少なくとも現代日本ではないいつかのどこか。
覚えてる。すべて憶えている。
アンの優秀な脳は、「いつか」も「どこか」もちゃんと全部記憶していた。
走馬灯となって光と影が駆け抜ける。
「パパっパパっ。パパぁっ。あっあっあっあれっ!」
「どうしたんだい? アン」
レッスンと称して初めての実戦を行った。お利巧なアンは教えた通りにエイリアンを駆除してくれた。
問題はその後だ。
首尾よく終わった死合の後に細々とした処理が必要だった。武芸者を一人殺した後始末は死合そのものと同じくらいに労力がいる。そのせいで待ち時間が生じてしまった。
無駄な余白を過ごした分だけ武芸者は衰える。とはいえドタバタと騒いで人目を集めるわけにもいかなかった。
この時間を使って学術的なレッスンでもしようか。そう思ったエイリアンハンターは、生まれて初めて暇になったアンを連れ、深夜の水族館に不法侵入した。
「エイっ、エイリアン! エイリアンがいりゅ! く、く、くっ駆除しないと……!」
「アン。あれはエイリアンじゃないよ」
「で、でもっでも、触手っ、しょ、触手がっ」
「あれはエイリアンじゃなくてタコさんだよ。えーと名前は――」
どうして水族館に忍び込んだのか。
言い訳として用意できる理由は幾つかある。初めての実戦を終えたアンは少々興奮状態にあった。あとは逃亡用の処理のために長距離を動くことが難しかった。騒ぎを起こすと面倒な状況でもあった。
アンを落ち着かせながら騒ぎを起こさず時を過ごす。これらの条件をクリアする手段としてエイリアンハンターは娘と一緒に近場の水族館に行った。
アンの初陣に少しだけ気分が高ぶっていたのかもしれない。今思えば不合理で戦略的評価の低い行動だった。
「パパっ、パパパパぁ!」
「どうかしたのかい? アン」
「あっあれ! あれ! あれれ!」
「うーん。あれはナマコさんだね。エイリアンじゃないよ」
「エっエっ、えっ?」
ハッキングした監視カメラで周囲の安全を確認しながら、薄暗い水族館をアンと一緒に見て回る。
展示された海の生き物たちを見たアンはいちいち大袈裟に反応した。
大袈裟で頓珍漢なことを言う娘に適当な言葉を返してしばらく歩く。見ていて面白そうな生き物がいれば立ち止まって一緒に眺めた。まったく以て無意味で無価値で非生産的な時間と言えよう。
でも今までに見たことのない輝きを瞳に反射させて、甲高い声をあげるアンの姿を見るのはちょっとだけ面白かった。
どれだけ無駄な時間を過ごしたのか。
「あっあのね。あのね」
「どうしたんだい? アン」
「わたっ私、がんばるっ頑張るから」
「アンは頑張ってるよ。ボクが一番よく知ってる」
「わたしっ私、がんっ頑張って」
「うん。一緒に頑張ろう」
「り、立派なエイリアンハンターになるっなる!」
「アンならなれるよ。ボクより強い武芸者に。絶対なれる」
「だからっ。だからね」
「うん。だから明日は……」
「だからっ。わっわたし――
――もう大丈夫だよ」
水族館のなかを歩いて歩いて迷った先。
意味合いの薄い時間を過ごした父娘は大きな水槽のある広場に辿り着いた。
見覚えのあるようなないような光景のなかで何かが反射する。巨大な水槽のなかで光が通り過ぎてゆく。
ふと我に返るとアンの後ろで海の生き物が泳いでいた。いや泳いではいない。二足歩行で立っている。水族館の護衛だろうか。それとも警備員だろうか。屈強なオットセイが娘の後ろにいた。葉巻を吸っている大柄な個体。眼鏡をかけた個体。オットセイが纏うヤクザスーツは随分仕立てが良い。
「パパっ、パパっ」
「アン。何かあったのか?」
オットセイたちと共に立つアンは急に妙なことを言い出した。
「わたしっ私は一人でも、だいっ大丈夫っ」
大丈夫じゃないよ。
「私は……パパがいなくなっても頑張るから!」
アンはボクが付いてないとダメに決まってるだろう。
「だから心配しないで!」
常よりもだいぶ聞き取りやすい声のアンから、エイリアンハンターは受け入れがたいことを言われた。言われたことをエイリアンハンターは即座に否定する。
否定してからアンの父親は気づいた。ようやく気づいた。理解した上で否定する。
大丈夫? そんなわけない。
