫌いで嫌いで嫌いで死ぬほど大嫌いだ。しかし社会に対する不満を抱えているだとか。人を撃ち殺すことに執着を持っているだとか。そうした無差別な攻撃的感性は特に持っていない。
猫と関わりがない状況であるなら礼瑠は意外と穏やかだった。武芸的狂気に関わらないところではかなりまともなのである。溶解したタールを思わせて愛しい恋人にへばりつく彼女の情欲はこの世界において比較的まともな範疇に入った。
「礼瑠。いい加減に離れろ。しつこい。私は貴様への対応を負担に考えている」
「やだ。玖忍さん良い香りするね」
天性のカリスマ性を駆使してやることをやり尽くしたせいで、礼瑠を完全に依存させてしまった玖忍は割と強めに腕を払うが一流の武芸者の体幹は全然崩れない。
礼瑠を持て余す玖忍を余所に人を引き摺るズルズルとした音がどこからか聞こえて来た。
「あークソがぁあああー」
宴会室に繋がる廊下のあたりからだ。癇癪を起した子供のようにもがく慈葉蔵を戌雄が力任せに引き摺る。もう二十代後半だというのにまともな大人になる気配が欠片もない男に中年犬は苦言を呈した。
「慈葉蔵くん。いい加減にギャンブルはやめなよ」
「ああん? 戌雄のおっさん知らねーのか? パチスロはなぁ。ギャンブルじゃねえのよ。ビジネスなんだよ。トータルで考えりゃあ勝ってんの。勝ってるからギャンブルじゃなくてビジネス。これ常識な? ビジネス的なあれこれで今日はたまたま負けただけだから。収支では勝ってんの。マジで」
「うん。そっか。でもギャンブルはほんとに辞めなきゃダメだよ」
「ギャンブルじゃねえよ。副業だよ副業。はあああああ。つーかよぉ。なんで今日に限って負けるんだよぉ。せっかくのタダ飲みだってのに気分最悪だぜ。あああああ。マジふざけんなよクソ」
ずるずる。ずるる。パチンコ屋で凄絶にキレ散らかしていた慈葉蔵を戌雄はここまで引き摺ってきた。普通にパチンコ屋の店員さんたちに迷惑だったからだ。
オットセイたちとの闘いを経た昨日の今日。慈葉蔵というクズは早速パチスロ屋に入り浸り、最終的に四万五千円スった。クズである。着古されたボロっちいパーカーと尻ポケットに入ったラップの芯がトレードマークのこの男は相変わらず社会的底辺層にいた。
「戌雄か。遅かったな」
腕に纏わりつく礼瑠を剥せずにいる玖忍は、戌雄と慈葉蔵がやってきたどさくさに紛れてようやく立ち上がる。玖忍は戌雄を信用していたし信頼していた。社会人としても。配下としても。
「……ちっ」
恋人との時間を邪魔された礼瑠は不機嫌そうに戌雄を睨む。
「礼瑠ちゃん。また強くなったみたいだね」
出会い頭にいきなり睨まれた戌雄は優しく微笑んだ。玖忍と行動を共にしている謂わば仲間とはいえ、殺し合ったのだから敵視されるのは当然だ。嫌われるのは仕方ない。
相手から嫌われている事実をきちんと自覚した上で戌雄は礼瑠を賞賛した。なお賞賛した「強さ」とは武芸の実力ではない。武芸的狂気に呑まれたところからまともな人間に戻ることができた人としての強さを賞賛したのだ。
「ふん」
礼瑠――“害獣ジェノサイダー”は武芸者ネームを有する一流の武芸者だ。武芸者としての洞察力に基づき、自分よりも戌雄の方を玖忍が重用している事実を知っている。礼瑠が戌雄を嫌っているのは武芸者としての嫉妬だ。そもそも褒めるなら自分よりも玖忍を褒めて欲しい。愛するご主人様の腕に自分の腕を絡めた礼瑠は不機嫌そうにそっぽを向いた。
「さあさあ。戌雄殿もどんどん呑んでくだされ。経費で落とせるタダ酒ですぞ」
