スモウマスターvsエイリアンハンター   作:奈田

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第四話 無観客のラストマッチ

 ボクサーはタックルに弱い。暴力と武芸を好む者たちは度々そんなことを言う。

 

 拳以外の全てを縛った特殊な立ち技格闘技なのだから、ある程度は事実だ。

 

 とはいえ実際の試合ではレフェリーの隙を突く形で肩を押し込んでくる無法者もいるし、グラップルさながらの突進じみたクリンチを見せる選手もいる。

 

 体幹の強さはボクシングにおいて強力な武器だ。体をぶつけられた程度でふらふらと崩れるようなやわな男はボクサーとして大成できない。

 

 あるいはフットワークで距離を離し、タックルをそもそも入れさせない立ち回りでレスラーを翻弄することもできる。

 

 結論として、並みのボクサーであれば確かにタックルに弱いかもしれない。しかし超一流のボクサーは、専門の訓練を積まずとも自然とタックルへの耐性を有していることが殆どだった。

 

 超々一流のボクサー……要塞砲が如く巨拳を自在に振るうシャッコーの体幹の強さともなれば、もはや大木の幹の強靭さに近い。

 

 そんなシャッコーの身体が――

 

「がッ。何しやが――」

 

 ――戌雄の神速の超低空タックルにより刈り取られた。卓抜した重心移動により放たれた双手刈りは、街灯の影に擬態する軌道で飛来する。真冬の深夜。この状況下において初見でこのタックルを防ぐことは、熟練の柔術家でもまず不可能だ。

 

 使い古した作業服。うだつの上がらない中年特有の冴えない見た目。生来の弱そうな雰囲気。

 

 戌雄自身は無自覚だが、そうした要素も相まって、開幕のタックルは恐ろしいほど完璧な奇襲として機能した。

 

「……」

 

 首尾よくシャッコーを転がした戌雄は、冴えない容貌からは想像もできない俊敏さでシャッコーの重心を上から圧し潰す。あっという間に身動きが取れなくなったボクサーに対し、握り込んだ右拳による鉄槌打ちをすかさず打ち下した。

 

「――がッ。ぎゃあッ」

 

 鉄槌。鉄槌。鉄槌。連打連打連打。足を絡ませるガードポジションすら許さない完璧なマウントポジションにより、戌雄の打撃がシャッコーに一方的に降り注ぐ。

 

 馬乗りになられた状態への対処法はもちろん複数ある。寝技の心得がある者ならばこの体勢から抜け出す技術を幾つか持っているだろう。されど戌雄のマウントは巧みな重心移動により、抜け出す端緒が悉く潰されていた。

 

 体勢だけなら何とかなる。何とかなるが――マウントの上に乗るのは重心移動を得手とする佐崎式剛撃術の達人。この体勢に陥った時点で、戌雄が構築したマウントの牢獄から抜け出す術は極めて限られた。

 

 もしかしたら戌雄の技術を凌駕する寝技の怪物であれば、ここからの逆転もあるかもしれない。

 

 だがシャッコーは寝技の怪物ではなかった。彼はボクシングの怪物だ。

 

 超テクニックで上に乗ってきた武芸者をどうにかする方法など知る由もない。

 

「ギャッ、ガッ、ギァアッ」

 

 甲殻が割れる音と感触。

 

 何たることか。遍くボクサーたちを絶望させたあの装甲が。意味不明な耐久力でどんなパンチをも軽々と弾き返したシャッコーの甲殻が、簡単に割れた。

 

 ヘビー級戦線のトップボクサーたちがついぞ攻略できなかった絶対の防御が、四十五歳の冴えない中年犬によって砕け散る。読者諸君は目を疑わないで頂きたい。これは現実の光景だ。

 

「……」

 

 近代ボクシング史百五十年の難問を解き明かした戌雄は手を緩めない。巧みな重心移動でシャッコーの体幹の要訣を押さえた武芸者は、一切の油断も容赦もなくパウンドを続けた。

 

「ガッ、ぐっ……」

 

