セイオーマート新規店舗へと続くハイウェイの近郊。そこには
経済的衛生的に劣悪な環境の土地だ。
「よこせ! それは俺のだ!」
「うるさい! この新鮮な残飯は俺に喰われたがっている!」
痩せこけた少年たちが何かを奪い合う。諍いの元凶は初夏の日差しに炙られて発酵が進んだ生ごみだ。毒性の強い廃棄物を奪い合う少年たちの頭上でカラスが鳴く。人喰いカラスだ。
「はよう共倒れになってくれないかね」
「漁夫の利ってやつっすね先輩」
「人間ってアホーだなぁ」
貧民街の無様な生存競争を人喰いカラスらが眺める。餌の奪い合いで共倒れになった貧民の死肉が彼らの主食だった。この地において人の子の命は、カラスやネズミの昼食と同程度の価値しかない。
貧困と死に満ちた貧民街に乱立するのは、法的な建築基準を絶対に満たしていない背の低い手製建造物の群れ。
そのなかで一応の原型を留めている建物があった。建物と定義するには聊か語弊があるかもしれない。ボロ小屋だ。
ボロ小屋の前で砂塵が舞う。飲食店とは到底呼べないボロ小屋の入口と思しき穴の横には「ちゃんこあります」と書かれた看板が立て掛けられていた。
割れた電球の鈍い光がボロ小屋の内部をちかちかと照らす。光に暴かれた薄暗闇を覗けば女がいた。貧民街という土地の印象に不釣り合いな女がいる。深い隈とより深い疲労感でやつれてなおも、女は若く美しかった。
「……暇だなー」
ちゃんこ屋である旨を示す看板が立て掛けられたボロ小屋の内部。カウンター席に見えなくもない廃材に、腰に悪そうな姿勢で凭れ込む女の名は陽乃といった。
セイオーマートが破壊した商店街で、彼女はかつてちゃんこ屋を営んでいた。件の虐殺から運よく生き延び、あるいは不幸にも生き延びてしまった女は、幾重もの奇跡と悪意に翻弄された末に、五体満足のままこの地へと流れ着いた。
色濃い疲労を滲ませて陽乃が呟く。
「やっぱりこんな場所だと……ちゃんこ屋は流行らないかー」
ハイウェイ近隣の貧民街の環境は過酷だった。まともな人間はこのような地での生存に適応し切れない。地上の地獄に等しい土地で、飲食業による糧を得るのは難しかった。商店街でのノウハウを生かして飲食店のようなものをオープンするも、ビジネス選択を違えた彼女のちゃんこ屋と銘打たれたボロボロの小屋には案の定閑古鳥が鳴いている。
金はなく、時間だけが有り余っていた。そのせいだろうか。解れてしまったエプロンのポケットにしまった紙切れへと陽乃の思考が傾く。
「……お風呂屋さんのスカウト受けちゃおうかなー」
みしみしみし。彼女の思考だけではなく彼女の店まで傾いた。さもありなん。耐震基準など確実に満たしていないであろうボロ小屋だ。地震どころか強風に煽られただけでいとも容易く傾いてしまう。
みしみし。みしみし。どしん。どしん。重い振動が轟いた。風によるものではない。ならば地震か。地震ならひとたまりもなくぺしゃんこになってしまう。苦しい生活の疲労のなかでわずかに残る思考力を振り絞った陽乃は店の外に出ようとした。
そして店の外の方に顔を向けた陽乃の眼は、巨大な影を捉える。
「あ。お客さん」
店を出ようとした彼女が見た巨大な影のシルエットは身長二百八十センチ超。体重は八百キロを優に超えていた。
何たることであろう。今しがたの振動は地震ではなかった。“これ”だ。陽乃の眼前に聳えた巨大な生き物。その足音が振動の原因だったらしい。
「やっておられるか」
あまりにも巨大過ぎる生き物――相撲浴衣を着た武芸者が陽乃に問う。問うてから身を屈めて店内に侵入してきた。
「やってますよー。お客さんは運がいいですねー。今ちょうど手透きだったんです」
入ってきた巨大な人物を陽乃は歓迎する。侵入者の大きさに対する怯えはなかった。ちゃんこ屋の店主たる彼女は元力士の娘だ。父親の伝手で屈強な男たちと顔を合わせたことは何度もある。ましてや相撲浴衣を纏った“力士”が相手であるなら、怯えどころか安堵のようなものすら覚えた。このあたりの治安はとても悪い。強盗の類も多かった。だから現れた巨漢に逆に安心する。