タイミングが良いのか悪いのか。礼瑠の機嫌が悪くなった矢先に、初老のヨークシャーテリアこと町内会長の八木が酒瓶片手に戌雄へと絡んで来た。
いつのまに呑んだのであろう。宴会はまだ始まっていないのに明らかに酒が入っている。地位ある人間ならではの馴れ馴れしさで戌雄を近場の席に座らせた八木は、適当なコップに酒をどんどん注いだ。
「あの……八木さん。申し訳ないんですけど、俺はどうしてもアルコールがダメで……」
「なんだと。ワシの酒が呑めんというか」
「あ、はい。ごめんなさい。でも俺はほんとに酒とかビールがダメで……」
到着するなり強引なアルコールハラスメントを受けた戌雄は先ほどまでの玖忍と同じくらいに困り果てた。
一方そのころ。
「ほーん。戌雄のおっさんは酒呑めねえのか。常在戦場ってやつだな。べろべろに酔っ払ったところをボコられちゃあ武芸者のカッコが付かねえもんなぁ」
オットセイ撃退を祝う祝勝会の会場に併設されたドリンクサーバーで遊び始めた慈葉蔵は、各種ジュース類を混ぜて変な液体を作り始めた。この男の精神年齢は十代半ばで止まっている。中学生くらいの知能しかない。頭は男子中学生、気分は熟練のバーテンダーだった。
「……おえ。まっず」
完成したオリジナルカクテルを啜ってみた慈葉蔵は嘔吐しかける。出来上がった液体をひと口呑んでみたら想像の百倍はマズい。武芸以外ポンコツな男は、気色悪い色の物質が入ったコップの処理に戌雄と同じくらい困り果てた。
濁ったコップを持ったままうろつく社会不適応者の周辺で賑やかな笑い声が起こる。
「俺はよぉ。エビル千手観音の試合見たことあんだわ。凄かったわ」
「オレっちなんてヒーグマンの試合見たことあるぜ。テレビで」
「そいつらがどうしたってんだよ。俺はこないだツチノコ見たぜ。ツチノコ。ネットで」
酒の入った有志たちが、オットセイを撃退した高揚に任せて雑談を始めた。祝勝会の支度を途中で放り出し、真昼間から注入されたアルコールに痺れる脳が紡ぐ会話は、彼らの人生のように薄っぺらい。だが楽しそうだ。
オットセイ撃退を祝う祝勝会は夕方以降に夕食をかねて行われるはずだった。今現在は括りとして準備の最中ということになる。
わーわー。ぎゃーぎゃー。
しかしながら商店街に平和が訪れた達成感から、この場に集まった暇人たちのテンションは上がりきっていた。場のノリにみんなが流され、この場この瞬間はすっかり昼宴会の会場となってしまう。
「……変わったけど、変わらないな。俺は」
酔っ払いたちの意味をなさない会話が織り成す雰囲気。そうしたものを戌雄は決して嫌いではない。思わず浮かび上がる笑みを噛み殺した。四十五歳の中年武芸者は今この瞬間の幸福に身を委ねる。
八木のしつこいアルコールハラスメントを何とか乗り切った。
「……わふッ。ひどい目にあった」
意地でもアルコールを一滴も体内に入れなかった武芸者は、宴会場の脇で特に意味もなく座布団を運搬する。昼宴会が始まってしまったこの状況で、夕方開始予定の宴会が行われるかどうかは不透明だった。
とはいえ悪質なアルハラから逃れるためには、自分が作業中だとアピールする必要があり、二次会のような形で行われるかもしれない宴会に備え、途中で放り出されたと思しき座布団の山に戌雄は手を付ける。
「…………ッ」
だからその瞬間を捉えた。
どたばたとした物音が廊下から響いてくる振動――これを誰よりも先に知覚した。
人間サイズのゴールデンレトリバーゆえか。それとも生まれ持った武芸センスか。警戒心が緩み切ったこの場で、一番最初に反応したのは戌雄だった。
