『葛城』をやっています。ぶいちゅーばーってなんですか。   作:土着

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三話「ましろ」

 

 

 

『今日は皆にきいてほしいこと、沢山あるんだよねっ。だから!』

 

 

 

 

『――――今日もいっぱいお話ししよっ?』

 

 

 

 

 

防音ブースに響き渡る、鼓膜(こまく)を撫でるような甘い声。

 

女性スタッフが震える手で掲げたタブレットの画面の中では、星を散らした青い瞳のアバターが、愛らしく首を傾げていた。

 

間違いない。何万人ものファンが愛する『宵月ましろ』の姿であり、声だった。

 

だが、結衣本人は一言も発していない。

 

「なんで……」

 

結衣の喉の奥から、ヒュッと引き()ったような音が漏れた。

 

目の前のモニターは不気味な砂嵐(すなあらし)を映し出しているというのに、手元の画面の中では、見知らぬ『何者か』がましろとして、何万人という大勢のリスナーに向かって語りかけている。

 

結衣は腰を抜かしたまま、ガタガタと震える手で自身の腕を抱きしめた。

足元から這い上がってくるような絶対的な恐怖。

 

極限の混乱の中で、結衣の脳裏(のうり)に、ひんやりとした泥のような後悔が底なし沼からせり上がってくる。

 

 

 

――私は、なにか間違えてしまったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白石結衣の人生は、もうひとつのアイデンティティである『宵月ましろ』と比べると、酷く彩度に欠いていた。

 

学生時代、誰かから明確な悪意を向けられたり、執拗(しつよう)ないじめを受けたりした記憶はない。

 

ただ、教室という空間に流れる特有のテンポに、どうしても自分の呼吸を合わせることができなかったのだ。

 

「ねえ、昨日の夜のドラマ見た? あの俳優、めっちゃ尊くない?」

 

「わかるー! マジで無理、語彙力(ごいりょく)なくなる!」

 

 

弾むようなクラスメイトたちの会話のラリー。

結衣はそこにうまく入り込むことができない。

なんとか口を挟もうと頭の中で言葉を組み立てているうちに、話題はすでに次のアイドルのゴシップや、他校の生徒の恋愛事情へと移り変わっている。

 

数テンポ遅れて放った結衣の言葉は、誰の耳にも留まらずに宙を滑った。

 

頑張って口を開いても、空回りして変な空気になるのが怖かった。

だから次第に「自分は喋らない方がいい」と学習し、言葉を飲み込んでは、ただ曖昧な愛想笑いを浮かべるようになった。

 

息を潜め、気配を消し、誰の記憶にも残らない「透明な生徒」としてやり過ごす日々。

 

学校は結衣にとって、ひどく息苦しく、ただ時間が過ぎるのを待つだけの退屈な箱でしかなかった。

 

孤立していた結衣は、ノートの端によく絵を描いていた。

幼い頃に志していた漫画家になるという夢は既に諦めてしまって久しかったが、架空のキャラクターを創作しては、その人物を取り巻く世界観を想像するのが好きだった。

やがて彼ら彼女らに生命が吹き込まれたなら──自分をどこか、別の世界に連れて行ってくれないだろうかと少し期待した。

 

その期待がやや変わった形で実現したのは、深夜、布団の中で見たVTuberの生配信がきっかけだった。

 

ソーシャルコミュニティをインフルエンサーが牽引すること自体は結衣がスマートフォンを持つ遥か以前から行われていたことだったが、『VTuber』の特徴はコンピューターグラフィックスによって作られたキャラクターが、生身の人間に代わって配信を行うという点にある。

 

仮想(ヴァーチャル)現実(リアリティ)に生きるキャラクター、という一種の世界観に、結衣は魅了された。

 

見よう見まねであったが、結衣は『ましろ』というキャラクター名で配信を始めた。

 

当時はまだCGモデルや撮影スタジオなどあるはずもなかったから、ただ自分の描いたイラストをスマートフォンに映したまま、端末のマイクに声を吹き込むだけの簡素なものである。

 

配信ボタンを押した後でようやく、話題を何も決めていなかったことに気がついた結衣は、想像のままに書き留めていた『ましろ』──つまりは『自分』の設定を滔々と語り始めた。

 

同接はしばらく0のままだったが、やがて深夜に配信を開始しても3、4人は見てくれるようになった。

 

ただ想像の中の人物の来歴を話すだけの放送の、一体何が良かったのかは結衣にも皆目分からなかったが、配信の最後には必ず「おつかれさま」とコメントを送ってくれるリスナーがいた。

 

段々話すことがなくなった結衣は、少しずつ現実世界での自分の身の上話を話すようになる。学校では孤立しているということ。進学も就職もまるで考えておらず、想像することさえできないということ。趣味が絵以外になく、日々が退屈でつまらないということ。

この時点で視聴者数は、常時20人前後にまで増えていた。

 

 

結衣にとって誤算だったのは、自分は他者とのコミュニケーションがからっきし駄目なわけではなく、配信という一対多の状況ならばそれなりに『対話』ができるという点だった。

 

基本的にはただ自分が喋っているだけであり、視聴者はそれに反応するだけであって、対等かと問われれば疑問符はつくものの。

 

いつも同じ20人が決まって配信を見ているというわけもなさそうで、その内訳は多少流動しているのだろうが、結衣にはそれを確認する方法がなかったし、そもそも自分の配信を見ている視聴者が現実世界に存在しているという実感が持てなかった。

