季節は移ろう。
桜の葉は青くなっていた。梅雨前の空は宙の彼方まで青く、雨の気配は薄い。上がり始めた気温を孕む風がさくらんぼの早生種の実を揺らす。青々とした葉桜の、初夏の季節だった。
桜の花びらが舞う時期に行われた先の戦闘から時がしばらく流れ、かつて商店街だった地は整備の行き届いたハイウェイと化している。完璧な兵站管理によって工事は無事完了した。古来よりの戦闘種族オットセイ。彼らの仕事はいつだって速い。すべて終わったことだ。ゆえに過去形で語られる。
夥しい犠牲者の骨が眠る快適な道の中心部に聳える闇の巨大商業施設――セイオーマートの新規店舗が本日よりオープンしたのだ。
交通網と立地を掌握したセイオーマートの賑わいは著しい。ここでは何もかもが手に入る。麻薬。火器。臓器。奴隷。人権を無視した日用雑貨。オットセイの暴力を背景にした“合法”でありとあらゆるものを贖うことができた。
「あら。このロケットランチャカ良いわねぇ」
「この奴隷もついでに買っていこうよママ」
「おうおう。お買い上げありがとうごぜえやす。ぐへへへ」
客として訪れた裏社会の住民たちはこの地をオアシスとして寛ぐ。闇の世界で生きる者たちにとってセイオーマートとは安全極まる憩いの場だ。
「おうおうおう! なかなかの稼ぎじゃねえか!」
セイオーマートの経理室でオヤブーンが笑う。資料を眺める彼の機嫌は上場だ。経理担当オットセイから渡された資料には、用心棒を用意するにあたって生じた赤字を軽々と補填できるだけの天文学的な金額が記されている。
「おうおう。親分。立地が良いおかげで来客が引っ切り無しですぜ」
「おう。ハイウェイ建設は正解だったな。この調子で荒稼ぎしろ」
「へい親分。つきましては新鮮な人肉と児童臓物の再入荷の程を――」
セイオーマートの新規店舗が建つこの地は利権が絡み合う一種の緩衝地帯だった。オットセイたちは長年の交渉で面倒に絡まった諸々を丁寧に解きほぐしている。具体的に言えば周辺勢力を皆殺しにした上で商店街も物理的に潰してこの土地を手に入れた。ネックとなっていた交通網の整備が済んだことで、虚無から高純度の黄金を汲み上げるかの如く、この店舗はオットセイたちに巨万の利益を齎す。アンを召喚するための武芸者ガチャに注ぎ込んだ四千億円はその利益に比べれば端金だ。
ビジネスマンとしての充実感を覚えたオヤブーンが葉巻を取り出す。控える眼鏡をかけたオットセイのオウルが手際よく火をつけた。すぱー。
「おう。アン先生は今どうしてる?」
「今はお部屋で寛いでいます」
オヤブーンの問いに若頭級オットセイのオウルが即答した。戦場で見せる圧倒的な暴力性に反し、礼儀さえ弁えればアンという武芸者は意外にも大人しい。精神に異常を来す者が珍しくもない鉄火場を見てきた侠客からすると扱いやすいことこの上なかった。
「いい買い物だったぜ。アン先生とは良好な関係を今後も継続できそうだ」
上等な煙をたっぷりと呑んで牙を向く。セイオーマート警備保障部門のアウトソーシングがうまくいっていることにオヤブーンは満足げな顔をした。
セイオーマート新規店舗のバックヤード某所の一角。この部屋に余人が立ち入ることはできない。業務の裏の裏まで知る幹部クラスのオットセイですらこの部屋への入室許可は持っていなかった。マニュアル上の扱いとして化学兵器の管理庫に似る。事実上の立ち入り禁止エリアだ。悪徳の限りを尽くす邪悪な巨大企業の立ち入り禁止エリア――さぞや恐ろしい非人道的な兵器ないし研究資料でも保管されているのだろう。多少なりとも利口な者なら部屋の内部に斯くのように想像を巡らせるはずだ。