「礼瑠ちゃん」
座布団を両手に抱えながら、早歩きで移動する。それから自らを嫌う相手に躊躇うことなく話しかけた。
「……」
こくん。無言の頷き。嫌いな相手から話しかけられたというのに、戌雄の呼びかけに礼瑠は素直な態度で応じる。礼瑠は戌雄を嫌っていた。しかし武芸者としては敬意を持っている。一度は自分を負かした相手だ。侮っていいわけがない。
武芸者としての習性で、手に取れる位置に得物は常にあった。玖忍との睦み合いを一旦切り上げ、大型のギターケースから自らが最も信を置く得物――アンチマテリアルチャカを取り出す。そこから先は電光石火だ。
「玖忍さん。また後でね」
一流の武芸者ならではの身のこなしで害獣ジェノサイダーは宴会室の窓から外に身を躍らせる。
「何があった?」
礼瑠からもたれ掛かられていた武芸者たちの主こと玖忍が尋ねる。
玖忍は素人だ。二メートルを超える長身相応の戦闘力はあるがそれだけだ。武芸のことなど何もわからない。だからこそ戌雄を全面的に信用し信頼していた。
「……戦か」
想像の百倍はマズ過ぎたオリジナルブレンドカクテルの処理に困っていた慈葉蔵は濁った液体の入ったコップを見知らぬおっさんの席に置いた。雰囲気に身を任せてゲロ不味ドリンクの処理に成功したクズはラップの芯をしゅるりと抜き放つ。それから凶暴で楽しげな表情を作った。
刹那。昼宴会の会場と化した商店街北側多目的ホール宴会室の外からの叫び声がする。
「オットセイだぁあああ! オットセイがまた来たぞぉおおお!」
そして審判の日が訪れた。
オットセイたちを撃退したあの戦いから丸一日が過ぎた。
激しい戦闘から二十四時間前後を数えたこの日のこの瞬間は、季節も時間帯も昨日と何も変わらない。空の青さと気温まで同じだ。昨日と同じ桜の花びらが舞う。暖かな春風に煽られて。前回とまったく同じ状況と同じ構図で商店街の面々はセイオーマートのオットセイたちと再び対峙した。
「おうおうおうおうおうおうおう!」
「おうおうおうおうおうおうおう!」
「おうおうおうおうおうおうおう!」
「おうおうおうおうおうおうおう!」
「おうおうおうおうおうおうおう!」
商店街のメインストリートにて住人たちと相対する世界最強の戦闘種族らは、まるで昨日のリプレイを思わせておうおうと吠える。オットセイの恐ろしい怒声は交渉を有利に進めるための牙だ。心の弱い女子中学生であれば恐怖のあまり心臓を凍り付かせてすぐさま即死しかねない。世界最強に恐ろしい威嚇だった。
だがこの場に集まった商店街の有志たちに怯えはない。こちらには頼りになる用心棒の人たちがいるのだから……!
すぱー。上等な煙が春の青空に昇った。
「……おうおう」
砕けた首を器具で固定し、巨大な車椅子に座る親分級オットセイ――オヤブーンは、威嚇を浴びせられてなお怯えを見せない商店街の住民たちを静かに見据える。昨日受けた負傷の痕は大きく、まともに動くことさえ難しい様子だ。
「何しに来やがったオットセイども!」
「またボコボコにされてーか!」
「こっちには正義の味方の人たちが味方に付いてるんだぞ!」
オヤブーンの弱った姿を見て好機と思った住民たちがオットセイを煽る。人の性だ。虐げられていた者たちは強者となった瞬間にかつての強者を思う存分虐げる。若き日のオヤブーンは戦場で人の本性を散々見て回った。
調子に乗ったそんな旧被虐者たちに向けて凄まじい怒声が轟く。
「おうおうおうおうおうおうおう!!」
オヤブーンが吠えた!
