『葛城』をやっています。ぶいちゅーばーってなんですか。   作:土着

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五話『命の輪郭』

 

東京の無機質で窮屈なビル群がルームミラーの奥へと遠ざかり、景色は少しずつ山や海といった開放的な印象を呈していく。

 

結衣を乗せた戒の黒いSUVは、呪いの元凶が巣食う三重県の山奥深く――『水子堂』の跡地を目指して、深夜の東名高速道路をひたすら西へと疾走していた。

 

車窓の向こう側に散漫に視線を投げつつ、結衣の頭の中では、機材が破裂したスタジオの片付けや、騒ぎを聞きつけてくるであろうビル管理会社への対応、そして「大がかりなホラー企画だ」と勘違いして異常な熱狂を見せるネットの反響に対し、どう公式アナウンスを出すべきかという協議で慌ただしくなっているはずの藤沢たちの姿が浮かんでいた。

 

等間隔で流れるオレンジ色の街灯が、薄暗い車内を規則的に照らしては過ぎ去っていく。

 

フロントガラスを叩く細かな雨音と、タイヤが濡れたアスファルトを擦る音だけが、結衣の耳に虚しく響いていた。

 

結衣はスマートフォンの電源を切っていた。数時間前にSNSを確認したとき、結衣の『心霊配信』のコメント欄はいつもと異なる賑わいを見せていた。

 

『演出ガチすぎw 夜中に見るんじゃなかった』

 

『後ろのカタカタ音、フリー音源じゃないぞ。考察班出番だろこれ』

 

『最高のホラー企画だな』

 

普段と比べて様相がおかしい、と指摘するリスナーはそれなりにいた。

『中身』が入れ替わっているのではないかという声もある。

 

でも誰も、これが正真正銘の本物の怪異であり、それが『宵月ましろ』を乗っ取って配信しているとは考えていないだろうな、と結衣は自嘲気味に思った。

 

実際、怪異は自分を忠実に模倣している。

 

いくら雰囲気が若干違うからといっても、早晩ただのホラーコンテンツとして、面白おかしく消費されてしまうことだろう。

 

異常な勢いで回り続ける再生数を見つめながら、結衣はどこか他人事のように、今までのどの動画や切り抜きよりもバズっているな、とぼんやり考えていた。

 

たとえそれが承認欲求を叶えるための手段であったとしても、ファンのために尽くしてきたつもりだった。それらがあっけなく上書きされていく。

 

数字に対する怒りや悔しさよりも、ただひどく空っぽで虚しくなって、端末の電源を落とし鞄に入れてしまった。

 

──『宵月ましろ』を奪われた自分は、これからどうなってしまうのだろう。

 

配信の向こうで嗤っていた『アレ』が十分な『信仰』を得たとき、私を形代として受肉する──そう戒が言っていたことを、結衣は思い出す。

 

表現としては少し迂遠だが、要するに殺されてしまうということだろう。しかもただ殺されるのじゃなくて、じわじわと精神的に蝕まれて行って──。

 

底知れず、じわじわと這い上がってくる、死の恐怖。

 

怖いことを考えては駄目だ。気持ちが沈んだら、また『アレ』に付け込まれる。

そう自分に言い聞かせ、結衣は絶望を誤魔化すように両手でパチンと頬を叩いた。

 

そして努めて平坦な声で、隣の運転席に座る戒に話しかけた。

 

「あの……戒さん」

 

「……はい?」

 

「タバコ、吸ってもいいですよ。ずっと我慢されてるみたいなので……私、匂いとかは全然気になりませんから」

 

戒はルームミラー越しに結衣の青白い顔を一瞥して答える。

 

「……いえ。お構いなく」

 

「本当に気にしなくていいですよ」

 

「非喫煙者の前では吸わないことにしていまして」

 

「……えっと紳士的? なんですね」

 

事務所でタバコに火を点けようとしたときのひと悶着を思い出し、結衣は少し意外な気持ちになった。

 

「そういうわけではありません。そもそもこれは、タバコというより魔除けの類でして」

 

戒は視線を前へと向けたまま続けた。

 

