空はすっかり夜の色へ変わっていたが、学院はまだ眠っていなかった。校舎の窓には灯りが残り、仮設照明が校庭を白く照らしている。本来なら学際は夕方の時点で終了している。研究発表も屋台も閉会を迎え、学生たちは今日の思い出を語りながら帰路につき始めていたはずだった。しかし現実には、祭りが最も熱気に包まれていた時間帯に完全自立人型戦闘ユニット・ガルアークが暴走した。その結果、学際は事実上の中止となり、学院は今も事件現場として機能し続けている。
広い校庭には警察車両が何列にも並んでいた。都市部ではモンスターの脅威が少なく、道路や燃料補給設備も整っているため、バイクや四輪車は広く普及している。青い警光灯は絶え間なく回転し、その光が校舎の壁や破壊された設備へ反射していた。スーツ姿の刑事たちは足早に現場を行き来し、制服警官は規制線の周囲で人の流れを整理している。誘導の声が飛び交う一方で、遠巻きに残った学生たちも落ち着かない様子だった。
「本当に研究発表の時のガルアークだったんだよな……」
「ニュースになるよな、絶対……」
「死者が出なかったの奇跡じゃないか……」
そんな声があちこちから聞こえてくる。恐怖もあれば興奮もあり、まだ状況を整理しきれていない者も多い。今日だけで終わる話ではないことは誰もが理解していた。深夜の報道番組でも、明日の朝刊でも、この事件は大きく取り上げられるだろう。
その中心人物が、今まさに捜査車両へ連行されようとしていた。プロフェッサー・モドム。両手には手錠が掛けられ、刑事たちに付き添われながら歩いている。少し前まで学院全体を揺るがした張本人でありながら、その背中には奇妙な静けさがあった。
「こちらへお願いします」
刑事がドアを開く。
モドムは抵抗しなかった。ただ足を止め、一度だけ校庭を見渡す。規制線の向こうには学生たちの姿があり、破壊された設備があり、忙しなく動く警察関係者たちがいる。その光景をしばらく眺めた後、研究者は小さく息を吐いた。
「学長に、詫び以上の事をしなければな……」
その声には後悔も諦めも安堵も混ざっていた。
そして自ら車へ乗り込もうとする。
拘束を終えた警官たちが移送の準備を進める中、規制線として張られたテープの向こうから1人の少年が校庭へ足を踏み入れた。夕暮れの光が傾き始めたグラウンドには、戦いの爪痕がまだ色濃く残っている。
警官の1人がすぐに反応した。
「おい、立入禁止だ」
制止しようと腕を伸ばしかけたところで、その場を仕切っていた女性刑事が軽く手を上げる。
「構わない」
警官が首を傾げると、彼女は肩をすくめながら笑った。
「彼のおかげで、科学の暴走とやらを鎮めることができたんだ。少々の会話ぐらい、タイムスケジュールを崩しはしないさ」
その言葉に警官たちは引き下がる。
少年は静かに歩み寄り、拘束された研究者の前で足を止めた。
「ガルアークぶりです。プロフェッサー」
聞き慣れた呼び方に、白衣の男がわずかに眉を上げる。
女性刑事は少し離れた場所で腕を組みながら見守っている。そんな彼女にララクは深く一礼をしていた。
「ララクくん、今の私に何を話せと言うんだ」 プロフェッサーは自嘲気味に笑う。「道徳とか倫理は、さっき聞いたさ」
校庭を吹き抜ける風が白衣の裾を揺らす。
金髪の少年は首を縦に振った。
「だからこそ、僕はあなたにお願いしたい」
その返答に周囲の警官たちも視線を向ける。
「もっとリスクを最小限に抑えて、研究を続けてください」
一瞬、その場の空気が止まった。
数名の刑事が思わず顔を見合わせる。
今回の事件は実験の失敗から始まった。暴走も起きた。技術は悪用され、多くの人々が危険に晒された。その中心人物に向かって研究を続けろと言う者がいるとは誰も思わなかったのだ。
「これはまた、斜め八十六度ぐらいの嘆願がきたな」
プロフェッサー・モドムが一番、その発言に面を喰らったはずだ。破壊的行動をしていた自分に提言する事なのかと。
それでも少年は真っ直ぐ前を見ていた。
「リードさんの事は話を聞いただけですけど、プロフェッサー、モドム。あなたのことは協力者としてよく知っています」
拘束された男の目がわずかに細くなる。
「プロフェッサーたちは、人類の平和的進化のために尽力してきたのでしょう?」
夕陽が差し込み、崩れた校舎の壁を赤く染める。