何たる気力であろうか。首の骨が砕けたはずのオヤブーンは素晴らしいオットセイの叫びで住民たちを一喝した。
「ひっ!? こ、こわい」
「なんていう暴力的な声だ……ッ」
「オットセイが何だっていうんだ! 俺はおうちに帰らせてもらう!」
親分級オットセイの凄まじい威嚇に住民たちも流石に黙る。
すぱー。首を軋ませるオヤブーンは葉巻を一本ちょうど吸い終えた。
「おう。今日は交渉に来てやったぜ。平和裏な交渉だ。ビジネスの話をしようじゃねえか」
ヘビースモーカーは戦場帰りに多い。立ち昇る煙と合わせて実戦を知る者の恐るべき風格が親分級オットセイにはあった。負傷してなお暴力の気配を滲ませるオヤブーンに、根源的な恐怖を想起した商店街の住民たちに怯えの色が混ざる。
「交渉か。いいだろう。我々はビジネスによってのみ他者と繋がることができる」
暴力的な気配を滲ませて交渉を提案してきたオヤブーンに対し、商店街有志らの間にしれっと紛れていた玖忍が歩み出た。
代表面をして交渉に応じる長身の紳士を咎める者は誰もいない。
もちろん玖忍は商店街を巡る事情に関して完全な部外者だ。国亜商事とこの商店街に公の関係性は一切存在しない。しかし全く関係のないはずのこの男は、いつの間にやら商店街の顔役のような立場にまで成り上がっていた。凄まじいカリスマ性と魔性によって、この商店街の全土を傘下に入れたのだ。
「待ってください。社長。一人で行くのは危ない」
「おいおい単騎はマズいぜ流石によ」
何の警戒心もなく歩いてゆく玖忍の護衛として戌雄と慈葉蔵が脇に控える。オットセイの群れに向かう三人に、初老のヨークシャーテリアも慌てて追い縋った。
「玖忍殿。話し合いに応じちゃあいけませんぞ。奴らは悪名高いオットセイです。また非合法な手段でこの商店街を奪い取ろうとするやも」
ぽてぽてと玖忍に駆け寄った八木が耳打ちする。勢力の長が別勢力の支配者に付き従って助言を行った。異様な光景である。恐ろしいほどのカリスマ性を見せる玖忍の雰囲気もあり、現状の構図に違和感を抱く者はやはり誰もいなかった。
「問題ない。八木町内会長。私がオットセイたちを“説得”して来よう」
「玖忍殿がそう言うのなら……」
玖忍に追い縋った八木はあっさりと引き下がる。“命令”に従ったのだ。
「あぁ。そうだ」
「あーん? 何だよ社長」
「どうしましたか?」
八木を下がらせた玖忍は戌雄と慈葉蔵にも声をかける。
「戌雄と慈葉蔵も下がっていろ」
「え? ……ダメです! 相手はオットセイですよ! 俺と慈葉蔵くんで護衛します。そもそも社長は安全なところに避難すべきだと思うのですが……」
「下がれって? あー、まあ礼瑠の嬢ちゃんもいるしな。オットセイんとこの社長同士であれこれ話し合うならサシでも……。いやいや流石に危ねえよ。オットセイを甘く見るのはダメだぜ社長。あいつらはしぶてーんだ」
「私は下がれと命令したが?」
「そ、そうですが……」
「……社長命令ならしゃーねーな。危なくなったらすぐ逃げろよ」
八木に続いて慈葉蔵もあっさりと引き下がった。主の命令には従う。慈葉蔵も武芸者だった。
「社長。すみません。いくら社長命令でも……」
だが戌雄は食い下がる。冷静に考えてみて欲しい。オットセイという世界最強の戦闘種族に大柄とはいえ素人でしかない人間が対峙するというのは明らかな自殺行為だ。
玖忍に絶対の服従を誓っているからこそ戌雄は玖忍を止めようとする。
「戌雄」
「はい。社長。せめて俺だけでも隣に控えさせてください」
「覚えているか?」
「……はい?」
「私は覚えているぞ」
「はい? あの。すみません。何の話を」
「お前が我が社の警備保障担当者を皆殺しにした日のことを」
「……そ、その節はすみません。その……必死で、手加減が」
「口火を切ったのはお前だ」
「は、はい。すみません。俺が悪いです。ごめんなさい。すみません」
