ようやく目途がついたのであらすじを加筆しました。
主人公(♀)は第十七話で登場予定です。
昔の話だ。今から四十年近く前。戌雄が子供だった頃の話だ。
事の脈絡は覚えていない。
けれどもそのとき覚えた感情だけは覚えていた。
恐怖である。そのとき戌雄は怯えていた。
「るぁああああああああああああああああッ!」
「せいやぁああああああああああああッ!」
師が戦っている。その晩、戌雄の師匠――佐崎剛蔵は恐ろしいほどの殺意を宿した男と戦っていた。
まんまるのお月様が空に浮かんだ夜半。質量を伴った風が目の前で叩きつけられる。
拳による衝撃波でススキの穂が薙ぎ倒された。肉と肉がぶつかる衝撃が幼いゴールデンレトリバーの黄金色の毛を乱暴に撫でる。
土地の名前も知らない原っぱで死闘は小一時間続いた。
よく覚えていない。あるいは当時の時点で何もわからなかった。
どうして師匠が戦っているのか。男が何故襲ってきたのか。
精神的なショックで前後の記憶が抜け落ちてしまったのかもしれない。いくら考えても二人が戦っていた理由を思い出すことはできなかった。
忘れてしまった戦いの理由はともかく、その戦いは恐ろしかった。
単に暴力が恐ろしいのではない。戦いの趨勢がわからないのが怖かった。
全力の師匠。師を全力で殺さんとする謎の武芸者。二人の死闘は幼い武芸者の目にはあまりにも速すぎた。今見ても捉え切れるかどうか……。
佐崎剛蔵も謎の武芸者も、現時点の戌雄を凌駕し得る強者だったはずだ。
強者と強者による無数の交錯と駆け引きの末――
「ふんぬッ!」
「が、ガハッ」
――卓越した重心移動による剛拳で勝負は決した。戌雄の師は謎の武芸者の心臓を左の追い突きによって破壊する。
いつかのどこかで行われた死合の結末は、幼い戌雄が初めて見た人の死が答えだった。
「わ、わわぁ」
決着のシーンを目撃した戌雄は腰を抜かして立てない。月下の枯れすすきの原っぱに充満する武芸と狂気が恐ろしくて仕方なかった。
武芸的狂気。そう呼ばれるものがある。
武芸的狂気を全身に迸らせていた武芸者は倒れ伏した。
「……」
戌雄の師は死した武芸者の傍らに立つ。
月明かりが両者の朱を残酷に照らしていた。あまりにも美しい光景だ。
しかし幼き日の戌雄は残酷な美しさを理解できない。師の勝利を喜ぶことができなかった。血の臭気に酔うことができなかった。あの頃の戌雄はそこまで狂えていなかった。
眼前で繰り広げられた光景の恐ろしさに尻尾を丸めて怯える。怯える戌雄に、血染めの師がゆっくりと歩み寄ってきた。
「戌雄くん」
「……ひっ」
「きみは“こう”なっちゃいけない」
月下に照らされる暴力的な美しさを讃える巨漢は悲しげに微笑む。血染めになった手のひらではなく、ボロボロの手の甲で弟子の頭を師は撫でた。
「強さだけを追い求めた武芸者は必ず狂ってしまう」
「くるって……しまうの?」
「“武芸的狂気”だ。力と強さに狂い、武芸的狂気に堕ちた者は、もう二度と光の当たる道には戻れない。冥府魔道を突き進んだ先で必ず破滅する」
師は弟子に告げる。“武芸者ネーム”を有する本物の武芸者――ザ・ストロンガー佐崎は、死合で生き延びたことを喜ぶ前に、武芸と暴力に纏わる宿業を弟子に説いた。
「じゃ、じゃあ……どうすればいいんですか?」
「冥府魔道ではなく、光の当たる道を進むんだ」
国亜商事との因縁が生じる前。これが幼き日の戌雄の見た最初で最後の実戦である。
先に述べたように事の脈絡はすべて忘れた。もう思い出せない。
「……冥府魔道」
思い出せなかったが、現実世界で使うには如何にも大仰な“冥府魔道”という単語だけが戌雄の脳裏にこびり付いて、今も離れてくれなかった。
武芸者同士の殺し合い――死合の決着はついた。戦いは終わったのだ。
死に晒された本能によって暴走した性の衝動は既に収まっている。
「はあはあ、はあッ、わふッ」