それくらいにネット上の繋がりというのは希薄であり、結衣はその希薄さを好んだ。

 

もうひとつ誤算だったのは、結衣のゲームのセンスだった。

 

ほとんどゲームに触れたことのない人生を歩んできた結衣だったが、視聴者のすすめで購入し、それを配信することになった。

 

結衣は主観視点で行うシューティングゲームに天賦の才があった。

 

みるみるうちに上達し、照準の上の敵を次々になぎ倒していった。

 

配信にはその模様を拝見し、あるいは参考にしようとするゲーマーたちも多く訪れるようになる。

 

自分の意外な才能を知った結衣は、一人語りの配信から、ゲーム実況者としての色を強めていくことになる。

 

高校卒業後、結局進学も就職もせず、結衣は近所のスーパーでフリーターとして働きながら、貯めたバイト代をマイクやオーディオインターフェース、ゲームのための機材につぎ込んだ。

 

画面や音声部分の情報量が多いゲーム配信においては、こういった設備投資が不可欠だった。

 

更にはトークの繋ぎ方、見やすい画面のレイアウト、音声のバランス。

 

そして何よりゲームのプレイスキルを、結衣は誰に教わるでもなく一人で黙々と研鑽し続けた。

 

視聴者が2,000人を超えるようになると、個人での活動が少しずつ難しくなった。

 

コラボ案件や荒らしへの対応など、結衣一人では手に余る問題が続々と発生し始めたからだ。

 

『ましろ』の立ち絵を静止画数枚だけではなく、3Dのモデルとして動かしてほしいという要望まで上がったことをきっかけに、結衣は決心して新設されたばかりの小さな事務所のオーディションに応募し、契約を結ぶことになる。

 

「うちみたいなできたばかりの弱小に来てくれてありがとう。絶対に、君たちの居場所を作るから」

 

面接でそう頭を下げた藤沢社長の不器用な熱意にも惹かれ、結衣は『宵月ましろ』としてタレント活動を開始した。

 

そこで出会った同期は、結衣と似たような境遇で配信を始めた、不器用な二人の少女だった。藤沢はその二人と結衣の三名でユニットを結成することを提案した。

 

結衣は彼女らに強いシンパシーを感じていた。

感じてはいたが、学生時代の経験から、良好な関係を築けるとは思えなかった。

しかし三人はそう時間を置かず、意気投合するようになる。

夜通し通話アプリを繋ぎ、好きなゲームの話題ではいくらでも盛り上がった。

結衣は自分が配信活動を経て、他者と上手く関わることができない問題を解決できたのだと信じた。

 

人生で初めて、「同じ目標に向かって一緒に走れる仲間」を手に入れたのだと。

 

 

「いつか、三人で絶対3Dライブやろうね!」

「うん、約束! もっと練習しなきゃ!」

 

 

その約束は、結衣にとって何よりも美しい宝物だった。

 

だが、その平穏な日々は、残酷な形で終わりを告げる。

 

結衣は『宵月ましろ』として活動を再開してからも、シューティングゲームの腕を磨き続けた。

 

ユニットの二人にはそのゲームの経験がなかったものの、結衣のために練習に励むことになる。

 

結衣たちのユニットは当時ほぼ無名だったが、宵月ましろのゲーム実況については例外だった。

既に界隈では宵月ましろは良く知られた名前となっていたが、偶然にも同接数万人を誇る他事務所の大物男性VTuberとマッチングしたことを機に、爆発的に視聴者数を伸ばすことになる。

 

結衣は他の二人よりも先に、人気実況者の仲間入りを果たすことになった。

 

しかし結衣は、有名な実況者とコラボしたり大会に招待されたりした間も、シューティングゲームの配信では必ず同期の二人も交えた。

 

結衣は根気強く二人にレクチャーを繰り返したが、なかなか結衣のように上達しなかった。

 

戦績としては結衣の足を引っ張り続けたものの、ただ同じゲームを仲間とできることが楽しいだけの結衣としては、そのことを特に問題とは感じていなかった。

 

しかし、ここまでで既に数万人規模にまで膨れ上がっていたリスナーの反応は、残酷なまでに正直だった。

 

 

『ましろちゃんナイスカバー!』

『んー、ましろソロの方が見たいな』

『ましろちゃん一人でやった方が良いよ』

『ランクやってほしい』

 

こうしたコメントだけならばまだ良い方で、更に過激的なリスナーが、二人に対して直接的な誹謗中傷のメールを送ってきたこともあった。

 

藤沢はそうしたコメントには法的措置を取るなど、ユニットのためにかなり動いてはくれたが、それだけではカバーし切れない軋轢がユニット内部にも生まれていた。

 

個人のチャンネル登録者数だけ見れば、結衣と二人の間には数百倍もの差があった。

 

共同事業者としてはあまりにアンバランスな状態といえる。

 

きちんとした話し合いの場を設けて結衣が分かったのは、同期の二人が持っていた展望と、自分が抱いていた展望との差だった。

 

比較され続けるプレッシャーを二人は早期から抱えていたようだが、結衣はそのことに微塵も気がついていなかったのだ。

 

結衣は二人の意向を尊重すると誓ったが、数週間後、二人は無期限の休止を事務所に伝えた。

 

結衣は再び一人になった。

 