「お前が私の野望に火を付けた」
「……え?」
「ひとまずの勢力として君臨し、それなりの期間を治めて、やがて他の勢力に喰い殺される。そんな人生も悪くないと諦めていた」
「社長、あなたは、何を言って……?」
「いつぞや録助と話したことがあってな。この世界をどうすればいいか。何が間違っているのか。何が正しいのか。そのために何が出来るのか。答えは簡単に出た。答えがないという答えがな」
「世界、ですか」
「ああ。世界だ。会社でもない。宗教法人でも、商店街でも、勢力でもない。この世界の話だ」
「……」
「力が足りない。金も足りない。何よりも私自身の狂気も足りていなかった」
「よくわかりませんが、えーと、金は幾らあっても足りないというのはわかります。いや、すみません。話に付いていけてないです」
「そんなときにお前が現れた。天啓だと思ったよ。神か。世界か。エイリアンか何かは知らんが。誰かが私に囁いてきたのだ。この世界をどうにかしろとな。少なくとも私はそう確信した」
玖忍は立ち止まり戌雄を見下ろした。やっと手に入れた最強の暴力装置に武芸者の主は語りかける。
「戌雄。私が頼りないか?」
「い、いえ。そんなことは」
「なら下がれ。私は私がお前の主であることを証明する」
「そこまでのお覚悟なら……」
玖忍の命令に戌雄は従った。武芸者は主の言葉に最終的に応じる。信用と信頼を内包させた明確な上下関係と序列が刻み込まれていた。武芸者を従える主と主に従う武芸者の理想的な関係性が完成している。
「見ていろ。今からオットセイと交渉する私を」
「はい。社長。お気をつけて」
そして玖忍はオットセイの下に向かった。単騎で。たった一人で。生身で。
戌雄と慈葉蔵を下がらせてからしばらく後。商店街を貫く大通りの中央――オットセイの群れと住民たちの集団の中間地点あたりに玖忍が到達する。
きいきいと音を鳴らして車椅子を操作するオヤブーンもそこに移動した。視線が集まる。住民たちの敵意に満ちた注目がオヤブーンに、崇拝の色が濃い好意が玖忍に向けられた。
オヤブーンはそんなもの意に介さず、玖忍もまたそれらを完全に無視した。
「おう。てめぇが商店街の代表か」
「ああ。今回の件の全権を引き受けた玖忍だ。今日は良い日和だな」
「おうおうおう。平和的なお話合いにはもってこいだ。違ぇねえ」
すぱー。あらかた白い灰になった葉巻を吐き捨てる。
交渉の開幕。オヤブーンのその所業を見て玖忍が顔を顰めた。
「マナー違反だ。タバコのポイ捨ては公序良俗に反する」
「……おう。悪かったな。オウル!」
玖忍から注意されたオヤブーンは、配下の若頭級オットセイに命じる。
「はい。親分」
地面に落ちた葉巻をオウルが手早く回収した。ゴミのポイ捨てはマナーとして確かによろしくない。マナー違反の悪行を注意されたから素直に従った。違和感のないやり取りと言えよう。
だからオヤブーンは気づけなかった。暴力の化身である親分級オットセイに命令を通してみせた異常性を。すでに先手を取られた事実を。
商店街の住民とオットセイたちが睨み合うメインストリートの中心部たるこの場は、交渉の名を冠した戦場に他ならない。果たして開幕の刹那にイニシアチブを取ったのはどちらであるのか。若頭級オットセイのオウルが背後に下がった。煙臭い凶悪な牙をオヤブーンが剥く。
「てめぇらがこの商店街を思う気持ちはよく分かった」
「そうか。わかってくれたか」
「てめぇらの気持ちはよぉーくわかったからよ。キャッシュで五億円まで出してやる。耳を揃えて五億受け取ったらさっさと立ち退け」
長身の紳士にオヤブーンは交渉を持ち掛けた。今のセイオーマートが出せる最大限の額をオットセイは提示する。洒落にならない大規模出費が近場にあったせいで、これ以上の金額をオットセイたちは出すことができなかった。