のしり。みしみしみし。陽乃の歓待を受けて巨漢が椅子に座る。
バキャッ。もちろん体重に耐えきれるはずもなく椅子は破壊された。
「ちゃんこを頂きたい」
相撲の古典的稽古“腰下ろし”の要領で空気椅子状態となったスモウマスター――の妄執に取り憑かれた
スモウマスターとの死闘を経て狂った男が、ハイウェイ脇に広がる貧民街に現れた。
この事実に意味はない。放浪の末に生じた単なる偶然だ。自分をスモウマスターだと思い込んでいるがゆえ「ちゃんこあります」の看板に釣られた。それだけの話でしかない。エビル千手観音は狂っていた。
「はい。承りました」
完璧な営業スマイルで陽乃は狂人に応じる。彼女は知らなかった。スモウマスターとエビル千手観音の末路を。武芸的狂気に呑まれて自分のことをスモウマスターだと思い込む目の前の男の本職がプロレスラーであることなど知る由もなかった。
「少々お待ちくださいね」
「うむ」
相撲浴衣を羽織って力士のコスプレをするプロレスの神から注文を受けたちゃんこ屋の女店主は厨房に向かう。流石に商店街で店を構えていただけはあった。手際が良い。
しばらくすると上質な脂とチーズが混じった芳醇な香りがエビル千手観音の鼻を擽った。
「大変お待たせいたしました。チーズバターちゃんこです」
素晴らしい手際の良さを発揮した陽乃は、父から直伝された自慢のちゃんこをエビル千手観音の前に置く。スモウマスターの恰好をした狂人は頷いた。
「うむ。良い香りだ」
プロレスラーはチーズバターちゃんこを口に運ぶ。エビル千手観音は相撲に関して素人同然だ。ちゃんこのことなど何も知らない。適当な感想だった。
「香り付けに生姜を使ってるんです」
「相変わらず美味い。兄弟子殿のちゃんこだ」
何も知らない狂人は狂った脳内の世界観に基づいて頭のおかしなことを告げる。
「父をご存じなんですか?」
おかしなことを言われた陽乃は飲食従事者ならではの愛想の良さで相槌を打った。
「ああ。共に稽古したこともある戦友だ」
ちゃんこの味など知らない。陽乃の父のことも知るわけがない。そもそもエビル千手観音に相撲経験はなかった。この男は狂っていた。
「兄弟子殿は今どこにおられる?」
「先日。旅先で亡くなったと」
「……立ち遅れてしまったか」
「いえ。弟弟子の方からお話を聞けただけで十分です」
狂人に向けて陽乃は穏やかに微笑む。営業スマイルではなく心からの笑顔で父の知人への礼節を示した。
「兄弟子殿は良い技のキレを持っておられた。スタミナさえあればもっと上に行けた」
「そうですか。……父も自慢していました。強い弟弟子がいると。あなたのことだったのかも知れません」
「光栄だ。相撲部屋。ちゃんこ。兄弟子殿。すべてが懐かしい」
ずずず。謎の会話を繰り広げつつ、さほど時間をかけずにエビル千手観音の腹にちゃんこが収まる。会話らしきものが何故か生じ、そこに齟齬のようなものが大して生じていないのは奇跡だった。
「このあたりは随分と寂れている。何かあったのか?」
「ええ。実は――」
他に客はいない。時間は幾らでもあった。狂った会話の流れで、セイオーマートから商店街が潰されてしまった旨を陽乃はエビル千手観音に伝える。伝えてしまった。
オットセイたちの暴虐を聞いた狂人は何を思うか。
「御代を支払おう」
相撲浴衣を着て長髪を大銀杏に纏めたプロレスラーはひとまず代金を尋ねる。エビル千手観音は放浪の身だ。金など持っていない。この男は狂っているので、狂った脳内との齟齬が世界観に生じれば周囲の生物を皆殺しにした。災害と一緒だ。
「結構です。今日で店じまいですので。お代はサービスしますよー」
「このような地では何かと金がいるだろう。払わせてくれ」
「ご心配なくー。実はセイオーマートのお風呂屋さんからスカウトが来てるんです」