一人になった後で、自分が配信を始めた頃の、まだ一桁しかリスナーがいなかったときのことを結衣は思い出した。

 

あのとき配信を見てくれていた数人は、今はもう自分の実況を見ていないだろうという不思議な確信があった。

 

あの頃の『ましろ』は、今の『宵月ましろ』とは地続きとは思えないほどに離れすぎてしまっていた。

 

事務所とファンの期待に応えたいとも願っていた結衣は、それからも配信活動は続けていた。

 

それと同時に、学生時代に抱いていた疎外感は、周囲が自分のことを疎外していたのではなくて、自分から周囲を疎外していたのではという思いが結衣の心を支配するようになった。

 

他者と関われないのは、他者を知ろうという気概がそもそも自分にないからだと考え始め、それを脱却するためにこそ、かつて私は『ましろ』というもう一人の自分を生み出したのではなかったかと思い出す。

 

『ましろ』の設定を綴ったあのときのノートを探そうとするが、部屋のどこにも見当たらない。配信アーカイブも、『宵月ましろ』に移行した際にすべて削除してしまった。『ましろ』とは何者で、私は何になりたかったのか──それを確かめるため、もう一度『ましろ』として生き直すことを結衣は望んだ。

 

でも、ここにいるのはもはや『宵月ましろ』だけであって、『ましろ』も結衣自身も、遠い記憶のどこかに置いてきたままなのだと気がつく。

 

私は『宵月ましろ』をもう捨てられない。

 

捨てられない以上、私は『宵月ましろ』なのだ。

『ましろ』と結衣はきっと冷たい場所で、おそらくはもう死んでしまっているのだろうなと、今や何者なのか自分でもよく分かっていない一人の少女は、そう感じた。

 

 

奇怪な現象が起こったのは、ユニットがほぼ壊滅状態となり、個人での活動にシフトするようになってからである。

配信が前触れもなくプツンと切れたり、マイクに不快なノイズが乗ったりするようになり、極めつけに「画面の中に、這い回る気味の悪い虫の影が見える」と訴えるリスナーが多く現れた。

 

 

結衣は怪異を信じない。

 

 

信じはしないが、こう思う。

 

 

――――でももしこの世に、怨念や呪いが現象として顕現することがあるとして、

それが今私を襲っているものの正体なのなら、

 

 

それはきっと既に死に絶えてしまった、『ましろ』や昔の私なんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『てかさー! 休んでいる間に色々な怖いことがあってーーーー』

 

 

不意にタブレットから響いた愛らしい自分の声が、結衣の意識を過去の暗闇から、より残酷な現実へと強引に引き剥がした。

 

 

『今日は皆にきいてほしいこと、沢山あるんだよねっ』

 

 

勝手に始まった配信画面の中で、アバターが楽しげに笑い続ける。

 

藤沢は咄嗟に動いた。

 

配信ソフトを強制終了させようとマウスを握るが、カーソルは画面の隅に張り付いたままピクリとも動かない。

 

舌打ちをし、藤沢は機材の電源タップへと手を伸ばした。主電源の太いケーブルを、力任せに引き抜く。

 

バチッ、と小さな火花が散った。

 

だが――目の前のモニター群は、薄暗いブースの中で煌々と点灯し続けている。

 

電源との物理的な繋がりを絶たれたにもかかわらず、アバターは滑らかに動き続けていた。

 

 

「……戒さん。配信が、止められない」

 

 

藤沢は血の気を引かせた顔で振り返り、戒に助けを求めた。

すぐさま札を使うなりして止めてくれるものだと思っていた。だが、戒は動かない。

ただじっと、腕を組んだままモニターを見つめている。

 

 

「まだです」

 

「まだって、このままじゃ結衣ちゃんが――」

 

「場合によっては、このまま怪異に配信を任せるという手もありますよ? 結衣さんがわざわざやる必要はなくなる」

 

「戒さん!」

 

 

強く藤沢は名前を呼ぶ。

 

冗談ですよ、と戒は肩を竦め、

 

 

「この怪異は、随分慣れないことをしている。慣れないことをすれば必ずボロが出る。……結衣さんに『根』を張っているようだが、ただ引き剥がすだけでは結衣さんにも危害が及ぶかも知れません。奴の『根』の居場所を特定するまで泳がせます」

 

 

怪異は今、数万人の人間とコミュニケーションを取るという高度な真似事を行っている。

情報量が増えれば増えるほど、必ずその言葉の端々に『本来の正体』が滲み出る。

 

戒はそれを待っていた。

 

結衣は恐怖に震えながら、自身の声で喋り続けるましろをただ見つめることしかできない。

 

 

『今日はね、突然だけど特別にASMR用のバイノーラルマイクで、怖いお話の朗読をするよ』

 

『……みんな、イヤホンつけてる?』

 

 

ぞわり、と。

ユニット活動時、比較的人気コーナーのひとつだった『怪談朗読』のトーン。

耳元で直接囁かれるような生々しい音声に切り替わる。

 

だが、次にスピーカーから流れ出た『物語』を聞いた瞬間、藤沢の呼吸が完全に止まった。

 

 

『……ある男の人が、知らない森の奥に迷い込みました』

 

 

――林道。半年前の、あの赤茶けた。

 

 

藤沢の膝が、意思とは無関係に笑い始めた。

 

 

『そこには、本来なら誰も通れないはずの、草に覆われたお堂があったの』

 

 

アバターが小首をかしげてみせる。

 