「こういう仕事をしていると、嫌でも色々と理不尽なものを寄せ付けてしまうことがある。このタバコは祓魔の効用を持つ蓬などが使われていましてね。まあ、民間信仰というか、ほとんどおまじないに近い代物ですが」

 

そう淡々と語る戒の横顔を見つめながら、結衣はふと、車に乗った時からずっと気になっていたことを口にした。

 

「あの、戒さん。その喋り方……素じゃないですよね」

 

「……なんのことですか」

 

「誤魔化してもわかりますよ。私、ずっと周りの大人の顔色を観察して生きてきたから」

 

結衣は柔らかく微笑んだ。

 

「私には、無理して敬語を使わなくていいですよ。素の喋り方で」

 

結衣がまっすぐに見つめると、戒は少しだけばつが悪そうに髪をかき回すと、やがて短く息を吐き出した。

 

「……やりづらいな」

 

「あはは、やっぱり」

 

 

敬語が抜け落ちたその声は一段低く、少しぶっきらぼうだった。

戒は前方から視線を逸らさぬまま続ける。

 

「結衣さん。君こそ、無理して元気に振る舞う必要はない。怪異は確かに恐怖を餌とするが、怖いものは怖いと思っていい」

 

気丈なのは立派だけど、と結衣の方へ振り向いて片目を瞑る。

相変わらず心の内を見通すような言葉に、結衣は心が一段と和らぐのを感じた。

 

葛城戒。

 

出逢ったときは何を考えているのかが分からず恐ろしかったが、あの人格はひょっとすると私にとっての『ましろ』のような、戒が求めたもうひとつのエゴなのかも知れない──結衣はそう思った。

 

「『結衣』でいいですよ。戒さんの方が年上ですし、さん付けとかで呼ばれるの、あんまり慣れていなくて」

 

「……分かった」

 

「あの、ところで戒さんのご職業って、具体的にはなんなんでしょうか? 神社の神主さんとか?」

 

「実家は割とそういうものだと言えるかも知れない。とはいえ同業者からも忌み嫌われるような、外法の家系でね。俺のことはただの専門家だと思ってほしい。ああいうものを祓うのが仕事さ」

 

結衣は少しだけ目を丸くした。

 

「ってことは、戒さんみたいな人はあれですか。漫画みたいに、空間を作って閉じ込めたり……『領域展開』とか」

 

「……りょういき、てんかい?」

戒が明らかに元ネタを分かっていない顔で困惑した。俗世に疎いのは演技ではなかったらしい。

結衣は両手をパタパタと動かして身振り手振りで伝える。

 

「結界をつくって、相手を閉じ込める必殺技みたいな……」

 

「結界はあるけれど、『領域展開』ね。なにかそういう必殺技があるならよかったんだけどな」

思いのほか真剣に検討しているのか、深く考え込む素振りをみせた戒に、思わず結衣は小さく吹き出した。

 

「ふふっ……」

 

「ん? どうした?」

 

「だってすごくまじめに考えて答えてくれるから、優しいなって」

 

「……なんで笑う?」

 

「あはは、ごめんなさい。でも、なんだかちょっと安心しちゃって」

 

戒の不器用さに結衣はすっかり調子を取り戻すと、膝の上で組んだ自分の指先を見つめて言った。

 

「戒さんって、怖い人かと思ってたけど、案外……普通にお話ししてくれるんですね」

 

「……俺をなんだと思ってたんだ」

 

「だって、呪いとか怪異とか、そういうの専門にしてる人って、漫画やアニメだともっとこう……浮世離れしてるイメージがあるから。まあ、住む世界が全然違うというのは、本当なんだろうけど」

 

結衣の言葉に、戒は前方のトラックを追い越しながら、ちらりと助手席を見た。

 

「俺からすれば、結衣がいる世界も、十分得体が知れないがな」

 

「得体なんて知れなくないですよ! 愛と情熱の結晶です!」

 

結衣はむっと口を尖らせたが、すぐに少し寂しそうに目を伏せた。

 

「……でも、そうですよね。普通の人から見たら、よくわからないものかもしれない」

窓を打つ雨粒を見つめながら、結衣はぽつりぽつりと語り始めた。

 