 肉球と甲殻がぶつかり合う格闘音が断続的に響く。しばらくして、音がやがて変質した。硬い物質が割れてゆく音に、湿った何かが歪む音が徐々に混じり出す。強靭な外骨格のみならず、鎧の内部に守られていたはずの中身にまでダメージが蓄積し始めたのだ。

 

 渾身の力を込めて鉄槌打ちを振り下ろした。何度も。何度も。スタミナを削る無呼吸の連打を続けるこの男は拳を止めない。あらゆる格闘技でレフェリーがストップして然るべき大ダメージを与えながら、なおも攻撃を止めなかった。

 

 そう。これは格闘技ではない。路地裏の喧嘩でもなかった。止めるわけがない。

 

 殺し合いなのだ。死合なのだ。武芸者と武芸者が死ぬまで戦い続ける。ルール無用の路上にあって、それだけが唯一無二のルールだった。

 

「ッ……。……」

「……」

 

 今まさに馬乗りで殴られ続けるシャッコーは状況を把握しているのか。ああ。何たることか。彼の意識はもはや失われていた。甲殻が割れて露出した脳幹に直接打撃が叩きつけられる。こうなってしまえばボクシングIQも顎のタフネスも関係なかった。天賦の才能を無限の努力で叩き上げた完璧なディフェンス技術が何の役にも立たない。

 

 防御を無視する打撃で体の内側を物理的にシェイクされたシャッコーは、急速に死に近づいてゆく。

 

 気づけばわけもわからないままシャッコーはKOされていた。戦いの準備すら許されることなく、開幕の十数秒で意識と戦意を手放してしまった。三年前。わけもわからない裁判で悪意と陰謀に為す術なく絡めとられたように、シャッコーはまたしても負けてしまった。

 

 仮定の話をしよう。何の意味もない仮の話だ。

 

 仮にここが整備されたリングの上で、ルールがボクシングで、シャッコーがこの戦いに向けて完璧に体を仕上げてきたなら、戌雄は間違いなく負けていた。

 

 おそらくは戦いにすらならなかっただろう。様子見のリードジャブに反応できず、頭蓋骨を粉砕されて脳漿を飛び散らせていたはずだ。時間経過ゼロ秒で確実に殺されていた。

 

 しかしここは凹凸の目立つ路上で、ルールはなんでもありで、そしてシャッコーは酒が入っていて運動不足だった。

 

 ボクサーとはガラス細工の芸術作品である。

 

 トレーナーたちが一丸になって築き上げる究極の戦闘作品だ。

 

 緻密で繊細な維持管理により完成するボクサーは、適切な環境から離れるだけで、これほどまでにあっけなく砕けてしまう。

 

「……」

 

 敵が戦意を喪失した真上で、戌雄はまだ戦っていた。もはや技巧すらない握った拳の連打を繰り返す。

 

 闘志と殺意を失わない戌雄の一方で、シャッコーはもう立てなかった。

 

 四十戦四十勝四十KO無敗。リングの上で一度も倒れなかった伝説は、たった一度のダウンで終焉した。

 

 ぐちゃ。

 

 生きた生物の身体から鳴ってはいけない異音。

 

 もはや原型すら無くなった甲殻類の頭部に、汁っぽい響きと共に、何度目かもわからぬ拳が振り下ろされる。それがこの攻防における最後の一撃となった。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 殴り続けたせいで流石にスタミナを消耗したのだろう。息を切らしながら戌雄は立ち上がった。

 

 シャッコーは首から上をぐちゃぐちゃにして冷たいアスファルトに横たわっている。

 

 もう立ち上がることはないだろう。確実に仕留めた。殺したという確信があった。

 

 ボクシングの四団体統一ヘビー級チャンプという、男たちの憧れを。

 

 憧れの……あまりにもあっけない最期を、冬の街灯の薄い光を使って見下ろす。

 

「何故……。何故あなたほどの人が……」

 

 あまたのボクサーたちの屍を積み上げてその頂点に立った伝説の骸を、戌雄は今何を思って見下ろすか。

 