商店街のテナントの全てに対して五億円。セイオーマートの経理事情などつゆ知らず、市場原理を舐めてるとしか思えない破格値を提示された住民たちは、玖忍の背後で口々にキレた。
「ふざけるなぁああ! 仮にも巨大企業ならもっと出せるだろぉおおお!?」
「交渉したいならせめてその千倍は持ってこい!」
「事前に提示されてた立退料より安くなってんじゃねえかアホオットセイ!」
喚き散らす住民たちへとやれやれと言わんばかりにオヤブーンが首を振ろうとする。首を振ろうとして失敗した。激痛。痛そうに顔を歪ませる彼は重傷を負っていた。
「おうおうおう。こっちだってなぁ。今の時期は色々と大変なんだ。不景気だしな。これ以上は出せねぇ」
切実に懐事情が思わしくないセイオーマートの代表は、怒鳴り散らす住民たちを完全に無視して痛めた首をヒレで擦る。
「痛い目見たくねえなら金だけ貰って出ていきな。平和的交渉ってやつだ」
オヤブーンの口から発せられるのは相変わらずの傲慢で暴力的な物言いだった。散々ボコボコにされたのが昨日今日だというのに。それでもオヤブーンはオットセイだった。生粋の戦闘種族たるオットセイは、暴力を背景にした恫喝でしか交渉の優先権を取ることができない。
暴力しか頼るものがないオットセイに哀れみの目を玖忍は向けた。
「お前のそれは交渉ではない。暴力に頼ったただの恫喝だ」
的外れな言葉を聞いたオヤブーンは嗤う。
「おうおうおう。何言ってやがる。“交渉”ってのは暴力のぶつけ合いだぜ? 暴力に暴力をぶつけ合って、ビビった方がしっぽ巻いて逃げる。それが交「それは違う」
脅し文句が途中で遮られた。何の意味もなく風が吹く。ビジネススーツを完璧に着こなした長身の紳士の前髪が春風に揺れる。星空のように暗い焔を宿す黒々とした瞳が敵を見据えた。
「……てめぇ」
ここに至りオヤブーンは玖忍とようやく相対する。絶対的な野望と信じる自らの狂気にすべてを委ねた玖忍はオットセイとビジネスを以て接触した。交渉が。恫喝が。暴力のぶつけ合いが。殺し合いが始まる。
「ではオットセイよ。この商店街に関する諸々の話し合いをしていこうか」
「いいだろう。要求を言え。舐めたこと抜かしたらただじゃおかねえぞ」
「お前は疑問に思ったことはないか?」
「……おう? 何の話だ?」
どれだけの額を要求されるか。どんな暴力をチラつかせてくるか。交渉の展開を予めシミュレーションしていたオヤブーンはいきなり梯子を外された。
流れが読めずに困惑するオヤブーンに玖忍は語る。
「何故この世界は暴力で満ちている?」
「おうおう。何言ってんだお前。暴力なんて当たり前にあるもんだろ。空気と一緒だ」
「勢力の均衡が崩れる度に、人々は暴力に呑まれ、法は失われる。それまであった世界と秩序は極めて短いサイクルで入れ替わり続ける。この構造を……この世界そのものを疑問に思ったことはないか?」
「おうおうおう。一回もねえな。他所の勢力に呑まれねえように力を掻き集めるのがボスの仕事だろうが。喰われたことを嘆くのは雑魚の論理だ。考えるだけ無駄だぜ」
「おかしいだろう。何故世界はここまで流動的なのだ。直感に反する。もっと世界とは強固で安全で確かな積み重ねと歴史を以て平和裏な形で運営されるべきだ。暴力と暴力のぶつけ合いを前提とする社会構造は前時代的で非効率だ」
「おうおう。そういう傲慢な考え方は嫌いじゃねえ。お前が言ってるのは殺し合いだの暴力だの抜きにして自前の勢力だけで好き勝手やりてえって思想だろう」
「確固たる法と社会のなかで人は生きるべきだ。人ならざる者もそう生きるべきだ。勢力同士などという小規模な戦闘を延々と繰り返し、リソースを浪費し続けるなど愚の骨頂。社会ひいては世界の発展のため無秩序な暴力が発生し得る構造は積極的に破壊せねばならない」