「でもファンのみんなと一緒に笑って、泣いて……見ず知らずのたくさんの人たちが、私の言葉に耳を傾けてくれる。『宵月ましろ』は、何もない私が生きてる証みたいなものでした。……だから、あんなバケモノに好き勝手されて奪われるなんて、絶対に嫌だ。私にとっては、あそこが世界の全部だから」

その痛切な声に、車内は一瞬静まり返った。

規則的なロードノイズだけが響く中、戒は静かに口を開いた。

 

「俺もそうだ。葛城家として生まれ、怪異を祓う方法を幼少期から叩き込まれて、他の世界なんて知らないんだ。外の世界で生きていく自分を想像できない。成人になって、実家と疎遠になってもそれは変わらなかった。『この世界』が俺の居場所だ」

 

「戒さん……」

 

「奪われたくない気持ちは分かるよ。君は正常だし、まともだと思う」

 

少しぶっきらぼうだが、確かな温度を持った言葉。

 

ただの厄介な『呪いの被害者』としてではなく、『結衣』という一人の人間が積み上げてきたものを、真っ向から肯定してくれた。

 

その不器用な誠実さが、結衣には無性に嬉しかった。

 

いつの間にか、雨は上がっていた。

 

夜のハイウェイの向こう、雨雲の切れ間から、澄んだ星空と見知らぬ街の小さな灯りが広がっている。

 

「……夜のドライブって、なんだか不思議ですね」

 

結衣は窓ガラスに額をこつんと当て、ポツリとこぼした。

 

「私、ずっと部屋に引きこもって配信ばっかりしてたから。こんなふうに夜の高速道路を走るのなんて、本当に久しぶりで」

結衣はチラリと、ハンドルを握る戒の横顔を見つめた。

 

「それに……異性と二人きりでドライブするのなんて、実はこれが初めてなんです」

 

「…………」

 

「初めてのドライブが、デートじゃなくて命懸けの化け物退治だなんて。なんだか笑えちゃいますよね……」

 

自嘲するように苦笑して、再び窓の外へ視線を向ける。

規則的だったオレンジ色の街灯はいつの間にか姿を消し、車は静まり返った田舎道へと滑り込んでいた。

窓枠を縁取るように広がっていたのは、都会特有の赤茶けた夜空ではなく、雨上がりの冷たい空気に磨き上げられた本物の星空だ。

それを見て、結衣はふと、遠い故郷の夜を思い出した。

早く大人になって逃げ出したかった、実家の田舎。

自分を縛り付ける環境も、息の詰まる人間関係も、当時は何もかもが嫌いで憎ましかったはずなのに。

 

(……夜空の星だけは、いつもあんな風に綺麗だったな)

 

極限の恐怖と隣り合わせの今、不思議と蘇る静かなノスタルジーが、結衣の波打つ心を安定させていく。

 

「今、すっごく怖いし、自分がこれからどうなっちゃうのかも全然わからないんですけど……でも窓の外を見てたら、世界ってこんなに綺麗だったんだなぁって。なんだか、不思議なくらい感動しちゃってて。私、頭おかしくなっちゃったのかな」

 

 

結衣の言葉に、戒は前を向いたまま静かに首を横に振った。

 

 

「正常だ。……死を身近に感じた人間は、五感が鋭くなる」

 

「……五感が?」

 

「『生きよう』とする本能が、周囲の情報を必死に取り込もうとするからな。世界が鮮やかに見えるのは、結衣自身がまだ、命を、生きるのを絶対に諦めていない証拠だ」

 

 

その静かで力強い言葉に、結衣は小さく息を呑んだ。

戒と話して、心がほぐれて、世界が綺麗だと感じたからこそ。

急に、「生きたい」という当たり前の執着が、胸の奥からとめどなく溢れ出してきた。

もっと、誰かといっぱい話をしたい。隣にいるこの人のことも、もっと知りたい。これからどんな面白いアニメの新作が出るのかなんて、やりたいことがいっぱいある。

そして奇妙に落ち着いた心境の中、結衣は純粋な問いを戒に投げかけた。

 

「……戒さん――――――これから私、死ぬんですか……?」

 

間髪入れず、低く落ち着いた声が返ってくる。

 

「死なない」

 

「……怖い思いは、しますか?」

 

「それは、少しだけ」

 

「……もう。そこは嘘でも『大丈夫』って言ってくださいよ」

 