 冴えない工場勤務にもがきながら、古いテレビ画面に映る在りし日のシャッコーをかつての戌雄は見ていた。

 

 何という強い男だろう。何という素晴らしい才能と完璧な肉体だろう。この人に俺は勝つことができるだろうか。薄暗いアパートの一室でそう思った。妄想のなかでそう問うた。現実逃避じみた夢想の世界で何度も何度も憧れと拳を交えてきた武芸者は、今何を思うか。

 

「……戌雄。それがあなたと戦った最後の相手の名です。チャンピオン」

 

 絶対的で圧倒的だった強さの残滓を見下ろす武芸者は、戦いのなかで死んだ武芸者に頭を下げる。

 

 勝者の礼だった。

 

「あなたが現役の頃に戦いたかった」

 

 返り血を冬の大気で凍てつかせた戌雄は去り際に呟く。

 

 酒に逃げず、女も抱かず、弛まぬトレーニングを休むことなく続けてきた国亜商事傘下の武芸者は、胸の底に蹲る寂寥の冷たさに凍えながら立ち去る。

 

 そして次の戦いへと向かうのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 待て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……い、いぬ、おつったか」

 

 戌雄の足が止まった。

 

 誰もいない深夜の冬の町で声が聞こえる。しゃがれた声だ。喉と鼻を血で詰まらせ、酒で内臓が荒れ果てた酷い声がした。

 

 戌雄は振り返る。

 

 仕留めた。殺した。確かに倒したはずだ。

 

 距離にして徒歩で十五歩。そこで仁王立ちする何者かの影が見える。

 

 冬の寒さとはまったく無関係に戌雄の背筋が凍った。

 

「立ち上がるのか。あなたは」

 

 街灯の薄い光が影の正体を照らす。そのシルエットは巨大だった。何しろ二メートル十六センチもある。巨大で歪なアウトラインは間違いなく哺乳類のものではない。

 

 片複眼は千切れ飛び、頭部の中身が露出し、だらだらと体液を垂れ流す巨大なモンハナシャコが、残った片複眼でこちらを見ていた。

 

「わる、……かったな」

 

 ボクシングヘビー級四団体統一世界チャンピオンは、ダウンから九秒ジャストで立ち上がった。露出した中身から白い湯気を立てながら、かろうじてファインティングポーズを取ったシャッコーはひとまず自分の不手際を詫びる。

 

「悪、かった。この、俺と……したことが……。フォーミング、アップ……に……手間取った」

 

 不意打ちでいきなり殺されかけたシャッコーは戌雄を一切責めなかった。チャンピオンでありながらチャレンジャーの先手に反応できず、無様なダウンを喫してしまったことを対戦相手に申し訳なく思う。彼が思ったのはそれだけだった。

 

 こんな無様な負け方は許されない。だから殺されかけてなお立ち上がる。

 

 ……いや、より正確な表現をするべきだろう。殺されかけたのではなく一度"殺された"シャッコーが、それでも立ち上がった。

 

 矛盾の塊のような話だが今のシャッコーは死んでいる。少なくとも医学的には。脳は生存に必要な細胞を残していなかったし、飛び散った体液の総量は明らかに致死量を超えている。

 

 でも関係なかった。シャッコーはボクサーだ。ボクサーはカウントが十を超える前に絶対に立ち上がる。今やってみせたように。

 

 ボクサーの敗北を決めるのはレフェリーだ。レフェリーが止めない限りボクサーは……無敗のチャンピオンは絶対に立ち上がってしまう。

 

「今から……本気で、行く。楽しませろ……よ。チャレン……ジャー」

 

 視界が欠損しているせいで遠近感の狂ったシャッコーは、今にも転んで倒れ込みそうなフラフラとしたフットワークで戌雄との距離を詰めた。

 

 第二ラウンドだ。中断した戦いが再開する。

 

「……ははッ!」

 

 シャッコーの狂気に戌雄は笑った。牙を剥いて。

 

 笑わずにはいられなかった。だってそうだろう。今にも死にそうな男が。肉体的にはとうに死んでいるはずのチャンピオンが。

 