コメント欄は『お堂こわっ』『声やば』と無邪気に流れていく。

 

 

――数え切れないほどの人間が、これを"よくできた怪談"として楽しみ、投げ銭で称えている。

 

 

藤沢一人だけが、甘い声の底に、もう一つの音を聴き取っていた。

 

 

――ぴちゃ。ぴちゃ。遠い水底(みなぞこ)で、湿ったものが(うごめ)く音。

 

 

彼だけが知っている。その音を、半年前に一度、確かに聴いた。

 

 

 

『躊躇いながら草をかき分けるとね、地下へ続く、暗い、暗い階段があって』

 

喉が鳴った。飲み込もうとした唾が、途中で凍りついたように落ちていかない。

 

 

 

『……下の方から、風もないのに』

 

 

 

ましろが、そこで言葉を切った。

 

数万の耳が、次の一言を待って静まり返る。

 

 

 

『カタカタ、カタカタって、音がするの』

 

 

 

藤沢の奥歯が、かちりと鳴った。さっき朗読で聞いた『カタカタ』と、寸分たがわぬ拍子で。

 

 

 

 

 

違う。誰にも、話していない。

 

なぜ、なぜそれを知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

半年前、結衣の同期の二人から無期限休止を伝えられる直前。

 

藤沢の三重への出張は、宵月ましろの地方自治体との大型タイアップ案件のロケハンが目的だった。

 

同行した数名のスタッフをホテルに残し、藤沢は一人、空き時間にレンタカーで山間部へと向かった。

 

目的は、地元で有名な「開運と悪縁切り」のパワースポットだった。

 

宵月ましろ一人だけが売れ、同期の二人が伸び悩む現状。

 

社長としてなんとか運気を好転させたいという、切実だが安直な神頼みだった。

 

しかし、カーナビが案内した古い林道を進むうち、藤沢は完全に道に迷ってしまった。

 

気がつけば、本来の目的地ではない、立ち入りが禁じられているような廃れた神社――あるいはその跡地に行き着いていた。

 

朽ち果てた鳥居と、崩れかけた社殿。

 

(それにしてもすごい所だな。昔は立派な場所だったんだろうか……)

 

そう考えながら引き返そうとした、その時だった。

 

――カタカタ、カタカタ。

 

風が吹くと同時に、鬱蒼(うっそう)と茂る雑木林の奥から、微かに乾いた音が聞こえた。

不思議に思い、躊躇いながらも(やぶ)をかき分けて進む。

 

すると、不自然にぽっかりと開けた場所に出た。

なぜかそこだけ、草一本生えていない赤茶けた土が()き出しになっていた。

 

その中央に、地下へと続くコンクリートの入り口があった。

入ってはいけない場所だ。本能がそう告げているのに、地下から響く大量の「カタカタ」という音に、藤沢はまるで操られるように足を踏み入れた。

 

中は螺旋階段になっていた。

ひんやりとした水気とカビの匂いが立ち込め、不気味なほどに静まり返っている。

日の光は届かず、数段降りただけで足元が完全に見えなくなった。

壁沿いに手すりのようなものはあったが、何がこびりついているか分からず、どうしても触れる気にはなれない。

 

(……いや、やめよう。流石にこれは罰当たりだ)

 

これ以上降りてはいけないと足を止めた、その瞬間。

 

――ブブブブッ!

 

静寂の地下空間で、ポケットの中のスマートフォンが唐突に震えた。

「ひっ」と情けない声を上げ、藤沢はビクリと肩を震わせた。心臓が早鐘を打つ。

震える手で画面を見ると、電波が届いていない『圏外』の表示。

それなのに、画面には『非通知』からの着信が明滅していた。

 

「脅かさないでくれ……ホラー映画じゃあるまいし」

 

暗闇の中で一人。鳴るはずのない着信にゾワゾワと鳥肌が立つ。

着信は数秒でフツリと切れた。

安堵した直後、ふと気がついた。

スマホがあるなら、ライト機能を使えば暗くないじゃないか。

 

極限の恐怖で、そんな当たり前の思考すら抜け落ちていたのだ。

自分の間抜けさに呆れながら、藤沢は画面を操作し、ライトを点灯させた。

 

白い光が、地下の空間を容赦なく照らし出す。

その光景を見て、藤沢は絶句した。

 

 

風車だった。

 

 

壁という壁、足元の隙間に至るまで、色褪せ、古びた無数の風車がびっしりと突き立てられていたのだ。

 

「カタカタ」という音の正体は、光の届かない地下で、風もないのに一斉に回り続ける何千もの風車の音だった。

 

 

「っ……!!」

 

 

悲鳴すら上げられず、藤沢は螺旋階段を大急ぎで駆け上がった。

逃げ帰る藤沢の背中を追うように、何千もの風車が一斉に狂ったように激しく回り出し、鼓膜を破るほどの「カタカタカタカタッ!!」という異音が地下に反響した気がした。

 

 

そこは、間引かれた赤子を供養する『水子堂』の跡地。

そして、かつてその土地の村々で恐れられ、生贄や怨嗟とともに崇められていた、名前を持つ固有の『ナニカ』が祀られた禁忌の場所だった。

 

 

時代が移ろい、村の過疎化が進むにつれて人々の恐れと信仰は薄れ、力を失いつつあったそのソレは、誰も来ない地下でただ静かに消え失せる、終わりを待っていた。

 