狂える災害と対峙する若い女はエプロンのポケットから名刺を取り出す。名刺にはセイオーマート傘下の入浴施設の責任者の名前が記されていた。「お風呂屋さん」とは性産業を目的とした店の隠語である。裏社会を牛耳るセイオーマートの手懸けるビジネスはあらゆる界隈にヒレを伸ばした。性の搾取にも彼らはノウハウを有する。
「……そうか」
「お風呂屋さんで働けば、まとまった額のお金が稼げるってオットセイさんたちが言っていました。だからお代はいりません」
貧困による栄養不足と疲労で思考が回らない陽乃は破綻した内容を言った。内容を理解したのかしていないのか。
「ごっつあんだった」
食事を終えたエビル千手観音が立ち上がる。女の言葉を聞いた彼が何を思案するのかを常人に解することはできない。
「店を畳む前に来てくださってありがとうございました。ここだと飲食店はあんまり流行らないので……。閉店の日に誰も来なかったというのは格好がつきませんから」
「ほんとうに美味いちゃんこだった。いつの日か、もう一度食べたい」
「そうですね。きっと。いつか」
その“いつか”が来ることはなかった。陽乃もそれを理解している。
店内がみしりと振動した。スモウマスターのコスプレをするエビル千手観音が去ろうとしているのだ。八百キロを超える巨重がボロ小屋を揺らす。
去り際。
「こんなに美味いちゃんこのタダ食いはできない」
世界最強の半歩手前まで行った武芸者が言った。
「ならツケにしておきます」
「ああ。近いうちに返す。できるだけ近いうちにな」
少なくとも現代日本ではない初夏の某所。何の意味もなく昼時の貧民街に現れたエビル千手観音はこうして去った。
それはきっと――武芸と狂気が満ちるこの世界に生じたおそらくはたった一つの奇跡。
「ご来店ありがとうございました」
武芸的狂気の深淵に呑まれた武芸者と相対し、奇跡的に生き残ってみせた若い女は、目の前の奇跡を何ひとつ理解せぬまま、去ってゆく狂人へと丁寧に頭を下げた。
セイオーマートの新規店舗は今日も盛況だった。
「おうおうおう。かったりぃぜ」
人で賑わう店内でオットセイがヒゲを掻く。
「おうおう。真面目にやっとけよ。カチコミってのはいつ来るかわかんねえからな」
「おう。戦場と一緒だ。気ぃ張りすぎると疲れちまう。ほどほどにリラックスしながら警戒するのが肝要だぜ」
店舗内の要所をチャカやポン刀で武装したオットセイが警備していた。
武装したオットセイ。剣呑な光景である。しかし彼らの剣呑さはこの上ない安全保障の裏返しだ。狂暴で知られる彼らだが、支配勢力圏内において金を落とす客に危害を加えることは絶対にない。オットセイの強みは完璧な統率力にこそあった。セイオーマートの組織力は客もよく理解している。理解しているからこそショッピングに専念することができた。敵でない限りこれ以上頼もしい守りはない。惜しみなく利益を落とす場合に限り、オットセイは他者を手厚く懇ろに持て成すのだ。
重厚な警備と悪徳の限りを尽くした商品在庫で知られるセイオーマートに――
『訓練。訓練。繰り返します。これは訓練です。これは訓練です。従業員に向けた臨時訓練を行います。ただいま店内に不審者が侵入しました。従業員はマニュアルに従って不審者に対応してください。訓練。訓練。繰り返します』
――警報がけたたましく鳴り響いたのは、裏社会の住民たちが買い物を優雅に楽しむ午後三時前後のあたりのこと。
「おうおう! 侵入者だ!」
「おう! セイオーマートに盾突こうたぁいい度胸だ!」
「おうおうおう! ぶっ殺してやらぁ!」
唐突に鳴り響いた放送は「訓練」と述べていた。だというのに警備を担当するオットセイたちは一気に殺気立つ。放送が述べた「訓練」とはもちろん隠語だ。敵勢力からの襲撃を意味する。客が安心して金を落とせるようにセイオーマートは事実を時に隠蔽した。暴力が支配する世界だ。セイオーマートの欺瞞を糾弾できる機構など存在しない。
どたばた。のしのし。警備担当のオットセイたちはヒレに唾して接敵が予想される指定区画に向かった。