「しッ!」

 

 こんな恐るべきパンチを放ってきたのだから。

 

「……ッ」

 

 戌雄は全力で回避行動を取った。脳がまともに動かないシャッコーがよろめきながら繰り出してきたのは大振りの左フック。この負傷ではまともなディフェンス戦などできないため、一発狙いの大振りしか打てないらしい。

 

 そんな苦し紛れの大振りパンチに、命の危機を感じて距離を取らざるを得ない。

 

 戌雄はパンチを躱した。余裕をもって。当たり前だ。余裕のある回避を成功させなければ死んでいた。

 

 虫の息のシャッコーが放った完璧な左フックは、わずかに軌道が狂い、戌雄がいる座標とは程遠い路地の壁に激突する。

 

 そして恐るべき現象が生じた。

 

 あまりのハンドスピードに物質が液体のようにふるまい始め、ソニックブームによって壁ごと建物が吹き飛ばされて倒壊したのである。

 

 人のパンチでビルが壊れた! これは現実の光景なのか!?

 

 一発で建物が廃墟になるという正気を疑う怪奇現象が轟音と衝撃を引き起こすさなか。

 

「……う、うぇえええ」

 

 放ったパンチに負傷した肉体が耐えられずに、バランスを崩したシャッコーは、血反吐か胃液か溶けた内臓かわからない液体を口から溢した。

 

 激痛か。眠気か。寒気か。全身を苛む苦痛に身動きが取れなくなる。だが倒れてはいない。意地でも倒れるものか。

 

「行きます」

 

 シャッコーの意地とプライドを戌雄が冷徹に分析する。

 

「……来い。俺は、チャンピ……オ」

 

 一流の武芸者として敵の隙を逃すわけにはいかない。佐崎式剛撃術の達人は得意の重心移動をフルに生かして一瞬でトップスピードに到達した。

 

 バランスが崩れて身動きができないシャッコーは、近寄る戌雄を残った片複眼で凝視する。

 

 片方しか視野がないため遠近感が狂っている。頭がふらふらするせいで足のふんばりも悪い。こんな状況でどうやって戦えというのか。

 

 どうやって戦えばいい? 答えは簡単だ。物凄く簡単だ。

 

 "要塞砲(フォートレスキャノン)"シャッコーにとっては、寄ってきた女に一夜の思い出を作ってやるよりよほど容易い。

 

 狂った遠近感で当たるようにパンチを繰り出し、ふらふらする足取りで強固に地面を蹴ればいいのだ。

 

「はは、はッ」

 

 シャッコーは笑う。三年ぶりに笑った。見ろよみんな。トレーナーのみんな。

 

 滑るように間合いを詰めてきた戌雄に対し、アニメーションのコマ送りを思わせる異常な反応速度でシャッコーは体勢を整えてみせる。まるで弱ったふりをして相手の不用意なビッグパンチを誘うトリックスター選手のような動きだった。

 

 楽しいなボクシングは。

 

 これこそはシャッコーの才能の真骨頂。無敗のチャンピオンは、ダウンから復帰した後の窮地という初めて体験する局面にも、即興で対応してみせた。

 

 窮地に陥り一段成長したシャッコーは、アルコールではなく全能感に酔う。

 

 見える。相手の姿も。距離感も。次の展開まで見えた。

 

 ワンパターンだな、チャレンジャー。体勢を立て直したシャッコーは戌雄の狙いを読み切った。

 

 タックルだ。またしてもタックルを狙ってくる。ならどうする? カウンターで決めればいい。先ほどの再現を狙う相手にカウンターのアッパーを合わせるのだ。

 

 この一発で勝負を決めてやる。シャッコーは勝利までの道筋を一瞬で組み上げた。

 

 ノックアウトを幻視する瞬間の心地よい高揚に満たされたシャッコーは、満員の観客の熱狂を聞く。

 

「ぐるるるぁあああッ」

 

 無論。シャッコーが見た幻を戌雄も見ていた。カウンターアッパーによるKO負け。その未来が見えていた。

 