勝者として生き延びた戌雄は動けなかった。冬の大気に凍てついた路面に膝を突いた四つん這いの体勢で呼吸を整える。
傷が深かった。糸の切れた人形のように倒れる若い女を見遣りながら、朦朧とする意識の中で先ほどの戦いを戌雄は振り返る。
猫殺しのスナイパーである彼女は強敵だった。
どれほどの狂気で才能を砥ぎあげれば、あれだけの武芸を得ることができるのか。見たところ年は二十にも満たないだろう。若さに見合わぬほどの武芸と凄絶な狂気を兼ね備えた恐ろしい武芸者だった。
「はあ、はぁ。この子は……きっともう」
疲労と負傷で未だ立ち上がることのできない戌雄は、戦いの前に見た残酷な十字架を思い返す。猫を虐待して殺した骸のオブジェだ。露悪的すぎる光景に付随して師の言葉も思い出す。
この娘は“武芸的狂気”に呑まれてしまっている。ひとたび武芸的狂気に呑まれてしまえば、もう二度とそこから抜け出すことはできない。師にそう教えてもらった。強さと力だけを追い求めた先に幸せなどは待っていない。あるのは暴力による破滅だけだ。
「はぁ、はぁ……ふぅ」
立ち上がろうとして失敗する。体勢は立て直せていないが、まともに呼吸ができる程度には体力を持ち直した武芸者は、客観的な事実に基づき判断した。
この子はもうダメだ。まともな人間には戻れない。止めを刺してやるのが武芸者としての慈悲ではないのか。
強靭な理性と才能で暴走する本能を堰き止めたことで、奇跡的に生かしたまま無力化することに成功した。
されどこの武芸者を生かしておけば、みゃーちゃんのような犠牲者がまた出るだろう。出血で頭から血が抜けたせいかもしれない。常とは異なる冷酷な判断が戌雄の思考に鎌首をもたげる。
トドメを……介錯してあげるべきではないのか。
果たして武芸的狂気に呑まれた娘に慈悲を下すべく再び立ち上がり構えを取った矢先。
「……あれは、社長?」
遠方から来るヘリのローター音が聞こえてきた。
場外離着陸の制限や安全性を完全に無視して高速で飛来したヘリは、戌雄からそう遠くない地点に降り立つ。
しばしの間の後。
「戌雄よ。無事だったか?」
戌雄の予想通りに、ヘリに乗っていた長身の紳士が素晴らしい段取りの良さでこの場に現れた。
「あぁ。社長……何とか無事です」
「酷い怪我だな。今医療班を呼ぶ。少しのあいだ堪えろ」
「はい。うん。俺は大丈夫です。生きてるんで」
死闘を終えたばかりの武芸者を、国亜商事の支配者――玖忍は労う。
未だ立ち上がれずにいる戌雄の生死を確認した玖忍は、次いで倒れ伏した礼瑠に目を向けた。
「あれが件の事件の下手人か?」
「はい。……あ、社長、待ってください」
敗れた武芸者の下に玖忍は躊躇せずに近づこうとする。
「よくぞ殺さずに無力化した。流石だ」
「ダメです社長……! 危ない!」
武芸的狂気に呑まれた極めて危険な相手に近寄ろうとする自らの主を戌雄は止めようとした。疲労困憊の手で玖忍のコートの裾を掴む。ろくに力を込められない体でその動きができたのは奇跡だ。
「放せ」
だが戌雄の手は振り払われてしまう。何ということだろう。相当に消耗しているとはいえ、極限まで鍛え抜かれた武芸者の手が、武芸を知らぬ一般人の手で弾かれてしまった。
「……ッ」
「しばらく待っていろ。これから彼女と交渉する。邪魔をしてくれるな」
剛力ではない。玖忍の迫力に押された。手を払われた戌雄は思わず身を縮こまらせる。
戌雄の静止を振り切った玖忍は礼瑠に話しかけた。
「大丈夫か?」
「……うぅ」
戌雄の一撃で昏倒していた若い女が長身の紳士に抱え起こされる。
さしもの戌雄も加減し切れなかったのだろう。血の混じった咳を礼瑠は繰り返した。
「まずは謝罪を行いたい。あなたと接触するためとはいえ、わが社の従業員が失礼なことをした」
「ゆる……さない」
「そうか。私は国亜商事の代表取締役の玖忍だ。今回の件であなたが被った不利益はすべてわが社が補填しよう」