そこに、本当にたまたま、藤沢がやってきたのだ。

 

終わりを待っていた古きソレは、絶好の()り代を見つけ、さらなる成長の糧を求めるように、逃げ惑う藤沢の背中に冷たく湿った泥のようにべったりと取り憑いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――それでね、その男の人は、逃げ帰ったつもりでいたの』

 

『でもね、ずっと背中に』

 

 

 

『私はひっついてたんだよ……?』

 

 

 

 

ましろの無邪気な声が、藤沢の意識を現実へと引き戻す。

 

誰にも話していないはずの体験が、今、数万人の前で朗読されている。

 

その瞬間、コメント欄が一気に沸いた。

 

 

【さっきから後ろが気になって仕方ない笑】

【ぞわっとした、さすがましろちゃん】

【深夜に聞くんじゃなかったw】

 

 

色とりどりのスーパーチャットが、滝のように画面を流れ落ちていく。

 

 

「……発端の場所は特定出来そうですね、藤沢さん」

 

 

戒の低く静かな声が、藤沢の耳に届いた。

戒はモニターから目を離し、藤沢の青ざめた顔を真っ直ぐに見据えていた。

 

 

「こういう話は初めに共有いただけると助かるんだけどな」

 

「でも、そんな……あれが発端とでもいうんですか? ただ足を踏み入れてしまっただけなのに……」

 

「まあ、ともあれ、真相に近づくことはできました」

 

 

だが、怪異の朗読は止まらない。

数万人のリスナーの『恐怖』と『熱狂』をスポンジのように吸い上げ、ブース内の空気が水圧のように重く、濃密に変質していく。

 

結衣が息苦しさに喉を押さえ、蹲った。藤沢やスタッフたちも急速に圧迫感を増していく室内に気圧されているようである。

 

ブースの四隅の「暗がり」だけが、じわじわと墨汁を垂らしたように濃くなり、こちらへ這い寄ってきている。

後頭部のすぐ後ろで、誰かの生暖かい呼吸が絶え間なく続いているような、密室の異常な息苦しさ。

 

 

「ともあれ、やはり『根』の力を抑えておくべきでしょうね。何が目的で配信しているのかは知りませんが今、もうこれ以上は見過ごせない」

 

 

戒はそう言うと、おもむろに前に掌を向け──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無数の電子機材が明滅し、現代の狂騒が渦巻く東京の古いオフィスビル。

 

戒たちが絶望的な怪異と対峙しているその防音スタジオから――遠く、数百キロ離れたとある場所。

 

重厚な雨音が日本家屋の瓦を打つ中、奥座敷には噎せ返るような白檀(びゃくだん)の香りと、鉄錆のような血の匂いが立ち込めていた。

 

祭壇を囲む三人の老齢の修験者(しゅげんじゃ)は、いずれも死線を潜り抜けてきた歴戦の猛者であった。

 

彼らの全身からは毛細血管が弾けた血の汗が滲み出していたが、岩のように結んだ跏趺坐(かふざ)は微塵も揺るがない。

 

彼らは独鈷杵(とっこしょ)を畳に深く突き立て、はらわたの底から響くような『大威徳明王(だいいとくみょうおう)の真言』を、地鳴りのごとき重低音で途切れなく唱え続けていた。

 

三人が己の命を削って押さえ込んでいる。

 

部屋を満たす霊圧は、並の拝み屋であれば結界の端に触れた刹那に心の臓を握り潰されて死ぬほどだ。

 

日本の暗部には、神を降ろす『御門(みかど)』の神祇官(じんぎかん)や、魔を滅する『裏高野(うらこうや)』の高位の阿闍梨(あじゃり)など、歴史に名を刻む強大な一族や大寺院の頂点が存在する。

 

だが、彼ら最高峰の法力をもってしても、この狂乱する怪物を前にすれば正気を保つことすら至難の業だろう。

 

葛城の長き歴史においても、強力な術者は数多く輩出されてきた。

 

しかし、彼女は別格だ。

 

他家の頂点に立つ高名な当主たちと比較しても、頭一つ抜けているなどという生易しいものではない。

 

見ている世界、生きている次元そのものが根底から違っているのだ。

 

現に――その嵐の中心に座す少女の髪は、一筋とて揺れていない。

 

白檀の煙すら、彼女の周囲だけは凪いだように真っ直ぐ立ち昇っている。

 

まるで嵐のほうが、彼女に触れることを畏れて避けているかのように。

 

どう見ても中学生ほどにしか見えない小柄な体躯と、この世のものとは思えぬ玲瓏たる美貌を持った少女――葛城の最高傑作にして底無しの異端、

葛城 朔(かつらぎ さく)』だけが、地獄の釜の底のような空間で、嬉しそうに艶やかな笑みを浮かべていた。

 

歴戦の修験者たちが流す血の汗も、空間を軋ませる殺気も、彼女にとっては遠い景色でしかない。 朔は常に自然体だ。

 

ただまるで、湯に浸かるように、その地獄の底で寛いでいた。

 

 

「ふふっ。戒ったら、相変わらず助けを求めてこないんだから」

 

 

戒は彼女に一切のSOSを出してなどいない。

 

だが、葛城のーー稀代の天才である朔の目には、遠く離れた地で弟が直面する事態が、数日前から『先詠(さきよ)み』で視えていた。

 

 