結衣は膝の上に視線を落とした。

さっき見た動画の、あの暗く濁ったアバターの目が脳裏を掠める。

 

「私、今日のためにいっぱい準備して、誰にも迷惑かけないようにって、努力してきたのに……なんで私、こんな目に遭わなきゃいけないのかな……」

 

死への恐怖は随分薄れていたが、代わりに哀愁が結衣の感情の器を満たしていった。

ポロポロと、器から溢れた分が涙としてこぼれ落ちる。

もっと、誰かといっぱい話をしたい。

隣にいるこの人のことも、もっと知りたい。

これからどんな面白いアニメの新作が出るのかなんて、やりたいことがいっぱいあったのに。

 

「死にたくないな……したいこといっぱいあるのに。彼氏だってまともに出来たことないのに」

 

結衣は涙を乱暴に拭いながら、鼻をすする。

恐怖と未練がごちゃ混ぜになり、半ば自暴自棄になっていた。

 

「もし……もし仮に、私がダメそうなら。最後、キスでいいのでしてくれないかな……」

 

「…………は?」

戒が心底面食らったような声を出した。

 

「どうせ死ぬなら、せめて一回くらい経験しておきたいっていうか……ダメですか」

 

「君が死ぬのは今日ではないし、明日でもない。ずっと先のことだ。だから本当に好きな相手と、いつかやればいい」

 

「あー……私が可愛くないからですよね」

 

唇を尖らせてふてくされる結衣に、戒は深いため息を吐き落とした。

 

「……そうは言ってないだろ」

 

「じゃあ、可愛いんですか?」

 

「……0か100しか選択肢がないのか」

 

「0か100で言えば?」

 

結衣がじっと見つめると、戒は小さく息を吐いて、運転しながら横目でこちらを見つめ返してきた。

 

等間隔で流れるオレンジ色の街灯に照らし出された戒の顔は、鋭い三白眼に、スッと通った鼻筋をしていて――不覚にも、結衣の目にはひどく整って見えドキリとする。吊り橋効果というやつなのかも知れない。

 

「0ってことはないな」

 

「素直に答えてくれないんですね」

 

「問いが素直じゃないからな」

 

そうかも、と結衣は笑い、戒は溜息をついた。

 

戒も随分若いように見えるが、年下の扱いには慣れていないらしい。

 

戒の年齢についてはいつか訊くとして、結衣は代わりに気になっていたもう一つの疑問を続けて投げかけた。

 

「……あの、なんで私なんかを助けてくれるんですか。いつも、こんなことしてるの?」

 

「こんなこと?」

 

「怪異と戦い合うような世界しか知らない、というのは分かります。でも、私みたいに見ず知らずの人を命懸けで助けに行くようなこととは、直結しません。体術を心得ている人がみな警察官を目指すわけではないように。何か理由があるのかなって……」

 

結衣の問いに、戒は少しだけ間を置き、静かに口を開いた。

 

「怪異による事件は常に理不尽だ。怪異というものがそもそも、ほとんどの人間に認知されていないんだから。どんなに助けを求めても、誰にもわかってもらえない。誰が信じると思う? 悪霊みたいなものが憑いているから助けてくれなんて」

 

戒の横顔には深い影が落ちる。

 

「でも俺は手助けができる。それが俺に与えられた使命と言われれば、きっとそうなんだろう。だからやる。それ以上の理由なんてない」

 

「それで自分が死んでしまっても、戒さんは構わないんですか……?」

 

その問いに対する戒の応答は、すぐ隣にいるにも関わらず、ずっと遠くの方から聞こえるような気がした。

 

 

「死んでも構わないことなんてない。俺が死ねば誰かを救えなくなるから」

 

 

アクセルが踏み込まれ、SUVは深夜のハイウェイをひたすら西へとひた走る。

戒はハンドルを握る手に微かに力を込め、鋭い目で前を見据えた。

 

 

「だから祓い続ける。それ以上の理由なんてない」

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 

やがて夜が白み始めた頃。

目的の山を目前に控えた三重県内の古びたビジネスホテルへと車が滑り込んだ。

駐車場に停車した戒は、シートベルトを外しながら結衣に言う。

 