 チャンピオンだ。相手は現役ボクサーの頂点なのだ。ならば二度目のタックルには確実に対応してくる。事前の作戦通りに戌雄は動いた。

 

 ゴールデンレトリバーの軸が咄嗟に狂う。タックルの姿勢からレールガンコイルに引き寄せられた砂鉄のように重心が反転した。

 

「……んなッ!?」

 

 クリーンヒットするという絶対の確信をもって放たれたアッパーは、後ろに反り返った戌雄の顎の毛を撫でて空へと抜ける。

 

 突進の姿勢から急停止した戌雄は、ほぼ仰向けになってシャッコーの必殺の拳を躱してのけた。

 

 何という卓越した重心移動!

 

 こんな気持ち悪い動きができる生物は戌雄以外にほぼいないと言っていい。

 

 二度目の接敵の果て――シャッコーは大振りのアッパーで大きな隙を晒し、強引な停止によって戌雄もまた仰け反って隙を晒した。

 

 故にそこから先は反応速度の戦いとなり、事前に決着までの絵図を描いていた戌雄が主導権を握ることとなる。

 

「獲った」

 

 戌雄の腕が伸びた。シャッコーのコートの袖に絡みついた武芸者は、全体重をかけて相手の体勢を崩す。

 

「……ッ! 舐め、んなッ」

 

 腕に体重をかけられたシャッコーは堪えた。しかしそれに耐えようとした瞬間に体の中心が横に傾ぐ。それも何とか堪えて、斜めに倒れ込む体を足腰のふんばりで立て直そうとした。だが今度は膝を突きそうになる。

 

 シャッコーの前で戌雄が舞った。無数の関節技とフェイントの嵐を伴って。

 

 意味がわからなかった。こんな攻防は知らない。

 

 関節技(グラップル)の素人であるシャッコーは混乱した。なんだこれは。俺は今何をされている。

 

「俺の勝ち、だッ」

 

 幾重もの罠を仕掛けた戌雄は最終的にトライアングルチョークへ移行した。

 

「ギャ、ぐぴっ」

 

 唐突な圧迫。完璧に極まった三角絞めにより首が急激に締まる。得体の知れない関節技にシャッコーは何もできなかった。

 

 だが倒れていない。ダウンしていない。強靭な体幹によって膝は突かなかった。

 

「――ぐ、ぐぉ」

 

 まだダウンしていないなら何の問題もない。戌雄が絡みついた腕に渾身の力を込める。メキメキと音を立てた黄金の右腕は、戌雄の両腕の力をたった一本でねじ伏せた。

 

 何という剛力!

 

「ぐぎゃるぁあああああああッ!」

 

 常人の理解を拒絶する腕と腰の力によって、戌雄が絡みついた腕が振り回される。腕に絡みついた戌雄を片手で持ち上げ、壁か地面に殴りつけるのだ。追い詰められたシャッコーは凄まじい力技で状況を打開しようとする。どう考えても不可能な動きであっても、シャッコーの身体は主人の命令を裏切らなかった。ヘビー級の頂点を取ったチャンピオンの肉体は、主人の意志を決して見捨てない。

 

「流石です。チャンピオン」

 

 そして戌雄の期待と予想も……。

 

 三年間のブランクと瀕死の重傷のせいで、シャッコーの戦闘力は全盛期から大幅に削がれていた。だというのに戌雄が想定した最後の局面まで追い詰めてきた。奇跡としか言いようがない。シャッコーの奇跡を最後まで信じ続けていた戌雄は、戦う前に考えておいたプランの通りにシャッコーを仕留めにかかる。

 

 万力が如き力でシャッコーの首を絞め上げていた三角絞めが解けた。

 

 シャッコーは戌雄を振り払うことができたのか。そんなわけがない。戌雄が自発的に次の技へ移行したのだ。

 

 振り回される腕の慣性から離れ、屋根から飛び降りたネコ科動物を思わせてアスファルトに着地する。

 