「殺して、やる」
「殺す、か。誰を殺すのか? 私か? それとも私の部下か?」
「ね、こ……」
「猫とは?」
「――猫殺す殺す殺す。猫殺す。全部殺す。ぜつっ、絶滅させてやる……っ」
玖忍の腕の中。国亜商事の支配者に抱えられる礼瑠は、朦朧とした意識のまま黒々とした怨嗟と殺意を垂れ流し始める。
それは絶望だ。殺意だ。狂気だ。
手の施しようのない武芸的狂気が迸る。
「殺す殺す殺す殺す。猫殺す猫殺す。駆除殲滅根絶虐殺殺す殺す殺す」
「あなたは何に囚われている?」
戌雄をして止めを刺すことを決心させた狂気と相対した玖忍は、あろうことか礼瑠の狂気と正面から向き合おうとする。凶悪な武芸者と向き合う長身の紳士を動かすものは、果たしてどんな感情であろうか。
「殺す殺す殺す猫殺す猫殺すクソ害獣は私が殺しつくして――」
「大丈夫。大丈夫だ」
戌雄との死合のダメージで身動きが取れない。意識も混濁しているために目の前の相手を振り払うことができなかった。
礼瑠のこの状況を大いに活用する玖忍は、致死の猛毒を武芸者に流し込んでゆく。
「あなたは大丈夫。あなたを縛るものは何もない」
「猫殺殺殺す殺す。猫殲滅駆除虐殺絶滅根絶殺す殺す殺――」
用いるのは礼瑠の殺意と体温を浴びながらおぼろげに見えたイメージだ。事前の調査で礼瑠のおおよその身元を予め洗っていた玖忍は、実際に対峙して得た貴重な情報もフル活用して礼瑠を仕留めにかかる。
「だってあなたは鳥のように自由で美しいのだから」
そして玖忍の口から意味不明でポエミーな台詞がこぼれた。
謎の言葉を聴いた瞬間。
「――――え」
殺意と憎悪と怨嗟に淀んだ礼瑠の瞳に光が灯る。脳震盪で揺れる世界のなかで何かが像を結んだ。
十八歳の狂った武芸者は、背の高い紳士の言葉が流し込まれると同時に、武芸的狂気へと堕ちる前の素面の小娘へと戻ってしまう。
思い出した。礼瑠はすべて思い出した。
どうして猫を絶滅させようとしていたのか。始まりの絶望を思い出した。
昔、鳥と一緒に暮らしていた。その名も文鳥のパタパタくん。
毎日遊んでいた。とても懐いていた。大好きだった。
そんな幸せな時代のある日のこと。愛するパタパタくんがピッキングで侵入してきた泥棒猫に喰い殺された。猫種族は人並みの知能を宿している上に小柄だ。種族特性を生かして悪に走る者も珍しくない。
以来誓った。猫を殺してやる。猫を絶滅させる。愛するパタパタくんの仇として猫という種族ごと根絶絶滅廃絶殺戮し尽くすと。
ああ。どうして忘れていたのだろうか。私は犬派でも猫派でもない。
「……うぇええっ」
私は鳥派だったのに……。
礼瑠は泣きじゃくり始めた。この女は狂っていた。もちろん玖忍だって狂っていた。
「ああ。わが社へようこそ。
泣きじゃくる小娘を擁く玖忍は微笑む。微笑みながら女を優しく抱き締めた。
玖忍――この男の内面を窺い知ることはできない。
やがて光が差した。冬の曇り空を裂いて、今の時期には珍しい陽光が降りてくる。絵面だけは美しい狂人二人を寿ぐかのように……。
「あ、あぁ……。し、師匠」
斯くの如き光景を戌雄は見ていた。見てしまっていた。目の前で引き起こされた奇跡に戌雄はこの上ない感動に襲われる。
武芸的狂気に堕ちた武芸者が正気を取り戻すというありえない光景。
脳裏に師の言葉が蘇ってきた。武芸的狂気に囚われた武芸者は真っ当な人間にはもう戻れない。狂気に手を引かれて必ず破滅する。だから主を求めなければいけない。仕えるべき何か。人物でなくてもいい。規範。正義。大切なもの。そうしたものに一人の武芸者として従え。
「師匠……俺は、もう出会っていました。生涯を賭して仕えるべき――主に」
季節外れの異様な光が注ぐ冬の空の下。天性のカリスマという邪悪な猛毒を流し込まれた武芸者は、ごく当然の所作として、玖忍に向けて片膝を突いた。