ディープラーニングを活用した最新AI解析によって敵意ある者の接近を彼らは事前察知する。セイオーマートは最新技術も取り入れていた。不審者を相手取り後手に回るなんていう要領の悪い真似はしない。警備保障部門のオットセイたちはマニュアルに基づき戦闘区画用の駐車場へ続々と赴いた。
「おうおうおう! ありゃあ何だ!」
「おうおうおう! お相撲さんじゃねえか?」
「おうおう。親分と同じくらい良いガタイしてやがるぜ」
襲撃予測地点の駐車場に集結した警備保障部門の面々は、目視できる距離まで接近していたハイウェイ上の不審者を仰ぎ見る。
不審者は一人だ。単騎である。
セイオーマート警備保障部門の総員と比すればあまりにも多勢に無勢。されども戦場上がりが大多数を占めるオットセイたちは油断しない。春のいつぞや。少数精鋭の商店街勢力から一度敗れたのだ。敵が少数でも油断してはならない。有事に備えて事前用意したロケットランチャカやヘビーマシンチャカを一斉に構えた。
新規店舗外縁警備担当オットセイのタフガイ――アカアシが怒鳴る。
「おうおうおう! 仕留めるぜ! ファイア!!」
判断が早すぎる。何たる極悪非道。事前警告なしでの攻撃だ!
警備担当オットセイのアカアシは赤黒い肌が特徴的なオットセイだ。暴虐とも言える勇猛さで知られる指揮官の号令の下にオットセイたちはチャカを一斉に弾く。
どかんどかんばこんばこんどかんばこん。
凄まじい音と衝撃を伴う殺傷力が轟いた。この破壊力を以てオットセイは巨大な不審者を仕留めることができたか。
数瞬の後、重チャカ掃射による煙が晴れる。
「おうおうおう!? 無傷じゃねえか!」
「おうおうおう! なんつータフな野郎だ!」
「おうおうおう! お相撲さんナメてたぜ!」
煙を裂いて現れた光景にオットセイたちは驚愕した。火薬の残滓を割いて現れたのは、回し姿の巨大なスモウレスラーだった。相撲浴衣はチャカ掃射を受けた破壊エネルギーで消滅している。着物を剥ぎ取られた力士は恐ろしい肉体を見せつけてきた。
身長二百八十センチ。体重八百キロ超。
オットセイらの眼前に現れたのは神の肉体。地上に顕現した暴と武の化身だ。今ここにいるのは世界最強の武芸者に他ならない。
世界最強――スモウマスターとオットセイたちは生で初めて邂逅した。
「おうおう! 力士がなんだってんだ!」
「おうおうおう! オットセイにはそれくれぇのガタイの奴がザラにいるぜ!」
「おうおうおう! ポン刀で斬り刻んでやらぁ!」
世界最強の武芸者と相対してなお世界最強の戦闘種族オットセイは怯まなかった。チャカが効かぬならポン刀だ。ヒレにポン刀を構えたオットセイたちが突っ込む。
どしどしのしのしどたばた。世界最強の戦闘種族オットセイ。ことに警備保障部門を務める彼らは筋金入りの武闘派揃い。
「ふぅむ」
猛々しき武闘派オットセイに臨むスモウマスター……否、自分をスモウマスターだと思い込み力士のコスプレをするエビル千手観音はどのような応手を見せるか。
高々と右足を上げた。どんどん上がってゆく。四股だ。
「おおうぅ」
繰り出された四股の美しさに一人のオットセイが見惚れた。あまりにも神々しい。これこそが神の化身と謳われたスモウマスターの四股だ。
模倣ではない。スモウマスターの四股を完璧に会得したエビル千手観音はスモウマスターと化して四股を踏む。読者諸君は彼の武芸者ネームを思い出すがよい。
エビル“千手”観音。
彼こそは千の手を持つプロレスの神。敵のあらゆる技を奪い取り“完成”させる。千の技を会得した邪なる神の一側面として、死んだはずのスモウマスターが今ここに降臨した。
刹那。
「お、おがぁあああッ!?」
「おうおうおおおおぉおおおッ!?」
「おうおうおう!? ぶべらぁあッ」
衝撃波が発生する。右足が接地したことによるソニックブームだ。瓦礫と共に衝撃が飛来する。絶対的な破壊力にオットセイらは晒された。死ぬ。次々に死んでゆく。