「意地っ張りで、一人で全部背負い込もうとする……本当に可愛い弟。でも、少しだけ溢れちゃった分は、お姉ちゃんが片付けてあげる」

 

 

朔の目の前には、人の背丈ほどもあるアンティークの姿見――古き呪いを現世に縛るための『八咫の裏鏡(うらかがみ)』が置かれていた。

 

付き従う黒衣の童子が、木桶から、呪縛の霊薬『辰砂』を溶かした赤黒い浄水を床へと流す。水は床を滑り、朔の足元から、巨大な鏡の底へと繋がる一筋の『道』を作った。

 

「これは、『産道』よ」

 

朔が、甘く囁く。

白く細い指先で、密教の『外縛印(げばくいん)』を軽やかに結びながら。

生まれることができず、暗い水底でただ肉体を渇望し続けていた呪いにとって、それは抗うことなど考えつきもしない、極上の『反魂(はんごん)の道』――甘く香る、たった一筋の帰り道だった。

腹を空かせた赤子が、乳の匂いに思わず首をめぐらせるように。

朔は鏡に向かって手を伸ばし、何かを招き入れるように、ゆっくりと手招きをした。

 

「おかえりなさい」

 

その瞬間、四隅の注連縄(しめなわ)が、ジュワ……と嫌な音を立てて一瞬で真っ黒に腐り落ちた。 空間は静まり返っている。

ただ、ひび割れた鏡の奥から、大量の髪の毛が絡みついたような、どす黒い泥水がぼこり、ぼこりと静かに溢れ出し、座敷の畳をじわじわと浸食し始めた。

数百キロ離れた場所で、膨大な熱狂を吸って限界まで肥大していた力が、一瞬にして『産道』を引きずり戻されたのだ。

凄まじい怨念を纏った無数の目玉と腕が、目前の朔を喰い殺さんと、泥の塊が巨大な顎を開いて迫る。 しかし、朔は全く動じなかった。

ふわりと笑ったまま、目前まで迫った泥の塊の先端に、白く細い指先をそっと触れさせた。

――ぴちゃり。

たったそれだけで、巨大な力の奔流が、空中でピタリと停止した。 物理的な力ではない。極上の産道だと思ってすがりついたその指先が、己よりもはるかに深い『絶対的な奈落』だと悟ったのだ。

その刹那、喰らう側であったはずのモノが、喰われる側の顔をした。 無数の目玉が、一斉に同じ一点を――己に触れる細い指先を凝視する。飢えも、憎しみも、歓喜も、凡そ怪異を衝き動かしていた一切の渇きが、氷水を浴びせられたように凍りついた。 かつて村を呑み、生贄を喰らい、名を呼ばれ畏れられた神であった。その神が、生まれて初めて――己より深い奈落を、己の目の前に見た。

ずるり、と無数の腕が後退しようとする。逃げようとする。

 

だが遅い。捕食者の手は、もう離れない。化け物の肉が、恐怖に小刻みに痙攣した。

 

――ナニカは、震えていた。

 

朔の細い腕に這わせてある赤と黒の刺青(いれずみ)――葛城の『(ごく)』が、生き物のように蠢き、ナニカの絶大な呪力を貪り喰らい始めた。

 

「かつては一端の『神』として、人々に名付けられ、呼ばれ、恐れられていたのでしょうに。随分と落ちぶれたものね」

 

朔は虫でもつまむような手つきのまま、冷酷に嗤った。

 

「信仰を失って消えかけて、今度はあんな実体のない体に縋って、現代の歪な愛を貪ろうとしたの? ……人と、繋がりたかった子たちの想いを、餌にして」

 

朔は出来の悪い玩具でも眺めるように、軽く持ち上げてみせた。 ふっ、と。その玲瓏たる美貌に、花が綻ぶような笑みが差す。 ――深い愛情と、底のない狂気が、寸分違わぬ形をして同居する笑みだった。 喰い殺されかけてなお、その表情を見たナニカは、理由もわからぬまま、ぞ、と総毛立った。

 

「可哀想に。私の弟がお前を祓うから、お家で大人しく待っていなさい」

 

彼女はもう一度、慈愛に満ちた母のような声音で囁いた。

 

――その声があまりに優しかったからだろうか。

 

「おかえりなさい」

 

ズチュンッ、という醜悪な水音とともに、化け物は鏡の奥底へと強引に引きずり込まれ、完全にその姿を消した。

 

静寂の戻った座敷。

死線を超えた三人の修験者は、喉元まで込み上げた血反吐を呑み込み、誰一人倒れることなく、ただ深く、長く、呼気を吐き出した。

 

並の拝み屋なら百人は死んでいる呪の奔流。

 

それを至近距離で結界に留め切った彼らは、静かに独鈷杵を置き、化け物を遊び半分で喰い伏せた眼前の『少女』へ、ただ深く平伏した。

 

 

「……これで普通は、綺麗に消えてくれるんだけどね」

 

 

朔はひび割れた鏡を見下ろして、ほんの少しだけ、笑みを引っ込めた。

 

その向こうで、引きずり込んだはずの何かが、まだこちらを見上げている――そんな気がした。

 

けれど、それも一瞬のこと。

 

彼女はすぐに興味を失い、平伏する老人たちを退屈そうに一瞥した。

 

だが、ふと何かを思い出したように、幼い少女のように可愛らしく頬に手を当てる。

 

 

「あ」

 

 