しかし開かずの一室である部屋の扉を開けた者を待ち受けるのは、おどろおどろしい研究室の類ではなく、女子中学生の感性による女の子の領域だった。
引き算のセンスがない小娘の手によりデコデコと彩られた開かずの一室。ここは用心棒たるアンが不定期で過ごすプライベートルームに他ならない。
裏社会の上流階級の子女に人気のオットセイのぬいぐるみ。ピンク色だったり水色だったりするやけに丸っこい悪趣味な家具の群れ。普段使いするには掃除が面倒臭そうな天蓋付きのベッド。
そうしたものに囲まれたキャラ物のピンク色のソファに、セイオーマートに飼われる超一流の武芸者はいた。
いたというか寝転がっていた。
「うまうまぁ。あまっ、あまぁい」
今現在。時は初夏のおやつ時である。オットセイを強請って設置してもらったベッドだと何だか落ち着かない。そんな理由でだらけやすいソファに寝転がった少女は、一個八千円ほどする高級フルーツサンドを本日のおやつとしてもしゃもしゃと貪る。
歳の頃は十三歳ほど。高校生と見間違える者はまずいないであろう幼げな雰囲気の女子中学生と思しき生き物が、これでもかというくらい女の子女の子している一室でひどく寛いでいた。
何も考えず雑に寝転がったせいだろう。ジャンパースカート型の制服にくしゃりと皺が寄る。スカートの内側に履いた青緑色の体操服長ズボンもどこかだらしない。
服装のついでに容姿についても記述してしまえば、少女の顔立ちは悪いというほど悪くはなかった。だが華がまるでない。言うなればとても地味だ。近所の中学校の図書館を探れば数人は容易に見つけられる。そんなツラだ。強いて特徴を言えば、頭恰好が良いのか中途半端に伸ばしたヘアスタイルがやけに丸っこかった。
頭が丸っこい女子中学生は、今しがた頬張った甘くて美味しいフルーツサンドの口直しに、近くに置いておいた高級オーガニックオレンジジュースをちゅーちゅーと啜る。
「最高しゅぎる……。わたっ私、人生の春を迎えてるかも」
超一流の武芸者アン・エイリー。セイオーマートの圧倒的な財力によってこの化け物は飼い慣らされていた。
甘くて美味しいスイーツと可愛い家具類。あとはあらゆるサブスクリプションに登録済のスマホ。これさえあれば何もいらなかった。人生で経験したことがない圧倒的な富の暴力にアンは沈んでゆく。
世間擦れしていない少女が思い描ける貧相な想像力の限界だ。どれだけ贅沢を望んだところで高給取りの給料男分程度の金額しか消費できない。何というちょろさと扱いやすさであろうか。
「うへっ。うへへへ。このっこのっ漫画、今っ今は読まないけどぉ。とりっとりあえずかっ買っちゃお。もしかっ、もしかしたらそのうち読むっ読むかもしれないしぃ」
あまりにも背徳的な悦楽にアンの心は腐りゆく。
そんな矢先。開かずの一室――アンの部屋の扉は、富の暴力で少女が堕落し始めた間隙を突きこんこんこんと音を発生させる。入室の是非を問うノックの音だ。
「今っ今ぁ。今は忙しいからぁ、あとっあとにしてぇ」
漫画サイトに課金してランキング上位の新作を読める状態にした。読める状態にした癖に実際に読むことはなく適当な動画サイトで素人の下手糞なダンスムービーを意味もなく眺める。今のアンは過酷なマルチタスクに励んでいた。動画と漫画とスイーツの処理に忙殺される彼女に来客への対応をするゆとりはない。
「アン。ボクだよ。入るね」
もちろん“彼”にアンの事情など一切関係なかった。
「えっえ!? パパっパパぁ!? わわ。待ってっ待って待ってぇ!」