ああ。何たることか。この場に集まったオットセイたちは全員即死した。死んだ。一人残らず死んだ。神の四股を前にして余人が許可なく生き残ることはできない。別勢力のカチコミに備えた戦闘区画として広めに作られた駐車場は、警備保障オットセイたちによる骸で屍山血河の有様と化した。
セイオーマート新規店舗の監視ルームにて、監視部門最高責任オットセイが呻る。
「おうおうおう! や、やべぇ! こいつはとんでもねえ強敵だぁ!」
監視部門最高責任オットセイ――ラードーはドローンを駆使した監視カメラで現場の様子を見ていた。情報処理を担当する彼の独白には幾許かの混乱と恐怖が籠る。だが狼狽えはしない。後衛とはいえ彼も戦場経験者。対応は早かった。
「アン先生を呼び出せ!」
「へい! 急いで呼んできやす!」
ラードーは頼りになる用心棒の名を告げ、部下に指示を飛ばした。上司の文言を真に受けた下っ端オットセイはアンのお部屋にどたどたと疾る。
どたどたどた。日常的なパシリで鍛えられた全力ダッシュでアンの部屋まで素早く辿り着いた下っ端はノックを三回してから武芸者の先生を呼んだ。
「アン先生! カチコミです!」
そんな下っ端オットセイに監視部門の最高責任オットセイはキレた。アンの待機ルームの近くのスピーカーを使ってキレ散らかす。
『バカ野郎! バカ正直に走ってねえで無線なりスマホなりに連絡かけりゃあいいだろ時短心がけて動け腐れ無能がぁあッ!』
「へい! 申し訳ございやせんでしたぁあああ!」
下っ端オットセイをラードーは叱責する。上司から怒鳴られた下っ端オットセイはその場で土下座した。躾が行き届いている。
『アン先生! カチコミです! ひと仕事お願いしやす!』
部下を叱責しながらアンへの連絡をラードーは済ませていた。有能な男と言えよう。ゆえに全ての火蓋はこの連絡によって切られた。
セイオーマートと商店街勢力の間に生じた最後の戦い。セキュリティ対応に基づく必然からその戦闘は生じた。
この日は蒸し暑い日だった。初夏である。そりゃあ暑くもなる。
夏の始まりに相応しい気温に反して空の色合いは少々悪かった。午後三時。この時間帯を天気予報は雨と占っている。気象予報士の見立て通り、空には分厚い雲があった。今にも水滴が垂れてきそうだ。
この曇り空の下で発生するのは――勢力同士の凄絶な殺し合い。
混沌とした現状を一度整理しよう。
自分をスモウマスターだと思い込んでいるエビル千手観音は、ほんの数時間前にハイウェイ近郊の貧民街で陽乃から話を聞いた。
エビル千手観音は完全に狂っている。
狂っているので想像上のスモウマスターとしての義憤に何故か駆られた。義憤に駆られた男はセイオーマート新規店舗に襲撃を仕掛ける。
こんな頓珍漢な経緯など誰にもわかるわけがなかった。スモウマスターの正体がエビル千手観音であることも。旧商店街のちゃんこ屋元店主陽乃の話も。誰も知らない。理解できない。狂人との対話は不可能だ。
斯くの如く意思疎通不能な狂人の近くで――
「そこか」
――スマホのデフォルト着信音が鳴る。
オットセイでできた死体の山に巨大な狂人は目を向けた。死肉と脂と血で出来た小山で鳴り響く着信音に武芸者は反応する。
「……」
好機と思ったのはアンだ。敵のしぐさを好機と見たのはアンの方だった。
如何なる気配遮断の技量か。エビル千手観音が目を向けたのとは完全に逆方向の死体の山に潜んでいた少女が這い出てくる。
ぬるり。
オットセイの血と脂で全身を汚した若き武芸者は、無防備に晒される敵の背面を狙った。分厚い首筋へと高度に隠蔽した殺意を向ける。今しがた鳴ったスマホはデコイだ。
ほんの数分前のこと。スモウマスターに扮したエビル千手観音が垂れ流す強すぎる気配。敵の接近を事前に察知していた彼女は密かに迎撃の準備を整えていた。
エビル千手観音を仕留めるべく、予め近辺に潜んでいたアンは対エイリアンマチェットを急所へと向ける。
「やはりな」
セイオーマートの用心棒――アン・エイリーの奇襲を読み切っていたエビル千手観音は凄まじい速度で反転する。
ぱぁああんッ!