その瞳の奥に、底知れぬ(くら)い狂気が渦巻いた。

 

 

 

 

「あとで電話して戒に褒めてもらわないとね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数百キロ離れた東京の防音ブース。

 

肌をジリジリと焼くようだった異常な霊圧が、まるで幻だったかのようにフツリと霧散し、藤沢と結衣、スタッフたちは拘束を解かれたかのように激しく咳込みつつ床に手をつく。

 

同時に、勝手に喋り続けていたタブレットの画面が激しい砂嵐へと変わり、スピーカーからの怪談朗読も完全に沈黙した。

 

「戒さんが、祓ってくれたんですか……?」

 

切れ切れの息でそう問う藤沢だったが、戒は窓の外を睨みつけたまま、手を上着のポケットにしまう。

 

「戒さん?」

 

「……いえ、ちょっと横槍が入ったようで。お節介な姉というのも考え物ですね」

 

戒は藤沢には今一つ意味が掴めない言葉を告げた後、気を取り直すように身体を伸ばした。

 

「予定より少し強く祓い過ぎました。が、『根』は健在です。結衣さんやこの事務所に張られた『枝葉』は大体取り除けたのでご安心を。これで当座の猶予はできました」

 

戒の言葉に、冷や汗で顔を濡らした藤沢が、へたり込んだまま顔を上げる。

その表情には、安堵よりも、どうしようもない戸惑いと恐怖が浮かんでいた。

 

「戒さん……私は社を荒らしたわけでも、何かを壊したわけでもないんです。途中で不気味になって、下まで降りきることすらしないで引き返した。ただ、あの場所に少し足を踏み入れてしまった……本当に、ただそれだけだ。たったそれだけのことで、あんなおぞましいものに取り憑かれるというんですか……!」

 

釈然としない、いや、あまりの理不尽に対する怒りすら滲んだ声で、藤沢がすがるように戒を見る。

しかし、戒は残酷な真実を叩きつけるように小さく顎を引いた。

 

「藤沢さんは運悪く、地雷原に足を踏み入れてしまった」

 

戒はそこで言葉を区切り、不具合を起こしたままの機材やモニターへと視線を巡らせた。

 

「あんなのでも神のなりかけ、諸々悪影響は生じます。身体の不調や、機械トラブル。……ですがアレは単に取り憑くだけでなく、この世界に生まれ落ちることを願った」

 

戒の鋭い瞳が、砂嵐を映し続けるモニターから、床で震える結衣へと移る。

 

「そして結衣さんを中継して『宵月ましろの配信』という、現代の言うなれば宗教に近い仕組みと構造を知った。かつて村の過疎化と共に忘却されてしまった自身の信仰の復興のため、それをそのまま流用しようと考えたんです」

 

神が現代のネット文化を乗っ取る。そのあまりにも歪で狡猾な手口に、戒は忌々しげに小さく息を吐いた。

 

「おそらくは結衣さんの配信を通じて『根』を顕現させ──今は配信を通じて力を集めている」

 

戒の説明を聞き終え、藤沢は力なく視線を落とした。

 

「私が……あの場所からアレをここまで運んできてしまった。そして、結衣ちゃんに憑けてしまったということですね……」

 

ただ、淡々と事実を噛み砕くようなその呟きには、己の不用意さに対する底知れぬ悔恨が滲んでいた。

 

「……すまない、結衣ちゃん。私のせいで、君を、皆をあんなおぞましい目に遭わせてしまった」

 

藤沢の静かで重い謝罪に、結衣は小さく首を横に振ったが、まだ恐怖で声が出せない。

沈痛な空気が流れる中、戒は気怠げに首を回すと、壊れたモニターの砂嵐を一瞥した。

 

怪異による配信──似たような事例は過去にもあったのかもしれない。しかし戒自身はこれまで実例を聞いたことがなく、これからの時代はこうした怪異の発生現象が多くなるのかも知れないと考えた。

 

時代の流れには逆らえない。

それでもあちらが成功例を増やし続ければ、それが有象と無象を繋ぐ『門』となってしまうかも知れない。逆らえなくても少しは犠牲になる人たちが減るかもしれない。

だからこそ戒は確実に祓っておく必要があった。

 

「確認しに行きますか。三重の、その水子堂の跡地へ。大元の『根』を完全に引きずり出して、叩き潰す」

 

そう告げると、戒の視線が、床に蹲ったままの少女へと移った。

 

「そのために……結衣さん、あなたにも同行してもらいたい」

「え……?」

 

結衣が、弾かれたように顔を上げる。マスクの奥の唇が、恐怖に戦慄いた。

 

「アレの本命の器──形代はあなたです。奴が十分な力を得て、もう一度『神』に返り咲くとき、受肉にはあなたの身体が選ばれるでしょう。……『根』を完全に絶つには、どうしてもあなたを現地へ連れていき、釣り出す必要がある」

「待ってください!」

 

結衣を囮にするという戒の言葉に、たまらず藤沢が必死に身を乗り出した。

 

「私も同行します。いや、私が行きます! 私が蒔いた種です、現地への案内なら私がやりますから……!」

「……いえ。社長は留守番を。もう呪いから切り離されたあなたを、これ以上危険な場所へ連れて行くわけにはいかない」

 

食い下がろうとする藤沢へ、戒は淡々と、しかし凄みのある声で告げた。

 