部屋の主の許可を取ることなく何者かが入って来る。部屋に入ってきた“男”の声を聞いたアンは死ぬほど慌てる。素人のダンスムービーを映すスマホを急いでクッションの下に隠した。お洒落な印字のされた紙袋に食べかけのフルーツサンドを投げ込む。オーガニックオレンジジュースは紙袋の後ろに避難させた。無駄な抵抗と言えよう。背徳の痕跡はすべて丸見えだ。
少女を堕落させるアイテムの数々を見据えた中肉中背の男はやれやれという顔をする。材質がくたびれたフォーマルスーツを纏う男だった。眼鏡をかけている。ブルーライトカット加工が施された高価な品だ。
「アン。ダラダラするのは健康に良くないよ?」
どこぞで搾取される給料男といった風体の男“エイリアンハンター”は自堕落な娘の姿に溜め息をつく。
「ダっダっダっダラダラなんてしてないもん。ほんとほんとほんとだよ。フルっフルっフルフルっフルーツサンド食べ放題とかしてないしぃ」
冷や汗をダラダラと流すアンは
「言い訳はいいよ。アン。早く構えなさい。今日のレッスンの時間だよ」
「はっはっはっ、はひぃっ」
フルーツサンドに付いてきた紙ナプキンで口のあたりをごしごしと拭う。父親であるエイリアンハンターから急かされたアンは、
この部屋に窓はない。狙撃対策だ。窓がないため外界の景色を伺うことは叶わない。水色の時計とピンク色のオットセイカレンダーだけを頼りに時節を推察するなら今は初夏のおやつ時で……日々のレッスンの時間だった。
「きょっ今日っ今日こそは、パ、パパにっパパにダメージを与えちゃうんだからぁ」
実戦を経て成長した――つもりでいるアンが甘えるような文言を口にする。
「うん。その意気だよ。アンはボクより強いんだからね」
娘の頼もしい言葉を聞いた父親は微笑んだ。エイリアンハンターの微笑みに娘は狼狽える。
「いやっいやっいやいや。それっそれは流石に……。わたっわたっ、わたしっ私がパパより強いとか、そんなっそんなことあるわけ――」
言い終わる前に物理的な衝撃が来た。
「ぎゅっ」
鼻血が舞う。一撃で鼻が折れた。殴り飛ばされた。
「なら早く僕より強くならないと」
対エイリアン用マチェットとTKTSアサルトチャカをアンは構えていた。万全の構えを取ったアンに対し、
「うぐっ」
殴り飛ばされた状態から身を翻す。尻餅をつくような無様は晒さなかった。初手を獲られたアンは、鼻血をぼたぼたと垂らして体勢を整える。初手の一撃で戦闘時のスイッチが完全に入った。だから反応できる。
「行くよ。ちゃんと反応して」
「ふぐっ!」
何とか間に合った反応速度を頼みに続く追撃をマチェットで弾こうとした。エイリアンハンターの恐ろしく速い武芸の起こりをかろうじて、ほんとうにかろうじて捉えた彼女は放たれた拳をマチェットでかち上げる。
「ぎゃっ」
だが拳が重すぎて軌道を全く逸らせなかった。再びの衝撃。顔面にぶち当たった左のジャブが前歯を上下ともに粉砕する。
「ほーら。ちゃんと集中する」
「えっえっ、ひゃ」
顔面への激しい痛みに伴って重力が狂った。体が回転している。拳の飛来と一度に繰り出されたとしか思えない速度で足を払われたらしい。倒れ込みそうになる。咄嗟に後方へ向けてくるりと転がった。棚のぬいぐるみが落ちる。とにかく距離を取って仕切り直そうとした。
無様に逃げる。そして一瞬で絶対的な速度差で間合いを詰められた。喉が貫かれる。貫手だ。
「かひゅ」
「だから集中しろよ。殺すぞ」
呼吸と意識が一拍消えてしまう。エイリアンハンターの攻撃は止まらなかった。怯んでしまった隙を突いて、身長差を生かした軌道で右拳が打ち下ろされる。