「だったら、その理念を完璧に引き継ぐべきだ」 迷いのない声だった。
「人の安否を大切にするリードという人が、誰かの消滅を願うはずがない」
モドムはしばらく答えなかった。
遠くでは後片付けを続ける職員たちの声が聞こえる。風が砂を転がし、その音だけが静かな時間を埋めていた。
やがて彼は小さく息を吐く。
「確かに私は、自分の記憶消滅を恐れた」
視線は夕焼け空へ向いていた。
「だが、そうなればあいつも……私との別れを惜しむかもしれんな」
その口元に浮かんだ笑みは、これまでの狂気や執着とは違うものだった。
ララクは何も言わない。ただ静かに頷く。それだけで十分だった。
「あなたが道理を進むならば、今回の一件、ボクとあなたの戦いは研究の一環だったということにします。ボクとアークは、戦闘を何度も行ってきた仲ですから」
「君は、合理的なお人よしだな」
「ボクはあなたの笑顔も見たいですから」
ララクはそう言ってから、少しだけ肩をすくめた。
その言葉と共に自分に向けられた笑みに、プロフェッサーは心を締め付けられた。彼にとって、自分は依頼主。そして目的は、研究の進歩とそれの協力。
だから少年は、自分に開発を継続するよう促したのだと、気がついた。
(これが冒険者か、いやこの子が特段なだけ、か……。完全敗北だ)
プロフェッサーは全身の疲れが、脳までの疲労が一気に押し寄せた。それと共に感謝の念も浮かんできた。自分を元の体に引き戻してくれた者たちへ。
「……でも、学長が被害届を出したら擁護は出来ないですけど。……あの人は、そういう理の外にいる人なんで、問題はないと思いますが」
その言葉にモドムは苦笑する。確かに理屈では測れない人物だった。少年の脳裏には2人の顔が浮かんでいる。
1人は、このインテグラル学院の学長だ。かつてクエディーカ少年をプロフェッサー・リードたちへ紹介した人物であり、モドムとも交流が深い。基本的には大らかな性格で、細かい失敗や失言を気にするタイプではない。
それに今回の文化祭も、終盤までは大成功と言ってよかった。校内には多くの来場者が訪れ、生徒たちの研究発表や出店は賑わいを見せていた。最後こそ事件のサイレンがフィナーレ代わりになってしまったものの、致命的な人的被害は確認されていない。仮に負傷者が出ていたとしても、ゼマが放っておくはずがなかった。あの戦闘医なら現場へ飛び込み、文句を言いながら片っ端から治療していただろう。
私立学院である以上、被害届の有無は大きな意味を持つ。もちろん事件そのものは重大だが、情状酌量の余地が完全に消えたわけではなかった。
そしてもう1人。ララクの思考は今日の戦いを共にした黒衣の人物へ向かう。正体の輪郭は見えた。生まれた理由も、おおよそ判明している。だが、それは理解できたというだけで、全てが解決したわけではない。事故によって生じた存在だからこそ、未だ多くの謎を抱えたままだった。
その当人は学院の時計台にいた。高所の陰へ身を潜めながら、眼下の校庭を静かに見下ろしている。夕暮れの光は徐々に薄れ、校舎や樹木が長い影を地面へ落としていた。警官たちは現場検証を続け、職員たちは後片付けに追われ、生徒たちは安堵した表情で仲間と言葉を交わしている。そして拘束された研究者は、自らの進むべき道と向き合おうとしていた。
(清算するべきか。私の過去を、元来を)
誰にも届かない独白が胸の内へ沈む。黒衣の怪人はしばらくその光景を眺め続けた後、静かに目を閉じた。風が外套を揺らし、その姿が時計台の陰へ溶け込む。次の瞬間には、そこに人影は残されていなかった。鐘楼だけが夕闇の中に静かに佇み、騒乱に満ちた1日の終わりを見届けていた。
モドムは再び前を向き、待機していた警官たちへ歩き出す。拘束具の金属音が静かな校庭に響いたが、その背中からは先程までの張り詰めた雰囲気が少しだけ抜け落ちていた。
「君が私の依頼を受注してくれて、研究データ以上の物を得た気がするよ」
残した言葉と共にドアが閉まり、重い音が夜の学院へ響く。回転する警光灯の青い光が車体を流れ、ゆっくりと遠ざかっていった。
学際そのものはすでに終わっている。それでも今日という一日はまだ終わらない。学生たちにとっても、参加者にとっても、そして連行されていくプロフェッサーにとっても、この夜は長く記憶に残ることになるだろう。