「おうおう。お前が何を言いてえかわからんが、面白いことを教えてやる。お前が言うその暴力が無い世界とやらはな。どっかの勢力が他の勢力を皆殺しにした世界だ。アホ過ぎる理想郷だ。そんな頭の悪いことをつらつらと語るってこたあ、まさかお前世界征服でもするつもりか?」
「その通りだ」
玖忍は宣戦布告した。
オットセイに対してではない。この世界すべてに対して玖忍は暴力を振るうことを宣言した。
「何言ってやがる」
「私はこの世界に宣戦布告する」
「は?」
「私はこの世界のすべてに宣戦布告する。この世界は間違っている。間違いは可及的速やかに訂正されねばならない。勢力と勢力が法もなくぶつかり合い、意味もなく抗争が発生し、真面目に働く給料男たちに、理不尽な被害が生じる世界など根本から間違っているのだ。私は私の法で正しい在り方にこの世界を導く。小規模で非効率的な勢力間の争いなど発生させない。長期のビジネスを安心して行える安全で健全な世界にする。血の流れることのない平和な競争によって人々の生活水準を向上させる」
「だからお前は何を言って」
「黙れ極悪人。この邪魔をするものは皆殺しにする。私が思い描いたこの世界の邪魔をする者は悉く否定する。もちろん従うなら私の部下として厚遇を約束しよう」
「……イカれてやがる。まさか俺たちより狂暴な輩がいるとは思わなかったぜ」
「まだわからないのかオットセイ」
「おう? まだって何だ。お前の思想なんてわかるわけ――」
「――私はお前たちをスカウトしようとしているのだぞ?」
「あん?」
「私の傘下に降り国亜商事の
世界に対する宣言の後。完璧なロジックで玖忍はオヤブーンのスカウトを行う。
狂っていた。根本から。国亜商事の支配者は狂っていた。いつからだろう。際限のない支配欲に支配されたのは。いつからだろう。現実的な計算に基づいて支配欲を支配したと思ったのは。国亜玖忍はもちろん善人ではない。給料男の安寧と日々の暮らしの安定を望む優しい支配者ではなかった。自分の狂気と野心に囚われたただの狂人である。そして極めて優秀だったからこそ、ごく現実的な思考でその野心と欲望を封印した。
一個の勢力の長として寿命を全うし、自分の死後は他所の勢力に会社が喰われて終わる。この世界の構造を玖忍は理解していた。理解して諦めていた。
そんな折に戌雄という毒を手に入れてしまう。一流の武芸者という最高の火種を得た支配者の欲望は封印する前とは比較にならぬほど膨れ上がった。他者への無尽蔵な支配欲と非従属対象へ向けられる際限のない暴力性。玖忍という名の生まれながらの支配者の正体は、在り方としてオットセイにとても近しい。
「――――ッ!」
長年の戦闘経験から来る戦場の勘で玖忍の正体をオヤブーンはようやく見破った。知っている。暴力を内包させたビジネスの世界で生きる親分は“それ”を知っていた。
あらゆる暴力を束ね、利己を拡大し、敵を併呑し、全てを踏み潰してぺしゃんこになった地上に君臨する。そういう“何か”はこの世界において間違いなく存在した。一万のオットセイよりも、千の武芸者よりも、百の巨大企業よりも恐ろしい。大規模戦争の勝敗をすら一方的に決定するその正体は――
「てめぇ、何様のつもりだ!」
「もうわかるだろう。私はお前のボスだ。さあビジネスの話を「なんで油断してるの?」
――この世界の言語体系において具体的な呼称すら未だ曖昧な
「エ、エイリアンのくせに」
玖忍の胸元から分厚い刃が生えた。
玖忍。恐ろしい男だ。
口先だけで一流の武芸者を複数人従えてのけた。従えた武芸者を率い、かの超一流の武芸者サマーソルト如月を仕留めた。挙句の果てにセイオーマートのオットセイたちを一度は一方的に退けている。これを怪物と言わずに何と呼ぶ。
カリスマ性。魔性。魅了。そうした概念はあった。間違いなく。目を離せなくなる。言葉を自然と受け入れてしまう。この人のために命と人生を捧げても構わないと勝手に思い至る。得体の知れない器を以て世界を呑み込む化け物は、この世界の歴史に度々登場し、都度に星を滅ぼしかけてきた。玖忍という名の人の形をした何かにはそれだけの格が備わっている。