ボクの娘は世界最強の武芸者になるんだ。
そのためにボクが付きっ切りでレッスンの面倒を見てあげる必要がある。一人で世界最強になるなんて絶対に不可能だ。ボクが手取り足取り教育してやる。ボクがいるからアンは世界最強になれる。
エイリアンハンターの武芸的狂気はアンの言葉を否定した。
でも違う。そうじゃない。
「そっか」
「う、うんっ! わっ私は、せ、世界最強のエっエイリアンハンターになるから!」
だってきっとこれが――娘と交わす最期の会話。
だから伝えるべき言葉はそうじゃない。
「アン」
「うっうん!」
頭を撫でた。丸っこくて形の良い娘の頭をエイリアンハンターが撫でる。くすぐったそうに目を細めるアンは鼻水を啜った。
「よく聞きなさい」
「パっパパっ。パパぁ」
狂った景色で彩られた光が瞬く。駆け抜ける走馬灯のなかでエイリアンハンターは娘に大事なことを伝えた。
「なれるよ。アンなら――世界最強に」
「うん!」
現実世界で発することが難しいであろうとても明瞭な返事をアンが返す。光のなかに消えてゆく父親がちゃんと聞き取れるように。大好きなパパが心配しないで済むように。
エイリアンハンター。アンの父親はとうに死んでいる。
今ここにいるエイリアンハンターは本物のエイリアンハンタ―ではない。アンの才能が再現したエイリアンハンターだ。
ならばこそ死に際に思い出す記憶は、大好きなパパのことばかり。
頭をなでなでしてもらった。一緒にフルーツサンドを食べた。水族館で色んなお魚さんたちを見て回った。中学校の制服を選んでもらった。
アンは狂っていた。虐待と洗脳と暴力と武芸しか無かった人生のなかで、それでもパパのことが大好きだった。
アンが死ぬ。
それは許されない。
ボクの娘が死ぬことは絶対に許さない。
確実に殺される世界最強の投げ技の終端。エイリアンハンターの顔が歪む。無念なのは敗北することでも死ぬことでもなかった。
「アンはっ、この子は……っ」
唯一の無念は、成長した娘の姿をこの目で見られないこと。
地面が割れた。エイリアンハンタ―が地面に叩きつけられる。無限に引き延ばされたアンの死の瞬間に、エイリアンハンタ―は武芸者として最期まで生きた。
武芸的狂気が脳の機能を変換する。エイリアンハンタ―としての人格を構築する部位に仏壇返しの破滅的破壊力が集中した。アン・エイリーを絶対に殺す技をエイリアンハンターが肩代わりする。
確実に死ぬダメージを受けたアンの脳は、致命傷の威力を父親に押し付けることで逃れ得ぬ死を逃れる。
アン・エイリーは死ななかった。
「パパ。さよなら」
代償として彼女のなかで生きていたエイリアンハンターは完全な形でこの世を去った。
どすどす。どたどた。
「おうおうおう! アン先生! ご無事ですかい!」
死闘が終わった。
頃合いを見計らっていたのだろう。倒れたアンにオットセイたちが駆け寄る。彼ら彼女らが纏うのは漆黒のヤクザスーツではない。純白の白衣だ。今しがた現れたオットセイたちは衛生担当オットセイである。高度な医療技術を有していた。
「おうおうおうおうおう!」
「おうおうおうおうおう!」
「おうおうおうおうおう!」
「おうおうおうおうおう!」
「おうおうおうおうおう!」
倒れ伏したアンを守るために築かれた肉の壁が如く、漆黒のヤクザスーツオットセイたちもずらりと集結する。膝を突いたエビル千手観音をオットセイたちが取り囲んだ。
急に現れた彼らがヒレに構えるのはチャカとポン刀。全知全能のプロレス神ないし相撲の神を相手取るには余りにも心許ない得物である。
それでも残った武闘派を掻き集めたセイオーマートは襲撃者に臨んだ。
「若頭。いえ、親分。これは先代のもんです」
「……おう」
眼鏡をかけた若頭級オットセイ――オウルが、オヤブーンが愛用していたヤクザハットを部下から受け取る。燃料と煤で汚れた先代の遺品を彼はその場で被った。
オヤブーンが乗り移ったかのようにオウルは牙を剥く。
「おうおうおうおう!」
荒い息をついて身動きができないエビル千手観音をオウルは一喝した。
「何の目的で襲撃してきたかは知らねえが、用心棒の先生を倒した程度じゃセイオーマートは終わらねえぞ!」