「ここで、一度休もう。あそこには万全を期してから足を踏み入れたい」

結衣としては急く気持ちもないわけではなかったが、何せ数時間にも及ぶ運転である。助手席に座っていただけとはいえ、結衣も疲労していた。結衣はプロフェッショナルとしての戒の判断に同意した。

ホテルは、観光客よりも長距離トラックの運転手や作業員が泊まるような、古くて簡素な作りだった。

フロントで渡された鍵は一つだけ。

結衣を連れて薄暗い廊下を歩き、部屋のドアを開けると、中は少し広めのシングルルームで、ベッドが一つと、小さなユニットバス、そして古びたソファが置かれているだけだった。

 

「同室は嫌だろうが、目を離した隙に怪異に干渉される危険があるから我慢してほしい」

戒はそう言ってドアに鍵をかけると、鞄からいくつかのお札のようなものを取り出し、入り口と窓の隙間に手早く貼り付けていった。

 

「……事務所で見せてくれた護符もそうでしたが、陰陽道とか神道とか仏教とか……宗派がめちゃくちゃというか、節操がないというか……」

 

「神でも仏でも悪魔でも、使えるものはなんでも使うというのが『葛城』のやり方でね。そこも同業者から嫌われる所以なんだが」

よくこれらの宗派が別々だと分かったな、という戒の言葉に、結衣は頷きだけ返す。その辺りは漫画やアニメから仕入れただけの知識だった。

 

「とりあえず、この部屋にアレが入り込めないように処置はした。……だが、絶対ではないのは確かだ。結衣に対する奴の執着は異常だからな」

その言葉に、結衣はゴクリと生唾を飲み込んだ。

絶対ではない。つまり、いつどこからアレが現れてもおかしくないということだ。

 

「……さて」

部屋の中央に戻った戒は、素早い手つきでハンガーラックを移動させると、予備の毛布とシーツを器用に使って、あっという間にベッドの空間とソファの空間を遮る即席のパーテーションを作り上げてしまった。

こちらからは戒の姿が見えず、あちらからは結衣の着替えや寝顔が見えない、完璧な目隠しだ。

 

「とりあえず、これで視線は切れる。俺はこっちのソファで休むから、結衣はベッドを使え」

 

「あ……ありがとうございます」

あまりにも無駄のない流れるような動きに、結衣は思わず感嘆の声を漏らした。

 

「戒さんって、こういうこと……すごく手慣れてるんですね」

言った直後、その言い方がまるで『いつも女の子をホテルに連れ込み慣れているんですね』という意味に聞こえかねないことに気づき、結衣はしまったと手で顔を覆う。

彼はプロの祓い屋なのだ。

自分のように得体の知れないものに狙われた、怯える被害者を何人も保護している。相手が異性であれば特に、こういった配慮が求められる場面も多いだろう。

 

「……どうした?」

区切りの向こう側から、結衣の不自然な沈黙を不思議に思った戒の声が降ってくる。

焦っているのは結衣一人だけで、戒にはそもそも言葉が届いていなかったが、特に気にもかけていないようだった。

 

「な、なんでもないです……!」

 

「? よくわからないが……まあいい。シャワーを浴びるなら先に入れ。俺は起きているから」

 

「……はい」

 

結衣は誤魔化すように小走りで着替えを持って、ユニットバスのドアノブに手をかけた。

ドアを開けると、窓のない狭くて薄暗い風呂場が口を開けていた。

 

鏡、シャワーカーテン、冷たいタイル。

 

足を踏み入れて、ドアを閉める。服に手をかけるのを少し躊躇した。

 

無防備な姿になるのは憚られるが、丸一日以上身体を洗っておらず限界を感じていたのも確かだった。

 

泣き腫らしたことで、化粧も乱れてしまっている。

 

肌身を晒してシャワーを出すと、けたたましい水音が響いた。

 

戒の『絶対ではないのは確かだ』という言葉が脳裏を掠めた。

 

──いくら近くに戒さんがいるとしても、自分はここで、たった一人だ。

 

目を瞑ることに異常な恐怖を覚えた。もし、その隙に、あの配信の時みたいに『よくわからないもの』が鏡の中から現れたらと思うと──。

 