「がっ」
反転の遠心力を利用した張り差しでアンを弾き飛ばした。一撃で奥歯が砕ける。極限まで鍛えられた肉体と骨と筋肉の異常発達のせいで、ごく普通の女子中学生といった風体の癖に八十九キロもあるアンがまるでゴム鞠のように飛んで行く。
アンは弾き飛ばされ――
「うぅううっ」
――着地した。若干の脳震盪を起こしながらも体勢を崩さなかった女子中学生は、ジャンパースカートの裾をはためかせて
かろっ。
「と、とんでもない大物」
かろん。戦闘態勢を構え直すついでに奥歯の欠片を吐き捨てた。
「こっこっ、こんなに強いエイリアンと戦うのは、はじっ初めて」
読書がよく似合いそうな地味で華のない少女の右手には対エイリアン用マチェット。左手には
「でもっでもっでも……パパより弱い」
最寄りの中学校の図書館を探せば数人はいそうな少女は戦闘態勢に入る。
対エイリアン用マチェットを右肩に担いだ。左手に握るTKTSアサルトチャカは銃口を横倒しにして敵に向ける。重篤な吃音症のせいで日頃から震える言葉とは裏腹に彼女の手足に震えはない。
この星を救うのだ。人類を守るのだ。私は世界を救うのだ。震えている暇などない。
暗黒巨大企業『セイオーマート』傘下の武芸者アン・エイリーは、「対エイリアン白兵戦闘術ver7.02」を父以外の生物に初めて構えた。
互いに頃合いと見たのであろう。
「私はスモウマスター。世界最強の武芸者だ」
「わ、私はエ、エ、エイリアンハンターみ、見習いのアっアン・エイリー」
アン・エイリーとエビル千手観音はそれぞれ意味不明なことを宣った。
文字通り意味不明な言葉だ。意味は誰も知らない。降水確率が七十パーセントを超える曇天の下に生じたこの戦いの理由を誰も知らない。対峙する両者が何を考えているのか把握できている者は誰もいなかった。
でも関係ない。アンの目の前にいるのはこの星を滅ぼすエイリアンだ。エビル千手観音の前にいるのは不遜にもリングに上がって来た若き武芸者。
二人が生きる世界は狂っていた。何もかもが狂っていた。
武芸的狂気の深淵の深淵の澱に沈み込んだ武芸者たちは、いつもいつだってこんな風に何の意味もないのに殺し合う。
時は梅雨入り前の五月十四日午後三時十八分。オープンしたばかりのセイオーマートの新規店舗に何者かが襲撃して来た。
襲撃者を迎え撃つのは四千億円ものガチャ回しで召喚されたアン・エイリー。対するは千三百八十円のちゃんこで雇われたエビル千手観音。
「義によってセイオーマートを討つ。邪魔立てするな武芸者よ」
「こ、ころころ殺してやりゅっ。エイっエイっエイリアぁンっ!」
セイオーマートと商店街勢力の間に生じた殺し合い。この抗争における最後の戦いが今まさに幕を開けた。