「ぎゃあっ」
頭部に直撃。視野が欠けた。左眼が見えなくなる。欠けた視覚情報を補おうとそちら側に意識を向けた瞬間に左の上段蹴りが飛んできた。頭と首と脳が揺れる。倒れた。無意味に手を伸ばした先のキャラ物グッズを潰して倒れた娘にエイリアンハンターは完璧な体勢でマウントを取る。
「ぎゃっ、ひゃぁ、ぎゅあっ」
馬乗りで圧し潰されると同時に暴力が降り注いできた。対エイリアンマチェットとTKTSアサルトチャカと盾にしてパウンドのパンチを防ぐ。しかし盾にした得物の隙間を簡単に通されて殴られた。顔の骨が砕ける。肉が裂けた。振動が貫通して脳にダメージが蓄積する。
死ぬ。殺される。本気でそう思った。戦闘のようなものが成立したのは開幕の数瞬だけしかなかった。あとはひたすらに嬲られる。
「に、逃げっ、あぐ」
逃げようとした。でも腰を押さえ付けられていたし、動きの機先を上からすべて打撃で潰されてしまう。暴力の檻から脱出できる気配がまるでなかった。
動けない。痛かった。苦しい。
なのに暴力は止まない。さらにエスカレートする。
「いっ痛ぁああっ!」
もがく最中の流れで指を掴まれた。激痛が走る。とても痛くて苦しい。見ると爪を剥がされていた。娘の爪を剥ぐエイリアンハンターが楽しそうに嗤う。
「あははっ。可愛い鳴き声」
「あぎゅっ。あぎゃっ」
口を開かされた。口の中に手を突っ込まれる。ばきん。歯を毟り取られた。あと鼻の奥の痛いところをぐりぐりとされた。痛いところを求めてエイリアンハンターの手がアンを蹂躙する。
戦いもレッスンももう終わっていた。気づけばレッスンではなく、いつもの拷問が幕を開ける。爪を剥がされて、痛覚神経を撫でられて、全部ぐちゃぐちゃにされる。大好きなパパの大好きな遊びだ。
「アン。最近のきみはちょっと弛んでるよ」
「はいっ。ごめっごめんなさい。アンはわるっ悪い子です」
「もっと頑張らないと。アンは悪い子だなぁ」
「ごめっごめんなさいごめっごめんなさいごめんなさい。わるっ悪い子でごめんなさい」
謝ることに慣れているし、怒られ慣れているアンは、何度も何度も父親に謝る。心の底から怯えてごめんなさいをした。恐怖で体がかたかたと震えて涙が止め処もなく溢れる。
「あははは。謝ってもエイリアンは許してくれないぞぉ。アンは馬鹿な子だなぁ」
謝っても暴力は止まらなかった。加虐は、虐待は、拷問は永遠に続いた。この世界でアンは生きてきた。生まれてきた瞬間――生後ゼロ秒からずっと続く日常だ。
どれほど時が過ぎたのか。
「…………ぁ、ぅ」
狙撃に備えて窓のない部屋では時の流れはわからない。長い長い時間をかけて加虐がひとしきり加えられた。暴力で解され、すっかりぐんにゃりとしてしまったアンにエイリアンハンターが優しく語りかける。
「アンは弱くて根性もなくてとっても馬鹿な子だけど」
「………ぅ」
「でも才能はある。僕よりずっと」
「…………」
「早く一人前のエイリアンハンターになれるよう頑張るんだよ」
意識が朦朧とした。だからわからない。わからないし見えない。でも扉の閉まる音が何となく聞こえた。
やがて部屋の主の許可を取ることなくエイリアンハンターが立ち去る。入室時と同じように。ずたぼろになった血だらけのアンは、戦闘訓練の余波で身体と同じくらい壊れてしまった部屋の天井を仰いだ。
「……やっぱりっ、やっぱりパパは強いなぁ」
どこか嬉しそうにエイリアンハンターの娘が呟く。頭がおかしい狂った少女はパパのことが大好きだった。