窒息しそうな恐ろしさを感じて、結衣は慌ててバスルームのドアを再び開き、パーテーションとして仕切られた毛布を見つめた。向こう側には戒がいるはずだ。でも、もっと近くにいてほしい。

 

本当なら、シャワーなど我慢して、濡れタオルで体を拭くだけにすればいい。そうすれば水場にいる時間は最小限で済む。

 

だが戒の前ではしっかりとした姿でいたいという、状況を考えれば酷く馬鹿げているようにも思える願いが、結衣にはあった。

 

理由は上手く言語化できなかったが、戒に清潔感がない一面を見られることは、結衣にとって耐え難いことだった。

 

結衣はバスタオルを身体に巻き付け、パーテーションの布越しに声をかけた。

 

「あの……戒さん」

 

「ん?」

 

「……やっぱりこの区切り、開けておいてもいいですか」

 

「なぜだ」

 

「心細くて……」

 

結衣の声は、情けないほど震えていた。

 

「ちゃんとここで警戒しているから、大丈夫だ。何かあったらすぐ駆けつける」

 

「それでも……です」

 

結衣はほとんど縋るような口調で食い下がった。

 

「車で少しお話ししたとはいえ、初対面の戒さんにこんなことお願いするの……本当に、おかしいってわかってます。本当は、シャワーなんて我慢して、体拭くだけにしようかとも思ったんです。でも……汗もかいちゃったし、隣にいる戒さんに匂いとかで嫌な思いさせるのも申し訳なくて……っ」

 

恥ずかしさと情けなさで涙がこぼれる。

戒はそんなことを気にしないと結衣は分かっていた。戒は大人であり、自分は彼からすればまだまだ子供だ。

怪異が万一襲ってきたときも、プロである戒が大丈夫だと言うなら、気にする必要などないんだろう。

それなのにこの期に及んで我儘を強いてしまっている自分が、結衣は嫌で仕方がなかった。

 

「もし、一人でお風呂に入ってる時にアレが出たらって思ったら……怖くて。だから、シャワーも、トイレも……ドアを少し開けたままにするので、どうか、できるだけ近くにいてくれませんか……?」

 

恥を忍んで振り絞った、必死な懇願。

数秒の沈黙の後、静かにパーテーションが横に引かれた。

そこに立っていた戒は、結衣に呆れたりするわけでもなく、ただ少しだけ困ったような表情で言った。

 

「……参ったな。まあでも、それが正常な感覚なのか」

 

怖いものは怖いと思っていいと言ったのも俺か、と続けた戒は肩を竦め、部屋にあった小さな椅子を持って、結衣のバスタオル一枚の姿には目もくれぬまま、ユニットバスの入口の外へと運ぶ。

 

「ここでいいか?」

 

「はい……!」

 

結衣の顔に明かりが戻る。戒はバスルームに背を向ける形で座り、腕を組んだ。

 

「水場は確かに危険でね。結界を張ったとはいえ、用心に越したことはないんだ。だが俺の妹はこういうのに煩くてな。お前は女心を知らない、デリカシーがないとかなんとか。まあ実際、そうなんだろう。だから結衣の方から要望を言ってくれるだけ助かるよ」

 

「戒さん……」

 

お願いをしたのは自分であるにも関わらず、戒は「助かるよ」と言ってくれたことに結衣は少し驚いた。

 

藤沢社長もまた、自分が事務所と契約したときは「ありがとう」と言った。

 

感謝を伝えるべきは自分の方なのではと、そのときも結衣は思った。

 

たぶん、それが大人なんだろう。自分は良い大人に囲まれている。

結衣は頭を下げ、出逢って初めてとなる感謝を戒に告げた。

ドアは細く開いたまま、ユニットバスへと足を踏み入れる。

 

──絶対じゃないかもしれない。でも、この人がいてくれる。

 

シャワーの温かいお湯が、冷え切っていた結衣の体と心を、じんわりと溶かしていく。

 

すぐ外にいる彼の気配がもたらす確かな安心感が、決戦に向かう結衣の意志を後押しした。

 

今の文字数について

  • 今の長さがいい。
  • 半分にしてくれると読みやすい
  • 短めでサクッと読める方がいい。
  • 何文字でもいい。
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