少なくとも現代日本ではないいつかのどこか。警察機関も国家も存在しない暴力と武力だけが全てを支配する世界。
そんなこの世界にあって仮に玖忍が順当に成長していけば、きっと誰しもが無視できない巨大な破壊装置になっていたであろうし、時代の潮流に上手く乗れば、あるいは世界の全てを牛耳る凶悪な“王国”でも築いていたかもしれない。
仮定の話をしよう。もしも仮に、アン・エイリーと玖忍が余人を介さぬ正面から相対していればどうなったであろうか。もしも仮に、玖忍の言葉が少女に届いていれば――
「アン・エイリー。きみを我が社にスカウトしたい」
「え、え、え。ス、スカウトって……わ、私、ア、アイドルになっちゃうんですかぁ???」
――きっとセイオーマートなどという組織をすぐさま裏切り、玖忍の配下となっていただろう。きっとアン・エイリーは玖忍の恐るべき懐刀になっていた。
他者を従属させる。人を魅了する。自然と周囲に好かれてしまう。武芸の世界に才能があるならば、支配と従属の世界にだって才能はあった。
他者を支配し従属させることにかけて天賦の才能を有する男――玖忍。彼の言葉が届いていれば、アン・エイリーという哀れな少女を武芸的狂気から救い出せた可能性は否定できない。新たな狂気で狂気を上書きできる勝算は高かった。
もちろんこれらは無意味な仮定だ。すべては何の意味もない仮定の話だ。何故なら玖忍の言葉もカリスマ性も魅力も。何もかもアンに届かなかったのだから。
あらゆる武芸に共通するごく初歩的な鉄則がある。どれほど汎用性があっても、どれだけ殺傷能力があっても、敵に
結論から言おう。玖忍の言葉は届かなかった。巨大なカリスマが宿る紳士の言葉は、セイオーマートが呼び寄せた化け物に届くことはなかった。
当然である。差し伸べられるべきだった手も。言葉も。カリスマ性も魔性もマキャベリズムも絶対に届くわけがなかった。
だって“これ”は、人語を解さない。
あらゆる言葉はぐちょぐちょと湿った肉音を立てるエイリアン語へと勝手に変換された。目に映る敵の姿は大量の粘液を纏った異形の異星種へと自動で書き換えられる。狂って壊れて狂い果てた世界で生きる怪物に人の言葉が届くはずもなかった。
始まりは、生まれた瞬間の――生後ゼロ秒。
虐待などという生易しい言葉で形容すべきではない地獄の拷問と同義の狂った愛情を、これまでの人生において瞬きの切れ間すらなく
理解できるわけがないし、理解してはいけなかった。“これ”らが立つ領域を。
戌雄。礼瑠。慈葉蔵。そうした一流の武芸者の――その先。
超一流の武芸者にはこうした連中がいる。相手と話をする気がない。対話ができない。他者と会話可能な機能がない。コミュニケーション器官を既に喪失している。
武芸的狂気に沈み込んだ深淵の深淵の深い澱の底に、そうした者たちは棲んでいる。超一流の武芸者アン・エイリー。“エイリアン”と意思疎通する手段を彼女は持っていなかった。
にゅるにゅる。めりめりめりっ。
異音がする。
背後より斬り開いた玖忍の腹から、アン・エイリーが這い出てくる音だ。まるで人体に寄生したエイリアンが産声をあげるように、玖忍の骸を縦に裂いて現れた。
べちゃ。
商店街の通りを盛大に汚したアンは、血と臓物に塗れたまま口を開く。狂った世界の蓋が開かれた。
「油断っゆっ油断なんかして。エ、エイリアンのくせに、ふっふざけるなぁ」
ある一説がある。力だけを追い求めれば、武芸者は必ず狂気に呑まれた。力に呑まれた武芸者の武芸的狂気に纏わる一説がある。曰く――
「もっ、もしかして私たちが、む、無抵抗っ無抵抗でこ、降伏するとでもお、お、おっお、お、思ってるの? な、舐めやがってぇ。ぶ、ぶっ殺してやりゅぅううううっ!」
――武芸者は、狂ってる奴ほど強い。