「単純にアレ相手にこれ以上守り切る余裕なんてない。……藤沢さん。命を落とすか、最悪、俺たちを脅すための『人質』にされることだってある」

「っ……」

「結衣さんが無事に帰ってこられる居場所を守るのも、経営者であるあなたの仕事でしょう。スポンサーへの謝罪や、炎上を抑える公式声明の発表。ここであなたにしかできない事をしてください、彼女の帰る場所を残しておいてやってください」

 

足手まといになるという残酷な事実と、現実世界での己の責務。

取引先への事情説明、SNSでの憶測に対するカバーストーリーの構築、不安がる他の所属タレントへのケアと箝口令。

今ここで自分が会社を空ければ、世間からの信用は完全に失墜し、事務所の経営は立ち行かなくなる。

それは『宵月ましろ』のブランドが終わるだけではない。

休止中の二人を含めたあの子たち全員の『帰る場所』も、少ない人数で必死に事務所を支えてくれている社員たちの生活も、すべてが完全に消滅してしまうことを意味していた。

 

藤沢はギリッと唇を噛みしめ、血が滲むほど拳を握りしめた。

 

今日会ったばかりで、どう見ても表の世界の人間ではない青年。

 

一人の女の子として、人間として散々理不尽な目に遭ってきた結衣を、本来ならそんな危険な気配を纏う男に預けられるはずがない。

 

だが、彼にはすでに一度、結衣を視えない恐怖から救ってくれた確かな恩義がある。

それに、先ほどの絶望的な状況をあっさりと覆した圧倒的な『力』と、不器用ながらも自分たちを気遣い、矢面に立とうとするその背中。

 

これまで経営者として、数え切れないほどの人間と向き合ってきた藤沢の目は、決して節穴ではない。この得体の知れない青年が、その根底に決して他者を見捨てない芯を持った「信じるに足る人間」であることを、藤沢の直感は確信していた。

 

藤沢は深く息を吐き出すと、己の無力さを噛み殺し、背筋を正した。彼は経営者として、ただの感情に流されることは許されない。深く、深く頭を下げた。

 

「……分かりました。ここから先は、あなたに預けます。彼女の帰る場所は、私が死守します。どうか、結衣ちゃんを……必ず連れ帰ってください」

 

藤沢の痛切な願いを背に、戒は短く頷き、床に座り込んでしまっていた結衣に視線を合わせるように屈み込んだ。

 

「俺は結衣さんの仕事についてはよく知りませんが──何となく分かることもあります。

『宵月ましろ』は、あなた自身が望んだもうひとりのあなたなんですよね? もちろん、エゴを分断するということであれば、様々な不都合も生じるでしょう。

――あなたは今、あなたが望むようなあなたであり続けることが、上手くできていないのかも知れない」

 

まるで心を見透かすような戒の瞳に結衣は視線を合わせつつ、脳裏では離れていってしまいつつある二人のメンバーの姿が映った。

 

考えようによっては、これは自分が望んだ状況と言えるのかも知れない、と結衣は思う。

神様によって乗っ取られた宵月ましろは、それでも宵月ましろとして存在し続ける。

私は宵月ましろと別れを告げて、新しい私を一から作り出すことができる。

 

でも──。

 

 

「でも──私は──!」

 

 

戒は微笑みながら頷き、結衣の言葉を引き取る。

 

 

「でも、『宵月ましろ』はあなたなので、自己を捨て去ることも、なかったことにすることもできはしない。ましてや神様に代理してもらうわけにはいかないんです。失ってしまったものは、自分で取り返す他にありません。それはあなたが一番良く分かっているはず。だから、力を貸してもらえると有難い。必ず、身の安全はお約束します」

 

戒はそれだけ告げると、シガーケースから一本のタバコを取り出して咥える。

 

「『葛城』をやっていますので」

 

そう言い残して火は点けずに防音ブースの扉へと歩き出した。

 

 

 

「私が望んだ、ましろ……」

 

藤沢の心配するような視線を受けつつ、結衣は俯きつつそう呟く。

 

(……怖い。あの化け物のところへ行くなんて、絶対に嫌だ)

 

本能は激しく警鐘を鳴らしている。だが、ここで逃げ出して『ましろ』をあんな理不尽な神様に明け渡してしまったら?

自分はまた、あの息苦しい教室の隅にいたような、誰の記憶にも残らない『透明な人間』に戻ってしまう。

 

 

それに――。

 

 

『いつか、三人で絶対3Dライブやろうね!』

 

 

大切な約束。

 

今ここですべてを投げ出してしまえば、休止してしまった同期の二人と、またあの場所で一緒に笑い合うというたったひとつの希望すらも、永遠に失われてしまう。

 

必死に足掻いて、やっと手に入れた「私を見てくれる居場所」と「仲間との約束」を奪われたまま生きていくことのほうが、結衣にとってはよっぽど恐ろしかった。

 

 

ややあって再び顔を上げたとき、その瞳にはまだ恐怖の涙が滲んでいたが、ただ怯えて震えているだけの少女の表情ではなくなっていた。

 

 

結衣は乱暴に目元を拭い、急いで鞄の荷物をまとめると、もつれそうになる足を必死に動かして、防音ブースを出ていく戒の大きな背中を追いかけた。

 

 




精進します。

今の文字数について

  • 今の長さがいい。
  • 半分にしてくれると読みやすい
  • 短めでサクッと読める方がいい。
  • 何文字でもいい。
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