インテリで知られる彼の怒声は彼我の戦力差を見抜けぬがゆえの愚行ではない。
「俺たちを皆殺しにしようがッ! 新店舗を更地にしようが! セイオーマートはその程度で倒産するようなタマじゃねえんだよ!」
襲撃者の強さをオウルは理解していた。直接的な動きは追えずとも間接的な被害状況を監視カメラはセイオーマートに伝えた。戦闘になれば確実に皆殺しとなるだろう。絶望的な戦力差を正面から把握した上で、セイオーマートという会社が生き残るための時間を稼ぐべく敵の意識を自分に集中させる。
「てめえのやったことは全部無駄だったんだ!」
オウルの怒声を全く意に介さず、エビル千手観音は立ち上がった。
「無駄ではない。美味いちゃんこを食えた。十分な報酬だ」
立ち上がってから意味不明なことを口にする。
「…………おう?」
謎の言葉にオウルは素で混乱した。
「ッ。おうおうおう!」
言葉の意味は理解できずとも敵が立ち上がってきたという軍事的な意味は理解できた周囲のオットセイたちは身構える。彼らは傭兵上がりの戦闘種族だ。オットセイとしてここで討ち死にする覚悟を決める。悲愴な覚悟を決めたオットセイたちに――
「私はスモウマスターだ」
――エビル千手観音は相変わらず狂ったまま不意に背を向けた。ゆっくりと去ってゆく巨大な武芸者の背中を見てオウルは冷や汗を垂らす。
「助かった……のか?」
ドローンを用いた監視カメラで見ていた。何が何だかわからない戦いだった。
わかったのは襲撃者の凄まじい戦闘力だけだ。もし戦闘になっていれば為す術なく全滅していたと断言できる。去り行くスモウマスターにセイオーマートの新最高責任オットセイは安堵と警戒を隠せなかった。
去ってゆく化け物を刺激しないために誰も声を出せない。
誰も口を開けぬ緊張感のなか――
「ゆっ、ゆ、許さない」
――聞こえてくる怨嗟の声があった。
「ゆ、ゆゆ許さないぞ。スモっスモウマスター」
エイリアンハンターのものとも、臆病で内気な少女のおどおどとしたものとも明確に異なる声が聞こえる。
「よ、よくっよくももパパを殺したなっ。ぜっ絶対に、絶対許さない……っ!」
聞こえてきた声の正体は、エイリアンハンターの娘ではなく、アン・エイリーという武芸者の産声。親から強制されたものではない。自分の意志で構えた初めての殺意だ。
弾かれたようにエビル千手観音が振り返る。武芸者ネームを得た天啓のようにエビル千手観音は理解した。
なぜ自分がエビル千手観音となったのか。
なぜスモウマスターと戦ったのか。
なぜ生き残ったのか。
「ああ。そうか。このためか」
ようやく分かった。何もかもが。すべて。狂った世界でそれだけが真実だった。
気づけば横綱の証である大銀杏が解けて長髪が雨に濡れている。午前中から継続していた曇天はいつしか雨空となった。過度な空襲で破壊し尽されたかのような駐車場の割れたアスファルトが濡れる。血が洗い流され始めた。
雨が降る。前途を暗示するかのような雨が。武芸者の末路を示すが如き空の下に浮かび上がるのは相撲の神ではなくプロレスの神の面影。
「リベンジマッチはいつでも受け付ける。そのときは俺が相手だ」
エビル千手観音は嗤った。プロレスの神は傲岸に嗤う。スモウマスターとの戦いで寿命の大半は失われていた。骨も臓腑も軒並み砕けている。エイリアンハンターとの戦いで古傷がさらに拉げた。
一時間と持たず確実に死ぬだろう。だが終わりなどなかった。武芸は繋がる。暴と武に狂い果てて死んだ無数の武芸者たちの無残な末路の――その先へと。
生き残るために。殺すために。世界最強になるために。
改良され、断絶し、のたうちのたうち回りながら、血反吐と共に進む。武芸に終わりなどないのだ。
じたばた。死にかけの触手型エイリアンのようにもがくアンを医療オットセイたちが必死に押さえつける。
「パパの仇だっ。お、おお」
父を殺した武芸者の影は、雷鳴が轟く豪雨の影に消えてもう見えなかった。
激しく降り始めた雨の影へと消え去った敵を睨みつけるアン・エイリーは叫ぶ。
「大人になったら殺してやるぅうううううううううっ!!」
決まりきった破滅へと繋がる冥府魔道へと幼き武芸者はようやく足を踏み入れた。