 ただしコートの袖を握った手は放していない。強引に腕を振り回したシャッコーと、コートを掴んだまま三角絞めを解いた戌雄は、ちょうど柔道の一本背負いを投げる側と投げられる側のような位置取りとなった。

 

 シャッコーの剛腕が振り回した慣性が完全に消えきる前に、身長二メートル十六センチ・ナチュラルウェイト百六十八キログラムの巨体を戌雄が担ぐ。

 

 予めトレーニングしておいた通りに、流れるように絞め技から投げ技へと移行した。鮮やかな投げである。戌雄自身の力は殆ど加わっていない。

 

 投げ技に力はいらなかった。真に会得した技は、力ではなく、重心移動と体捌きで投げる。

 

 シャッコーが宙を舞う。

 

 アルコールの酩酊にも似た浮遊感が訪れた。浮遊し高速で流転する暗がりで、シャッコーは何を見るか。見事な投げ技で頭から叩きつけられんとする刹那にモンハナシャコは何を捉えたか。

 

 プロボクサーとして生きた果てに裏社会に流れ着いた男は――

 

「まだ、だッ!」

 

 ――今このときだけは過去を見なかった。

 

 戌雄だけを見ていた。過去の栄光ではなく、戌雄の隙を伺い続けていた。アルコールの慰めで無理やり思考を揺らし、過去の栄光に浸り続けてきた男が、過去を一切顧みずに今だけを見据える。

 

 負傷と酒で疲弊し、ろくに動かない思考を振り絞り、最期の一瞬まで勝機を探り続けた。

 

 それ故に戌雄は手加減など一切できなかった。

 

「せりゃぁああああああああああああッ!!」

 

 相手との呼吸をズラし、受け身を絶対にさせない必殺の投げが、打撃で甲殻が砕け中身が露出したシャッコーの脳天に突き刺さる。

 

「くッ――――――――」

 

 シャッコーは耐えようとした。今この期に及んでこの一撃を耐えて起き上がり逆転KO勝ちを狙い続けている。

 

 だから殺すしかなかった。

 

 アスファルトが破壊される。伴って命が失われた。

 

 シャッコーは死んだ。即死だった。

 

「良い、死合でした」

 

 痛みも苦しみも無く、ただ殺意と結果だけがシャッコーを仕留めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深夜の冬の街を着古した作業服姿のゴールデンレトリバーが歩いている。

 

 上着を羽織らない男の姿は、雪がチラつき始めた世界にあって、とても寒々しい。

 

 だが男はむしろ暑さすら感じていた。

 

 武芸者と武芸者が殺し合う――死合。その高揚と余韻から来る熱量が低温の大気を阻んでいるらしい。

 

 体温の熱さに物を言わせ冬の街をしばし歩いた後、気づけば名も知らぬ川辺に出ていた戌雄は、橋の欄干に背を預けてスマートフォンを取り出した。

 

「……」

『私だ』

 

 深夜だというのに、大した待ち時間もなく、戌雄の上司は電話に出てくれた。並みの職場であれば殴られても文句の言えない無作法である。

 

 こんな夜中に電話してきた部下を一切咎めることなく国亜商事の社長は報告を促した。

 

「戌雄です。報告します」

『聞こう』

「“運搬”が“失敗”したので“資材”の“搬入”を完了させました」

『そうか。期待外れだったか』

「違います。期待以上でした。手加減ができなかった」

 

 社長から促されるままに、仕事のミスを戌雄は堂々と報告した。

 

『……仕事の失敗を誇らしげに語るな。馬鹿者め』

「はい。どうも自分はあまり器用な人間ではないようです。次は社長も来てください」

『わかった。既に手配は済ませてある。お前はただ暴力装置として動け。フォローは全て私がする』

「はい。よろしくお願いします」

 

 シャッコーの強さという何よりも価値ある情報を報告し終えた作業着姿の給料男は、上司が切ったのを確認してから通話を切る。

 

 雪が緩やかに舞い降り始めた冬の町で、今しがたの死闘の熱に浮かされる戌雄は、最高の上司が手配してくれる次の戦場を思って牙を剥き、一人笑みを深めた。

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